押して駄目なら引いてみろ。

 恋愛や人間関係なんかにおけるテクニックのひとつ――だと言われている……らしい。

「らしい」という曖昧な表現なのは、俺がそういう知識と経験に関して皆無に等しいからである。

 しかし毎日のように押しかけてきた相手が、ある日を境に突然姿を見せなくなったら? 多少なりとも気になるのではないだろうか?
 
 むしろ、逆にストーカーのような邪魔者がいなくなってせいせいしている可能性もあるが……。

 それでも星乃は自分にとって都合の良いほうの可能性に賭けたらしい。
 帰宅途中、星乃は通学路を慎重に歩く。車道と歩道とを分ける白線から足がはみ出さないように、時折両手を横に広げてバランスを取りながら。

 普段だったら楽々と歩けるその場所も、そうして意識しながら歩くと何故か難しいようだ。何度も足が白線の外にはみ出しそうになり、そのたびに星乃は

「おっとお……危なかったあ」

 などと足を止める。

「星乃。さっきから一体何してるんだ? 痛い人みたいだからやめろ」

 車道側を歩く俺は冷ややかな視線を向けながら苦言を呈す。先ほどから道行く人々がちらちらとこちらを見ているのがわかる。それだけでも恥ずかしい。できればこいつから距離を取りたい。

「痛い人だなんで酷いですよ先輩! もっと優しい言い方をしてくれないと、さすがに私の怒りが有頂天ですよ! かなぐり捨てますよ!」

 けれど「痛い人」という言葉が効いたのか、仕方なくといったように星乃が両手を下ろす。その途端、足はあっさりと白線からはみ出しそうになり、堪えようとした星乃はバランスを崩してつんのめる。

「わあっ⁉」

「危ない……!」

 咄嗟にその手を掴んで引っ張ると、星乃も持ち直したのか、多少よろけるだけで済んだ。代わりに白線からは盛大にはみ出してしまったが。

「あ~あ、はみ出しちゃった……」

「だからどうだって言うんだ。はみ出したら死ぬわけでもないだろうに」

「願掛けですよ。願掛け」

「は?」

「白線からはみ出さずに駅まで行けたら、私は美術部に入部できる。ほら、似たような事考えた事ありません? 影だけを踏んで家まで帰れると素晴らしい事がある! とか」

「そういうのは小学生の頃に卒業した。それに、願掛けなら神社にでも参拝するほうがよっぽどましだと思うぞ。もしも神様っていうのが存在すれば、願いを叶えてくれるかもしれないしな」