…――


自宅へ帰るとすぐにいつものように部屋着に着替えて、ベッドへ寝転ぶ。
宿題が山ほどあるのに、手が付けられないのはずっと朝陽君のことを考えているからだ。

他の女の子と一緒にいるところを見ると、心臓が掴まれたようにギュッと痛む。

携帯電話を使って検索エンジンで調べていた。

“モヤモヤ 異性 独占欲”
様々なワードを使用して検索する。

「…恋、」

ポツンとこぼれ落ちるように出た言葉は、想定外だけど漠然と自分の中にあった“かもしれない”だった。

“意中の彼を射止める方法”

など書かれてあるサイトをスクロールするが、自嘲気味に笑って携帯電話を枕元に置いた。
この感情は、恋らしい。確かに思い出すとそうとしか思えない感情だった。
初めての恋に私は戸惑う。

隣にいると心拍数が上昇するのだって、彼が隣にいるからだ。
おはようと笑って言ってくれるだけで嬉しくて、そしてドキドキするのも、彼がいるからだ。
自分の気持ちに気づいた途端、見えていた景色が一気に変わった。
朝陽君も同じだと言ってくれた。だけど朝陽君と私の感情はおそらく違うだろう。朝陽君が私のことを好きだとは到底思えない。
それでも私は彼のことが好きだと気づけただけ良かったと思った。つい最近まで生きることに疲れて、逃げて死のうとしていた人間が彼のお陰でその願望が消えてきた。一時的なものかもしれないしそうじゃないかもしれないけど今は頑張ってみようと思えるほどになった。

それは、全て朝陽君のお陰だ。
だから両想いになりたいなどと高望みをするべきではない。

一階から母親の呼ぶ声が聞こえた。
私は階段を下りてリビングへ向かう。夕飯の支度が出来たようだ。

「お父さんは?まだ?」

台所から料理を運ぶお母さんにいう。まだよ、と素っ気ない声が返ってきてそっかと聞こえるか聞こえないかわからない声で返事をした。

と、ピンポーンとインターホンが鳴る音が響く。
お母さんが出てくれない?というから私が玄関ホールまで行き、ドアを開けた。

「あぁどうも。笹塚です。あ、これ町内会の回覧板」
「っ」
「ん?どうかしたのかい?みずきちゃんも大きくなったねぇ。お母さんとお父さんによろしくね」
「は、はい…」

そう言って、ドアがバタンと自然に閉じる。私は傷がついている決して綺麗とは言えない赤茶色の回覧板をじっと見つめながら腕が粟立っていることに気づく。

今の人は、近くに住む70代くらいの笹塚さんだ。回覧板を持ってきてくれた。
ただ、そんなことはどうだってよかった。
先ほどまでの幸せな気分が一気になくなって、口の中も唾液がなくなりからからになる。

笹塚さんの全身は真っ黒い靄に覆われていた。あれを見たのは、新学期が始まるあの日、電車内でサラリーマンを見て以来だ。ただそれは全く知らない人だった。今は違う。近所に住む温和な知り合いだ。
挨拶をする程度と言っても、昔から知っている人だ。そして、笹塚さんの頭上には76という数字がしっかりと浮かんでいた。

「何してるの?」

背後から母親の声が聞こえて、現実に戻されるように顔を上げた。

「回覧板だって…ねぇ、お母さん…笹塚さんっていくつなの?」

振り返り、リビングから顔を出すお母さんはなんでそんなことを聞くのか、とでも言いたげな目を向ける。

「さぁ?詳しくは知らないけど。それがどうかしたの?顔色悪いようだけど」

何も言えずに立ち尽くす私に聞こえるようなため息を溢してお母さんがキッチンへ戻っていく。
ひんやり冷たい床の感触が足裏から伝わる。
笹塚さんは亡くなってしまうのだろうか。
いや、もしかしたら私の能力は違う何かを暗示しているのかもしれない。
そう思い込みたい。そうじゃなければ…、

「朝陽君…」

誰にも聞こえないように、そっと大切な人の名前を呼んだ。
彼は本当に16歳で亡くなってしまうのだろうか。本当に、そうなのだろうか。



♢♢♢
翌日も、翌々日も、私は変わらずに学校へ通っていた。
変わったことと言えば、朝陽君のことを異性として意識しだしたことくらいだろう。
教室での私へのいじめはなくなったようだけど、いつもクラスの中心にいたまりちゃんは元気がないようで、一人でいることが増えたようだ。
彼女たちの交友関係はよくわからないけど、上辺だけの友人関係は簡単に壊れてしまうのだと知った。

教室のドアをガラッと開けて、俯きながらいつものように自分の机へ向かう。ちょうど来る途中、学校の自販機で飲み物を買ったら、他の生徒が缶の入ったゴミ箱にぶつかってひっくり返してしまったようで、なのにもうチャイムがなるからだろうか逃げてしまったのを見てしまった。私もそのまま無視してその場を去ればよかったのだろうが、性格上そういうわけにもいかなくてすべて元通りにしてから教室へ走ったから朝から疲れてしまった。

「おはよう」
「朝陽君、おはよう、」
「どうしたの?走ってきたの?」
「あぁ、うん。ちょっとね」

“意識”してしまうと目を合わせるのも照れてしまう。

私の言動は変じゃないだろうか。好きだということが相手に伝わってしまっているような気がしてソワソワする。
隣の席で話すだけで、顔を合わせるだけで緊張する。もう少し慣れてくれるといいのだけど、それはいつになるのだろう。
息を切らしながら、椅子を引いて腰かける。
頬杖を突きながら本を読んでいる朝陽君を目の端で捉える。
小さな声で彼を呼んだ。

「どうしたの?」
「…聞きたいことがあって」

何?という彼に私は慎重に声を出した。

「誕生日、教えてほしいの」

なんてことはない質問だった。だって、日常生活で友人や恋人が出来たら誕生日を確認し合うことは当たり前だ。
それなのに、朝陽君はじっと私の目を見つめて何も言わない。何か悪いことを聞いただろうか、そう顧みたけどどう考えても普通の質問だ。
だから、どうしてそんな真顔で無言になるのかがわからない。一度手元の文庫本へ目を移した。
そして、彼は言った。

「8月30日だよ」

静かに、そしてはっきりと何かをかみしめるようにして、言った。
今は5月中旬で、もしこの頭上の16という数字が正しいのならば、本当にそれが人の死期を表しているのならば、彼はあと3か月の間に亡くなるということになる。
心臓がバクバクと音を立て始めた。そして、目頭が熱くなる。
神様、どうか―…私のこの能力が嘘でありますように。
そして、どうか―…ずっと彼の隣にいられますように。

「どうしたの?目が赤いよ」

ううん、そう言って私はにっこりと笑みを浮かべる。

「誕生日周辺に遊びにでも行きたい」
「それはいいね。きっと一生忘れないと思う」

そう言って、正面を向いた彼がどこか遠くを見つめている。
その視線の先にはいったい何があるのだろうか。私には見えていない何かを彼は見ているような気がして、胸の奥がチクチクと針に刺されるような痛みがじんわりと広がっていく。