『お嬢さんが背中、押してやってくれんか』
お爺さん幽霊と交わしたその言葉が、頭の中を駆け回る。背中を押す――奇しくもそれは、私が帰り道の中、ハルキの夢について想像を膨らませていたときに思いついた言葉と同じだ。関係のない事柄がふたつあるだけなのに、妙に気に懸かってしまう。
夕飯のときに見た天気予報では、日曜から月曜頃には梅雨が明けるという予報が出ていた。今日が金曜だから、明後日かその翌日には本格的な夏が幕を開ける。
その後、どんな頻度で雨が降るのかは分からないが、少なくとも週間天気予報には晴れマークしか並んでいなかった。通り雨程度は降るかもしれないが、まとまった雨は期待できそうにない。
普段よりも長く湯船に沈ませた身体は、すっかり眠気に包まれている。それなのになかなか眠れない。
お爺さん幽霊がユウの話をするときの、親しげな――もっと言うなら気安げな口調を思い出す。彼とユウは、いつからそれほど親しくなったのか。私が知る限りではごく最近だ。お爺さん幽霊のほうから初めてユウの名が出たのは、せいぜいひと月前だった。
もしかしたら、ふたりはそれ以前から顔見知りだったのかもしれない。だが、私とユウが顔を合わせるよりも前から交流があったとは思いがたい。なぜなら、ユウは私に会うまでひとりぼっちだったと言っていたからだ。
お爺さん幽霊が「あいつ」や「あれ」といった呼称でユウを呼ぶとき、昔から知っている相手について話しているかのようだった。幽霊になるより前から顔見知りだった可能性も、ないとは言いきれない。なにせ、ふたりは同じ街に現れた幽霊だ。
……でも、なんだろう。なにかが引っかかる。重要ななにかを見落としている気がしてならない。
『背中があんまりガタガタ震えとって、わしゃ敵わんよ』
『あのまんまじゃ、いずれはわしらと同じになってしまうじゃろうなァ』
お爺さん幽霊は、ユウを憂いていた。ユウは普通の幽霊ではない。そのことには気づいている。お爺さん幽霊いわく、幽霊とは「どんどん忘れていくもの」だ。
ユウは逆で、少しずつ記憶を取り戻している。でも、今のままではいずれ普通の幽霊と同じになり、やがてはお爺さん幽霊のように消えてしまう日が来る。お爺さん幽霊はそれを危惧していた。
では、普通の幽霊でないユウが戻るべき場所は一体どこなのか。そこに戻ることを、ユウはなぜ恐れているのか。お爺さん幽霊の前で背を震わせて……どうして。
やはり引っかかる。より具体的になったある仮説が、私の頭を巡る。
ユウの正体。お爺さん幽霊の正体。それらが、私が思っているよりも遥かに身近な存在だとしたら。
しかし、その仮説を貫こうとするたび、必ず大きな矛盾にぶつかる。今もぶつかっている。これまでの私は、だからこそその仮説は成立しない、あり得ないと考えてきた。
――けれど、今は。
本当のことを知りたかった。知った上で、ユウが戻るべき場所に戻れるよう、今度こそ力にならなければ。
明日は土曜。天気予報には、梅雨明けに関する情報がとっくに出ていた。テレビの週間天気予報で並んでいた、大量の晴れマークを思い出す。ひとたび梅雨が明けてしまえば、私とユウが顔を合わせられる機会は大幅に減るに違いなかった。
だから、明日、会いに行こう。
ユウの背中を押すために、私は児童公園に行かなければ。
たとえ避けられたとしても、拒まれたとしても、彼と――ひいては私自身の気持ちと、真剣に向き合わなければならない。
*
翌日、土曜。母がパートの仕事に出かけて間もなく、私も家を出た。
時刻は、午前八時を少し回ったところだ。休日の朝早くから外出するなんて滅多にないからか、今日は自宅でのんびり過ごす予定らしき父も、少々面食らった様子だった。その父には、「ちょっと出かけてくるね」とだけ告げて出てきた。父は父で、特に探りを入れてくることはなかった。
片手には赤い傘を持ち、背にはリュックを背負い、児童公園までの道を進んでいく。
湿ったアスファルトの匂いが普段よりも強い。梅雨が明けたら、この匂いともしばらく無縁になる。実際、少々苦手な匂いなのに、なんとなく寂しい気分になるから不思議だ。
到着した児童公園には、人の気配が一切なかった。東屋へ向かい、傘を閉じ、いつものようにテーブルの角へ傘の柄を引っかけてベンチに座る。ベンチもテーブルも、半月近く続いた梅雨のせいか、しっとりと湿って感じられた。
「……ユウ」
独り言のように呼びかけてみた。姿は見えなくても、近くにユウがいるかもしれない。それが起こり得ると、私はすでに知っている。
以前、登校中にハルキと鉢合わせた朝、ユウは雨の日でも私の前から姿を消した。つまりは、雨が降っていようがいまいが、ユウは私の目から隠れてしまえるということだ。
雨という条件は、私が彼らを目視できるかどうかという一方通行のカギだ。姿を見せたくないと幽霊たちが強く念じているなら、私にはどうすることもできない。
「ユウ」
もう一度、今度は少し声を大きくして呼びかける。
返事はない。けれど、近くにいる気がしてならなかった。ユウはこの東屋の中、あるいは傍にいて、姿を隠しているだけなのだと。
ユウが姿を見せないことに対し、私は怒りも寂しさも悲しみも覚えなかった。お爺さん幽霊が、ユウの背中が震えていると――なにかに怯えていると教えてくれたから。
リュックから、おもむろに教科書とノートを取り出す。通学鞄から入れ替えておいたものだ。
いつか、ユウが酔っ払いのおじさんから私を助けてくれたときと同じ、世界史の教科書とノート。角の部分に折り目がついているページをわざと狙って開き、私はそこで指を止めた。
「……覚えてる? 私、あの日もユウに会いたくてここに来た」
角の折り目にそっと触れ、私はひとり呟く。
ユウに会えるか会えないか、それ自体が私の意志ではどうにもできない。ユウにすべての決定権が委ねられている今、いるかいないかも判然としないユウに対し、私は一方的に話しかけるしか手段がない。
「怖いね。酔っ払いなんて、私、そんなに見たことないもん。うちの親は昼間からお酒飲む人たちじゃないし」
ひとりで喋りながら、私は教科書をめくる。途端に、あの日の情景が瞼の裏に浮かんだ。
順序良く揺れる木々。明らかに風の仕業ではなく、勝手にめくれ続けるノート。酔っ払いおじさんの怯えた姿。それから、私の背を庇うかのごとく現れた、まだのっぺらぼうだったユウの顔。
気分が良いとは決して言えない体験をしたのに、そのどれもが鮮明に記憶に残っている。
「あのとき私、ああ、ユウのこと、好きだなって……思った」
半分透けていたユウの姿を、その輪郭のひとつひとつを、強く頭に思い描く。
足の爪の形。頭の形。指の形。手のひらの形。あれからしばらくして見えた唇の形と、その横に浮き上がるようにして見えたほくろの形も、ほぼ必然的に脳裏を掠めた。
風がざわざわと木々を揺らす。雨音が静かに耳に届く中、私はゆっくりと瞬きを繰り返した。きっと、ユウは傍にいる。私の話を聞いている。確信があった。
「ユウ。いるんでしょう」
縋るような声で呼びかけ、ノートの端を撫でる指が震えた、そのときだった。
視界の端、テーブルの角に白いなにかが映り込んだ。人の形をした白い指――それに気づいた私は小さく息を呑む。
同時に、背にほのかなぬくもりを感じた。なにかが触れる感触こそないものの、この雨の中、蒸し蒸しとした特有の湿気とは明らかに異なるそれ。一度は止めた息を、私は深く吸い込んだ。
「……昨日、お爺さんの幽霊とお別れしたの」
姿を確認することなく、私はまたも一方的に切り出す。
確信はあった。けれど、振り返る勇気はまだない。そんな中で彼を繋ぎ留める方法など、話をする以外に思い浮かばなかった。
「ユウにも会ったって言ってた。話、した?」
『……ああ』
短い返事があり、微かに背を震わせてしまう。
ユウがいる。背中越し、今、私はユウと話せている。
「良かった。お爺さん、心配そうにしてたから」
ふふ、と笑みが零れた。その声が途切れた隙に、テーブルの上に白い手が伸びてきた。
見慣れた、というよりは、むしろ久しぶりに見たユウの手だ。切り揃えた髪と肩の間を背後から通り抜けてきた腕、その先の長い指が、テーブルの上のノートをなぞる。
彼が激しくめくって酔っ払いおじさんを驚かせた、その端の部分に、白い指は確かに触れていた。端を押さえた指が離れた瞬間、折り目がついたそこがぴょんと動き、私はいまだに本人を直視できないままそこに目を奪われる。
『叱られた。誤解は解くものだろ、って』
ユウの声が、耳のすぐ傍から聞こえる。
私が思っているよりずっと、ユウは私に近づいている。そう気づかされ、私は思わずユウの指に自分の指を伸ばした。
結局、触れられはしなかった。透けた指に自分の指が入り込み、息が詰まる。それなのに、そこから指を外す気にもなれない。
途方に暮れながら、私は背中のぬくもりをただ噛み締める。
ユウには体温なんて存在しないだろうに、まるで包み込まれているように温かく感じる。不思議だ。けれど、以前ユウ自身も『風が冷たい気がする』と言っていた。感覚的なものなのかもしれないし、実際にそこに温度は存在するのかもしれない。
そもそも、ユウと私がこうやって言葉を交わせていること自体が不思議なのだ。その先に起こるすべてが不思議だとして、それは当然なのかもしれない。
「……誤解?」
『うん。前にも同じようなこと、言われたんだ。夢で』
ああ、という返事が、いつの間にかうん、に変わっている。そのほうが気安い気がして、ユウが私に心を許してくれている気までして、嬉しくなる。
ノートの端に触れたきりの私の指へ、ユウの指が再び重ねられる。温かい。それに、擽ったくもある。
『あんたに顔を見られたくなかった。一度でも見られたら、もう会ってもらえないと思ったから……怖くて、それで逃げてた』
「なにそれ。どのみち会えないじゃん、それじゃ」
思った以上に不服そうな言い方になった。
わずかな沈黙が落ちたものの、その間もノートの端で触れ合う指は離れない。触れていないのに、視覚的には触れている。不思議だ。けれど、ユウと一緒にいるときに私にとって不思議ではないことなど、やはりひとつもなかった。
ふ、と笑ったユウにつられ、私も笑ってしまう。
「お爺さん、ほとんど思い出せてるはずだって言ってた。本当なの?」
『……うん』
「自分が誰なのかは分かってるの?」
『うん。だいぶ前に思い出してた』
「……なにそれ。私の手伝いなんて別に要らなかったってこと?」
またも不服そうな……いや、恨みがましい言い方になった。
尖らせた口を万が一にも見られてしまわないよう、私は重なり合う私たちの指先から露骨に目を逸らした。
『い、いや。あんたがいなかったら思い出せなかった。今だってなにも知らないでフラフラして、下手したらとっくに消えてたかもしれない……けど』
慌てた様子で弁解するユウは、最後に言い淀んだ。
私が言わせているみたいだと思ったら、胸がずきんと痛んで……しかし。
『けど、俺が誰なのか、あんたにだけは知られたくなかった。知ったら、あんたは俺にはもう会ってくれなかったんじゃないのか』
まるで、自分の正体に気づいているのだろうとでも言いたげな口調だ。
昨晩から……いや、今思えばもっと前から頭の片隅にあったある仮説に、私は確信めいた気持ちを抱いていた。お爺さん幽霊と交わした言葉の数々を冷静に整理すれば、勘づかないわけにはいかなかった。
中でも、お爺さん幽霊がことあるごとに口にしていた「あれ」や「あいつ」という言葉が、私がそれぞれ異なる人物だと判断しているふたりの人物、その両方を指していると勘づかないわけには。
「……会ってるじゃん。今」
『っ、それはあんたが俺の顔を見てないから』
「じゃあ見せてよ」
双方が顔を合わせようとせずに続いていた会話が、ふと途切れた。
ノートの上に置いた手が、図らずも震えてしまう。その甲に触れたきりのユウの指もまた、ぴくりと動き……もどかしい。
そう、もどかしくて堪らない。前触れなく、私は勢いに任せて背後を振り返った。
『……っ、あ』
不意を突かれて声を落としたユウの、目深に被さって顔を遮っている布が、シーツのその端が、邪魔で仕方なかった。
衝動のまま手を伸ばすと、ユウは露骨に身を引いて私の手を遮ろうとする。ついさっきまで触れ合えずにいた指と指のことなど、すっかり忘れてしまっているみたいだ――そう思ったら確かにおかしかったのに、私はちっとも笑えない。
ユウの指は震えていた。
白い指。細くて長い……それもまた、彼の指とよく似て見える。昨日の朝、ユウの背を追った後に道端でうずくまった私の腕を取り、歩道の端へ促してくれた彼の指と。
答えはもう目前に迫っている。
震える喉から、私は無理やり声を絞り出した。
「見せて。ハルキ」
お爺さん幽霊と交わしたその言葉が、頭の中を駆け回る。背中を押す――奇しくもそれは、私が帰り道の中、ハルキの夢について想像を膨らませていたときに思いついた言葉と同じだ。関係のない事柄がふたつあるだけなのに、妙に気に懸かってしまう。
夕飯のときに見た天気予報では、日曜から月曜頃には梅雨が明けるという予報が出ていた。今日が金曜だから、明後日かその翌日には本格的な夏が幕を開ける。
その後、どんな頻度で雨が降るのかは分からないが、少なくとも週間天気予報には晴れマークしか並んでいなかった。通り雨程度は降るかもしれないが、まとまった雨は期待できそうにない。
普段よりも長く湯船に沈ませた身体は、すっかり眠気に包まれている。それなのになかなか眠れない。
お爺さん幽霊がユウの話をするときの、親しげな――もっと言うなら気安げな口調を思い出す。彼とユウは、いつからそれほど親しくなったのか。私が知る限りではごく最近だ。お爺さん幽霊のほうから初めてユウの名が出たのは、せいぜいひと月前だった。
もしかしたら、ふたりはそれ以前から顔見知りだったのかもしれない。だが、私とユウが顔を合わせるよりも前から交流があったとは思いがたい。なぜなら、ユウは私に会うまでひとりぼっちだったと言っていたからだ。
お爺さん幽霊が「あいつ」や「あれ」といった呼称でユウを呼ぶとき、昔から知っている相手について話しているかのようだった。幽霊になるより前から顔見知りだった可能性も、ないとは言いきれない。なにせ、ふたりは同じ街に現れた幽霊だ。
……でも、なんだろう。なにかが引っかかる。重要ななにかを見落としている気がしてならない。
『背中があんまりガタガタ震えとって、わしゃ敵わんよ』
『あのまんまじゃ、いずれはわしらと同じになってしまうじゃろうなァ』
お爺さん幽霊は、ユウを憂いていた。ユウは普通の幽霊ではない。そのことには気づいている。お爺さん幽霊いわく、幽霊とは「どんどん忘れていくもの」だ。
ユウは逆で、少しずつ記憶を取り戻している。でも、今のままではいずれ普通の幽霊と同じになり、やがてはお爺さん幽霊のように消えてしまう日が来る。お爺さん幽霊はそれを危惧していた。
では、普通の幽霊でないユウが戻るべき場所は一体どこなのか。そこに戻ることを、ユウはなぜ恐れているのか。お爺さん幽霊の前で背を震わせて……どうして。
やはり引っかかる。より具体的になったある仮説が、私の頭を巡る。
ユウの正体。お爺さん幽霊の正体。それらが、私が思っているよりも遥かに身近な存在だとしたら。
しかし、その仮説を貫こうとするたび、必ず大きな矛盾にぶつかる。今もぶつかっている。これまでの私は、だからこそその仮説は成立しない、あり得ないと考えてきた。
――けれど、今は。
本当のことを知りたかった。知った上で、ユウが戻るべき場所に戻れるよう、今度こそ力にならなければ。
明日は土曜。天気予報には、梅雨明けに関する情報がとっくに出ていた。テレビの週間天気予報で並んでいた、大量の晴れマークを思い出す。ひとたび梅雨が明けてしまえば、私とユウが顔を合わせられる機会は大幅に減るに違いなかった。
だから、明日、会いに行こう。
ユウの背中を押すために、私は児童公園に行かなければ。
たとえ避けられたとしても、拒まれたとしても、彼と――ひいては私自身の気持ちと、真剣に向き合わなければならない。
*
翌日、土曜。母がパートの仕事に出かけて間もなく、私も家を出た。
時刻は、午前八時を少し回ったところだ。休日の朝早くから外出するなんて滅多にないからか、今日は自宅でのんびり過ごす予定らしき父も、少々面食らった様子だった。その父には、「ちょっと出かけてくるね」とだけ告げて出てきた。父は父で、特に探りを入れてくることはなかった。
片手には赤い傘を持ち、背にはリュックを背負い、児童公園までの道を進んでいく。
湿ったアスファルトの匂いが普段よりも強い。梅雨が明けたら、この匂いともしばらく無縁になる。実際、少々苦手な匂いなのに、なんとなく寂しい気分になるから不思議だ。
到着した児童公園には、人の気配が一切なかった。東屋へ向かい、傘を閉じ、いつものようにテーブルの角へ傘の柄を引っかけてベンチに座る。ベンチもテーブルも、半月近く続いた梅雨のせいか、しっとりと湿って感じられた。
「……ユウ」
独り言のように呼びかけてみた。姿は見えなくても、近くにユウがいるかもしれない。それが起こり得ると、私はすでに知っている。
以前、登校中にハルキと鉢合わせた朝、ユウは雨の日でも私の前から姿を消した。つまりは、雨が降っていようがいまいが、ユウは私の目から隠れてしまえるということだ。
雨という条件は、私が彼らを目視できるかどうかという一方通行のカギだ。姿を見せたくないと幽霊たちが強く念じているなら、私にはどうすることもできない。
「ユウ」
もう一度、今度は少し声を大きくして呼びかける。
返事はない。けれど、近くにいる気がしてならなかった。ユウはこの東屋の中、あるいは傍にいて、姿を隠しているだけなのだと。
ユウが姿を見せないことに対し、私は怒りも寂しさも悲しみも覚えなかった。お爺さん幽霊が、ユウの背中が震えていると――なにかに怯えていると教えてくれたから。
リュックから、おもむろに教科書とノートを取り出す。通学鞄から入れ替えておいたものだ。
いつか、ユウが酔っ払いのおじさんから私を助けてくれたときと同じ、世界史の教科書とノート。角の部分に折り目がついているページをわざと狙って開き、私はそこで指を止めた。
「……覚えてる? 私、あの日もユウに会いたくてここに来た」
角の折り目にそっと触れ、私はひとり呟く。
ユウに会えるか会えないか、それ自体が私の意志ではどうにもできない。ユウにすべての決定権が委ねられている今、いるかいないかも判然としないユウに対し、私は一方的に話しかけるしか手段がない。
「怖いね。酔っ払いなんて、私、そんなに見たことないもん。うちの親は昼間からお酒飲む人たちじゃないし」
ひとりで喋りながら、私は教科書をめくる。途端に、あの日の情景が瞼の裏に浮かんだ。
順序良く揺れる木々。明らかに風の仕業ではなく、勝手にめくれ続けるノート。酔っ払いおじさんの怯えた姿。それから、私の背を庇うかのごとく現れた、まだのっぺらぼうだったユウの顔。
気分が良いとは決して言えない体験をしたのに、そのどれもが鮮明に記憶に残っている。
「あのとき私、ああ、ユウのこと、好きだなって……思った」
半分透けていたユウの姿を、その輪郭のひとつひとつを、強く頭に思い描く。
足の爪の形。頭の形。指の形。手のひらの形。あれからしばらくして見えた唇の形と、その横に浮き上がるようにして見えたほくろの形も、ほぼ必然的に脳裏を掠めた。
風がざわざわと木々を揺らす。雨音が静かに耳に届く中、私はゆっくりと瞬きを繰り返した。きっと、ユウは傍にいる。私の話を聞いている。確信があった。
「ユウ。いるんでしょう」
縋るような声で呼びかけ、ノートの端を撫でる指が震えた、そのときだった。
視界の端、テーブルの角に白いなにかが映り込んだ。人の形をした白い指――それに気づいた私は小さく息を呑む。
同時に、背にほのかなぬくもりを感じた。なにかが触れる感触こそないものの、この雨の中、蒸し蒸しとした特有の湿気とは明らかに異なるそれ。一度は止めた息を、私は深く吸い込んだ。
「……昨日、お爺さんの幽霊とお別れしたの」
姿を確認することなく、私はまたも一方的に切り出す。
確信はあった。けれど、振り返る勇気はまだない。そんな中で彼を繋ぎ留める方法など、話をする以外に思い浮かばなかった。
「ユウにも会ったって言ってた。話、した?」
『……ああ』
短い返事があり、微かに背を震わせてしまう。
ユウがいる。背中越し、今、私はユウと話せている。
「良かった。お爺さん、心配そうにしてたから」
ふふ、と笑みが零れた。その声が途切れた隙に、テーブルの上に白い手が伸びてきた。
見慣れた、というよりは、むしろ久しぶりに見たユウの手だ。切り揃えた髪と肩の間を背後から通り抜けてきた腕、その先の長い指が、テーブルの上のノートをなぞる。
彼が激しくめくって酔っ払いおじさんを驚かせた、その端の部分に、白い指は確かに触れていた。端を押さえた指が離れた瞬間、折り目がついたそこがぴょんと動き、私はいまだに本人を直視できないままそこに目を奪われる。
『叱られた。誤解は解くものだろ、って』
ユウの声が、耳のすぐ傍から聞こえる。
私が思っているよりずっと、ユウは私に近づいている。そう気づかされ、私は思わずユウの指に自分の指を伸ばした。
結局、触れられはしなかった。透けた指に自分の指が入り込み、息が詰まる。それなのに、そこから指を外す気にもなれない。
途方に暮れながら、私は背中のぬくもりをただ噛み締める。
ユウには体温なんて存在しないだろうに、まるで包み込まれているように温かく感じる。不思議だ。けれど、以前ユウ自身も『風が冷たい気がする』と言っていた。感覚的なものなのかもしれないし、実際にそこに温度は存在するのかもしれない。
そもそも、ユウと私がこうやって言葉を交わせていること自体が不思議なのだ。その先に起こるすべてが不思議だとして、それは当然なのかもしれない。
「……誤解?」
『うん。前にも同じようなこと、言われたんだ。夢で』
ああ、という返事が、いつの間にかうん、に変わっている。そのほうが気安い気がして、ユウが私に心を許してくれている気までして、嬉しくなる。
ノートの端に触れたきりの私の指へ、ユウの指が再び重ねられる。温かい。それに、擽ったくもある。
『あんたに顔を見られたくなかった。一度でも見られたら、もう会ってもらえないと思ったから……怖くて、それで逃げてた』
「なにそれ。どのみち会えないじゃん、それじゃ」
思った以上に不服そうな言い方になった。
わずかな沈黙が落ちたものの、その間もノートの端で触れ合う指は離れない。触れていないのに、視覚的には触れている。不思議だ。けれど、ユウと一緒にいるときに私にとって不思議ではないことなど、やはりひとつもなかった。
ふ、と笑ったユウにつられ、私も笑ってしまう。
「お爺さん、ほとんど思い出せてるはずだって言ってた。本当なの?」
『……うん』
「自分が誰なのかは分かってるの?」
『うん。だいぶ前に思い出してた』
「……なにそれ。私の手伝いなんて別に要らなかったってこと?」
またも不服そうな……いや、恨みがましい言い方になった。
尖らせた口を万が一にも見られてしまわないよう、私は重なり合う私たちの指先から露骨に目を逸らした。
『い、いや。あんたがいなかったら思い出せなかった。今だってなにも知らないでフラフラして、下手したらとっくに消えてたかもしれない……けど』
慌てた様子で弁解するユウは、最後に言い淀んだ。
私が言わせているみたいだと思ったら、胸がずきんと痛んで……しかし。
『けど、俺が誰なのか、あんたにだけは知られたくなかった。知ったら、あんたは俺にはもう会ってくれなかったんじゃないのか』
まるで、自分の正体に気づいているのだろうとでも言いたげな口調だ。
昨晩から……いや、今思えばもっと前から頭の片隅にあったある仮説に、私は確信めいた気持ちを抱いていた。お爺さん幽霊と交わした言葉の数々を冷静に整理すれば、勘づかないわけにはいかなかった。
中でも、お爺さん幽霊がことあるごとに口にしていた「あれ」や「あいつ」という言葉が、私がそれぞれ異なる人物だと判断しているふたりの人物、その両方を指していると勘づかないわけには。
「……会ってるじゃん。今」
『っ、それはあんたが俺の顔を見てないから』
「じゃあ見せてよ」
双方が顔を合わせようとせずに続いていた会話が、ふと途切れた。
ノートの上に置いた手が、図らずも震えてしまう。その甲に触れたきりのユウの指もまた、ぴくりと動き……もどかしい。
そう、もどかしくて堪らない。前触れなく、私は勢いに任せて背後を振り返った。
『……っ、あ』
不意を突かれて声を落としたユウの、目深に被さって顔を遮っている布が、シーツのその端が、邪魔で仕方なかった。
衝動のまま手を伸ばすと、ユウは露骨に身を引いて私の手を遮ろうとする。ついさっきまで触れ合えずにいた指と指のことなど、すっかり忘れてしまっているみたいだ――そう思ったら確かにおかしかったのに、私はちっとも笑えない。
ユウの指は震えていた。
白い指。細くて長い……それもまた、彼の指とよく似て見える。昨日の朝、ユウの背を追った後に道端でうずくまった私の腕を取り、歩道の端へ促してくれた彼の指と。
答えはもう目前に迫っている。
震える喉から、私は無理やり声を絞り出した。
「見せて。ハルキ」