それから、中途半端な曇り空が数日続いた。梅雨前線が、という言葉をニュースで頻繁に聞くわりに、どんよりとした灰色の雲が空を覆うばかりだ。雨が落ちてきたとして大して降り続かず、まとまった雨にはならなかった。
そして今日、土曜。
すっかり梅雨入りを果たしたとばかり、重々しい空から雨粒が落ち始めたのは、午前十一時を回った頃だった。
父は用事で出かけていて、母も午後四時まで仕事だ。
朝からなんとなく怠い気はしていたものの、この程度の体調なら問題ない。多少の頭痛もあったが、やはりそれもあまり気に留めなかった。
もし具合が悪くなったら、そのとき自宅に戻ればいい。軽い気持ちで、私はひとり残っていた自宅を出て、傘を片手に児童公園へ向かった。
しかし、児童公園には今日もユウの姿がなかった。
祠の傍にも足を伸ばしてみたけれど、お爺さん幽霊も見当たらない。持っていた傘を取り落としそうになる。きっと誰の目にも明白なほど、私は落胆していた。
「……なんでだよ……」
無意識のうちに、掠れた声が零れていた。
もう何日、ユウに会っていないだろう。息が苦しい。けれど、今日も会えないかもしれないという諦めは心のどこかにあった。そのおかげで膝から崩れ落ちずに済んだ。
東屋にひとり残るのは危険だ。前にユウが教えてくれたし、なによりこの身をもって思い知った。雨が降っていない日だけが危ないということもない。あのおじさん以外の驚異が絶対にないとは言いきれない。
しばらくぼうっと公園内を眺めた後、私は踵を返した。
帰ってなにをしようか、さっぱり思い浮かばない。でも、ずっとここにいるわけにもいかない。この場に残りたい気持ちに強引に蓋をして、出入り口の側を振り返り――そして息を呑んだ。
黒い傘を手にしたハルキが、まるで私の退路を断つかのように、公園の出入り口に立ち塞がっていたからだ。
声が出るよりも先に、溜息が口をついて出た。
多少の距離があるにしても、私の露骨な態度はハルキにも見えただろう。むしろ、見せつけるためにわざとそうしたのだ。
出入り口まで歩みを進め、真正面からハルキを見上げた私は、彼を睨みつけながら口を開いた。
「いい加減にしてよ。こないだから一体なんなの」
ハルキは答えなかった。
しとしと、しとしと、雨音がしつこく耳を苛む。以前はこの音を望んでやまなかった。いや、今も望んでいることに変わりはない。ハルキさえいなければ、今日だって。
ユウの姿は相変わらず見えない。もしやハルキのせいなのでは、と不意に思う。以前にも似たことを思った。ハルキが私の隣にいるから、妙な誤解をされてしまっているのでは、と。
「なんとか言ったらどうなの。前にも言ったけど迷惑……」
そこまで言いかけたとき、ハルキの口元が目に留まった。向かって右側、下唇のすぐ下の辺りに、小さなほくろが覗いている。
相手を遮るように繰っていた言葉のすべてが、真っ白に掻き消えた。そのまま、私は目を見開いてそこを凝視するしかできなくなる。
いわれてみれば、幼い頃からあった気がする……でも。
ユウと同じ位置だ。それに、大きさもユウと同じくらい。薄気味悪い偶然だ。
「雨の日の休みにわざわざこんなところでなにしてるのか、気になっただけだ」
「っ、アンタには関係ないって前にも言ったじゃん!」
ハルキの低い声は、傘が雨を弾く音がひっきりなしに続く中でもよく響いた。
私はといえば、勢いに任せて言い返すしかできない。それも、すでに一度ハルキ本人に伝えた言葉とほとんど変わらない言葉を、だ。頭が回らず、嫌気が差してくる。
……前触れもなく、幼い頃のハルキの姿が脳裏を過ぎった。
あの頃の私たちは仲が良かった。クラスが離れても登校班は一緒だったし、ふたり並んで下校することだってたくさんあった。朝も放課後も、必ずと言っていいくらい毎回顔を合わせる、友達。
ハルキは、私にとって大切な友達だった。家族以外の誰にも教えられそうにない秘密さえ、打ち明けたいと思えるほどの。
「……いつまでそこにいるつもり?」
「お前が帰るまで」
「っ、帰って!!」
「お前も帰るなら帰る」
「うるさい!!」
怒号に等しい声が喉を通り、自分のその声にこそ震えそうになる。
こんなに大きな声を出すのは久しぶりだ。呼吸が乱れ、手元が狂う。柄を持つ指がぶるりと震えた途端、傘の上に溜まっていた水滴が一斉に垂れ落ち、ぼたぼたぼた、と低い音を立てて方々に飛び散った。
「もう少しここにいたらどうだ。用があるから来たんだろ」
「……なんなのアンタ。腹立つ……」
「懐かしいな。中入るの、小学生の頃以来かも」
喧嘩腰の私を無視し、ハルキは児童公園をぐるりと見渡した。黒い傘で遮られたハルキの顔――口元を、私はわざわざ目で追ってしまう。
無視して帰ればいいだけなのに、私はそれをためらった。おそらく、ハルキの口元にユウと同じほくろがあると知ってしまったからだ。
ぎり、と歯を噛み締める。東屋へ向かう気にはなれなかった。ユウではない男性と東屋のベンチに並んで座るなんて、私には耐えられない。たとえ、ユウが今この公園にいなくても。
出入り口に立ち尽くしたきり、震える息を吐き出した。
呼吸が荒い気がする上に、さっきから眩暈もひどい。ぐるぐると回る視界が吐き気を誘う。それが、ハルキに対する苛立ちからくるものではないと気づいたのは、上体が傾ぐほどの眩暈に襲われた後だった。
「……叶生?」
すぐ傍で公園を見渡していたハルキが、訝しげな声をあげる。
返事をする気にはなれなかった。回る視界が気持ち悪い。堪らずうう、と掠れた声を落とし、そこでようやく私は我が身に起きている異変に気づいた。
「叶生。大丈夫か……おい」
「……触らないで……」
「っ、どうした? おい、叶生!」
熱い。首の後ろと、目の奥。前に風邪をひいたときと同じところ。
呼吸がどんどん荒くなっていく。けれど、ハルキに素直に返事をする気にはやはりなれなかった。
今日は土曜で、家族は家にいない。父の帰宅予定もまだだいぶ先だ。ひとりで帰って布団を被ってしまえばいい。確かにそう思うのに……ふらつく視界と眩暈の中、単独でそれを成し遂げられるとは思えず、傘だけは手離すまいと思いながらも地面にうずくまる。
「なんだこれ、熱……叶生、帰るぞ。送る」
「……離して。嫌だ」
「っ、そんなじゃひとりで歩けないだろ!!」
怒鳴るような声に、図らずもびくりと震えてしまう。
前にも、ハルキの怒鳴り声を聞いたことがある。小学四年生の頃だ。声変わりを迎える前のハルキの声は、当時の私の声よりも高く、けれど今のハルキの声は過去のそれとは似ても似つかない。
「掴まってろ。立てるか?」
返事はもうできなかった。
熱いのに肌寒い。傘があるのに雨を防げていない。七分袖の白いチュニックは部分的に雨に濡れ、そこかしこから私の体温を奪い取ろうとする。
結局、私はハルキの支えを受け入れた。たまたま視線を向けたときに見えたハルキの顔は、ひどく青褪めていた。
そして今日、土曜。
すっかり梅雨入りを果たしたとばかり、重々しい空から雨粒が落ち始めたのは、午前十一時を回った頃だった。
父は用事で出かけていて、母も午後四時まで仕事だ。
朝からなんとなく怠い気はしていたものの、この程度の体調なら問題ない。多少の頭痛もあったが、やはりそれもあまり気に留めなかった。
もし具合が悪くなったら、そのとき自宅に戻ればいい。軽い気持ちで、私はひとり残っていた自宅を出て、傘を片手に児童公園へ向かった。
しかし、児童公園には今日もユウの姿がなかった。
祠の傍にも足を伸ばしてみたけれど、お爺さん幽霊も見当たらない。持っていた傘を取り落としそうになる。きっと誰の目にも明白なほど、私は落胆していた。
「……なんでだよ……」
無意識のうちに、掠れた声が零れていた。
もう何日、ユウに会っていないだろう。息が苦しい。けれど、今日も会えないかもしれないという諦めは心のどこかにあった。そのおかげで膝から崩れ落ちずに済んだ。
東屋にひとり残るのは危険だ。前にユウが教えてくれたし、なによりこの身をもって思い知った。雨が降っていない日だけが危ないということもない。あのおじさん以外の驚異が絶対にないとは言いきれない。
しばらくぼうっと公園内を眺めた後、私は踵を返した。
帰ってなにをしようか、さっぱり思い浮かばない。でも、ずっとここにいるわけにもいかない。この場に残りたい気持ちに強引に蓋をして、出入り口の側を振り返り――そして息を呑んだ。
黒い傘を手にしたハルキが、まるで私の退路を断つかのように、公園の出入り口に立ち塞がっていたからだ。
声が出るよりも先に、溜息が口をついて出た。
多少の距離があるにしても、私の露骨な態度はハルキにも見えただろう。むしろ、見せつけるためにわざとそうしたのだ。
出入り口まで歩みを進め、真正面からハルキを見上げた私は、彼を睨みつけながら口を開いた。
「いい加減にしてよ。こないだから一体なんなの」
ハルキは答えなかった。
しとしと、しとしと、雨音がしつこく耳を苛む。以前はこの音を望んでやまなかった。いや、今も望んでいることに変わりはない。ハルキさえいなければ、今日だって。
ユウの姿は相変わらず見えない。もしやハルキのせいなのでは、と不意に思う。以前にも似たことを思った。ハルキが私の隣にいるから、妙な誤解をされてしまっているのでは、と。
「なんとか言ったらどうなの。前にも言ったけど迷惑……」
そこまで言いかけたとき、ハルキの口元が目に留まった。向かって右側、下唇のすぐ下の辺りに、小さなほくろが覗いている。
相手を遮るように繰っていた言葉のすべてが、真っ白に掻き消えた。そのまま、私は目を見開いてそこを凝視するしかできなくなる。
いわれてみれば、幼い頃からあった気がする……でも。
ユウと同じ位置だ。それに、大きさもユウと同じくらい。薄気味悪い偶然だ。
「雨の日の休みにわざわざこんなところでなにしてるのか、気になっただけだ」
「っ、アンタには関係ないって前にも言ったじゃん!」
ハルキの低い声は、傘が雨を弾く音がひっきりなしに続く中でもよく響いた。
私はといえば、勢いに任せて言い返すしかできない。それも、すでに一度ハルキ本人に伝えた言葉とほとんど変わらない言葉を、だ。頭が回らず、嫌気が差してくる。
……前触れもなく、幼い頃のハルキの姿が脳裏を過ぎった。
あの頃の私たちは仲が良かった。クラスが離れても登校班は一緒だったし、ふたり並んで下校することだってたくさんあった。朝も放課後も、必ずと言っていいくらい毎回顔を合わせる、友達。
ハルキは、私にとって大切な友達だった。家族以外の誰にも教えられそうにない秘密さえ、打ち明けたいと思えるほどの。
「……いつまでそこにいるつもり?」
「お前が帰るまで」
「っ、帰って!!」
「お前も帰るなら帰る」
「うるさい!!」
怒号に等しい声が喉を通り、自分のその声にこそ震えそうになる。
こんなに大きな声を出すのは久しぶりだ。呼吸が乱れ、手元が狂う。柄を持つ指がぶるりと震えた途端、傘の上に溜まっていた水滴が一斉に垂れ落ち、ぼたぼたぼた、と低い音を立てて方々に飛び散った。
「もう少しここにいたらどうだ。用があるから来たんだろ」
「……なんなのアンタ。腹立つ……」
「懐かしいな。中入るの、小学生の頃以来かも」
喧嘩腰の私を無視し、ハルキは児童公園をぐるりと見渡した。黒い傘で遮られたハルキの顔――口元を、私はわざわざ目で追ってしまう。
無視して帰ればいいだけなのに、私はそれをためらった。おそらく、ハルキの口元にユウと同じほくろがあると知ってしまったからだ。
ぎり、と歯を噛み締める。東屋へ向かう気にはなれなかった。ユウではない男性と東屋のベンチに並んで座るなんて、私には耐えられない。たとえ、ユウが今この公園にいなくても。
出入り口に立ち尽くしたきり、震える息を吐き出した。
呼吸が荒い気がする上に、さっきから眩暈もひどい。ぐるぐると回る視界が吐き気を誘う。それが、ハルキに対する苛立ちからくるものではないと気づいたのは、上体が傾ぐほどの眩暈に襲われた後だった。
「……叶生?」
すぐ傍で公園を見渡していたハルキが、訝しげな声をあげる。
返事をする気にはなれなかった。回る視界が気持ち悪い。堪らずうう、と掠れた声を落とし、そこでようやく私は我が身に起きている異変に気づいた。
「叶生。大丈夫か……おい」
「……触らないで……」
「っ、どうした? おい、叶生!」
熱い。首の後ろと、目の奥。前に風邪をひいたときと同じところ。
呼吸がどんどん荒くなっていく。けれど、ハルキに素直に返事をする気にはやはりなれなかった。
今日は土曜で、家族は家にいない。父の帰宅予定もまだだいぶ先だ。ひとりで帰って布団を被ってしまえばいい。確かにそう思うのに……ふらつく視界と眩暈の中、単独でそれを成し遂げられるとは思えず、傘だけは手離すまいと思いながらも地面にうずくまる。
「なんだこれ、熱……叶生、帰るぞ。送る」
「……離して。嫌だ」
「っ、そんなじゃひとりで歩けないだろ!!」
怒鳴るような声に、図らずもびくりと震えてしまう。
前にも、ハルキの怒鳴り声を聞いたことがある。小学四年生の頃だ。声変わりを迎える前のハルキの声は、当時の私の声よりも高く、けれど今のハルキの声は過去のそれとは似ても似つかない。
「掴まってろ。立てるか?」
返事はもうできなかった。
熱いのに肌寒い。傘があるのに雨を防げていない。七分袖の白いチュニックは部分的に雨に濡れ、そこかしこから私の体温を奪い取ろうとする。
結局、私はハルキの支えを受け入れた。たまたま視線を向けたときに見えたハルキの顔は、ひどく青褪めていた。