放課後、俺達は揃って美術準備室の前にいた。
俺を先頭に二人で中に足を踏み入れると、部屋の中には先生ともう一人、赤坂くれはの姿もあった。今日も一緒に話をしていたようだ。すかさずその赤坂の声が飛んでくる。
「おい、なんの用だよ蓮上才蔵。入部は諦めたんじゃねえのかよ。それに菜野花畑星乃。お前、俯いたりして辛気くせえな。顔を上げろ顔を」
赤坂の声を振り切るように、二人で素早く蜂谷先生に近づくと、俺は切り出す。
「先生、昨日はすみませんでした。俺達、あんな無理を言ってしまって。あの似顔絵はとても素晴らしかったです。でも、その、少し問題がありまして」
先生はいつもと同じような感情の読み取れない顔をしていたが、それでも俺の言葉に微かに困惑したような色が見て取れた。
「……問題?」
「ええ、本当に些細な事なんですが、その……ほくろが描かれていないんです」
「……ほくろ?」
「それくらい自分で描き足したらいいじゃないかと思ったんですが、菜野花畑がどうしても先生に直して欲しいって聞かないもので。ほら、こいつの目の下のここ」
言いながら、俺は隣に手を伸ばし、左目の下のあたりにひとさし指を押し付ける。
「ここなんですが、判ります? 見えますか? このほくろ」
確認するように尋ねると、暫くの間を置いて
「……ああ」
蜂谷先生が頷く。
「ちょ、痛い……」
「あ、悪い」
隣からの小声の抗議に俺は慌てて指を離すと、蜂谷先生に向き直る。
「それで、大変申し訳ないんですが、昨日の似顔絵を持ってきたので、そこに描き足して頂けませんか? そうすれば菜野花畑も満足すると思いますので」
蜂谷先生は少しの間考えているようだったが、やがて口を開くと静かな声で答える。
「……わかった。絵を貸してくれ」
似顔絵を受け取った先生は、机から小さな鉛筆を取り上げると、紙に素早く何か描き込み、すぐにこちらへとつき返す。
俺の要求通り、似顔絵には左目の下にほくろが描き足されていた。
「……これで良いだろうか?」
絵を確認した俺は、ゆっくりと蜂谷先生の顔へと目を向けて先生に確認する。
「本当に、描いたんですね」
「……見ればわかるだろう?」
その時、俺達の背後から赤坂が鋭い声を上げた。
「先生、違う! そいつは……!」
直後に美術準備室のドアが開き、星乃の声が響く。
「その人の左目の下に、ほくろはありませんよ」
その言葉に、全員の瞳が星乃へと向く。俺に赤坂、蜂谷先生、そしてミルクティー色のロングのかつらをかぶって、女子用の制服を着た雪夜。
みんなの視線を受けながら、星乃はそのままゆっくりと蜂谷先生に近づく。
「蜂谷先生、もう私の顔を忘れてしまったんですか? 毎日のようにここへ押しかけて、昨日は似顔絵まで描いてくれたのに」
言いながら、雪夜の隣に並んで立つ。
「この人は演劇部の望月雪夜先輩。女子どころか男子です。ここに来てからずっと先生の眼の前にいたのは私じゃなくて望月先輩だったんですが、気がつきませんでした? 私達、そんなに似てます?」
星乃は蜂谷先生の顔を覗き込むように見つめる。
「確かに、似たような背格好で、服や髪型まで同じなら、一瞬勘違いしてしまう事もあるかもしれません。現に赤坂先輩も、さっきまで気づいていませんでしたからね。でも、不思議ですね。どうして蜂谷先生は、望月先輩の顔まで見た上で私だと認識して、更にありもしないほくろを似顔絵に描き足したんですか?」
蜂谷先生は何も答えない。
星乃は言葉を続ける。
「先生には、無いはずのものが見えたんですか? それとも、あるはずのものが見えなかったんですか?」
美術準備室の中を見回し、ドアや窓がしっかりと閉まっているのを確認してから、星乃は声を落とし気味に口を開く。
雪夜には部活に戻ってもらった。今ここにいるのは、俺と星乃、そして蜂谷先生と赤坂。
「蜂谷先生、騙すような事をしてすみませんでした。不快でしたよね。ごめんなさい」
「菜野花畑星乃。お前一体何のつもりだよ。ドッキリかなんかか? すっかり騙されちまったぜ」
赤坂が肩をすくめながら微かに笑う。が、顔は強張っており、その声も掠れている。
「ごめんなさい……でも、いたずらなんかじゃありません。どうしても確かめたい事があったので……」
蜂谷先生の様子を伺うが、彼の表情に変化はない。その事に少し戸惑った様子ながらも星乃は続ける。
「蜂谷先生。先生は普段誰かを判別する際に、髪型や服装、体型などを基準にしているんじゃありませんか? つまり顔は判断基準に入れていない。いえ、入れられないのでは? だから、女子の格好をした望月先輩を私と間違えた上に、蓮上先輩に言われるまま、目の下にほくろがあると思い込んで似顔絵に描き加えてしまった」
星乃はそこで言葉を切って、蜂谷先生の表情を伺う。
「蜂谷先生、もしかして先生は――人の顔が判別できない、いわゆる相貌失認なんじゃありませんか? おそらく、自分自身の顔さえもわからないほどの」
それを聞いた蜂谷先生の瞳がわずかに揺れたような気がした。
「私、失礼だとは思いながら、何度か先生の顔を間近で拝見しました。ところどころに髭の剃り残しがありました。今日もあるのがわかります。それって、髭の剃り残しに気づかなかったからじゃありませんか? なぜなら鏡を見ても自分の顔がわからないから」
奇妙に緊張した静けさの中、みんな無言で星乃の声を聞いている。
「先生は以前、事故に遭って以来、絵を描けなくなったと聞きました。利き腕を傷めたとかで。でも、たぶんそれは違います。それなら、昨日みたいにあんなにスムーズな動作で線を引いて、整った似顔絵を描くのは難しいはず。実際には、怪我をしたのは腕じゃなくて、頭だったんじゃありませんか? そしてその影響で先生は人の顔が判別できなくなり、結果人物画も描けなくなってしまった。人物画家としては致命的ですよね」
そこで初めて蜂谷先生が口を開いた。
「……俺は君の目の前で似顔絵を描いたはずだが」
「たぶん、先生が判別できないのは生身の人間や、写真に写った立体的な人間、または彫刻です。さっき似顔絵にほくろを描き足したところを見ると、絵画だとかの平面に描かれた人間なら問題なく識別できるんでしょう。先生は私の似顔絵を描くふりをしながら、紙の上に架空の人間の顔を創り上げていったんです。今まで画家として得た経験と技術だけで。学年を聞いたり、表情を指定したのは、少しでも違和感をなくすため……少年を描いたはずが老人のような顔になったり、仏頂面が笑顔になったりしたら不自然ですから。そうして出来上がった似顔絵は、当然私には似ていませんでしたけど、まるで人形みたいにとても整っていてきれいな顔でした。でも、それにも理由があったのでは?」
星乃は蜂谷先生の顔をじっとみつめる。
「おそらく、肖像画を描かなくなってからも、私達みたいに似顔絵程度のものを描いて欲しいと頼んでくる人はいたんじゃありませんか? どうしても断りきれない時、先生は顔の部分を敢えて美しく描いたんです。自分の顔を醜く描かれて気分を害する人はいるかもしれませんが、逆に美しく描かれて不快に思う人は滅多にいないと思うんです。おまけに将来を有望視される人物画家が描いたとなれば説得力もありますからね。たとえ出来上がった絵が本人に似ていなくても。だから、その方法で先生が似顔絵を描いた人達は、全員満足して大人しく引き上げて行ったんじゃないでしょうか。私達がそうだったように。先生はそうやって、人の顔が判別できない事をずっと周囲に隠していたんじゃありませんか?」
粘土の林檎を見せに行ったあの日も、入部届を見るまで先生は俺達の事を忘れているように見えた。けれど、実際は忘れていたわけではなく、俺達が誰だかわからなかったのだ。
例の中庭の銅像の件もそう。立体的な人物像を認識できないために、俺の頼みを断ったんだろう。
「おい、菜野花畑星乃。お前さっきから何わけのわかんねえ事言ってんだよ! 頭おかしいんじゃねえの⁉ 顔がわからないなんて、そんな馬鹿げた事あるはずねえだろ! 水でもぶっかけて頭冷やしてやろうか⁉」
食って掛かる赤坂に、星乃は向き合う。
「赤坂先輩。あなたも先生の相貌失認について知っていたんじゃありませんか? 私、不思議だったんです。どうして先輩が私達の事をフルネームで呼ぶのか。もしかして、その場に誰がいるのかを先生にそれとなく知らせるために、敢えてフルネームで呼んでいたんじゃありませんか? そして先生がいない時でもその癖が出てしまっていた。さっきだって私達がここに来た時、わざわざ蓮上先輩と私の名前を呼びました。あれも私達が来た事を先生に知らせるため。それと、先輩のその髪の色。私の予想ですが、その髪色にも意味があるんじゃありませんか? 先輩はその髪色だけで、自身が『赤坂くれは』であるという事が先生にわかるように、敢えてそうしているんです。目印の代わりに」
「な、何を……」
星乃は更に赤坂に畳みかける。
「それに、以前に赤坂先輩は、先生に再び筆をとって欲しいといった意味合いの話をしていましたよね。粘土の林檎を見てもらうようにアドバイスもしてくれました。それなのに先生が私の似顔絵を描く事には反対した。何故でしょうか? 先生が絵を描くのなら先輩にとっても喜ばしい事のはずなのに。もしかして先輩は、先生に絵を、特に人物画を描かせたくなかった。先生がモデルに似ていない似顔絵を描く事によって、相貌失認だという事実に私達が気づくのではと懸念していたんじゃありませんか?」
赤坂は黙り込むと狼狽えたように瞳を泳がせる。困惑と動揺。そして不安。こちらの反応は随分とわかりやすい。
問題は――。
星乃は再び蜂谷先生に向き直る。
先生は何も答えない。答える気がないんだろうか。その様子を見つめながら、星乃は静かに息を吸い込む。
「……蜂谷先生、私の言っている事、間違っていますか?」
更なる問いかけにもやはり彼は答えない。その瞳は俺達の顔を見ているようで、実のところ何も見えてはいないのかもしれない。それを証明するには……。
ここから先は、できれば言いたくないとでもいうように、星乃は何度も躊躇いながら口を開く。
「……もし、間違っていると言うなら、その――今ここでもう一度、私の似顔絵を描いてもらえませんか? 今度は美化なんてしないで、私の本当の顔に似せて。人物画家なら、できますよね……?」
これまでの推測が正しければ、今の星乃はなんて残酷な事を言っているのだろうと思う。顔が判別できない人物画家に似顔絵を描いてみせろだなんて。何の罪もない人間を処刑台に上らせるようなものだ。
でも、星乃には、この方法しか思いつかなかった。
いつの間にか日が傾き、窓から夕陽が深く差し込んでいる。その照り返しを受けて蜂谷先生の瞳が光ったような気がした。
「……俺には、描けない」
静かな声だった。
「……すべて君の言った通りだからだ」
「先生! それ以上はやめてくれ!」
赤坂が制止する。どこか悲痛な色をはらんだ声で。
その光景に、とても残酷な真実を暴いてしまったという苦い思いが胸に広がる。
赤坂の叫びを無視するように、先生は静かに話し出す。
「……君の言う通り、俺は何年か前に事故に遭って、その際に頭を打った。目覚めた時には周りの人間の顔が認識できなくなっていて、まるで突然知らない世界にでも放り込まれたようだった。写真すらも認識できない。わかるのは平面に描かれた絵だけ。そのせいで疑心暗鬼に陥って、人間関係も壊れてしまった……」
先生は膝の上の拳を握る。
「けれど、俺にはそれよりも、もう二度と絵が描けなくなるかもしれないという恐れのほうが大きかった。人の顔がわからない人物画家に価値なんてないだろう? おまけに症状の治療法も不明だなんて恐怖以外のなにものでもない。その時のストレスが原因か、元は黒かった髪の色もすっかり抜けて、この有様だ」
先生は夕陽を受けて銀色に輝く髪をつまんで見せた。微かに皮肉を含ませた様子で。
髪の色が真っ白になるほどだなんて、相当苦しんだに違いない。人の顔がわからない。もしも俺なら気が狂ってしまうかもしれない。そんな恐怖の中で、先生は今も生きているのだ。
先生がここ何年も人物画を発表しなかったのも、相貌失認が原因だったのだろう。
けれど先生は以前に小鳥遊先輩の肖像画を描いたという。人の顔がわからないにもかかわらず。一体どうやって?
その疑問に答えるように星乃の声が響く。
「……それじゃあ、肖像画の顔を黒く塗り潰したのは、絵のモデルだった小鳥遊先輩本人だったんですね」
俺は驚きとともに星乃を見つめる。ここから先は、俺もまだ聞いていない。おそらく星乃にも確証がなかったのだろう。
「蜂谷先生、先生は小鳥遊先輩の肖像画に関して『見えたままを描いた』そうですね。赤坂先輩からもそう聞きました。たぶんそれは本当の事なんでしょう。先生は、先生の見えたまま――つまり、判別できない顔の部分もそのまま描いたんです。今の先生に人の顔がどう見えているのかはわかりませんが、完成したものはきっと、顔の部分だけが不自然なものだったんじゃないでしょうか。先生と小鳥遊先輩の間にどんなやり取りがあったのかは予測できません。でも、おそらく小鳥遊先輩もそれを納得した上で、その肖像画を受け取ったはずです。だから先輩は他の誰にも絵を見せる事なく、最終的には顔の部分を黒く塗り潰した――蜂谷先生、あなたの画家としての名誉を守るために」
先生は視線を伏せた。まるで後ろめたい事でもあるかのように。
星乃は更に続ける。
「小鳥遊先輩は、自分の死後に肖像画が他人の目に触れて、そこから蜂谷先生が相貌失認だという事実が露見するのではと恐れたんです。でも、彼はあなたに描いてもらった大切な肖像画を処分する事が出来なかった。その代わり顔の部分だけを塗り潰したんです。その上で、誰かに見つかって追求される事のないようにと、人目のある時はクローゼットの奥に隠していたんじゃないでしょうか。そして先輩が亡くなった後に戻ってきたという絵が、あそこに立てかけてあるあの絵なんでしょう?」
星乃は部屋の隅に立てかけられた裏返しのカンバスを指差す。顔の塗り潰されていた例の絵だ。
「……あの絵を見たのか?」
「……ええ。勝手な事をしてすみません。どうしてもあの絵に興味があったので、先生のいない間に見てしまいました」
「……そうか、あの時か」
先生も気づいたようだ。俺たちが塑像台の上を確かめていた日の事。あの時に小鳥遊涼平の肖像画も見ていても不自然ではないと。
暫くその場には沈黙が降りる。重苦しくも緊張した空気に包まれる中、俺達は蜂谷先生をみつめて、彼が何と返すのかをただ待つ。
長いような、あるいは一瞬であるような曖昧な時を経て、やがて蜂谷先生がゆっくりと首を横に振った。彼のその仕草に、諦めに似たものを感じた。
「……そこまでわかってしまうとは……似顔絵一枚くらいと思ったのが間違いだったな」
「先生! 何言ってんだよ⁉ こいつの言う事なんて真に受ける必要ないって! ただの妄想だよ! 馬鹿馬鹿しい!」
赤坂の叫びにも、蜂谷先生は同調する様子もなく呟く。
「……もう、いいんだ。充分だ、赤坂」
その眉間には皺が刻まれている。今までほとんど感情を表に出さなかった彼が、初めてはっきりと見せた苦悩のような表情。そのままぽつりぽつりと言葉を吐き出す。
「彼は……小鳥遊は、入学してすぐにここを訪れた。君達のように絵を教えて欲しいと言って。更に、できれば俺に肖像画を描いて貰いたいとも。俺は断ったが、彼はその後も毎日のようにここへ足を運んで……少しずつ話をするうちに、俺は彼に親しみを感じるようになっていた。翌年に赤坂が同じようにここを訪れる頃には、いつのまにか美術部まで立ち上げるほどに。初心者に近い彼らに色々と教えるのも楽しかった。もし俺に弟や妹がいたら、小鳥遊や赤坂がそれに近い存在なんだろうと思う。だが、それほどまでの感情を抱いた相手にいつまでも肖像画を描いてやれない事が心苦しくて、俺はとうとう絵を描けない理由を二人に打ち明けた。人の顔が判別できないからだと。それでも構わないと小鳥遊は言った。だから俺は描いたんだ――顔のない肖像画を」
その声にはどこか悲しみが含まれていて、聞いていると胸をじわじわ締め付けられるようだ。
でも、今の先生のほうが、さっきまでの彼より、ずっと人間らしいと思った。