「着いたーっ」
駅を出て、思い切り伸びをする。電車は比較的空いていたけれど、頻繁に乗るわけではないので、やはり体が硬くなる。電車に乗ることが日常の一部、なんておしゃれな暮らしはしていない。
月に入って初めての土曜日。白のブラウスにデニムのオーバーオール、桃色のお財布ショルダーに足元は黒のスニーカー。髪の毛はヘアバンドでまとめている。一週間ぶりの買い物、一週間ぶりのおしゃれ。そう、たとえこれが、世間的には評価すべき点がなくとも、私にとってはおしゃれなのだ。
体中で楽しみが燻っている。――我が愛しのくまちゃんよ、今しばらく待っておれ。すぐに私がこの両腕で抱きしめてやろう。
押村明美、十六歳。平凡な高校生である。友達によく、「テディっておじさんみたい」と言われるけれども、ぴちぴちの十六歳、ジェーケーである。……こういうところがおじさん臭いのだとよく言われる。
くまのぬいぐるみを深く愛すのが、親しい友達にテディと呼ばれる所以。一時は、あまりにおじさん臭いという理由から「吾輩」とも呼ばれた。しかしあいにく、私は猫ではないし、他の言語を自由に使えるほど賢くもない。そもそもあの猫について、吾輩を一人称とすること以外、なにも知らない。
私は強く強く、地面を蹴る。くまちゃんとの素敵な出会いを求めて。
くまのぬいぐるみというのはどうしてああもかわいいのだろう。このお財布ショルダーに限らず、持ち物のほとんどにテディベアのストラップをつけているけれど、いくらあっても困らない。ベッドにもたくさんのぬいぐるみがあるけれど、まだ増えても困らない。
本当のくまはおっかねえぞ、というのは、父方の祖父の口癖のようなもの。父の実家は、ここよりも少し北にある田舎で、祖父はある日、森の中でくまさんに出会ったらしい。幸い、くまは数メートル先から数秒間、祖父を見つめただけで引っ掻きも噛みもしなかったらしいのだけれど。祖父は恐ろしくて堪らなかったらしく、なにかにつけて本当のくまは――と話す。
確かに、本当の――というか、野生のくまはおっかないだろう。けれど、ぬいぐるみはどうしようもなくかわいい。どうせなら大還暦を迎えてからであってほしいけれど、来たる永遠の時には、お腹の上で手を組むのではなく、両腕にくまのぬいぐるみを抱かせて、生花ではなくくまのぬいぐるみで囲んでほしいと思っている。
くま、くま、と心の中で思いつくまま歌にする。
「ああっ……」
今日はいい出会いがある気がする。この感覚が堪らなく好きだ。
自動ドアの前ですれ違った人が財布を落とした。それを渡してから店の中に入った。すぐ左手にある家電量販店の前で、福引の抽選会が開かれていた。そのそばでポケットティッシュが配られている。ティッシュを受け取って、勧誘を「今日は親が一緒じゃないので」と断った。
エスカレータで二階に上がり、当たりを見回す。進むべき方向がわかると、「えっ、明美じゃん」と見慣れた顔が二つ、近づいてきた。二人はそれぞれ水色と黄色のシャツワンピースを着ている。
「え、明美一人?」と二人は声を重ねる。
「うん。いやあ偶然だね。二人は?」
「お友達デート」と、衣類を黄色で揃えている志穂が、水色で揃えている真緒に腕を絡める。
「洋服見にきたんだあ」と真緒。
「仲良しだねえ、お揃いなんか着ちゃって」
からかうように言うと、「これ、偶然なんだよ」と志穂が笑う。
「一緒に買ったわけでもないしねえ」と真緒も続く。
「すごいねえ、そんなことあるんだ」
二人は学校でもずっと一緒にいるけれど、このように性格や感性がよく似ているから、互いに一緒にいやすいのだろう。
「で、明美は一人でなにしてるの?」志穂が言った。
「くまちゃんを探しにね」と私は答える。
「へええ、本当に好きなんだね」
「テディって呼ばれてるもんね」と真緒が笑う。「そうそう」と私も同じように返す。
「ところで、うちらこれからお昼食べるけど、よかったら一緒にどう?」と志穂。
「ええー、魅力的だなあ。なに食べるの?」
「まだ決めてないけど、やっぱりマークかなあって」
「ああ、まじかあ……」
ハンバーガーの誘惑。しょっぱいポテトフライに甘い飲み物――。実に魅力的だ。ただ、今日は素敵なくまちゃんとの出会いがある気がしてならない。昼食のために一目惚れしたくまちゃんを連れて帰れないなんてなったら切ない。
「いやあ、すっごい魅力的だけど、今日はいいかな」
「おいしいハンバーガーよりもくまちゃんが大切?」
「今日は素敵な出会いがある気がしてね」
じゃあデート楽しんで、と言って志穂の肩を叩いて、私は雑貨屋を目指す歩みを再開した。
店の前で、一つ深呼吸する。想像を上回る素敵な出会いがあった時に大声を上げないために。大丈夫大丈夫、くまちゃんはかわいいものだ、ああいうものなのだ、と自らに言い聞かせる。
よしっ、と顔を叩いて、ようやく店に足を踏み入れる。
手前の化粧用品や真ん中の文房具、バッグには目をやらず、一番奥のぬいぐるみの売り場へ直行する。バッグの売り場はこのあと覗く。いつもはないのだけれど、今回はくまのリュックがあるかもしれない。くまのぬいぐるみをそのまま背負っているようなリュックが。
ぬいぐるみの売り場には、猫やうさぎと一緒に、くまのぬいぐるみもたくさんある。その中で、最も好みの子を探す。そういった好みの子というのは、いつも、目が合うような、意識が自然とそちらへ引かれるような、不思議な魅力がある。今日はそんな子に会えるはずなのだが――。
実際、きょとんとした顔のくまちゃんふたりに惹かれ、私は迷わず会計に向かった。出費は三千円ちょっと。三百円のおつりが返ってきた。これでアイスクリームでも食べるか、自動販売機で飲み物でも買うか、あるいは安いものを探してイヤリングでも買うか。大事に財布の中に残しておくという選択肢もある。
――二択だなあ。
アイスか残しておくか。
「……よし」
アイスだ。マークでソフトクリームを買っていこう。マークの入っているフードコートはこの階だ。フードコートは三階にもあるのだけれど、そちらは随分とおしゃれな雰囲気で、高校生の握りしめたお小遣いと交換できるようなものはない。フードコートに限らず、三階は全体的に大人びている。バッグも洋服も装飾品も、一つと交換するだけで私の財布はすっからかんになるだろう。むしろそれでも、なに一つ手に入らないかもしれない。
思い切り、瓶を投げた。灰色の壁に当たると、ばかみたいに大きな音を立てて、中の色水を散らしながら、瓶は弾けた。次の瓶も、その次の瓶も同じだった。弾けた色水が、だらりと垂れる。
熱い。
「クソッ」
熱い――。
「ふざけんなっ、ふざけんな、ふざけんなっ」
体の中で、大玉の花火が散る。痛くて、熱い、暑い。
ガラス片をぐっしょりと汚しながら広がる、汚らしい色に濃く染まった水。実に不快だ。
「なんで、なんでっ……ふざけんなっ」
ああ、うるさい。どうしようもなく、うるさい。瓶が割れる音、中の色水が散らばる音。その一つ一つが、腹立たしいほどに、忌々しいほどにうるさい。ばかみたいに広がる音に腹が立って、瓶を投げる。また瓶が砕けて、中の水が散らばる。壁が、床が、どんどん汚れていく。
机に載ったナイフの柄を握り、カンヴァスに振り下ろす。布地の引き裂ける音が、自らの荒い呼吸に混じって鼓膜に触れる。
「ふざけんな、ふざけんなっ」
ふと、鼓膜に吐息のような不快感が現れた。
うるさい。「うるさいっ」うるさい。
頭の中に、大嫌いな声が響く。ああ、うるさい。
「黙れっ」黙れ、黙れ。――「黙れっ、黙れ、黙れっ」
うるさい、うるさい。
「黙れっ」
机に残った瓶を投げつけても、カンヴァスにナイフを振り下ろしても、黙れと言っても、頭の中は、声は静かにならない。
「黙れっ」
どうして――? 頭の隙間に割り込んでくる、見知った顔。
「黙れっ」
どうして――。女の、顔。
「黙れっ」
どうして、普通にできないの――? 身内の、顔。
「黙れっ」うるさい。
もっと――。
「黙れっ」
もっと――。
「黙れっ、黙れっ」
もっと、普通にできないの――?
「黙れっ――」
心臓が狂ったように脈を打ち、胸が、腹が、頭が、熱した大きな鉛球でも詰め込まれたように、重く、熱い。
ああ、聞こえない。瓶を投げても、カンヴァスにナイフを突き立てても、なにも聞こえない。瓶が砕け散る音も、中の水が色水が部屋を濡らす音も、ナイフがカンヴァスを引き裂く音も、なにも聞こえない。
どうしてもっと普通にできないの――?
「黙れ、黙れ、黙れっ」
ふと、強烈な痛みを伴いながら、特別熱い鉛球が喉に飛び込んできた。それを合図に、声が出なくなった。いや、出せなくなった。
――うるさい、うるさい。
頭が痛い。頭の中で、鉛球が形を変えながら大きくなっていく。ごつごつしたそれはあちこちへ飛び回って、乱暴に頭の内を叩く。ナイフを捨てて、髪の奥に手を入れて、鉛球に静まれと、鎮まれと念じる。
どうして普通にできないの?――なに、その目――また拗ねてるのよ――。
うるさい、うるさい。
もっと普通にしなよ――普通にしてればかわいいのに――だからその目はなに? この世のモノじゃないみたい――。
うるさい。
だから、どうして普通の顔ができないの?――その顔が、その目が、恐ろしくて仕方ない――ああ、なんて悍ましい――。わざとらしく肩をすくめて、両腕をさする女。
……ああ、ああ、わかったよ。わかったから、黙ってくれ。そうだよ、あたしは普通じゃない。
――どうしてそんな顔ができるの? どうしてどんな目ができるの? ああ、恐ろしい――。
だから、あたしは普通じゃないんだよ。みんなになんて言われても、こういう“恐ろしい”顔しか、“悍ましい”目しか、できないんだよ。……許してよ。
――いいから、普通にしてなさいよ――。
ごめんなさい、と、別の声がする。ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す。
ああ、うるさい。なに謝ってるんだよ、誰に謝ってるんだよ、なんで謝ってるんだよ。頼むから、静かにしてくれ。普通じゃなくていいから、この世のモノじゃなくていいから。愛なんて綺麗なもの、愛なんて優しいもの、要らないから。頼むよ、静かにしてくれ。一人にしてくれ。
酸素が入ってこない。袋の中に顔を突っ込んだかのように、吸っても吸っても、胸の奥が、体が、満たされない。喉の奥が、鉛球を抱えたまま空気を求めて、鳴いている。ごめんなさい、ごめんなさいと響く耳の奥に、その音が幽かに届いてくる。
息が吸えない。感覚の失せた指先が、なにかを求めて震えている。体の中で花火が爆ぜていたかと思えば、今は強い北風にでも吹かれているように寒くて、体が震える。
耳の奥はまだ、ごめんなさい、ごめんなさいとうるさい。
ああ、わからない。暑いのか寒いのか、風があるのか、ないのか。息が、吸えているのか、吸えていないのか。どこにいるのか、わからない。雲の中にでもいるように、辺りが白く霞んで、重力が働いていないように、自分がどうしているのか、わからない。ただ、喉の奥の鉛球だけが、強烈な痛みと熱を発している。
気が付くと、絵具の匂いがした。目を開くと、灰色に囲まれた部屋のあちこちが色づいていた。
上体を起こすと、少し咳が出た。喉が痛い。あまりの痛みに吐き気さえ催しそうで、反射的に口を覆った。しばらくそのままでいて、慎重に咳払いをする。そして唾を飲み込んだ。喉の痛みも違和感も残ったままだけれど、ほんの少し、楽になったような気がする。
口から手を離し、天井を見上げる。顔に触れたために、手の付け根と指先が濡れている。ああ、泣いていたんだと気づくと同時に、目が覚める前のことを思い出した。ああ、あんなことをしていたなと。
この体はどうも疲れやすい。あんな風に暴れれば、たちまち呼吸の仕方を忘れてぶっ倒れる。この体の持ち主――というのも違和感があるけれど――は、どうもその辺りのことを忘れがちだ。自分を抑えるのが苦手――というのも少し違う気がするけれど、とにかく頻繁に、この体に無理を強いる。
おれはゆっくりと立ち上がり、部屋を出た。まずは水を飲みたい。
部屋のすぐ左手に洗面台がある。その向かいにトイレ。
おれは洗面台の水栓を捻り、流れてきた水を両手に受けて、自らの手が不自然に鮮やかな色をしているのに気が付いた。
なんとなく残念な気持ちになりながらも、両手に溜めた水を流して、手を洗う。しっかり乾いてしまった絵具は簡単には落ちない。
しばらくもみ洗いして、なんとか落とした。
自然な色に戻った両手で水を受け、ゆっくり飲んだ。水が下りていく痛みに、また咳が出る。口の中に残った水か唾液かは、飲み込む勇気がなくて吐き出した。洗面台全体に水をかけて、水栓を捻る。
鏡に映った、絵具でまばらに汚れた顔。どうしようもなく、少女の顔。肌は貧血でも起こしているかのように白く、髪の毛も顔色を真似るように色が薄い。ひ弱そうな見てくれとは対照的に、体は至って健康だ。持病がなければ風邪もあまり引かない。そんな少女――己の、絵具に彩られた顔へ息を吹きかける。
さあ、お部屋のお掃除だ。
右手に水を張ったバケツ、左手に雑巾とごみ袋を持って、部屋に戻る。
灰色の空箱に籠った絵具のにおい、そこかしこに散らばるガラス片と色水、折れた絵筆、切り裂かれたカンヴァス、床に落ちたナイフ。改めて見回すと酷い有り様だった。窓の外が、妙に美しく見えた。草の柔らかな緑、花の淡い暖色、空の限りない水色。この部屋だけが、この空箱だけが、醜いまま春の芽吹きに置いていかれているかのように感じる。
一歩踏み出すと、カチャ、と音がした。視線を落とせば色水とガラス片が弾けていて、視界に入れた足の裏は、床の寒々しい色とは対照的な色を流していた。床に置いたバケツに雑巾を入れ、傷を床に当てないようにしながら移動する。
窓の向かって右にある、木製の古い机に載った箱からティッシュを数枚引き抜き、それを傷に押し当てる。左手でティッシュ押し当てたまま、右手で机の引き出しを引いて、絆創膏を取り出す。わざわざ伝えた人はいないけれど、この存在を知っているのはきっと、おれだけじゃない。おれは一人ではないのだ。
左手のティッシュをそっと離し、鮮血が滲むのを確認して、また押し当てる。幾度かそれを繰り返して、ティッシュが必要なくなった頃に、傷に絆創膏を貼った。そっと床に足をつけると、違和感はあるものの、問題なく歩けそうだった。この程度の傷には慣れている。
喉をくすぐる咳を、慎重に、極力小さく弱く、吐き出す。ガラス片を踏むのは慣れているけれど、喉の痛みばかりはどうも慣れない。
いつか、どうしようもなく痛むことがあった。その違和感に湧き上がる咳をいなすうちに、鉄の味がした。何事かと思っている間にも咳は湧いてきて、極力弱く吐き出すうちに、手のひらに鮮血が落ちた。唾も水も、飲み込めば経験したことのない痛みが走った。それに再び咳き込んで、手のひらに血を散らす。死さえ覚悟したけれど、直前の出来事を思い出して、体の力が抜けた。もしもこのまま意識を手放しても、それはやがて戻ってくるのだと理解した。
指を切らぬよう慎重に、砕けたガラスを集めていく。後できっと絵を描くから、指を怪我するわけにはいかない。絆創膏なんか貼ってあったら、痛みなんか残っていたら、集中できないだろう。
これだけ部屋を汚しても、喉を傷めても、この体は絵を描くことを諦めない。そうしたいと言うのなら、おれには、その背を押し、時に支える他、選択肢はない。おれはこの世には存在しない者なのだ、この体の邪魔になるようなことはしない。もっとも、今日もこうして、足に傷を作ってしまったのだけれど。
絵を描き始めたのはいつだっただろう。小学校中学年くらいだったはずなので、かれこれ──わからない。何度、こうしてガラス片を集めただろう。何度、こうして足の裏を切っただろう。数えてもいないし、覚えていない。これはもはや日常の一部で、意味も数も求めていない。お腹が空いているから食事を摂る、といった具合に、部屋がこうして散らかっているから片付ける。この世界に生まれたから生きる、といった具合に。おれはこの日常を繰り返す。
あれ――?
ふと思って、手が止まる。
この部屋が散らからなくなったら、おれはどうなるのだろう。普通の人間と同じように、普通の生き物と同じように、死ぬのだろうか。いや、死ぬこともできないかもしれない。おれには本当のところ、実体がない。普通に生きているクラゲでさえ、死んだら消えてしまうといつか知った。そういった存在とは違うおれには、死さえ訪れないのかもしれない。死にもせず、ただ、消えるのかもしれない。もしかしたら、どこにも、誰の中にも、なにも残さず。
アーチ型の窓から射し込む朝陽で目が覚めた。窓を縁取るように、壁に鎖のような縄模様が彫られている。その向かいの壁には絵画を飾っている。家具は白とくすんだ黄色で統一している。
ダマスク模様の彫られた、クローゼットの扉を開く。右端に掛かっているのは、女子の制服。それに嫌々袖を通すのは、ただ学校が好きじゃないからか、自分を女だと思っていないからか。
深い青のベルベット調のジャージをひんやりした床に脱ぎ捨て、ワイシャツを着る。ボタンは左、穴は右。
手すりを使わず、ベージュの絨毯が敷かれた螺旋階段を下りる。玄関の白い扉にある擦りガラスから、明るい光が入ってきている。玄関の白い石と、そこに置いてあるベージュの玄関マットを、柔らかく照らしている。
クロスの敷かれたダイニングテーブルには、すでに食事が並んでいた。暖炉の上の壁に掛かっているテレビでは、朝の情報番組が流れている。
「ロールパンとオムレツにしてみた」と母は楽しそうに話す。
「……親父は?」
「もう描いてる。面白いのが描けそうなんですって」
「……そうか」
腹の中に、嫌なものが、汚い感情が広がる。――妬ましい。
父は画家だ。個展を開いてはしばらく無職のように過ごす、というのを繰り返している。気まぐれな人だ。母はインテリアデザイナー。フリーランスで働いているが、毎日それなりに忙しそうにしている。父があんな様子なので、母はこれくらいでないと釣り合いが取れないのかもしれない。
席に着くと、「いただきます」と言ってロールパンを持った。一口、かじる。
この世の中に、自分のことが好きな人というのはどれほどいるだろう。俺は自分が大嫌いだ。どうしようもなく愚かだから。救いようのない愚か者なのだ、俺は。あまりに貪欲だ。なにかを手に入れたいと望んだかと思えば、それを持たない自分を求める。そんな自分を理解する度に、叫びだしたくなる。腹の奥に燻る怒りに似た感情を、そうでもしなければごまかせないのだ。そうして、少し吐き出しもしなければ。
「パン、硬かった?」と、正面の席に座った母が問う。「いや、大丈夫」と俺は答える。
「本当、朝に弱いよね」と彼女は笑う。
「学校なんて、なんのために行くんだろうね」
「うーん」と母は考えるふりをする。「そうねえ、その捻じ曲がった心をまっすぐに戻すためじゃない?」といたずらに笑う。俺は「そうか」と笑い返す。
ずっと前から、学校は大嫌いだ。どうしてあんな騒々しいところに行かなければならないのだろうと思う。どうしてあんな、不自由な場所に行かなければならないのだろうと。あそこでは自由な瞬間が一つもない。自由な場所もない。どこにいても近くに人がいる。人の声がする。それがどうしようもなく苦痛だ。
「ん、玉子おいしい」と母が満足げに言う。「味付けばっちりだよ」と言っては、「まあ、塩コショウだけなんだけどね」と自嘲気味に笑う。
俺も一口、オムレツを食べる。「うん、おいしい」と答えると、「ね」と母は笑った。