露骨に震えた布の端から、唇が見えた。前より鮮明に見える気がした。薄い唇と、その右端に覗く小さなほくろ。
 観念した素振りで、彼はまとったシーツから指を外した。

『……いつから気づいてたんだ』

 私を見つめるユウ――否、幽霊のハルキは、困り果てた顔をしていた。
 溜息交じりの声は、今まで聞いた彼のどの声よりもはっきり聞こえ、相手の質問には答えないまま、私は目の前の彼をじっと見つめる。その声は、私が知るハルキのそれと、とうに同じだった。

 彼がまとう市立病院の病衣を一瞥した後、肩に引っかかったきりの白いシーツにも目を向けた。私とユウが初めて見つけた、ユウの記憶の糸口。
 格好が格好だからという理由もあるだろうが、ブレザーの制服姿のハルキとは異なる印象を受ける。
 心なしか頬が痩せて見えるし、髪が若干長く見える気もした。肌や髪の色がほとんど白一色、せいぜいグレーの陰影が覗く程度の色相のみで構成されているからそう見えるのかもしれないが……あるいは。

 喉がこくりと音を立てる。それでも、乾きは少しも癒えなかった。

 ハルキが実在している以上、ユウがハルキと同一人物であることはあり得ない。ユウと遭遇して以降、私は、登下校時に幾度もハルキと鉢合わせていたからだ。
 口の右端に覗くほくろがユウに、そしてハルキにもあると知ってから、私はその仮説を思い浮かべては掻き消してきた。「ユウがハルキである」という仮説には、常にその矛盾がつきまとっていた。
 けれど今、私の目の前には幽霊のハルキがいる。実際に顔を突き合わせ、こうして話をしている。

 いつしか私は、幽霊のハルキを――周囲の空気から浮き上がって見える彼の輪郭を、眩暈がしてくるほど凝視していた。
 相手は相手で、それを気まずく思っている様子でもない。ただ、困った顔をしていた。見られたくないと思っていた相手に顔を見られ、けれどそれを完全には嫌がれずにいる、そのことにこそ困惑している……そんな表情に思えた。

『このままでいいと思ってた。あんたは……今の俺には優しくしてくれるから』

 独り言じみた声を落とし、幽霊のハルキは私へ指を伸ばしてきた。
 戸惑いを孕んだ動きだ。指はゆっくりと、しかし確実に私へ伸びてくる。けれど、触れるか触れないかぎりぎりのところで止まった。
 彼の視線は、私の頬にというよりは自分自身の指に向いていた。触れられないと分かっているからためらっているのだと気づき、ああ、馬鹿だな、と思う。

 前にも同じことを思った……いや、違う。以前は、ブレザーの制服姿のハルキの背を見てそう思った。
 ユウに避けられ、追いかけきれずに地面へうずくまった私を、私が差す傘ごと自分の傘で覆って――おそらくあの後学校に遅刻してしまっただろうハルキに対し、昨日の朝、私は確かにそう思った。
 ずっと前に起きたことみたいなのに、実際には、あれからようやく丸一日が経過した程度だ。笑ってしまいそうになる。反面、泣きたい気分にもなる。そのふたつの衝動を堪え、私は開きたくもない口を半ば強引に開いた。

「お爺さん、アンタのこと、普通の幽霊じゃないって言ってた。死んじゃったわけじゃないんでしょ?」

 問いかけながら、矛盾を抱えたまま現実となった仮説について、私はぼんやり考える。
 お爺さん幽霊が言っていた「普通の幽霊」とは、お爺さん幽霊を含め、人としての生を終えてからもなんらかの理由でこの世に留まり続けている幽霊を指している。だが彼は、ユウはそれとは異なると言った。
 つまるところそれは、そもそも生を終えていない、という意味になりはしないか。

『うん。市立病院で寝てる……と思う。今も』

 たどたどしい話し方のわりに、市立病院という言葉だけははっきりしていた。
 当然だ。彼は市立病院の病衣と思しき衣服を着ていて、さらには市立病院の名が記されたシーツを手にした状態で幽霊になっているのだから。

「寝てるって……病気?」
『よく覚えてない。けど、多分、風邪……こじらせて、それで』

 言葉を選んでいる話し方だ。風邪をこじらせての入院。あり得ないことではないだろうが、入院という事態を考えれば、よほどの状態なのではと心配になる……だが。
 それは一体いつの話なのか。それ以前に、ハルキはいつ入院などしたのか。
 このところのハルキは、入院を想像させるような素振りなどまったく覗かせていなかった。少なくとも、昨日の朝に顔を合わせたときには普段通りだったし、ここ最近で彼が入院したという話は聞いた覚えがない。

「でも……アンタ、前に市立病院に行かなかった? ええと、バスに乗って……」

 今の彼を「ユウ」と呼んでいいものか躊躇を覚えた末、結局、私はごく曖昧な呼び方を選んで話を続ける。

『自分の顔も名前もよく分からないから、特にはピンとこなかった』
『あの病院で死んだのかもな、俺』

 バスを使って市立病院に行ってきた、と報告してくれたときのユウを思い返す。
 ユウの姿も記憶も、当時はまだまだ曖昧だった。記憶探しだって、私もユウも完全に手探りだった。けれど。

「あのとき、病院に入院してたの? けどハルキ、別に怪我も病気も……」

 あの頃のユウは、自分の顔も名前も分かっていなかった。向かった病院で、うまく自分を見つけられなかったのだろうか。
 だがあの前後、四月から五月にかけて、ハルキとは何度か顔を合わせている。入院している様子は窺えなかった。本人やそれ以外の人物からそういった話を聞いた覚えも、やはりない。

『……違う』

 混乱の中で中途半端に言葉を失っていた私に、幽霊のハルキは静かに首を横に振ってみせた。

「だったら……いつ、入院なんて」

 私は私で呟くようにそう零し、そしてはっとした。

 ――例えば、これから風邪をこじらせて入院するとしたら?
 昨日の朝、分岐路に辿り着くまで並んで歩いていたハルキが何度か咳き込んでいた様子を思い出し、ぞわりと背筋が粟立った。

 幽霊のハルキは、死んでいないという彼が戻るべき彼の身体は、一体どのくらいの入院期間を重ねているのだろう。その身体は、今どんな状態なのか。
 入院生活がどんなものか、実際に経験したことがない私に、詳しい事情は分からない。けれど、もし彼が言ったように「寝ている」という状態がずっと続いているなら、食事をまともに摂れていない可能性はある。となれば、私が知るハルキよりも痩せているかもしれないし、髪だって伸びているかもしれない。

 例えば、今、目の前にいる幽霊のハルキの外見はどうだ。心臓が早鐘を打ち始める。
 今、私の目の前にいる幽霊のハルキが、本来は今よりほんの少し未来を生きる人だとしたら。その身体から抜け出し、こんな場所に――過去に迷い込んだのだとしたら。
 それなら辻褄が合ってしまう。「ユウはハルキである」という仮説の矛盾が、ゆっくりと崩れ落ちていく。

「っ、……ハルキ」

 ユウ、と呼ぼうとしたけれど、もうできそうになかった。
 早く戻ったほうがいいのでは、と叫びかけ、私はすんでのところでその言葉を喉の奥に押し留める。

『このままでいいと思ってた』

 先刻の呟きを思い出してしまったからだ。
 あるべき場所へ帰らずにいる理由を、彼はすでに私に伝えてくれている。

「……私は」

 続く言葉が途絶えたきり、私は呆然と声を落とす。なにを言うつもりもなかったのに、一度は閉ざした口が勝手に動き、そのことに自分が一番驚いていた。
 幽霊のままでいいと思っているからこそ、自分に関する記憶を取り戻してなお、彼は帰るべき場所に帰らずにいるのだろう。けれど、それではいずれ本当の幽霊になる日が来る。先日消えていなくなったお爺さん幽霊の危惧が、現実になってしまう。

「優しくなんかないよ。別に」

 勝手に動く口は、こんなときに限って碌なことを言わない。
 嫌気が差す。涙が零れそうにもなる。近頃の私は泣いてばかりだ。気が滅入りそうになって、言葉が詰まって、最後にはひねくれた言い方しかできなくなって……馬鹿だな、と思う。
 嫌になる。本当の馬鹿は、私だ。

『このままでいいと思ってた』
『今の俺には優しくしてくれるから』

 記憶を取り戻したら、ユウは自分の本当の居場所に帰るのだと思っていた。
 だからこそ、記憶を取り戻すための手伝いをやめようと、むしろ遮ってしまえばいいのではと、浅ましい気持ちを抱いたこともある。それなのに今、ユウは――幽霊のハルキは、途方に暮れた顔でそんなことを言う。
 参ってしまう。私が好きになった幽霊は、長年、誤解の末に嫌悪していた相手だった。そして彼は、私が優しくしてくれるからこそ帰るべき場所に帰りたくないと言う。

『自信がねえんだ、あいつは』

 お爺さん幽霊の声が、ふと脳裏に蘇る。
 取りあぐねていたその言葉の意味が、するりと紐解けた。

 歯がゆくて堪らなかった。そんなことを言っている場合ではないだろう、早く戻らなければお爺さん幽霊たちのような本当の幽霊になってしまうのに。
 彼が病院で眠り続けている――昏睡状態が続いているという話が事実なら、その身体はどれくらいの間そうしているのか。私とユウが初めて顔を突き合わせた日、四月の上旬から、間もなく三ヶ月が経つ。少なくともそれくらいの期間は、と考えたほうがいい。
 そんな臆病なことを考えている暇があるならさっさと戻れと、声を荒らげそうになる。だが、次の瞬間にはその言葉をまるごと呑み込み、私は固く拳を握り締めた。

 臆病者は私だ。ユウに会えなくなることを危惧した結果、彼の記憶探しを遮ろうかなどと平然と考えた過去のある私は、彼を非難できる立場にはない。

 伝えたい言葉のどれもが喉の奥でつかえたきり、音になることはなかった。もどかしくてならず、その気持ちをどうにもできないまま、私は頬の傍まで伸びていた彼の指に自分の指を重ねた。
 指がなにかに触れる感触は、やはりなかった。だというのに、ほんの少しだけ温かい気がして、そのことが余計に私の感傷を掻き立てる。
 瞼に溜まっていた涙が、許容量を超えてぽたりと零れた。ハルキの輪郭が見る間に歪んでいく。お爺さん幽霊みたいに静かに消えてしまいそうで、怖くて仕方なかった。咄嗟に手を伸ばし、けれど結局、伸ばした指は中途半端に動きを止める。

 指を伸ばしたところで、触れることもできやしない。
 空を切って力なく落ちる指を、俯き加減のぼやけた視界が、まるで他人事のように捉えた。

『……叶生』

 呼ばれたけれど、顔を上げることはできそうにない。
 完全にハルキの声だ。呼び方も、ユウが少々たどたどしく口にしていたそれとは微妙に違う。今のそれは、ユウが私を呼ぶときの呼び方ではなく、ハルキが私を呼ぶときの呼び方だった。
 ……顔を見てしまったからだろうか。頑なに顔を隠し続けていたハルキがさっき言ったように、最初から、あるいは早い段階のうちに顔を見ていたなら、私はもうユウに会えなかったのかもしれない。

 ユウを形作る輪郭も、声も、今はすべてがハルキのそれと一緒だ。顔を俯けていても、目を閉じていても、ユウをユウだと思って接することがすでにできなくなっている。
 ユウは――ハルキは、これを危惧していたのだ。
 やっと腑に落ちる。腑に落ちたら余計に涙が止まらなくなり、相手のなににも触れられないまま、ベンチに座りっぱなしで、私はぽろぽろと涙を落とし続けるばかり。そんな私を黙って見つめていた幽霊のハルキが、困った顔で口を開いた。

『証拠もなにもないから、信じてほしいなんて言えた義理じゃないけど、俺にはこれしか言えない。あの噂……流したのは俺じゃない』

 先日も、同じ言葉をハルキから聞いた。昨日のハルキとは異なる人であるはずの幽霊のハルキからもそれを聞かされ、息が詰まって仕方なくなる。
 信じてもらうことなどとっくに諦めているようで、それでいてわずかな期待に縋っている、そんな声――そのような姿になってなお、君が私に一番に伝えたいことは、それなのか。

「知ってる。もう……いい」

 言葉の最後に大粒の涙が零れた。その癖、最も伝えるべき言葉は出てこない。
 ひどい誤解を長年続け、他の可能性を想定せずハルキを蔑ろにしてきたのは、他ならぬ私だ。だというのに、「ごめんなさい」という肝心のひと言がどうしても喉を通ってくれない。
 もういい、ではなく、私こそが君に謝らなければならないのに。

『あんたに会えてなかったら、今頃俺はここにいなかったと思う。とっくに消えてた。じいちゃんみたいに』

 ハルキの声は穏やかだ。泣く私の頬に、またも触れるか触れないかぎりぎりの場所まで指を寄せ、ハルキは続ける。そんな彼を、私は、滲む視界を瞬きで強引に広げながら見つめるしかできない。
 ひとつずつ忘れていく幽霊。すべてを忘れたら、いなくなってしまう、幽霊。
 じいちゃん、という呼び方が気安く思え、私は既視感を覚えた。その正体にはすぐに思い至った。お爺さん幽霊がユウを呼ぶときに使っていた「あいつ」や「あれ」という言葉にも、私は今と同じ気安さを感じた。

 ああ、やはり、お爺さん幽霊の正体は。

 そう思うと同時に、もうひとつの既視感にも気が向いた。
 幽霊のハルキは、私を「お前」ではなく「あんた」と呼ぶ。そのことを不思議に思う。ユウはハルキだ。顔も声も、ふたりが同一人物であるという事実を、嫌というほど証明している。
 それなのに、私とユウが重ねた時間は、私たちの間に確かに存在している。

『いつだ……あんたの……から思い出して』
「……え?」

 話し続ける幽霊のハルキの声が、不意に聞き取りにくくなる。
 通話をしていて、電波の不調で音声が途切れ途切れになったときみたいだ。怪訝に思った私は思わず声を零し、次の瞬間、はっと目を見開いた。

『赤……傘も、ノートの字も、結婚式……雑誌……も、あんたがいて……から、俺は』

 話を続ける幽霊のハルキへ視線を向けるよりも先、弾かれたように東屋の外へ視線を投げ、そして私は息を呑んだ。
 雨は、気づかないうちにすっかり弱まっていた。雲の切れ間から陽光が注がれる様子さえ見え、私は息を詰めたきりで幽霊のハルキに向き直る。

「……っ、あ」

 彼の言葉には、すでに気を回していられなかった。
 ベンチに腰かける私に立ったまま向かい合う幽霊のハルキは、とうに透けていた。半透明になった輪郭が次第にぼやけ、空気に溶けるように線を失っていく。
 堪らず指を伸ばすと、相手も私の様子に気づいたのか、訝しそうに見つめ返してくる。その口元がわずかに動き、おそらくは私に声をかけているのだと察し、けれど声はもう聞こえなかった。

「っ、ハルキ」

 喉が詰まる。呼びかけた声は、自分でも驚くほどに掠れていた。
 たとえ彼が傍にいたとしても、雨がやめば私の目には映らなくなる。声も聞こえなくなってしまう。今日梅雨が明けたとして、次に雨が降るのはいつだろう。週間天気予報で表示されていた大量の晴れマークを思い出し、くらりと眩暈に襲われた。

 今しかない気がした。
 次の雨なんて待っていられない。むしろ待つべきではない。伝えるべきことは、今、伝えなければならない。
 ユウに出会ってから、どれほどの月日が経過しただろう。このハルキが帰る先で、ハルキの身体がもしそれと同じだけ、あるいはそれ以上の期間、入院し続けているとしたら――早いほうがいいに決まっている。

「ねぇハルキ、帰っていいよ。大丈夫だから」

 ベンチから勢い良く立ち上がり、私は彼の胸元に手を添えた。
 薄く霞んだ幽霊のハルキは、驚いたように私を見つめている。ぼんやりとした輪郭の中で、彼の両目が、そこだけ鮮明に私の視界に映り込んでいる。

「私、ちゃんと待ってるから……だから」

 余計なタイミングで涙が溢れ、声が震えた。空気と同化しつつあるハルキの指が、ためらいがちに伸びてくる。涙を拭おうとしているのかもしれないと思ったら、こんな状況なのに笑ってしまいそうになった。
 ……馬鹿だ。触れられないのに。
 さっきだって、これまでだって、何度も何度も、私たちは互いに触れ合えない寂しさを味わってきたのに。

「ハルキ」

 雲を割って差し込んできた日差しが、東屋にまで届く。ハルキはわずかに目を細め、日差しの方向を一瞥した後、再び私に向き直った。
 口元が動いて見え、私はそれを、涙で霞んだ視界を無理に広げて見つめる。なにを言っているのか分からなかった。「もう一回言って」と伝えようとして、けれどそれすら喉につかえて声にならない。
 もどかしさに息を詰めていると、幽霊のハルキは、ほとんど見えなくなった顔を微かに緩ませた。苦笑いをしているように見えなくもなく、私は目を瞠ってその顔に見入ってしまう。

 頬に伸ばされた彼の指が、その途中、ふつりと消えて見えなくなった。
 それきり、彼は――私が恋した幽霊は、姿を消してしまった。

 見えなくなった瞬間、頬にぬくもりと感触を覚えた。間違いなかった。ほんの一瞬だけ、確かに触れた。触れられた。
 すぐに消えた感触を閉じ込めるように、私は自分の頬に手のひらを添え、誰にともなく呟いた。

「……次に会えたら、ちゃんと、謝るから……」

 私には見えなくなってしまったけれど、君に、私の声は届いただろうか。
 答えを知る術など持っているはずもない。頬に手を添えたまま、私はひとり、日差しが反射して輝く水溜まりを泣きながら見つめていた。