五月の中旬を過ぎると、天候のいい日がますます増えた。新緑眩しい通学路の途中、学校に向かうときも帰るときも、私はつい児童公園の東屋を確認してしまう。
 私にユウは見えない。けれど、もしユウがあの場にいるなら、ユウには私が見えるはずだ。毎日、登校時にも下校時にも東屋をちらちらと覗いている私が。
 声をかけてくれているかもしれないと思うと同時に、それではユウがあまりに不憫だとも思う。いたずらに傷つけてしまわないよう、このところは意識して公園の前を足早に通過している。

 ユウのシーツに記載されていた文字を思い出す。
 市立病院という文字の前には、ふた文字分くらいの、潰れて読めなくなった文字が記されていた。具体的な病院名――市立病院なら市名だろうか――の表記があったのだと容易に予想がつく。
 ユウはどこの街で暮らしていたんだろう。この街で出会ったから、この街に縁があると勝手に思い込んでいた。けれど冷静に考えれば、まったく関係ない場所に住んでいた可能性もある。

 嫌になる。
 知ったような顔をしていながら、私は、ユウについてなにも知らない。


   *


 ユウを自宅に招いた日曜から数日が経ち、木曜。
 花梨が体育の授業中に怪我をしたと聞いたのは、昼休みだった。

 四時限目、花梨のクラスは体育で球技をしていたそうで、その最中にボールが彼女の頭を強打したという。床に伏せてしまった花梨を見て、体育教師がすぐに救急車を呼んだらしい。体育館内は一時騒然としたそうだ。
 噂は瞬く間に私のクラスにも届き、私は目を剥いた。救急車で運ばれただなんて、よほどひどい怪我なのでは……悪い想像ばかり膨らむ。
 いても立ってもいられなくなったけれど、私にはなにもできない。抜け殻のような精神状態で午後の授業を受けたから、内容は碌に頭に入らなかった。帰宅してからも、花梨のことで頭が埋め尽くされていた。

 そして、翌朝。
 朝のホームルームで、担任が開口一番に切り出した。

『昨日、体育の授業中に、四組の岸田 花梨さんが怪我をしました』
『頭を打ったそうで、何日か入院すると連絡が入っています』

 囁き合うクラスメイトの声が、大きくなったり小さくなったり、まるでさざ波のように私の耳を揺らす。昨晩なかなか寝つけなかったせいで重くなった頭が、鈍く痛んだ。その重さをずるずると引きずったまま、すべての授業をなんとか受け終えた。
 雨でもないのに二日連続でひとりぼっちの下校になってしまった、それより花梨は大丈夫なのか――寂しさと心配が綯い交ぜになった気持ちで廊下を歩いている途中、通学鞄の中でスマートフォンがぶるぶると震えた。
 慌てて手に取ると、メッセージの通知が表示されている。急いで開くと、絵文字やらスタンプやらで賑わしい、花梨らしいメッセージが目に飛び込んできた。

『昨日から検査ばっかりで疲れたぁ!』

 命に別状はないと聞いていたものの、文面の呑気さについ噴き出してしまう。
 ひとまず、花梨がスマートフォンを手に取れる環境にあることは分かった。安堵が胸に広がる。

 ……お見舞いには行ってもいいだろうか。メッセージのやり取りだけでは、花梨が実際にどんな状態なのか、判断がつかない。元気な感じは伝わってくるけれど、本当は深刻な状態かもしれない。それを花梨に直接訊くのはさすがに憚られた。
 昇降口へ向かっていた足を止め、踵を返し、私は職員室を目指した。
 目当ての教師は、四組の担任、細谷(ほそや)先生だ。「失礼します」と職員室の扉を開け、細谷先生を探す。きょろきょろと室内を見渡し、先生の姿を見かけた私は、足早に彼の傍へ歩みを進める。

「……あの。細谷先生」
「おや、楠本さん。どうしたの?」
「ええと、急にすみません。怪我をした岸田 花梨のことで……」

 珍しいものを見る様子で、細谷先生は眼鏡の奥の目を丸くした。
 花梨の見舞いに行ってもいいかと尋ねると、彼はようやく合点がいったという表情で頬を緩めた。

「ああ、楠本さんは岸田さんと仲がいいもんね。実は岸田さん、検査の予定がかなり入ってるみたいでね」
「え……そ、そんなにひどいんですか?」
「ああ、いやいや。頭を打ってるからね、ご家族が細かく検査を申し込んでるらしいんだ」

 不穏な返事に思わず身構えたけれど、相手の反応はさほど硬くない。
 細谷先生が「週明けに四組の何人かで見舞いに行くから、楠本さんも一緒に行くかい?」と声をかけてくれたから、私はその誘いに乗ることにした。

 職員室を出たちょうどそのとき、スマートフォンがまた震えた。画面を確認してみると、やはり花梨だった。しかも通知は一件ではない。
 相当に暇を持て余していると見た。苦笑しながら、取り急ぎの返事を短く送り返す。
 なんにせよ、こんなやり取りができるくらいには花梨は元気なのだろう。朝よりも上向いた気分で、私は昇降口を目指した。


   *


 週明け、月曜。
 細谷先生と、四組の保健委員の女子生徒がふたり、それから私。四人で、花梨が入院している市内の病院へ向かった。

 花梨以外に親しくしている生徒は、四組には少ない。保健委員のふたりも、見覚えこそあれ、名前の記憶はあやふやだった。病院までの道中、細谷先生が運転する車の中で、彼があれこれとさりげなく振ってくれた話題や呼びかけがなければ、きっと今も曖昧なままだった。
 細谷先生は、気遣い上手だと生徒の間でも人気が高い男性教師だが、その理由の片鱗を垣間見た気にさせられる。

 病院へ到着し、花梨が入院しているという病棟へ向かう。フロアに到着してすぐ、細谷先生は手続きのためにナースステーションへ向かった。
 残る三人でフロアの談話スペースの端に立ち、先生の戻りを待つ。車に乗っている時点ですでに良くはなかった居心地が、いよいよもって悪くなってきたなと感じた頃、細谷先生と花梨の声が遠巻きに聞こえてきた。

「うわ、嘘ッ! んもー、皆で来るならそうって言ってくださいよぉ!」

 フロアの談話スペースに、花梨の悲鳴じみた声が響き渡る。
 ……元気だ。普段通りの花梨の様子を前に、保健委員のふたりと顔を見合わせ、噴き出してしまう。

「良かったよ、元気そうで」
「ええー、検査ばっかりで全然元気じゃないですよー! あっ、でもなんかすごいのに乗りました。寝っ転がってさ、大きい箱に入ってグイ~ンって回る……」

 検査の機械についてジェスチャーつきで説明する花梨は、いつになく興奮気味だ。
 細谷先生は露骨に苦笑いしていたけれど、お喋り好きな花梨がここ数日で強いられたストレスを思うと、私の胸はむしろ痛んだ。怪我そのものもつらいだろうし、家にも帰れず、話し相手も碌にいない。そんな状況が楽しいものだとは、私には思えない。

 話の途中で、細谷先生が「ご両親と話してきますね」と席を外した。保健委員のふたりも、「ジュース買ってくるね」と言い残し、談話スペース内の自動販売機に足を進めていく。
 強引に見舞いに同席してまで花梨に会いたがった私に、気を遣ってくれたのかもしれない。ふたりに感謝を覚えつつ、談話スペースの窓側の席に、花梨とふたりで腰かけた。

「びっくりしたじゃん……ねぇ、頭なんて死んじゃうかと思うじゃん……」
「いやいや、先生も親も大袈裟なんだよ。大ごとになってからだとマズいからって検査ばっかりでさぁ」
「無事で良かった……全然無事じゃない気もするけど……」
「無事だよ! ていうかホントに暇なんだよ、早く家に帰りたい!」

 しんみり話している私こそ入院患者のようだ。
 溜まったストレスを一気に吐き出すかのような勢いで喋る花梨に相槌を打ちながら、元気そうだな、とまた思う。同時に、微かな――本当に微かな違和感を覚えた。

 花梨の喋り方、髪型、表情、服装……どれだ。
 なにかが妙に引っかかる。思わず目を凝らし、花梨をじっと見つめてしまう。

「それでね、この服も。検査のときってこれじゃないと駄目っぽくて。言い方悪いけど微妙じゃない、これ?」

 見せつけるように袖を指で摘んで強調した花梨の、その袖口に視線が留まる。
 ……病衣だ。ドラマか映画で何度か見た覚えのある、前開きの病衣。違和感が増殖する。つい最近もこれと似た柄を見た。薄緑と薄橙、パステルカラーのチェック柄――そこまで考え至って、はっとした。
 そうか。ユウのシーツの内側に見えた病衣の柄と、よく似ている。

「ん? どしたの叶生?」
「っ、あ……ううん。なんでもないよ」

 静かな談話スペースに、花梨の声はよく響く。
 談話スペースは私たち以外無人というわけではなく、患者や、見舞いに訪れた家族と思しき数人が、テーブル席で新聞を読んだりテレビを見たりしている。そのうちの何人かは、花梨と同じ病衣を着ていた。おそらく入院している人たちだ。

 心臓が激しく高鳴る。もしかして、ユウはこの病院に入院していたのだろうか。
 いや、断定するにはまだ早い。病衣のデザインがどのくらいあるのかなんて想像もつかないけれど、私の目にはどこの病院の病衣も似て見える。同じ、あるいは似た病衣を扱っている病院が複数ある可能性だってある……だが。

「……生? おーい、叶生ー?」

 ぐるぐると考えを巡らせていたところ、不意に呼びかけられ、唐突に我に返った。
 よほど心ここにあらずといった顔を晒してしまっていたのか、向かいに腰かけた花梨が心配そうに私の顔を覗き込んでくる。

「っ、あ……ごめん、なに?」
「先生たち、そろそろ帰るって。あたしも病室に戻るね」
「そ、そっか。うん」

 慌てて周囲を見渡すと、エレベーター前に集まる細谷先生たちが見えた。
 病衣のことでいっぱいの思考を強引に振りきり、私はテーブル席から立ち上がる。「すみません、今行きます」とエレベーター前の先生たちへ声をかけ、そちらに足を進めていく。
 花梨もエレベーター前まで来てくれた。病人の癖に見送りだなんて、気を遣わなくていいのに――申し訳ない気分を覚えていると、花梨がおもむろに口を開いた。

「叶生。ありがと、来てくれて」
「う、うん。ひとりで来ていいのか分かんなくて、細谷先生にお願いしちゃった」
「ああ、なんか心配かけちゃったね。先生たちにも」

 花梨は困った顔でそう呟いて、その声が寂しそうで、それはそうだよなと思う。
 先ほど話しているとき、花梨は自分の病室が個室だと言った。今からまた、花梨はひとりぼっちの病室に戻るのだ。身体は想像していたよりつらくなさそうだけれど、だからこそ、退屈はより大きく今の花梨に圧しかかっているに違いない。
 エレベーターに乗り込む私たちへ、花梨はドアが閉まるまで手を振ってくれていた。花梨が早く退院できますように、と真剣に願う。あとどのくらいで退院できるのか、後で細谷先生に訊いてみなければ。

 そんなことを考えながらも、花梨の病衣が、瞼の裏側に焼きつくようにして残ってならなかった。
 早くユウに伝えなければ。でも、週間天気予報ではしばらく晴れのマークが続いていた。雨が降らない限り、私はユウになにも伝えられない。
 帰り道、細谷先生は、私たち三人をそれぞれの自宅前まで送り届けてくれた。車の中で四人、ぽつぽつと話をした気がするのに、どの内容も碌に記憶に残っていない。次の雨はいつだろう、私の頭の中はそればかりで飽和状態だった。

 花梨の見舞いに行った帰りに、他のことで頭をいっぱいにしている。これでは花梨に失礼だ。
 チリチリと焦げつくような罪悪感を抱えながら、玄関の前で、私はそっとこめかみを押さえた。