菜野花畑星乃の美術手帖

 俺は先生に向き直り、その顔を見据える。たとえ彼が俺の顔を認識できなくとも。

「先生、それじゃあまるで、こいつの――星乃のせいで画家も教師もやめるって言ってるみたいじゃありませんか」

「……そんなつもりでは……」

 言いかけた蜂谷先生を俺は制す。

「あなたにそんなつもりは無くても、俺から見ればそう感じるんです。確かに、こいつはあなたが隠していた事を全部明らかにしてしまった。でも、それだって元はといえば俺が原因なんです。入部を諦める事と引き換えに、先生に似顔絵を描いて貰おうだなんて提案したから。そこから星乃は先生の秘密にたどり着いて……今、先生が絵を描くのをやめたら、星乃は自分を責めて、それを一生背負ってゆく事になるかもしれない。尊敬する画家が、自分のせいで何もかもを捨てる事になっただなんて考えて……そんなの残酷すぎると思いませんか? 責められるべきは俺であって、こいつじゃないのに……」

「先輩……」

 星乃が顔を上げて俺を見る。その瞳には光るものが浮かんでいる。

「蜂谷先生、あなたはさっき、自分には絵を描く事しかなかったと言っていましたよね。肖像画を描けなくなってからも画家という存在にしがみついていた、とも。そんなにもあなたの人生に深く関わってきたものを、簡単に諦められるんですか? もしも俺なら、絶対に後悔します。それに、以前俺にくださったあの石膏のリンゴ。あの時の事を覚えてますか? 俺があのリンゴを見て腹を鳴らしたことを」

 本物と見間違うかのようなリンゴ。あれを作ったのは「少し前」だと言っていた。つまり、肖像画を描くのを辞めてからの事ではないかと思ったのだ。


「先生なら、肖像画でなくとも、人々を感動させる絵を描く事ができると思うんです。先生にはそれだけの才能があるのに。先生だって、絵を諦められないから、あの林檎を作ったんじゃありませんか? 俺はもっとあなたの描く様々なものを見たいと思う。彫刻だけじゃない、風景画だって……だから、これからも制作を続けてもらえませんか? 目が見えなくなったわけでも、腕がなくなったわけでもない。それなら、まだできるでしょう? お願いします! 描いてください! 作ってください……!」

 すべてを言い終えて、俺の心は昂っていた。どうしても先生に絵を描く事を諦めて欲しくない。それに、なによりも星乃に傷ついて欲しくないという想いで必死だった。

 星乃は俺の腕の中で身じろぎすることなく、ただ黙って俺の顔をみつめたまま。

 長い沈黙の後、蜂谷先生が外の景色を眺めるように、顔を窓のほうに向けてぽつりと呟く。

「……そんなふうに考えられる君が羨ましいな」

 そうして再び目を伏せると、搾り出すように呟く。

「……すまないが、全員出て行ってくれないか。暫く一人になりたいんだ」