あした天気になあれ

 「この……」なんでしたっけ、と青園は呟いた。「部活もどきを始めようと思ったきっかけはなんなんです?」

 「本当、ないよ」と押村さんが答える。「ただなんとなく、のんびりするだけの部活があればいいのになあって思ったの。それをこの副部長もどき――に高野に話したら、部活を立ち上げるにしても受理されなそうだし、部室も用意してもらえないだろうねって話になってね。そうしたら高野が面白いこと言い出したんだよ。それなら、部活もどきを作ってみればいいんじゃないかって」

 「本当にそれだけで作ったんですか」と青園は呆れたようだった。それに対して、「そうだよ」と、爽やかに返す押村さん。

 「でも、面白そうでしょう?」

 「どうでしょう。部員も集まるのか……」

 「集まるんじゃなくて集めるんだよ。まあ、ある程度集められたら自然と集まってくるかもしれないけどね」

 「なんでわざわざそんな大変なことするんですか」

 「だって、面白そうじゃん。実際、面白いし」

 「他の人にもあんな風に声を掛けるんですか」

 「そうだよ」と即答する押村さんに、「やめた方がいいですよ」と青園も同じように返した。「気持ち悪いですもん」と。押村さんは困ったように笑った。否定はできない、と言う声が聞こえてくるような笑い方だった。

 「で、高野山先輩はなんでこんなことしてるんです?」

 「こんなことって言った」と押村さんが苦笑する。「てかなんで高野だけ先輩認定されてんのよ」と唇を尖らせて声を上げる。

 「やっぱり先輩っていうのはカリスマ性が必要なんで」とへらへら笑って見せると、「高野のどこにカリスマ性なんかあるのよ」と飛んできた。

「だってさ」と言う押村さんに、おれは「もう死んでるから」と降参のポーズをとる。「スライムに必殺技使わなくていいんだよ」と。
 「おれは、押村さんに声掛けてもらってね」と、おれは青園に答えた。「それで、なんか面白い感じになって、なんとなく」

 「揃いも揃って行き当たりばったりなんですね」

 「おれたちが計画練って動くように見える?」と、おれは苦笑しつつ肩をすくめた。

 「ねえ、とせちゃんのこと教えてよ」と押村さんが言った。

 「とせ?」と嫌な顔をする青園へ、「ちとせちゃんでしょう?」と押村さんは当然のように言う。「私はテディって呼ばれてるんだ、くまのぬいぐるみが好きだから。好きに呼んで」と。

 「いえ、押村先輩でいいです」と言う青園に、押村さんは聞いたかと言わんばかりにおれを振り返った。見事なまでのどや顔を見せつけてくる。「うんうん、押村さんはカリスマだよ」とおれは言った。押村さんは満足げに青園の方を向き直る。

 「誕生日は?」と押村さん。

 「六月二十六日」

 「おっ!」と押村さんが声を上げる。「聞いたか高野!」とこちらを振り返る。「六月二十六日だって!」と。

 「……なんかすごいの? 押村さんの好きな芸能人と同じとか?」

 「違うよ。私たちの誕生日は?」

 「……三月十三日。……あっ」

 「そうなんだよ! 三と十三を倍にすると、六と二十三になるんだよ!」

 奇跡だ、と押村さんは叫んだ。

 「私たち、三月十三日生まれなの」

 「さっき聞きました」と青園は冷めている。

 しかし押村さんは不思議な人だ。どうして、おれだの青園だの、関わるとこう面倒そうな人に自ら突っ込んで行くのだろう。疲れるだけではないか。単に誰とも分け隔てなく接せる人なのか、敢えておれや青園のような人を選んでいるのか。前者ならともかく、後者ならどうしてそんなことをするのだろう。

 「ね、ね、奇跡だと思わない!?」と話す押村さんの姿を眺めていても、おれにはなにもわからない。
 「好きな食べ物は?」と楽しそうな押村さん。

 「りんごのゼリー」と、嫌々といった様子の青園。

 「苦手な食べ物は?」

 「……魚卵系。あの、問診かなんかですか、これ」

 「押村さんの儀式みたいなものだよ」とはおれ。青園はため息をついた。

 「好きな飲み物は?」と、押村さんは当然のように続ける。

 「……ストロベリーティー」

 「へえ、そんなのあるんだ。苺の紅茶ってこと?」

 ええ、と青園は短く頷く。

 「へええ。面白いなあ」一拍置いて、「苦手な飲み物は?」と尋ねる。

 「酸っぱいの。梅とかアセロラみたいな。……あの本当、なんの面接ですか」

 まあまあ、と言って、押村さんは「趣味は?」と質問を続けた。けれどそこで、青園の顔つきが変わった。いけないことを訊いた、とは、おれも押村さんもすぐにわかった。そして押村さんも、おれと同じように、時すでに遅しとか後の祭りとかいう言葉の残酷さを再認識したはずだ。

 「ピアノです」と答えた青園の声は、思いの外しっかりしていた。「でも今は弾いてません」と言う声も同じだった。

 おれが見たせいか、目の前の押村さんが見たのか、青園は「これは関係ありません」と、サポーターのようなものが巻かれた右手薬指を、左手で包むようにした。

 「特技ならありませんよ」と青園は話した。食べ物や飲み物の好き嫌いに続いて趣味を尋ねたものだから、次は特技だろうと考えたのだろう。意外と、他者に気を遣うタイプなのかもしれない。
 窓から見える、空の黒を包んだ白い月光に照らされた緑の草。青白い光が綺麗だった。

 綺麗なものを描きたかった。美しいものを描きたかった。けれど、あたしは穢れている。墨のような、煤のような、こすっても落ちない汚れにまみれている。

 「普通に――」。誰かの声が、耳の奥で蘇る。いやに強調された“普通”という言葉が、全身を握り潰すようにしながらぐるぐると巡る。あたしは普通じゃない。綺麗じゃない。……だから、美しいものなんて描けない。

 トンネルに響く音のように、“普通”、“普通に”と言う声が耳の奥で繰り返される。耳を塞いでも、目を閉じても、声は拭えない。

 ああ、もう、うるさいな――。

 わかったよ。わかってるよ。あたしは普通じゃない。穢れてるよ、汚いよ。わかってる。言われなくたってわかってる。美しい月の光が、誰に言われなくとも美しくあるように、あたしだって、あんたに言われなくたって汚いんだ。

 普通に、普通にと繰り返す姿形のない声に、瓶を投げる。それは当然、声を攻撃するより先に、壁に当たって砕け散る。もったいないと思う。筆を洗うための瓶。ジャムや蜂蜜が入っていたものだったり、店で買ったものもある。

もったいないと、思う。だけど、こんなうるさい音でも聞いていなければおかしくなりそうなんだ。瓶は誰にも当たらない、どれも壁や床に当たって砕け散る。そして、中の色水が部屋を汚す。それを確認して、ここは現実なんだと、ここには誰もいないんだと言い聞かせる。あたしは一人だ、あたしは一人だと。ここで本当に聞こえるのは、瓶と色水が散る音だけなのだと。

 けれど、声は尚も続ける。普通に、普通にと。

 ――ああ、なんて悍ましい――。

 喉が、叫ぶように鳴った。下手な笛のように。

 「黙れっ」

 投げつけた瓶が、壁や床に当たるのとは違う音を鳴らした。耳の奥が、頭の中が静かになって見てみると、イーゼルは倒れ、色水に汚れたカンヴァスのそばに、瓶が落ちていた。ああ、あたしは本当に綺麗なものを作れないんだと再確認する。カンヴァスは油絵具を載せるためのもので、水彩画で使った、色水の入った瓶を投げつけるためのものではない。
 この部屋にいて、喉が痛くないのが珍しく感じる。

 綺麗な月を描きたかった。綺麗な月の光に照らされる、青い植物を描きたかった。――ああ、そうか。

 おれは部屋を見渡す。いつものように、散らかっている。壁や床には色水が弾けていて、その下にガラス片が散らばっている。目を覚ました、というわけではないからか、直前のことを妙にはっきりと覚えている。瓶を投げた感覚、その瓶がガラス片と化す音。けれど、どうしてあんなことをしたのかはわからない。ただ、どうしようもなく混乱していた。苛立ちとも恐怖ともつかない強い感情をどうにかしたくて、瓶を投げていた。

 部屋を片付けなくてはと立ち上がった時、「黙れ」という言葉が頭をよぎった。そんな言葉を、さっき、言った気がする。……でも、誰に。――わからない。誰に対して、あんな強い感情を抱いたのだろう。あれはどこかに、恨みや憎しみのような色を孕んでいた。

 そんな風に思う人なんていただろうかと考えて、当然のことを思い出す。おれは限りなく“おれ”であって“あたし”とは少し、あるいは決定的に、違う。決して他人ではないけれど、限りなく他人に近い。“おれ”が“あたし”を理解するのは、簡単なことではないのかもしれない。
 壁のスイッチで点けた照明は、暗がりに慣れた目には眩しくて、真夏の太陽のようだった。しばらく手で目元を覆い、少しずつ目を慣らしていく。

 改めて見る部屋は酷い有り様だった。これを無意識にやってしまうのだから、自分が恐ろしい。彼女がこれを見たら、どんな顔をするだろう。怖がるだろうか、軽蔑するだろうか。

 ――彼女の名前はなんと言ったか。少し考えて、ふっと苦笑する。おれは知るはずもないのだ。おれは今日、彼女から逃げた。彼女に会うのが怖くて、“扉”を開けた。“扉”を開けると、時に氷が溶けるように少しずつ、時に冷房の利いた部屋から夏日の外へ出たように一瞬で、意識が変わる。今朝のおれは、そうしなければ自分を抑えきれないと思った。この世に存在しないはずの自分が存在する一日に、耐えられなかった。

 バケツと雑巾、ごみ袋を持って部屋に戻り、破片を集めながら考える。これから、どうすればいいのだろうと。おれは確かに、この世には存在しない。けれど、そんなおれを知った彼女に、近づきたいと感じてしまっている。
 『だめなの?』と声がした。少女の声だった。『ヒガキさんでしょ? 曜日の日に、生垣の垣って書くの。会いたいのに、会っちゃいけないの?』と。

 『そんなことできないよ。だって――』

 存在しないんだから、とは、男の声だった。

 『わたしは会いたいよ。日垣さんが好きだもん。大好き。一緒にいたいよ』

 『でも、おれにはそんなことできない』

 存在しないんだから、と、男の声。そうだ、おれは存在しないのだから。

 『どうして? 一緒にいられないの? なにも悪いことしてないよ、喧嘩もしてない。なのにどうして、一緒にいられないの?』

 『おれは……』

 お前もそうなんだよ、とは、言えなかった。お前も存在しないんだよ、なんて、声の主である“生きている”少女には、あまりに酷であると思えた。

 誰が?と、女の声がした。誰が好きなの、と。

 声は喋り続ける。誰か好きな人がいた。誰だ? 誰が好き? 誰が、誰が――。日垣さん、と答える少女の声に、違うと女の声が強く返す。違う、誰が好き?

 日垣さん、違う、日垣さん、違う――。声は回転するコインのように言い合った。

 うるさい、誰だ、なんの声だと考えた時、考えなくていいんだよと男の声がした。存在しないんだから、と。お前も誰だ、と考えるけれど、多分、おれの知らない人なのだろう。その声の主もまた、見方を変えれば“存在しない”のかもしれない。

 喧噪は、はっと息を吸い込む音を合図に、何事もなかったかのように消え去った。なにも考えられなくなって、床にぺたんと座り込む。右の足首辺りのズボンが冷えて、水に触れたんだとわかる。けれど、その足を動かす気力も、目の前の破片を集める気力も、なかった。少し休もう、と考えるより先に、体はそうした。なにも考えず、ただ一点を見つめて、けれどなにも見えない。視線の先にあるはずのイーゼルとカンヴァスは、頭に届かない。
 鏡の中の、今にも眠ってしまいそうな自分の顔から目を逸らして歯を磨く。今回も、休日は趣味に明け暮れた。写真を撮りに出掛けても散歩をしても本屋に行っても迷子には出会わなかったけれど、それなりに充実した休日だった。新しく買った本のせいで寝不足になるくらいには。

 鏡の中の目つきの悪い自分の顔を見やる。そう、それなりに充実した休日だった。それなりに。

 口をゆすぎ、スタンドに歯ブラシを戻す。その横には、ぺたんこになったハミガキの容器。貧乏性というか、けちくさいというか、残りの減ってきたハミガキとは毎度長い戦いになる。おれは最後の最後までなんとか絞り出そうとする。そんなことせずとも、すでに新しいものを買ってあるのに、だ。まだいける、まだ出る、と、必死に絞り出す。この一回分のために早く買うことになった一つのハミガキのお金で生地が買えると思ってしまう。

それで新しいブックカバーが作れる、栞も作れる。小物入れもペンケースも作れる。その時間の楽しみを想像すると、こういった細かいところにけちけちしだす。おれは至極平凡な男子高校生であって、進学を機に単身で上京したわけではないし、地方へ越したわけでもない。交渉するのも叱られるのも得意ではないので、アルバイトもしていない。日々、まじめにまじめに授業を受けるだけの高校生。それが、布地や端切れのためになけなしのハミガキを絞り出すのだ。
 校門をくぐったところで「やあ少年」と押村さんに肩を組まれ、「やあ少女」と応える。

 「朝なに食べた?」と押村さん。

 「目玉焼きトースト」

 「私お茶漬け。わさびと鮭フレーク」

 「おお、おいしそう」

 「おいしかったよ」

 押村さんはぐっと両手を突き上げて、息を吐きながらだらんと下ろした。

 「とせちゃん、今日もくるかなあ?」

 「どうだろうねえ。でもあれから二日続けてきてくれたし、なんだかんだで毎日きてくれるんじゃないの?……部活もどきって言って、休みの連絡も要らないみたいなこと言ってたけど、こない場合は放っておくの?」

 「どうしようねえ」と、押村さんは大した問題ではないかのように天を仰いだ。そのどこかに、不安のような恐れのようなものを感じるのは、おれ自身のものか、押村さんが秘めやかに感じているものか。

 「青園って、実際のところどんな人なんだろうね」

 押村さんは天を仰いだまま、少しだけ首をこちらに向けて、大きな目でおれを見た。「高野はどう思う?」

 「え?」

 え、じゃなくてと押村さんは笑う。「そのままの意味だよ」と言って、改めて空を見る。「高野自身はとせちゃんのこと、どんな人だと思うわけ?」

 「いや、別になんとも……」

 「そう?」

 「うん。なんで?」

 「いや……」ぽつりと、「そっか」と言って、押村さんは俯いた。

 その様子に尋ねたいことが胸の中に沸いて、言葉に直していいものかと悩んだ末に、「押村さんはどう思うの?」と口にした。

 「私?」

 「青園のこと」

 「私は……」そうだな、と押村さんは呟く。「うーん。友達になりたい人、かな」

 「……押村さんって、なんでそう、大変な道を選ぶの?」

 「大変? え、そんなかっこいいことしたっけ?」

 「なんか、おれにも声掛けてくれたし」

 「だって、友達になりたかったんだもん」

 「それって、大変じゃん」

 「そうかな。私は、仲良くなりたいなって思った人と友達になろうとしてるんだよ。……あれ、なんか改めて言葉にすると意味わかんないな」へへ、と彼女は笑う。

 「高野だってそうだよ。仲良くなりたいなって、友達になりたいなって思って、声掛けたんだよ」ははっ、と笑う。「こう言うとなんか逆ナンみたいであれだけどね」

 ああそうだ、と、押村さんは思い出したように言う。「高野、なんでそんなこと思ったの、とか訊かないでよね」

咄嗟に考えてしまったことを言葉に直されて、おれは苦笑する。

「友達になりたいなって思うのって、恋するのと同じようなものなんだから。恋をするのに意味も理由もないんだからね」

 「恋……」

 「そう、恋だよ恋」

 「そっか、恋か……」

 胸の奥に蘇る愛おしい笑みに、彼女は今、どこでなにをしているだろうと考えて天を仰ぐと、隣で押村さんが笑うのを感じた。