夏の終わりを、私に教えて。


慎太郎(しんたろう)!! あんた、いつまで寝てるの!」

 その声と同時に、古くなった階段の軋む音が響いたかと思えば、瞬く間に部屋の扉が勢いよく開いた。

「……なんだ。もう起きてるんじゃない。早くしないとご飯食べる時間ないわよ」

 母さんは眉間に皺を寄せながらブツブツと俺に対する文句を言ってくる。

 だが、俺はそんな母さんを見ながら「何かが変だ」と奇妙な感覚に襲われる。


 違う。


 何かが、違う気がする。


「……どうしたのよ。人の顔をジロジロみて」

 顔……。

 そうだ! 顔だ!

「母さん……なんか若くなってない?」

「はあ?」

 今度は、母さんが俺に対して怪訝な目を向ける。

 口では言わなかったが、明らかに「こいつ、何言ってんだ?」という目線が俺を突き刺してくる。

 それでも、見れば見るほど、今目の前にいる母さんが、昨日までの母さんとは違うことを実感する。

 昨日、久々に会った母さんより、ほんの少しだけだが若い。

 だが、それは間違いなく俺の母親で……。

 それこそ、毎日顔を合わせていたときのような……。

「なに馬鹿なこと言ってんのよ? まだ夏休みも始まってないのに休みボケしてんじゃないの? まぁ、いいからさっさと降りてらっしゃい。学校に遅れるわよ」

 だが、俺の疑問が解ける前に、母さんはさっさと部屋から出て行きリビングへと戻ってしまった。

「……は?」

 いやいや。ちょっと待て。

 母さんの言った台詞に、俺はさらなる混乱を強いられることになる。

 散りばめられたワードの一つ一つは、なんの変哲もない日常会話のそれだ。

 しかし、母さんから発せられた言葉の全てが、今の俺の状況からあまりにも乖離してしまっている。

 俺は今、大学は絶賛夏季休暇中だし、もちろん、ここから大学にわざわざ行くような用事もない。

 一体なんなんだ……。

 と、頭を抱えようとしたその時、俺の視界にあるものが飛び込んできた。

 俺の部屋に掛けられてあった、カレンダー。

 それは何の変哲もない、母さんが毎年銀行から貰ってくるもので、いつのまにか勝手に俺の部屋に貼られているものだ。

「……えっ?」

 だが、俺は飛び跳ねるようにそのカレンダーへと近づき、数字を確認する。

 カレンダーは、何の予定も書かれていない真っ白なもので、最初から印刷されている数字が大きく記載されている。


 2015年 7月。

 その西暦は、今から五年も前のものだった。


「なんで……こんなカレンダーが貼ってあるんだ?」

 まさか、母さんがずっとこの年のカレンダーをそのまま貼っていたのか?

「……いやいや、ありえないだろ」

 だが、俺は自分でたてた仮説をすぐに自分自身で否定した。

 母はそんなずぼらな性格ではないし、五年前といえば、俺はまだ高校二年生の時だ。

 そのときは、この部屋を毎日使っているのだから、さすがにカレンダーくらいは自分で捲りもするだろうから、気付くはずだ。

 それに、今は八月なのに、カレンダーが七月で止まっているのも気持ち悪い。

 ……いや、待てよ。


 2015年、7月。

 そして、母が俺にかけた、言葉の意味。


「……まさか!!」

 俺は部屋から飛び出して、急いで洗面台へと向かう。

「ちょっと、慎太郎! 静かにしなさい!」

 俺はリビングから聞こえてくる母からの叱責を無視して、洗面台の鏡の前に立つ。

「……やっぱ、これって」

 自分自身のことだからなのか、それとも今まで提示されてきたものがヒントのようになっていたから、すぐにその解答にたどり着いたのかは、正直判断ができない。

 だが、これだけは、はっきりと断言できる。

 鏡に映っている俺は、五年前の高校二年生だった頃の俺だった。


 結局、俺は母さんが用意してくれた朝食を半ば強制的に摂ることになってしまった。

 ただ、その朝食を食べている間も、やはりここが過去なのだと思い知らされることがあった。

 それは、テレビのニュースで、東京オリンピックについてキャスターの人が話していたからだ。

 そのニュースというのは、国立競技場の改修がオリンピックの開催時期までに間に合うかとか、他にも多くの競技会場を使うことによって、その期間の国内イベントなどに影響が出ないのか、などといった議論がコメンテーターたちの間で飛び交っていた。

「もう、まだまだ先だっていうのに、色々問題があるのねぇ。せっかく日本でやるんだから、オリンピックは無事に開催できるといいんだけど……」

 母さんは、半分くらいは他人事のように、そう呟いていた。

 だが、俺は知っている。

 俺がいた2020年には、東京オリンピックは(・・・・・・・・・)無事に開催される(・・・・・・・・)

 マラソンのコースが直前で東京から札幌に変更したり、小さなトラブルはあったものの、テレビやネットニュースは軒並みメダルを獲得した日本人選手や、その日に行われた競技の結果などを連日報道されていた。

 俺はあまり興味がなかったけれど、日本がオリンピック一色になった夏だった。

「って、こら、慎太郎! あんたはテレビみてないで、早く食べなさい!」

 俺がじっとテレビを見てしまっていたからなのか、母さんに注意をされてしまう。

 仕方ないので、俺は母さんの言う通りにして朝ご飯を食べ終わると、寝癖も直さないまま学生服に着替えて、家を飛び出した。

 俺の感覚では、ずいぶんと久しぶりの学生服だったので、なんともいえない気持ちになってしまう

 やはり、今の俺は、高校二年生の頃の俺ということになるらしい。

 そして、朝だというのに直射日光を浴びた瞬間、一気に汗が全身から噴き出してくる。

 俺も覚えていなかったが、2015年の日本の夏もかなり暑かったようだ。

「この感覚……絶対夢じゃないよな……」

 見慣れた風景を歩きながら、俺はこれが決して夢ではないことを実感しつつあった。

 都会とは違って家と家の間に距離があって、無駄に高低差がある整備されていない道を歩く、この感覚。

 俺は本当に、五年前の世界に戻って来てしまったのか?

 でも、だとしたら一体どうして……。

 これがSF映画なら、何かの実験に巻き込まれて過去にタイムスリップした、なんてことになるのだろうが、俺は昨日の夜も至って普通に過ごしていた。

 原因がわかれば、俺は元の時間軸に戻ることができるのかもしれないが、生憎、全く身に覚えがない。

 いや、そういえば、昨日は確か、変な夢を見たような……。

「――い、こらー! 慎太郎(しんたろう)~!!」

「いてっ!!」

 必死に考えようとした俺の脳天に、いきなり激痛が走った。

 その衝撃に思わず膝を折ってしまった俺に対して、頭上から声をかける人物はそんなことはお構いなしに話しかけてくる。

「ちょっと。なんで無視するのよ? さっきからずっと呼んでたんだけど」

 その人物は、かなりご立腹なのか言葉の端々に苛立ちがこもっていた。

 俺は、涙目になっていることも隠さず、その声の人物を確認してみると――。

「えっ? (みどり)……なのか?」

 そこには、俺の幼なじみの水菜(みな)(みどり)が、学生鞄を持ちながら俺を見ていた。

「……何よ、その顔。そんなに痛くしてないでしょ?」

 翠は俺のリアクションが不満だったのか、鋭い目つきで俺を睨んでくる。

 だが、俺が驚きのあまり固まってしまったのは、学生鞄で叩かれたからではなく、翠の姿が高校生のときのままだったからだ。

 白いセーラー服に、黒髪を短く切りそろえただけの、シンプルな髪型。

 肌の色も少し焼けていて健康的に見える。

 だが、よく考えたらそれは当たり前のことで、ここが2015年なら幼なじみの翠だって、俺と同じように高校二年生の姿をしていて当然だ。

 ただ、頭でわかっていることでも、こうして目の前に現れると、動揺を隠しきれなかった。

「ってか、ホントに大丈夫なの?」

 今度は、やや心配そうな声色で話しかけてくる翠。
さっきまで寄っていた眉間の皺はなくなって複雑そうな表情をしていた。

「……ああ、大丈夫。なんともないから」

 殴られはしたものの、これ以上翠に心配をかけるのは悪い気がしたので、俺は立ち上がってなんともないことをアピールする。

「そう。全く、心配させないでよ。慎太郎のくせに」

「くせに、ってなんだよ」

「そのままの意味よ。あたしを無視した罰よ」

 そういって、翠はスキップをするような軽やかな歩幅で先へ進む。

 その後ろ姿が、俺にとってはどうしようもなく、懐かしさを感じてしまう。

「あー、そうそう。慎太郎、あんたは夏休み、どうすんの?」

 俺が感傷に浸っていることなんて露知らず、翠は世間話を再開させる。

 もちろん、翠にとって俺は昨日までの俺と同じ高校二年生の白石慎太郎なのであって、まさか中身が大学四年生の俺だなんて想像もしていないだろう。

 もし、この場で俺がそのことを告白しようものならば、笑い話にされるか、熱中症で頭がおかしくなったと思われて病院へ行くように勧められるだけだ。

「慎太郎。あたしたちもさー、来年は受験じゃん? そうなったら全然遊べないし、お母さんは塾に行かせるつもり満々らしいし、最後の青春っていうの? そういうのはちゃんと経験しときたいよねー」

 頭の後ろで手を組みながら、空を見上げる翠。

「ってか、あたし、ちゃんと大学行けるのかなぁー? この前の期末テストも散々だったし、もしかして結構ヤバいんじゃない? って本気で思ったんだよね」

「……大丈夫だよ。お前はちゃんと、大学に行く」

 未来の記憶がある俺としては、今の翠の心配が杞憂であることを知っている。

 翠は一年後、唐突に僕と同じ東京の大学に行くと言い出し、猛勉強を始める。

 先生や親からも、偏差値的に今からでは間に合わないと止められていた進路だったが、その逆境をはねのけて、翠は見事志望校に合格して上京するのだ。

 ただ、その大学が、翠の本当に行きたかった大学ではないことを、俺は薄々感じてはいたが、何も言わなかった。

 それでも、翠はちゃんと勉強をして、大学に進学するのだ。

「ほえ? なに、慎太郎? あんたがあたしを褒めるなんて珍しいじゃん? いっつもあたしのテストの点数みて馬鹿にしてくるのにさ」

「えっ? いや、そりゃあ……」

 翠の発言に、たじろいでしまった俺は、咄嗟に言い訳を考えようとするが上手く言葉が出てこなかった。

「慎太郎……あんた……」

 そして、翠は眉間に皺を寄せながら僕に近づいてきて……。

「いやぁ~、あんたも、やっとそのひん曲がった性格を改めるようになったか~!」

 そういって、いきなり俺の頭を羽交い絞めにしてきた。

 その瞬間、翠から伝わってくる体温に、思わず俺は膠着してしまう。

 汗に交じったシャンプーの甘い香り。

 そして、ずっと俺たちはこうした馬鹿なことをやっていたんだなと、記憶が想起させられる。

 同時に、つい昨日……、この世界ではもっと先の未来の話になるのかもしれないが、最後に俺が見た翠の表情とは、似ても似つかないくらい、無邪気な笑みを浮かべている。


 そうだ。

 翠は、こんな風に笑う奴だった。


 その笑顔を、多分俺は、五年間ずっと、見ることができずにいた。

 俺のせいで、翠は本当の笑顔を出さないようになっていることを知っていたのに、俺はずっと、自分には関係ないと、見ない振りをして生きてきた。

「翠……あのさ」

 俺のせいで、翠は彼女自身の人生まで大きく変えた。

 それが俺の傲慢の考えということもわかっているのだが、それでも、やっぱり俺は、今の翠のままでいてほしい。

「ん? 何よ、慎太郎?」

 翠は俺から手を放して、不思議そうな顔で覗き込む。

 世話焼きで、馬鹿みたいに明るくて。

 そして、俺にとって、とても大切な友人だ。

「翠……もう、俺のことは……」

 そんな翠に、俺が謝ろうとした、そのときだった。


「全く、きみたちは本当に仲がいいね」


 ――その声が聞こえた瞬間、俺の身体が勝手に震えだすのを感じた。

 そう、俺はずっと、この状況になってさえ認めようとせず、無意識にその存在を除外していた人。

「あっ……」

 隣にいた翠も、先ほどまでの緩い雰囲気から一転させて、緊張感を漂わせる。

 そして、俺もその人物に視線を向けてしまった。


 綺麗に伸びた清涼感のある黒色の髪。

 日差しを浴びた形跡がない、白い肌。


 もう二度と、会うことができないと思っていたその人物の姿は、俺の記憶と寸分も違わずに存在していた。


「やあ、おはよう。慎太郎くん」


 そういって、黒崎(くろさき)紗季(さき)は、柔和な笑みを浮かべた。

「せん……ぱい……?」

 俺は絞り出すような声を発して、彼女にそう告げた。

 すると、紗季先輩は一瞬だけ怪訝な顔をしたものの、いつもの含みのある笑みを浮かべながら俺にこう言った。

「そうだよ、きみの先輩の黒崎紗季だよ。そして、きみの隣にいる女子生徒が、きみの幼なじみで私の後輩でもある水菜翠さんだ。そうだよね、水菜さん?」

「えっ!? は、はい……そうですけど……」

 自分に話を振られるとは思っていなかったのか、翠はたじろいだ様子で返答する。

 その間も、紗季先輩はずっと口角をあげながら、俺と翠を交互に見つめたのち、言葉を発した。

「それじゃあ、自己紹介も済んだところでそろそろ行こうか。早くしないと学校に遅れてしまうからね」

 そう言って、紗季先輩は俺たちを置いて先に行ってしまう。

「……いこ、慎太郎」

 そんな彼女の背中を見つめていた俺に、翠がそう声をかける。

 俺は、翠に言われるがまま、学校へと続く道のりを歩きだす。

 だけど、先を歩く紗季先輩との距離は、一向に縮まることはなく、誰も言葉を交わさない時間が続いたのだった。

 俺たちが通う賀郭(がかく)第一高校は、田舎の学校らしく広い土地の一画にぽつんと佇んだ場所にある。

 近場の駅を利用したり、バスで通う生徒も多いが、俺と(みどり)は家から歩いて十分もかからないので徒歩での通学だ。

 最初は自転車で登校していたのだが、翠が無理やり俺の自転車で二人乗りをしてしまい、それが先生たちにバレて、それ以降は自転車での登校を止めたという経緯がある。

 別にどうでもいい話かもしれないが、そんなことを思い出してしまうくらい、俺たちの間では、今なお全く会話が展開されていない。

 しかし、それがあたかも自然であるかのように、先を歩く紗季(さき)先輩は何も言わないし、あの翠ですら何も話さない状態を継続している。

 その翠だが、紗季先輩と合流してから、明らかに機嫌を損ねている。

 だが、原因がわからないので俺も対処のしようがない。

 そして、そんな沈黙状態が続く中、学校に近づくと共に、徐々に生徒の数も増えてくる。

 だが、紗季先輩はそんな人物たちに一瞥もくれずに、ただ前を進んでいくだけだった。

「ねえ、慎太郎(しんたろう)くん」

 突如、学校の門をくぐったところで、紗季先輩は立ち止まった。

 振り返り、笑みを浮かべていた紗季先輩の額には、こんなに暑いというのに、汗が一滴も流れていない。

「今日、図書委員会について話がしたいから、いつものように放課後は図書室に寄ってくれたまえ」

 そう言って、紗季先輩は「じゃあね」と手を振りながら、俺と翠から離れて校舎へと向かってしまった。

「…………」

 そして、その後ろ姿を、翠はじっと睨んでいる。

 昔はそれほど気付かなかったが、翠は、あからさまに紗季先輩に敵意を向けているようだった。

「なぁ、翠。お前、紗季先輩のこと苦手なのか?」

 性格的には、翠と紗季先輩は真逆だ。

 だが、先輩だろうが後輩だろうが友好的に関係を築くはずの翠が、こんなに相手に対して距離を取っているのも珍しい。

 そう感じての質問だったのだが、翠はさらに眉間に皺を寄せながら、呟く。

「……別に」

 明らかに何かあるような態度たったが、ここで言及しても仕方のないことだと感じた俺は、これ以上の詮索は止めておくことにした。