週明け、月曜。雨が降った。
いよいよ梅雨入りのようだ。気象予報士が雨の状況を伝えるテレビを眺め、私は小さく溜息を落とした。
今日もハルキにつきまとわれてしまうのだろうか……憂鬱だ。まさか下校時のみならず朝までつきまとわれるなんてことは、と不安を捨てきれずにいたものの、ハルキの姿は通学路上には見えず、私は安堵の息を零した。
花梨からは、明日から学校に行くというメッセージが入っていた。
今日は様子見らしいが、五月の怪我以来、花梨の両親は彼女の体調に関して過敏に神経を尖らせている。体育の事故以降、花梨が「ますます過保護になった」と両親の愚痴を落としている様子を、実際に何度も見ている。
傘の柄を握る指に力を込める。今日は雨だ。ハルキさえいなければと心底思う。
塾の日だったらいい。あるいは、以前のように避けてくれれば。別に私が避けてもいいが、向こうがつきまとう気でいるなら、私には遮りきれない。
放課後になっても雨が降り続いたままの帰路は、途中までひとりだった。ハルキに待ち伏せされることも、つきまとわれることも、今日はなかった。ほっとひと息ついた私は、傘の柄を握り直して児童公園を目指す。
視線の先に児童公園の垣根が覗き、喉がこくりと鳴った。
六月最初の日曜、窓からユウを迎え入れたあの日以来、私たちは顔を合わせていない。どんな顔で会えばいいのか分からないのに、どうしたところで、私はユウに会いたいと思ってしまう。
しかし、おそるおそる児童公園の中を覗き込んだ先にユウの姿はなかった。公園の出入り口に立ち、遊具が並ぶ広場、そして東屋へと順に視線を動かし……どこを見渡しても白い影は見当たらず、私は深く俯いた。
もう何日になるだろう。せいぜい半月ほどだが、私にとってその半月は決して短く感じられるものではなかった。
会えない日ばかり続く。晴れの日も曇りの日も、挙句の果てには雨の日まで。
もしかして、ハルキと一緒にいる姿を見られてしまったのか。息が詰まる。私に見えなくても、ユウには常に私が見えている。例えば、昨日、ハルキと並んで帰路に就いたところを見られていたとしたら。
あり得ないことではない。目の奥がつんと痛み、私は思わず顔をしかめた。いつの間にか浮かんでいた涙が零れ落ちそうになり、慌てて顔を上げる。
少々勢いをつけ、公園の出入り口から後方を振り返ろうとした――そのときだった。
『おやおや、こないだのお嬢さんじゃねえか?』
聞き覚えのある嗄れ声が聞こえ、つい固まってしまう。
特徴的な話し方にも覚えがあった。
「……あ」
視線を上げた先、通り過ぎたはずの祠の前にそれは見えた。三体並ぶ地蔵の、ちょうど中央のそれの真上。ゆらゆら揺れる白い塊――間違いない。先日、急に姿を消してしまったお爺さん幽霊だ。
今度は声を堪え、私は小走りで祠の前に近寄っていく。
お爺さん幽霊は相変わらず朧げで、前回遭遇したときよりひと回り小さく見えた。白いまりもみたいなそれは、今日もゆらゆらと宙を泳ぎ、『おうおう』と久しぶりに友人と鉢合わせたような声をあげて傍へ寄ってくる。
『また来てくれたんかい。お嬢さんは優しい子じゃの~』
「あ……ええと、はい」
お爺さん幽霊に会いに来たわけではなかったが、呼びかけてくる声が嬉しそうで、私はつい話を合わせてしまう。頷いてみせると、私の仕種がきちんと見えているのだろう、お爺さん幽霊は『そうかいそうかい』とやはり嬉しそうな声をあげた。
人影がないか、私は控えめに周囲を見渡した。特に見えない。車道を走り抜けていく車がときおりある程度で、それも頻度はかなり低かった。
お爺さん幽霊の横に並びながら、道路側に背が向かないよう、私はさりげなく立ち位置を改める。一方のお爺さん幽霊は、のんびりとした口調で話を切り出してきた。
『ときにお嬢さん、最近なんや違う男の子といるんじゃなあ。モテモテじゃな』
傘を握り直す指に、知らず力がこもる。
顔が強張った自覚はあった。お爺さん幽霊にも見えてしまったらしい。彼は『言わんほうが良かったかい?』と慌て気味に尋ね、私は首を横に振る。
「ハルキは……あいつは、私のことが嫌いだから」
我ながら、苦々しい言い方になってしまった。
お爺さん幽霊は、え、と声をあげたきりだ。沈黙が落ちた祠の前には、傘が雨を弾く音だけが残り、ばつが悪くなる。
ついお爺さん幽霊から顔を背けそうになったところを、私はなんとか堪えた。先日、お爺さん幽霊は雨がやまなくても消えた。目を逸らした隙にまたふっと消えてしまったら、と慌てて視線を彼に戻す。
お爺さん幽霊は、声以外のなにもかもが朧げだ。外見に至ってはユウ以上に儚い。
その輪郭が、細い雨越しに余計に潤んで見えたそのとき、ううん、と唸るお爺さん幽霊の声が聞こえた。聞き逃すまいと、私はお爺さん幽霊の側へ耳を傾ける。
『でもなァ、お嬢さん。お嬢さんが最初に会っとった男の子はよぉ……』
どうしてか、お爺さん幽霊の声には困惑が色濃く滲んでいた。
最初に会っていた男の子、とはユウに違いない。困った態度でユウの話をされるのが息苦しく、私はお爺さん幽霊の話をわざと遮った。
「知ってます。幽霊だってことくらい」
ムキになって言い返してしまう。
また誰かに見られたらと不安に思っているのに、言葉をうまく区切れない。声量だけは抑えねばと強く意識しながら、私は吐き出すようにして続きを口に乗せる。
「でも、ユウは私の大事な……」
勢い勇んで言葉にできたのはそこまでだった。さっきまでの勢いは急速にしぼみ、言い淀んだきり、私は地面に視線を落とす。続く言葉に迷ってしまったからだ。
ユウは私の大事な……なんだろう。ユウは、私の、なに?
友達。好きな人。後者のほうが近い気はする。けれど、それをそのままお爺さん幽霊に伝えるのは気が引けてしまう。
言葉に詰まった私を宥めるように、お爺さん幽霊は『ああ』とか『うん』とかときおり相槌を挟んでくれ、気を遣わせているなと自己嫌悪に陥る。幽霊に気を遣わせるなんて、私以外にできる人間はそうそういないだろう。
自嘲の笑みが浮かびかけたそのとき、お爺さん幽霊が遠慮がちに話し始めた。
『ああ、そう……じゃなぁ。そうなんじゃけどな、あの子らは……いや、なんでもないよ』
妙に歯切れの悪い喋り方だ。お爺さん幽霊とは知り合って間もないし、だいたい、顔を合わせるのは今日で二度目だ。しかし、明らかに言葉を選んでいると分かる口調が気に懸かる。
問い直そうとしたものの、結局できなかった。小さな違和感が訝しさに育ち、それが言葉に置き換えられるよりも先に、向こうが『ああ、そういえば』と楽しそうな声をあげたからだ。
『こないだ、お嬢さんの仲良しのほうの男の子。話したんじゃよぉ』
「え!?」
話題が変わったことよりも、話の内容に気を取られた。
思わず大きな声を出してしまい、私ははっと周囲を見渡す。控えめに視線を動かし、その後首を動かしてみたが、辺りには誰もいなかった。安堵の息をついてから、私はお爺さん幽霊へ向き直る。
「ええと、それってどういう……」
『あの子の顔なぁ、お嬢さんには見えんのじゃろ? わしには見えるでよ。こういう身体じゃからかのう』
「えっ、そうなの?」
『おうおう。向こうにもわしが見えてるようでの、あっちゅう間に仲良しじゃよ、わしら!』
問い直した言葉から、つい敬語が抜け落ちてしまった。
仲良し……本当だろうか。幽霊とはいえおそらくは年齢差もあるわけで、大袈裟な気はする。でも。
お爺さん幽霊にはユウの顔が見えるということか。その情報は意外だった。ユウの姿に関しては、私こそが徐々に紐解いていっている感覚があった。けれど、最初から判別がつく人――というか幽霊――もいるのだ。
純粋な驚きは、次第に、複雑な気分に取って代わっていく。
こんなにもユウのことばかり考えているのに、私にはユウの顔が分からない。少なくとも、今はまだ。それなのに。
「……ユウ、なんか言ってた?」
呟くように尋ねた直後、はっとした。
自分ですら不安になってくるほど低い声だったから、雨を挟んでお爺さん幽霊まできちんと届いたか怪しい。だが、それを差し引いても、うじうじした尋ね方だという自覚はあった。
「や、やっぱりなんでもない!」
傘を持っていないほうの手を横に振り、私はまたも大きな声をあげてしまう。
まずい、と思ったがもう遅かった。驚いたせいか、お爺さん幽霊は『おお』と戸惑いの滲む声をあげ、ふっと姿を消した。
あ、と零れた自分の声を聞きながら、お爺さん幽霊がいた辺りに指を伸ばす。そこにはすでになにもなかった。ユウと同じで、もしかしたらまだそこにいるのかもしれない。でも。
雨はまだ降り続いているのに……私が驚かせてしまったからだろうか。
お爺さん幽霊は、ユウよりもずっと儚く、小さく、弱々しく見える。けれど、幽霊とは元来そういうものなのかもしれない。
私が知る幽霊は、ユウとお爺さん幽霊だけだ。「どちらが普通の幽霊か」など、これまでたびたび見かけた幽霊をすべて無視してきた私には、判断のつけようがない。
「……またね、お爺さん。びっくりさせちゃってごめんね」
雨に溶けて消えてしまうほどの小さな声で、私は呟いた。周囲に人がいたとして不自然に見えない程度に、真ん中の地蔵辺りへ控えめに手を振る。無論、お爺さん幽霊からの返事はなかった。
ひとりになると、怖くなってくるくらいに周囲が気に懸かった。念入りに辺りを見渡し、帰路に就く。
家の前に着くまで、今日はひとりきりだった。ハルキに絡まれずに済んだことにほっとしながら、私は溜息を噛み殺して玄関を開けた。
いよいよ梅雨入りのようだ。気象予報士が雨の状況を伝えるテレビを眺め、私は小さく溜息を落とした。
今日もハルキにつきまとわれてしまうのだろうか……憂鬱だ。まさか下校時のみならず朝までつきまとわれるなんてことは、と不安を捨てきれずにいたものの、ハルキの姿は通学路上には見えず、私は安堵の息を零した。
花梨からは、明日から学校に行くというメッセージが入っていた。
今日は様子見らしいが、五月の怪我以来、花梨の両親は彼女の体調に関して過敏に神経を尖らせている。体育の事故以降、花梨が「ますます過保護になった」と両親の愚痴を落としている様子を、実際に何度も見ている。
傘の柄を握る指に力を込める。今日は雨だ。ハルキさえいなければと心底思う。
塾の日だったらいい。あるいは、以前のように避けてくれれば。別に私が避けてもいいが、向こうがつきまとう気でいるなら、私には遮りきれない。
放課後になっても雨が降り続いたままの帰路は、途中までひとりだった。ハルキに待ち伏せされることも、つきまとわれることも、今日はなかった。ほっとひと息ついた私は、傘の柄を握り直して児童公園を目指す。
視線の先に児童公園の垣根が覗き、喉がこくりと鳴った。
六月最初の日曜、窓からユウを迎え入れたあの日以来、私たちは顔を合わせていない。どんな顔で会えばいいのか分からないのに、どうしたところで、私はユウに会いたいと思ってしまう。
しかし、おそるおそる児童公園の中を覗き込んだ先にユウの姿はなかった。公園の出入り口に立ち、遊具が並ぶ広場、そして東屋へと順に視線を動かし……どこを見渡しても白い影は見当たらず、私は深く俯いた。
もう何日になるだろう。せいぜい半月ほどだが、私にとってその半月は決して短く感じられるものではなかった。
会えない日ばかり続く。晴れの日も曇りの日も、挙句の果てには雨の日まで。
もしかして、ハルキと一緒にいる姿を見られてしまったのか。息が詰まる。私に見えなくても、ユウには常に私が見えている。例えば、昨日、ハルキと並んで帰路に就いたところを見られていたとしたら。
あり得ないことではない。目の奥がつんと痛み、私は思わず顔をしかめた。いつの間にか浮かんでいた涙が零れ落ちそうになり、慌てて顔を上げる。
少々勢いをつけ、公園の出入り口から後方を振り返ろうとした――そのときだった。
『おやおや、こないだのお嬢さんじゃねえか?』
聞き覚えのある嗄れ声が聞こえ、つい固まってしまう。
特徴的な話し方にも覚えがあった。
「……あ」
視線を上げた先、通り過ぎたはずの祠の前にそれは見えた。三体並ぶ地蔵の、ちょうど中央のそれの真上。ゆらゆら揺れる白い塊――間違いない。先日、急に姿を消してしまったお爺さん幽霊だ。
今度は声を堪え、私は小走りで祠の前に近寄っていく。
お爺さん幽霊は相変わらず朧げで、前回遭遇したときよりひと回り小さく見えた。白いまりもみたいなそれは、今日もゆらゆらと宙を泳ぎ、『おうおう』と久しぶりに友人と鉢合わせたような声をあげて傍へ寄ってくる。
『また来てくれたんかい。お嬢さんは優しい子じゃの~』
「あ……ええと、はい」
お爺さん幽霊に会いに来たわけではなかったが、呼びかけてくる声が嬉しそうで、私はつい話を合わせてしまう。頷いてみせると、私の仕種がきちんと見えているのだろう、お爺さん幽霊は『そうかいそうかい』とやはり嬉しそうな声をあげた。
人影がないか、私は控えめに周囲を見渡した。特に見えない。車道を走り抜けていく車がときおりある程度で、それも頻度はかなり低かった。
お爺さん幽霊の横に並びながら、道路側に背が向かないよう、私はさりげなく立ち位置を改める。一方のお爺さん幽霊は、のんびりとした口調で話を切り出してきた。
『ときにお嬢さん、最近なんや違う男の子といるんじゃなあ。モテモテじゃな』
傘を握り直す指に、知らず力がこもる。
顔が強張った自覚はあった。お爺さん幽霊にも見えてしまったらしい。彼は『言わんほうが良かったかい?』と慌て気味に尋ね、私は首を横に振る。
「ハルキは……あいつは、私のことが嫌いだから」
我ながら、苦々しい言い方になってしまった。
お爺さん幽霊は、え、と声をあげたきりだ。沈黙が落ちた祠の前には、傘が雨を弾く音だけが残り、ばつが悪くなる。
ついお爺さん幽霊から顔を背けそうになったところを、私はなんとか堪えた。先日、お爺さん幽霊は雨がやまなくても消えた。目を逸らした隙にまたふっと消えてしまったら、と慌てて視線を彼に戻す。
お爺さん幽霊は、声以外のなにもかもが朧げだ。外見に至ってはユウ以上に儚い。
その輪郭が、細い雨越しに余計に潤んで見えたそのとき、ううん、と唸るお爺さん幽霊の声が聞こえた。聞き逃すまいと、私はお爺さん幽霊の側へ耳を傾ける。
『でもなァ、お嬢さん。お嬢さんが最初に会っとった男の子はよぉ……』
どうしてか、お爺さん幽霊の声には困惑が色濃く滲んでいた。
最初に会っていた男の子、とはユウに違いない。困った態度でユウの話をされるのが息苦しく、私はお爺さん幽霊の話をわざと遮った。
「知ってます。幽霊だってことくらい」
ムキになって言い返してしまう。
また誰かに見られたらと不安に思っているのに、言葉をうまく区切れない。声量だけは抑えねばと強く意識しながら、私は吐き出すようにして続きを口に乗せる。
「でも、ユウは私の大事な……」
勢い勇んで言葉にできたのはそこまでだった。さっきまでの勢いは急速にしぼみ、言い淀んだきり、私は地面に視線を落とす。続く言葉に迷ってしまったからだ。
ユウは私の大事な……なんだろう。ユウは、私の、なに?
友達。好きな人。後者のほうが近い気はする。けれど、それをそのままお爺さん幽霊に伝えるのは気が引けてしまう。
言葉に詰まった私を宥めるように、お爺さん幽霊は『ああ』とか『うん』とかときおり相槌を挟んでくれ、気を遣わせているなと自己嫌悪に陥る。幽霊に気を遣わせるなんて、私以外にできる人間はそうそういないだろう。
自嘲の笑みが浮かびかけたそのとき、お爺さん幽霊が遠慮がちに話し始めた。
『ああ、そう……じゃなぁ。そうなんじゃけどな、あの子らは……いや、なんでもないよ』
妙に歯切れの悪い喋り方だ。お爺さん幽霊とは知り合って間もないし、だいたい、顔を合わせるのは今日で二度目だ。しかし、明らかに言葉を選んでいると分かる口調が気に懸かる。
問い直そうとしたものの、結局できなかった。小さな違和感が訝しさに育ち、それが言葉に置き換えられるよりも先に、向こうが『ああ、そういえば』と楽しそうな声をあげたからだ。
『こないだ、お嬢さんの仲良しのほうの男の子。話したんじゃよぉ』
「え!?」
話題が変わったことよりも、話の内容に気を取られた。
思わず大きな声を出してしまい、私ははっと周囲を見渡す。控えめに視線を動かし、その後首を動かしてみたが、辺りには誰もいなかった。安堵の息をついてから、私はお爺さん幽霊へ向き直る。
「ええと、それってどういう……」
『あの子の顔なぁ、お嬢さんには見えんのじゃろ? わしには見えるでよ。こういう身体じゃからかのう』
「えっ、そうなの?」
『おうおう。向こうにもわしが見えてるようでの、あっちゅう間に仲良しじゃよ、わしら!』
問い直した言葉から、つい敬語が抜け落ちてしまった。
仲良し……本当だろうか。幽霊とはいえおそらくは年齢差もあるわけで、大袈裟な気はする。でも。
お爺さん幽霊にはユウの顔が見えるということか。その情報は意外だった。ユウの姿に関しては、私こそが徐々に紐解いていっている感覚があった。けれど、最初から判別がつく人――というか幽霊――もいるのだ。
純粋な驚きは、次第に、複雑な気分に取って代わっていく。
こんなにもユウのことばかり考えているのに、私にはユウの顔が分からない。少なくとも、今はまだ。それなのに。
「……ユウ、なんか言ってた?」
呟くように尋ねた直後、はっとした。
自分ですら不安になってくるほど低い声だったから、雨を挟んでお爺さん幽霊まできちんと届いたか怪しい。だが、それを差し引いても、うじうじした尋ね方だという自覚はあった。
「や、やっぱりなんでもない!」
傘を持っていないほうの手を横に振り、私はまたも大きな声をあげてしまう。
まずい、と思ったがもう遅かった。驚いたせいか、お爺さん幽霊は『おお』と戸惑いの滲む声をあげ、ふっと姿を消した。
あ、と零れた自分の声を聞きながら、お爺さん幽霊がいた辺りに指を伸ばす。そこにはすでになにもなかった。ユウと同じで、もしかしたらまだそこにいるのかもしれない。でも。
雨はまだ降り続いているのに……私が驚かせてしまったからだろうか。
お爺さん幽霊は、ユウよりもずっと儚く、小さく、弱々しく見える。けれど、幽霊とは元来そういうものなのかもしれない。
私が知る幽霊は、ユウとお爺さん幽霊だけだ。「どちらが普通の幽霊か」など、これまでたびたび見かけた幽霊をすべて無視してきた私には、判断のつけようがない。
「……またね、お爺さん。びっくりさせちゃってごめんね」
雨に溶けて消えてしまうほどの小さな声で、私は呟いた。周囲に人がいたとして不自然に見えない程度に、真ん中の地蔵辺りへ控えめに手を振る。無論、お爺さん幽霊からの返事はなかった。
ひとりになると、怖くなってくるくらいに周囲が気に懸かった。念入りに辺りを見渡し、帰路に就く。
家の前に着くまで、今日はひとりきりだった。ハルキに絡まれずに済んだことにほっとしながら、私は溜息を噛み殺して玄関を開けた。