目的の駅に到着すると、人混みを掻き分けるようにして駅改札を出た。そのまま前方を見上げると天を突きそうなほど高いビルが目に飛び込んでくる。下ばかり見ているからか、顔を上げると今までと違った世界を見ている気になる。
今見ていた商業ビルを指さして波多野君が行こうといった。
「今は、確か…恋愛系の映画もあったよ。あとは、ホラー系の映画も」
ビルに入ってすぐ目に留まったエスカレーターで最上階まで上がる。様々な店舗が入っているから、非常に賑やかだった。
ベビーカーを押す家族連れが多いのは、ここに子供が遊べるような施設が入っているからかもしれない。
私たちは目的の映画館へ到着してすぐにどの映画を見るか決めた。
波多野君は、どのジャンルでもいいよと言っていて、私に決定権を委ねてきたので迷わず恋愛系の映画にした。この映画はテレビでも紹介されているせいかヒットしているようで“泣ける”らしい。
泣きたい気分ではないけど、たまには純愛物の映画を観たくてこれにした。波多野君も楽しみだと言っていた。
チケットを購入し、軽食を販売しているレジで二人分のポップコーンと飲み物を購入した。
ポップコーンはキャラメル味がいい私と塩味がいい波多野君にちょうどいいハーフというものがあるらしくLサイズで2つの味が選べるのだとか。
私たちはそれを購入した。
上映時間10分前に私たちはチケットに記載されているスクリーンへ移動した。
休日だから人は多いようで、それでもそれなりにいい位置を確保できた。
すぐに暗くなって映画が始まった。ポップコーンを食べながら、私は映画に集中した。
内容は記憶障害の女性とその女性に興味を持った男性の純愛ストーリーで、テンポよく展開が変わっていくのに、心情描写が丁寧で中盤からラストまでは涙腺が崩壊していた。
エンディングが流れたときには既にハンカチはぐっしょり濡れていた。
「大丈夫?」
「あ、ごめん…いい映画だった…」
照明が明るくなって赤いであろう目を見せるのが恥ずかしくて彼と目を合わせられなかった。
空になったポップコーンの容器や飲み物の容器を彼が持ってくれて私は彼に続くように館内を出た。
余韻がまだ抜けていない。
「面白かったなー、あんなにいい映画だとは思わなかった」
「そうだよね。最後の展開は泣いた」
「俺も泣きそうになったよ」
ずっと暗い室内で映画を見ていたからそこを出た途端照明が明るく感じて目を細めた。
「楽しかった。ありがとう」
「俺こそ、急に誘ってごめん。ほかにも寄りたいところある?」
寄りたいところ…と、前にもこんなことがあったなと思いながら考える。
と言っても、以前と同様に私に行きたい場所がすぐに思いつくほどの地理的な知識はない。この近くに何があるのか、などわからないのだ。
ないと言ったら、もう解散してしまうだろうし…と思い悩んでいると、彼から提案をしてきた。
「じゃあ、俺の家に寄って行ったら?みずきの家から近いから」
「…えっと、それはいいの?お母さんとか大丈夫?急に行っても平気?」
唐突なその提案に困惑してつい一気に質問を投げかけてしまう。
「全然大丈夫」
「本当に?」
「本当だよ。あーでも、そうだなぁ…俺の家に誘っても何もすることがないなぁ。みずきを退屈にさせてしまうかもしれない」
そう言った彼に私は首を振った。それはないよ、といった。
退屈なんかしない。それはわかる。でも、どうしてそう言い切れるのか自分でもよくわかっていなかった。
正直なところ、普通の女子高生が休日に友達と何をして遊ぶのか友達のいない私にはわからない。
「そう?じゃあ行こう」
私は頷いた。
彼と一緒にいると心が前向きになる。頑張ろうと思える。勇気を貰える。そんな人に今まで出会ったことがない。
…――
…
波多野君の自宅にお邪魔することになった。
彼の家に向かいながら二人で他愛のない会話をする。私は話すことが苦手で言葉のキャッチボールというものも私のせいでうまく続かない。
それなのに、波多野君と話すときは彼が上手いから広がらなくても、おかしな返答をしてもちゃんとキャッチしてくれる。そして、私が喋りやすいように返してくれる。
そんな彼がモテないわけがなくて、時々他のクラスの子とかに呼び出されているのを隣の席だから見ることがある。彼女はいないと思うけど(いたら異性と二人で出かけないと思う)
好きな子とかいるのだろうか。なんて、我ながらおかしなことを考えてしまう。波多野君が誰と付き合おうと勝手なのに。
「そうだ。最近はどう?嫌なことされてない?」
“嫌なこと”
いじめとは言わないのはきっと、私に配慮してくれているのだと思う。自分からいじめられているとも言いたくないし(いじめという言葉で片づけてもほしくない)多分言いにくいのはわたしだけじゃないはず。
そういう細かいところに彼の優しさを感じる。
「ないよ。大丈夫」
「そっかーよかった。思うんだけど、やっぱりみずきが言い返したのが大きいと思う」
「そう、かな…」
そうだよ、と言って数回頷く波多野君のアスファルトに映る影を見る。二人で歩いているその影はあまり身長差がないように見えるが実際は30センチほどある。
「結局、嫌なことをする人たちってさ、一人じゃ何も出来ないんだよ」
無言で彼の話を聞く。本当に同い年だろうか、そう思うほどに彼の思考は私なんかよりもずっとしっかりしていて芯がある。もしかしたら、成人している大人よりもそうかもしれない。
「一人じゃ何もできない。ほら、最近、宮野さんたち変じゃん。よそよそしいし、宮野さんもちょくちょく学校休むし」
「…うん。それはそうだね」
クラスに居づらいのかもしれない。あの絵具はほぼ証拠となってしまったわけだし(本人は認めていないけど)それを周りだって何となくわかっているのだ。
「そういうもの、なんだよ」
「…そうなのかな」
「うん。俺の転校前の学校もあったよ。そういうの」
「え、そうなんだ…それは…」
「中学は特にあったと思う。でも、そういうの見ていてもやっぱりひとりでいじめをする人はいないんだ。そして共通しているのが、主犯以外は…いや、主犯もかもしれないけど、みんな口を揃えて“自分は何もしていない。やったのは他の人だ”って。でも、これはね、本当なんだよ」
意味が分からなくて、私は彼の言葉を反芻していた。何が本当なのだろう。
「なんていうのかなー。自分は主犯じゃない、一緒になってちょっとからかっただけ、ものを隠しただけ、そうやって本当に思っている。だから学級会を開いてもみんな主犯に責任を押し付ける。自覚がある子の方が少ない」
なんとなく、漠然とだけどわかる気がした。私はされる側だからそこまで考えたことはないけど、まりちゃんの周りにいた子たちが急によそよそしくなってまりちゃんがいない時に彼女の悪口を言っているのを聞いた。
『やりすぎだよね』『調子乗ってるよね』『あそこまですると逆に引く』など自分たちも加担していたのに、他人事だった。もしかしたら、誰かに押し付けたい気持ちもあるのかもしれないけど、本気で自分たちは何もしていない、そう思っているのかもしれない。
それはそれで腹立たしいけど、仕方のないことなのかもしれない。
「どうして、そんなに達観してるの?…なんかすごく大人っぽいっていうか…」
「そうかな。んー、でも中学の頃、一番仲がよかった友達が転校して、その転校先でいじめに遭ってたんだ」
「え、」
「それでさ、俺気づかなかった。夏休みとかに隣の県だったし遊びに行ったりしてたのに」
言葉が出なかった。淡々と喋る彼の声が、妙に落ち着いていて、それでいてどこか切ない。
「いじめが原因でサッカー部もやめて、違う学校へ転校することになった。気づけなかった自分が許せなくて、もちろんいじめてた奴らも許せなかった。今は、新しい転校先で元気にやってる。それは救いだけど…どうして何も悪いことをしてないのにいじめられた方が転校しなきゃいけないんだって…そう思った。今でも思ってるし、そういうことをしてるやつが嫌い。結局一人じゃ何もできないのに」
真っ直ぐ前を見つめる彼の眼光が力強くて、初めて聞いた彼の思いに共感した。
「その子とは会わなくていいの?ゴールデンウィークだけど」
「あぁ、いいんだ。サッカー部で忙しいから。でも夏休みには会う予定だよ」
「…その、サッカーってずっとやってたんだよね?どうして今は入らないの?」
以前もはぐらかされたそれを聞いた。
彼は曖昧に笑って、「うーん。特に理由はない。強いて言えば、受験勉強のためかな」といった。
本当のことには聞こえないしそれは私にはある仮説があるからだ。
それは、彼の頭上の数字だ。もしかしたら…病気があるのでは、そう思っている。
体力の必要な部活はできないのではないだろうか。でも、それを聞く勇気がなかった。
仮にそうでも、彼が本当のことを言うはずがないと思うからだ。
「あ、ここだよ」
閑静な住宅街に、そっと佇む彼のお家は想像していたそれとは違って思わず大きな声を上げていた。
「す、すごいおしゃれだね?!新築みたい…」
「何年か前に建て直したんだよ。俺も最初見たとき、びっくりした」
一目見て、お洒落だなと思った。スタイリッシュな外観は、モダンスタイルなのか白とグレーの外壁に他の家とは違うデザイン、祖父母の家に住んでいるという彼の発言からは想像できない家だった。
目を丸くして驚く私の隣で彼が笑う。
「オシャレだよね」
「うん!すっごく!びっくりした…羨ましい」
素直にありがとうという彼に私はもう一度オシャレだね!といった。
前庭には名前はわからないけど植物が咲いていて、それを見てもちゃんと手入れがされているのが伝わる。玄関ポーチへ足を踏み入れる瞬間、なぜか緊張して全身に力が入るのがわかった。
スタスタと進む彼に追いつくように早歩きになる。
鍵を使って家に入る彼が肩越しにどうぞ、といった。私は会釈してお邪魔しますと挨拶をする。
波多野君のお母さんとかおばあちゃんは今家にいるのだろうか。いたら手土産もなしに家に上がっていいのだろうか。そもそも異性の家にお邪魔したことなどない私は今更パニックになる。
「あ、波多野君…やっぱり帰ろうかな…」
「え?なんで?嫌なこと言った?」
私は玄関でいつまでも靴を脱がないで先に上がり框の上にいる彼を見上げ言った。
「よく考えたら…何も用意してないし…お邪魔するのに」
「あぁ、いいよそんなの。それに今、誰もいないよ」
「え、」
「嫌だった?」
いたずらにそう笑う彼に心臓の鼓動が急に速くなる。おかしいなぁ、どうしてこんなに心臓が煩いのだろう。
嫌ではないけど、この感情をうまく言葉に出来ない私は、首を振っておずおずと靴を脱いで家に上がる。
内装もオシャレで、外から見るよりも天井が高く見える。きっと開放感のあるつくりにしているのかもしれない。
廊下には見たこともない絵画が飾ってあって、これも波多野君のおばあちゃんの趣味なのだろうか。それともお母さんの趣味だろうか。
凄いな、と思いながら私は階段を上る。
階段を上って、一番奥にある部屋が波多野君の部屋らしい。彼がドアを開けてどうぞ、といった。
お邪魔しますと小さく言って緊張しながら入る。
彼の部屋も広くて、びっくりした。ものが少ないからそう感じるのだろうか。濃紺のカーテンにベッドカバー、枕、統一感のある部屋だった。
ソファーもあって座っていいよと言われて慎重に座る。
「飲み物、持ってくる」
そう言って去っていく彼の背中が見えなくなってようやく息を吐いた。
波多野君はどんなものが好きなのだろう。好きな色は何だろう、好きな映画は何だろう…どうして彼のことをもっと知りたいと思うのだろう。
最近の自分は少しおかしい。
すぐに波多野君が戻ってきた。お盆に飲み物とお菓子があった。
「アイスティーとお菓子があんまりなくて。ごめん」
「いえいえ!気遣ってくれてありがとう」
「みずきほどじゃないよ。みずきはいつも気を遣ってる。でも遣いすぎると疲れるから俺の前ではいいよ」
「…あ、うん」
何だろう。見透かされているような、そんな感じだ。
決して嫌な感じではないけど、彼が大人びているからだろうか。真っ直ぐで濁りのない瞳を見ていると、不思議と吸い込まれそうになる。それだけじゃなくて、私の心の内を覗かれているような、そんな気がしてしまう。
本棚には、たくさんの本が並べられていた。アイスティーの入っているグラスを手にする。温度差で結露するそれを見つめながら、アイスティーを口に含む。ふわっとアールグレイの香りがして、美味しかった。
「本、読むんだね」
「いろいろ読むよ」
「そうなんだ…私はあまり読まないかなぁ。漫画も好きだけど、そういうのお母さんが買ってくれないから」
「どうして?勉強しなさいって?」
ローテーブルの上に、コトン、とコップを置いた。
「…うん。だから、多分波多野君と遊びに行ったこと知ったら怒ると思う」
「そっか…みずきはそれが嫌なんだよね」
どうしてそうやって私の心情を言葉にしてしまうのだろう。そうだよ、嫌だよ。でも、どうしたらいいの。
だって、私は…―。
「仕方がないよ、お母さんが言うことは正しいから」
「正しいことが常に正しいとは限らないよ」
ドキリ、として私は口を半開きにして反論したいのにできない。あわあわと口だけ動かして、その先が出ない。
「自分の気持ちは伝えた方がいい。後悔する。俺は…―いろいろ後悔してきたから。だから、後悔しない選択をした方がいい」
お母さんのいうことは正しいと思う。だって勉強していい大学へ入学した方が就職率も高いし、職業だって選べる。それは間違っていない。でも、じゃあ何故こんなにも窮屈なのだろう。どうして。
正しいことは常に正しいはずだ。
三者面談もある。それを考えれば考えるほど憂鬱だった。
「波多野君は…なんで…」
“自分のために勉強した方がいい”
彼は前にそう言った。
確かにそうだと思う。でも、自分のために勉強したくなるような将来の夢も希望もない。だったらお母さんが言うから勉強するという理由のほうがしっくりする。
結局私は他責にしたいだけなのかもしれない。お母さんが言うから、お母さんの言うとおりにすれば、なんて言ってもし失敗したらお母さんが言ったから、そうやって他責にできるから。流されて生きる方が楽だから。
それを、彼はわかっているようで…見透かされているようで…目を逸らしてしまった。
―波多野君は、なんで私にそこまでしてくれるの?
そう訊こうとしてやめた。彼は私とは違って社交的で快活で、それでいて優しい。そんな彼が、私にだけ特別なわけがない。多分、根っからの良い人で私のような独りぼっちを放っておけないのだ。
「みずきならできるよ。きっと」
「なにを、?」
「宮野さんたちに自分の思いをぶつけたように、お母さんにも同じようにぶつかってみたらいい」
「…そんなこと、できないよ。だって、」
「できるよ。そういう選択をすればいい。どっちがいいと思う?ずっとモヤモヤした思いを抱えたまま、親の言う通りに生きていくのと、ちゃんとぶつかって思いを伝えるの、どっちがいい?」
カチカチと時計の秒針の音が聞こえる。
無言のまま私は結露が進むグラスを見つける。ツーっと水滴がコースターに落ちた。
「三者面談もある。大丈夫」
「だ、大丈夫なんかじゃないよ!だって、お母さんのいうことは正しいんだよ?それなのにっ…反抗なんかできない。それに夢だって何もない。私ちょっと前まで死のうとしてたんだよ?将来の夢も希望もないのに、言ってしまえばやりたいこともない。だからお母さんに従った方が―」
「そうだね、でもそれもちゃんとみずきが選ぶべきじゃない?」
え、と声が漏れた。興奮して、クーラーの効いた部屋でじんわり汗が滲む。
「“従う”とか“いう通りにする”とか。みずきの発する言葉からは全部、親が絶対で自分の意思が感じられない。お母さんの提示した進路がいいと思うならそれでいいんだよ。でも、それを選ぶのも自分だ。前に言ったじゃん。自分を軸に考えた方がいいって」
気づいたら涙があふれていた。
ポタポタと、ワンピースの上に涙が落ちていく。波多野君は何も言わずに私を見据える。
「みずきの人生は、みずきのものだ。誰のものでもない。そうじゃない?」
うん、と頷きながら涙を手の甲で拭った。
拭ったのに、それはまた、溢れてくる。
「大丈夫だよ。もし、お母さんとぶつかって失敗したら…俺も一緒に言ってみるよ。それでもだめならまた次の策を考えよう」
「そんなのっ…どうして?ねぇ、なんで…そんなに優しいの?こんなにいろいろしてくれるの?」
波多野君は、困ったように笑った。
「それは、」
そう言って、悩むように視線をゆらゆらと空へ移す。
「その理由は、もう少し後で言うよ」
「なんで?どうして?」
「んー、今話すと…ちょっと気まずいから」
気まずいって何が?と食い気味に彼に距離を詰める。それに驚いたように目を見開き、少し私から距離を取るように体を反らせる。
困ったな、と言いながらこめかみをポリポリと指でかきながら言った。
「多分、避けると思うから」
「避けないよ!意味がわからないっ」
興奮状態の私は、普段ならこんな困ったような顔をする彼に詰め寄ったりはしない。
自分の感情を爆発させてそれでいて抑える気もないから厄介だ。
「あー、ごめんごめん!そのうち言うから」
「…わかった」
子供をあやすようにそう言う彼に徐々に落ち着きを取り戻す。
私の言葉にほっとした様子で胸を撫でおろす。
「でも、これだけは教えてほしい…私は波多野君に何もしてない。私ばかりもらってばかりなの。だから…何か波多野君の役に立ちたい」
そういうと、急に彼の表情が無になった。思わず、言ってはいけないことを言ったのかと思ってごめんなさいと謝ろうとした。
「もらってばかりだと思ってるのは、みずきだけだ」
「…え、」
「俺だって、たくさんもらってる」
「それはない。だって…」
「あ!じゃあ…そうだなぁ、波多野君じゃなくて名前で呼んでほしい」
いつものように優しい顔になる。
「…そ、それは…」
あと、そう言って私の膝上に置かれた手にそっと彼の手が重なる。
男の子に触れられる経験の少ない私は一瞬で硬直する。なのに、彼の手が温かくて優しいから緊張するのに、嫌じゃない。
すっと、彼が息を吸ったのを感じた。視線を上げると、すごく切なそうな顔をしていた。眉尻を下げて、悲しそうに、切なそうに、辛そうにしている。
「死なないでほしい」
「…」
「それは、本当に悲しいから。死にたいって思うことは仕方がない。でも、それをするのはダメだよ。実行に移すのはやめてほしい」
波多野君の目が充血してどんどん真っ赤になっていた。
びっくりして言葉が出ない。あの時、電車に飛び込もうとする私を助けたときと同じ顔をしていた。
「っていうか、俺が嫌だ。悲しい。そんな選択はしないでほしい。俺が嫌なんだ…約束してほしい」
切実なその思いに私は頷いた。
例えば、波多野君が今、死のうとしていたら私は全力で止めると思う。そして生きてほしいと思う。今の彼のように懇願するような目で見て、お願い、そう言うだろう。
彼を見ていたら心臓のもっと奥の部分がギューッと痛んで、苦しい。
それは、きっと…―波多野君、いや朝陽君のことを大切に思っているからだと思う。彼がいれば、もう少し頑張ろうと思える、彼がいるならもう少し前を見ようと思える。
「約束する…頑張って、みる」
「生きていれば何とかなるってよく言うけど本当だと思う。でも、同時に生きることはすごく難しいことだと思う。だから気軽に頑張ってなんか言えない。でも、俺は生きてほしい。みずきにその選択をしてほしくない」
私は何度もうなずいた。
朝陽君が生きてほしいというから生きよう、それも十分な理由だった。そして、彼の悲しむ顔をみたくないというのもまた、十分な理由だった。
未練なんかない、やる残したことなどない、いつ死んでもいい、そう思っていたのに
こんなにも私の心はたくさんの未練で溢れていた。