思い切り、瓶を投げた。灰色の壁に当たると、ばかみたいに大きな音を立てて、中の色水を散らしながら、瓶は弾けた。次の瓶も、その次の瓶も同じだった。弾けた色水が、だらりと垂れる。

 熱い。

 「クソッ」

 熱い――。

 「ふざけんなっ、ふざけんな、ふざけんなっ」

 体の中で、大玉の花火が散る。痛くて、熱い、暑い。

 ガラス片をぐっしょりと汚しながら広がる、汚らしい色に濃く染まった水。実に不快だ。

 「なんで、なんでっ……ふざけんなっ」

 ああ、うるさい。どうしようもなく、うるさい。瓶が割れる音、中の色水が散らばる音。その一つ一つが、腹立たしいほどに、忌々しいほどにうるさい。ばかみたいに広がる音に腹が立って、瓶を投げる。また瓶が砕けて、中の水が散らばる。壁が、床が、どんどん汚れていく。

 机に載ったナイフの柄を握り、カンヴァスに振り下ろす。布地の引き裂ける音が、自らの荒い呼吸に混じって鼓膜に触れる。

 「ふざけんな、ふざけんなっ」

 ふと、鼓膜に吐息のような不快感が現れた。

 うるさい。「うるさいっ」うるさい。

 頭の中に、大嫌いな声が響く。ああ、うるさい。

 「黙れっ」黙れ、黙れ。――「黙れっ、黙れ、黙れっ」

 うるさい、うるさい。

 「黙れっ」

 机に残った瓶を投げつけても、カンヴァスにナイフを振り下ろしても、黙れと言っても、頭の中は、声は静かにならない。

 「黙れっ」

 どうして――? 頭の隙間に割り込んでくる、見知った顔。

 「黙れっ」

 どうして――。女の、顔。

 「黙れっ」

 どうして、普通にできないの――? 身内の、顔。

 「黙れっ」うるさい。

 もっと――。

 「黙れっ」

 もっと――。

 「黙れっ、黙れっ」

 もっと、普通にできないの――?

 「黙れっ――」

 心臓が狂ったように脈を打ち、胸が、腹が、頭が、熱した大きな鉛球でも詰め込まれたように、重く、熱い。

 ああ、聞こえない。瓶を投げても、カンヴァスにナイフを突き立てても、なにも聞こえない。瓶が砕け散る音も、中の水が色水が部屋を濡らす音も、ナイフがカンヴァスを引き裂く音も、なにも聞こえない。

 どうしてもっと普通にできないの――?

 「黙れ、黙れ、黙れっ」

 ふと、強烈な痛みを伴いながら、特別熱い鉛球が喉に飛び込んできた。それを合図に、声が出なくなった。いや、出せなくなった。

 ――うるさい、うるさい。

 頭が痛い。頭の中で、鉛球が形を変えながら大きくなっていく。ごつごつしたそれはあちこちへ飛び回って、乱暴に頭の内を叩く。ナイフを捨てて、髪の奥に手を入れて、鉛球に静まれと、鎮まれと念じる。

 どうして普通にできないの?――なに、その目――また拗ねてるのよ――。

 うるさい、うるさい。

 もっと普通にしなよ――普通にしてればかわいいのに――だからその目はなに? この世のモノじゃないみたい――。

 うるさい。

 だから、どうして普通の顔ができないの?――その顔が、その目が、恐ろしくて仕方ない――ああ、なんて悍ましい――。わざとらしく肩をすくめて、両腕をさする女。

 ……ああ、ああ、わかったよ。わかったから、黙ってくれ。そうだよ、あたしは普通じゃない。

 ――どうしてそんな顔ができるの? どうしてどんな目ができるの? ああ、恐ろしい――。

 だから、あたしは普通じゃないんだよ。みんなになんて言われても、こういう“恐ろしい”顔しか、“悍ましい”目しか、できないんだよ。……許してよ。

 ――いいから、普通にしてなさいよ――。

 ごめんなさい、と、別の声がする。ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す。

 ああ、うるさい。なに謝ってるんだよ、誰に謝ってるんだよ、なんで謝ってるんだよ。頼むから、静かにしてくれ。普通じゃなくていいから、この世のモノじゃなくていいから。愛なんて綺麗なもの、愛なんて優しいもの、要らないから。頼むよ、静かにしてくれ。一人にしてくれ。

 酸素が入ってこない。袋の中に顔を突っ込んだかのように、吸っても吸っても、胸の奥が、体が、満たされない。喉の奥が、鉛球を抱えたまま空気を求めて、鳴いている。ごめんなさい、ごめんなさいと響く耳の奥に、その音が幽かに届いてくる。

息が吸えない。感覚の失せた指先が、なにかを求めて震えている。体の中で花火が爆ぜていたかと思えば、今は強い北風にでも吹かれているように寒くて、体が震える。

 耳の奥はまだ、ごめんなさい、ごめんなさいとうるさい。

 ああ、わからない。暑いのか寒いのか、風があるのか、ないのか。息が、吸えているのか、吸えていないのか。どこにいるのか、わからない。雲の中にでもいるように、辺りが白く霞んで、重力が働いていないように、自分がどうしているのか、わからない。ただ、喉の奥の鉛球だけが、強烈な痛みと熱を発している。