自分が、誰の目にも映っていない。
 そう知ってから彼女に遭遇するまでの期間は、多分それほど長くなかった。とはいっても、記憶自体が曖昧だから、本当のことは分からない。
 自分の姿が白いなにかになっているとは気づいていたが、遭遇した彼女を、見上げなければいけないくらい背丈が小さいと思い至ったのは、しばらく経ってからだ。

 本当は、小学生の頃――いや、小学四年生の頃に戻りたかったんだと思う。自分は。
 そう気づいたのは、さらに時間が経過してからの話。


   *


 彼女がノートに字を書いて名前を教えてくれたとき、あれ、と思った。
 字が読める。読めた。特に意識もせず自然とできていたそのことには、向こうに言われてから気づいた。
 なにより、ノートの上を走る筆跡に目を惹かれた。書かれた文字の造形に見覚えがある気がした。字が読めるというそれ自体より、むしろそちらに気を取られた。

 自分に幼馴染の女の子がいると思い出したのは、このときだ。その子が綺麗な字を書くことも、昔から書道を習っていたことも、ほぼ一緒に思い出した。
 ……「カナオ」と名乗ったこの人が、その幼馴染なのかも。漠然とそう思った。
 確信できるほどの理由は、このときまだ掴めていなかった。ただ、靄のような霞のような、形のはっきりしないなにかが彼女と自分の間を漂っている。そんな感覚があった。

 前触れもなにもなくあだ名をつけられたときは、少々面食らってしまった。「ユウ」という呼称には、そのときから妙な懐かしさを覚えていたが、その正体にはもう少し時間が経過してから――自分が誰なのかに思い至ってから気づいた。
 悠生という名を、頻繁に「ユウ」とか「ユウセイ」とか呼び間違えられていたからだ。
 その音が生むささやかな懐かしさに気を取られた。そのせいで、うっかり気に入ってしまった。それに、勢いに任せた彼女の言動や態度にも、あの頃から既視感を覚えていた気がする。

 赤い傘にも見覚えがあった。幼馴染も昔、赤い傘を使っていた。柄こそ違うが、色味はよく似て見えた。
 なにもかもが曖昧なのに、そのどれもに見覚えがある。聞き覚えがある。目の前の彼女がそういう人物だと、元の自分に深く関わりがある人なのだと、曖昧な記憶の中にぽつんと、しかし確かにそんな直感が居座っていた。

 カナオは、俺の姿が少しずつ鮮明に見えてきていると言った。
 病衣。シーツ。その一部分に記載されていた病院の名前。鏡に映らない自分。……不思議だ。カナオと一緒にいると、自分の正体にどんどん近づいていく。
 あるとき、カナオが大発見をしたような顔で会いに来てくれた。彼女が口に乗せた市立病院の名を聞いた瞬間、真相に一気に近づいた気がした。同時に、遠のいた気もした。

 本当に思い出していいのか、急に不安になった。

 それでも市立病院には行った。確かめないわけにはいかなかった。カナオは俺の記憶が戻るようにと、自分の時間を割いてまで協力してくれている。彼女の厚意を無下にはしたくなかった。
 幽霊である自分に、バスの乗客や運転手が気づくはずもない。ごく普通の所作で他の乗客に紛れてバスへ乗り込み、一番後ろの座席の端に腰かけた。そうしてから、こういう身体でもバスに乗れるのか、と思い至った。
 どうしてバスに乗れたんだ、自分は――当然のように乗り込んでから疑問を抱いた。もやもやとしたその疑問は、バスを降りて以降も拭いきれなかった。

 碌に輪郭を持たない半透明の裸足を踏み入れた市立病院の中では、結局、廊下や談話スペースに見覚えがあると感じた以外、なにも分からなかった。
 カナオが近くにいるからか、「自分がどんな人間か」については連鎖的に思い出せることが多い。だが、「どうして自分がこんな状態になっているのか」については、依然として靄が晴れない。

 病院内でたまたま見かけた鏡に、自分の姿は影ひとつ映らなかった。
 知っている。カナオの部屋で見せてもらった鏡にも映らなかったから、ショックは受けなかった。
 それでいて、エレベーターには普通に乗れる。階段だって普通に歩ける。自分にとってなにが可能でなにが不可能なのかよく分からなくなって、途方に暮れて、今度は歩いて児童公園まで戻った。考えごとをしながら歩いた道のりは、思いのほか短く感じられた。

 ……カナオと出会ってから、どれくらい経過した頃か。
 曇り空のある日、カナオが児童公園に現れた。いつもふたりで会うときのように、彼女は教科書やノートをテーブルに広げ始め、ぎょっとした。普段以上にそわそわして見えるカナオに何度か声をかけたが、反応は一切なかった。
 頭をひねった。雨が降っていないのに、なぜカナオはわざわざこんなところに来たんだろう。俺に気づかないカナオの隣へそっと腰かけ、その横顔を見つめていると、不意に遊具の側から物音がした。

 視線を向けた先には、酒飲み男がいた。思わず舌打ちした。雨が降っていない日、遊ぶ子供がいないときを見計らって現れる男だ。薄汚い、赤ら顔の酔っ払い。
 外れてほしい予感に限ってよく当たる。今日だけは来てくれるなよ、と念じながらカナオの隣に座っていればこれだ。

『お嬢さん、お勉強かい?』

 男に絡まれるカナオの、心底困惑した顔を見たとき、この身に流れるでもない血液が沸騰する感覚があった。
 怒りのせいで、いても立ってもいられなくなる。だがなにより、視線を男に向けたきり動けずにいるカナオの怯えた顔に見覚えがあった。

 ……前に、自分もこの人に同じ顔をさせたことがなかったか。

 そう思った途端、足がひとりでに動いた。
 勢いに任せて立ち上がり、ベンチを飛び越える。東屋を囲う木々になりふり構わず順に体当たりをしている間、視界の端に唖然とした男の顔が覗いた。同じく唖然としたカナオの――いや、叶生の顔も。
 ふたりが動揺している間に、今度は叶生の前に広がる教科書やらノートやらに指を伸ばした。余計なことなどなにひとつ考えていられなかった。ただ、男の関心がこれ以上叶生に向かないよう、あわよくば怯えさせてこの場から退散させてしまおうと、そればかり考えていた。

 途中、雨が降り出した。幸運だと思った。叶生が俺に気づいたからだ。
 放った威嚇の視線が、どうして男に伝わったのかは分からない。なんにせよ、生身の身体があった頃にも、これほど激しい敵意を他人に向けたことはなかった気がする。射殺す勢いで男を睨みつけながら、漠然とそう思った。

『雨も降ってないのになんでこんなところに来たんだ』
『危ないから、雨の日以外は来ちゃ駄目だ』

 男が逃げ去った後、叶生が震えていると気づいたのに、きつい口調で叱ってしまった。叶生に苛ついても仕方がないと分かっていて、それでもなかなか収まらなかった。

 思い出してしまった。叶生を。そして、自分が叶生に嫌われていることを。
 ずっと昔から俺を毛嫌いしているこの人に、片思いしていることまで。

 震える彼女の手に、反射的に指を伸ばした。
 指にはなんの感触もなかった。叶生にも、なにかが触れている感覚はなかっただろうと思う。重なり合うように添えた手を眺め、こいつの手、こんなに小さかったのか、とぼんやり思った。

 どんな状況を経て幽霊になったのかは、まだ思い出せない。だが、こんな身になってまでまた叶生に出会ってしまった。叶生に目を奪われてしまった。
 だから、思い出したいのに思い出したくなかったのだ。思い出したい、思い出したくない……真逆の気持ちをいつも胸に抱え、靄に包まれたような気分から抜け出せなかった理由が、唐突に腑に落ちた。
 どんな姿になっても、何度でも叶生に惹かれてしまう。その叶生にもし正体を知られたなら、きっとまた、俺は叶生に嫌われるに違いない。

 ――ああ、それだけは、嫌だ。

 自分の顔は、どのくらい判別がつくようになっただろうか。
 顔を知られれば、その瞬間にすべてが終わる。今のままが良かった。優しい叶生、優しい時間、次に会える日がいつなのかと思いを巡らせては胸を躍らせる日々。それらを自ら手放すなど、耐えられる気がしなかった。

『前に会ったときと変わっていることがあれば、教えてほしい』

 後日、叶生にそう訊いた。叶生の目にどんなふうに自分の姿が映っているか、そのときにはすでに怖くなってくるくらい気になり始めていた。
 顔の一部が叶生に見え始めたなら、彼女とこうして会い続けることは難しくなる。距離を取らなければならなくなる。あるいは、今までよりも念入りに顔を隠し続けなければならなくなるだろう。
 叶生と別れた後、その後ろ姿を見つめながら知らずきつく握り締めていたシーツの端に、深い皺が寄る。

 叶生に会えば会うほど、正体を知られる危険が増す。なにせ、叶生は俺の記憶を取り戻すために手伝ってくれているのだから。
 それなのに、会いたくて気が狂いそうになる。
 雨の降らない日が怖い。いっそ永遠にやまなければいいとすら思う。途方もない矛盾を抱えながら、自分がなにを目指せばいいのか、あっさりと見失いそうになる。

『……カナオ』

 叶生、と呼びかけたら気づかれてしまうかもしれない。叶生は、ああ見えて鋭いところがあるから。
 それなら、今まで通りの呼び方を貫いたほうがいいのではと打算が働いた。呼び慣れた呼び方を思い出した今となっては少々不自然に感じる、この身を得たばかりの頃、ノートに字を書いてもらって、音を聞いて……そうやって教わったときに発した、片言交じりの呼び方。

 臓腑――そんなものはこの身体にそもそも存在しないのだろうが――の底から吐き出すような溜息を落とし、顔を深く俯ける。
 その先に、病衣とシーツが覗いた。他の誰にも触れられない、雨に濡れさえしない。俺がこの姿になったときに身に着けていたのだろう、あるいは引き剥がして持ってきてしまったのだろう、今の自分の輪郭を刻むそれらの要素。

 もう一度、溜息が零れた。
 この病衣を着たまま、このシーツを握り締めたまま、自分は一体どこへ向かえばいい。


   *


 欠けたピースが少しずつ見つかり、埋まる。大まかな部分は、思ったよりも簡単に埋まるみたいだ。叶生に関することは、特に。
 その頃は、頻繁に児童公園を離れて街を歩いていた。
 児童公園に留まっていれば、どうしたって叶生のことを考えてしまう。かといって、街に向かえば記憶を取り戻すきっかけに触れやすくなる。叶生に顔を知られないまま隣にあり続けたい気持ちと、記憶を取り戻したい気持ちとが綯い交ぜになり、ちょうど自分の本心を見失っていた。

 雨の降っていないある日、祠の近くで、年配の幽霊に声をかけられた。
 人には見えない俺の姿も、幽霊が相手ならある程度見えるらしい。まさか自分と同じような存在に声をかけられるなんて思ってもみなかったから、初めは警戒を顕わにしてしまった。

 腰の曲がった、叶生と変わらないくらいの背丈の、嗄れ声の爺さんだった。
 すっかり曲がった腰が目を惹く。だが、杖をつくでもなく、その身体に不便や苦痛を感じている様子もない。その腰でよく平然と立っていられるものだと、相手が幽霊であることを忘れて感心してしまった。
 よく喋る幽霊で、終始楽しそうに、彼はほとんどひとりで喋り続けていた。

『兄ちゃんはあれじゃろ、幽霊が見えるお嬢さんとよく一緒におる子じゃな?』

 そう問われ、どう答えるべきか頭をひねっていると、彼は前触れなく消えてしまった。
 訊くだけ訊いて返事も待たずに……随分と気まぐれだ。呆れそうになったが、もしかしたら幽霊にはよくあることなのかもしれないとも思ったから、腹を立てるまでには至らなかった。
 その後も、彼には何度か遭遇した。顔は見えない。嗄れ声と低い背丈、痩せ細った体躯、曲がった腰。老人らしい老人だという印象は、遭遇を重ねるたびに強まっていく。

 彼はいつも、数回言葉を交わすと唐突に消え失せてしまう。

『普通はな、わしらみたいなのはいろいろ忘れてく一方なんじゃあ』
『兄ちゃんはわしらとは……ちいとばかし違うからのう』

 遭遇するたび、思わず訊き返したくなるようなことを口にする。その癖、問おうとすればその矢先に消えてしまう。結局、こちらは毎回もやもやした気分を抱えては溜息をつくばかりだ。
 爺さん幽霊と顔を合わせて以降、何度も市立病院に向かった。わしらとは違う、という言葉が気に懸かってならなかった。普通ではない幽霊、その言い回しに淡い期待を覚え始めたのもこの頃だ。雨の日に児童公園で叶生を待つ、それすら忘れる日もたびたびあった。
 しかし、どれほど足を運んでも、市立病院には自分の名前がついた病室などなかった。病院内で自分らしき人影を見ることもない。

 自分は今、どこにいる。
 死んだ後なら、確かにもうこの病院にはいないだろう。だが、爺さん幽霊の意味深な言葉の数々を言葉通りに受け取るなら、自分はおそらく普通の――この世にあるべきではないのに留まってしまっている彼らみたいな幽霊とは別物だ。

『忘れてく一方なんじゃあ』

 ……それなら、忘れるどころか思い出していく自分は、一体なんなのか。
 叶生のことを中心に、垂れ落ちた水滴が波紋を描くように、そこからさらに派生するように、鮮明に記憶が舞い戻ってくる。

 爺さん幽霊の言葉が胸の奥でつかえたきり、なにをどうすればいいのか分からなくなる。爺さん幽霊は、なぜ自分に声をかけるのか。のっぺらぼうの彼を見るたび覚える既視感の正体はなんなのか。分からない。
 自分が生きていると仮定したところで、最後には必ず、自分が市立病院に存在していないという事実に突き当たる。これほど市立病院を彷彿とさせる状態で幽霊になってしまっているのに、そこに自分の姿はない。
 焦燥が募る。試しても試しても結果は同じで、最後には矛盾が残るばかり。

 叶生にはしばらく会えていなかった。児童公園ではなく、市立病院の傍で過ごすことが増えたからだ。
 ある雨の日、叶生の家に向かった。どうしても会いたくなった。声を聞きたくなった。過去に一度足を踏み入れた叶生の家、その玄関には鍵がかかっていたから、二階の窓に張りついた。
 自分が空を飛べるなどと、このときまでは思ってもみなかった。意外と、この身体でならなんでもできてしまうのかもしれない。自分で思っているより、ずっと。

 叶生の部屋に置いてあったウエディング雑誌を見て、見覚えがある気がして、そうと伝えた直後に思い出した。
 小学生の頃、叶生が話していた将来の夢……屈託なく笑う叶生の顔と声、それらと一緒に、花嫁ではなくウエディングプランナーやドレスのデザイナーに夢を見る辺りが叶生らしいと思った当時の記憶が甦り、つい口元が緩んだ。

『口、見えたから』

 口に指を伸ばされ、勘違いしそうになった。
 もし叶生が今の俺を好きになってくれたらと舞い上がりそうになって、だが。

 ――叶生が、俺に心を許すものか。

 甘い夢に沈みかけた瞬間、心の中からもうひとりの自分の声がした。
 そうだ。叶生は、今もなお「藤堂 悠生」を心底嫌っている。心が冷えていく気がして、心、と自分で思ったその言葉に自嘲の笑みが零れた。
 この身には、心なんてどこにある。なぜ胸が痛む。嫌気が差し、その嫌気に、俺の口元に視線を寄せてくる叶生の顔が重なる。取り返しのつかないことをしている気にさせられる。

 叶生が好きだ。好きで好きで、今すぐ思いを伝えてしまいたくなるほど。
 だから会いたい。だから会いたくない。知ってほしい。知られたくない。どれも本音には違いなくて、それなのにどうにもできなくて、息苦しくなる。
 ……吸う息も吐く息も、この身体の中でなにをしているわけでもないだろうに、なにからなにまで人の身の真似ごとをしているようで気が滅入った。