中身を一口飲んで、グラスをテーブルに置くと、静は「ごめんね」と呟いた。
「いきなり変なこと言って」
「全然。最近、家での時間が長く感じるから」
「楽しいんだ?」と静は顔を上げずにおれを見た。その様が愛らしい少女でしかないのは、静にとっては決して嬉しくないのだろう。彼は少年なのだ。本当のところは、この制服にも違和感があるだろう。
「明美って不思議な人だよね」
「本当に」とおれは頷く。
「高野山君と似てる」と静は言った。「笑っちゃうくらい優しい」
「いや、おれは優しくなんて……」
「優しいかどうかを決めるのは、高野山君じゃないよ。その周りの人だ。誰かが高野山君から受け取ったものに優しさを感じれば、その人にとって、君は優しい人なんだよ」
「……なんか照れくさいな……」本当に誰かが決めるのなら、それを否定するのもおかしな話だし、こうして受け取るしかないのだろう。
「でも、ちょっと嬉しい」
おれは押村さんに憧れのようなものを感じていた。ああ、彼女こそが優しい人だと思った。あんな風になりたいと思った。助けられないことなど考えず、手を差し伸べ、寄り添える、そんな人になりたいと思った。
「静に、敢えて厄介な形を取るって言われたのも、嬉しかった」
「へえ?」
「そんな風になりたいと思ってたんだ」
「明美みたいに」
ぎくりとすると、彼は笑った。「図星だ」と。
「まあ確かに、明美は優しいと思うよ。じゃなきゃ、親戚の中で浮いたおれのそばにいてくれながら、それを悔いたりしない。青園さんを部員もどきにしたのも、それが理由なんでしょ?」
「……多分」
「本当、変な人だよ。どうせあんな調子じゃあ、それが罪滅ぼしになるとも思ってないんでしょう」
「だろうね」
「そんな人がいたかと思えば、手を付けられないほど拗らせた人もいる。世の中、ちゃんと釣り合いが取れてるもんなんだね」
「押村さんみたいなのは珍しいと思うけどね」と笑うと、静は「おれはそんな人を他にも知ってる」と、まじめな目でおれを見た。おれはなんとか、「ばか」と声を絞り出す。
「こんな幸せな気持ちでいるのがばかなら、おれは一生ばかでいたいよ」と、静は明るく言った。「最高の気分だ」と。
「もう四月も終わりに近いね」と静は言った。「こんな感じで梅雨入りして明けて、気が付けば進路に追われるわけでしょう。高野山君は将来、どうするの?」
おれはため息をついた。「せっかく忘れてたのに」と。けれど、押村さんとよりはまともな話ができそうだ。
「どうしようかなあ。大学も辛そうだし、就きたい職業もないし……」
「せっかくいろんな趣味があるんだから、写真家とか料理人とかどう?」
「趣味だから楽しいんだよ、ああいうのは」
「小さい食堂でも開くとか。全品九百八十円とかにして、一見安く見せて釣り合いとってさ」
「なんかすげえ計算高い」
「これが商売ってやつよ」と静は片頬で笑う。
「心痛むよ、そんなの」
「そうでもしなきゃ、高野山君の体が傷むんだよ」
「ああでも、キッチンカーとかであちこち回るのは楽しそうかも。軽食っぽいのを、全品五百円にしよう。切りもいいし」
「五百円でどうやってガソリン入れるのさ。食材はどう手に入れる?」
「そこは、農家さんとかとうまく話しつけてさ。食材としては問題ないけど、商品にはできないみたいなのを安く売ってもらったりして」
静はくしゃくしゃと髪を乱した。「ああ……もう……。なんか見てて心配になるよ、高野山君は。お人好し過ぎて、人間に一番必要ななにかを忘れてる気がする」
「ええ、気のせいだよそんなの」
「でなきゃ一食五百円でやっていこうとか考えないよ」
「五百円も取れば充分でしょう」
大しておいしくもないだろうし、と言えば、静は瞬時にそれはだめだと首を振った。そんでワンコインじゃだめだと。
「でも、キッチンカーで日本一周の旅とか楽しそうだな」
「まあ、誰かアシスタントみたいなの連れてやることだね。そのうち絶対破綻するから」
「そうかなあ。足りなけりゃ他で働くよ」
「だったらあと二百円上げなよ」
「ええ……五百円玉はあるのに百円玉ないんだけどって時、そういうの見ると切なくない?」
「おれなら五百円玉二枚か英世さん出す」
「なんでそんなに持ってる前提なの」とおれは苦笑する。「持っててもそんなに使いたくない時あるでしょう」
「へええ。複雑なもんだねえ」
「買い物はそれとの闘いだよ」
なにせおれなんて、端切れ一枚のために限界までハミガキを絞り出すのだ。
「で、静はどうするの?」
「おれは……そうだなあ……。それまでここにいることがまず、目標かな」
「いられるよ」とおれは言った。自分でも驚くくらい、きっぱりと言った。根拠はないけれど、自信はあった。静は消えない、静はいなくならないと。
「絶対にいられる。だから、なにになりたい?」
静はふっと笑う。「根拠は?」
「おれがそう言えば、そうなるんだ」
静は一瞬驚いた顔をすると、みるみるそれを崩して、大きな口を開けると、はははと声を上げて笑った。華奢な腕が薄い腹を抱える。途中、ひいひい言いながら、その合間にお腹痛いと言った。「あっはは、いやっ……まじで最高だよ、高野山君。最っ高だっ」
「嘘じゃないよ」と、おれは本気で言った。「静は消えない」
実際のところは、おれの願望でしかないのかもしれない。けれどそれ以上に、静がいなくならないという自信があった。それさえおれの願望であると、自信を持っていたいというおれの願望であるとしてしまえばもうどうしようもないけれど、おれは自信を持って、静はいなくならないと言った。それもまた事実だ。
「静は、どうしたい?」と、おれは改めて問うた。
「でも、おれはやっぱりそういうの考えるべきじゃないよ」と静。「この体はおれのものじゃない。この体の人生はおれの人生を生きるためにあるんじゃない。この体には本当の持ち主がいて、その人が生きるためにあるんだ」
「“その人”が生きるために、静が必要だとしたら? それに、静こそが本当のその体の持ち主なのかもしれない」
静は困ったように笑う。「高野山君は、なんでそんなにおれに拘るの? 綸のこと、忘れたわけじゃないでしょう?」
「もちろんだ。でも、考えるとよくわかんなくなってさ……綸も静も、あるいはもっと他の人も、いなくなっちゃいけない気がするんだ」
「そうかあ?」と、静は軽い調子で笑う。「この夜久家の親に綸と名付けられたのはおれじゃない。おれに名前をくれたのは高野山君だ。その時点で、おれと綸は一緒にいるべきじゃないだろう」
「そう……なのかな……」
本当に、静はここにいてはいけないのだろうか。静もまた、綸の心の一部なんじゃないのか。おれにはそう思えてならない。だから、静がいなくなってしまえば、綸は心の一部を失くすことになる。それで、綸は綸として在れるのだろうか。
――お前はこの世界のことを理解していないからそんなことが言えるんだ、と言われてしまえば、それまでかもしれない。おれは綸の一部でも静の一部でもない。同じように、世界の住人でもない。そのために、本当に理解することなんてできないのだから。
「でも」と、静は穏やかな声を出した。「もしもおれが将来を描いてもいいなら、高野山君と日本一周、してみたい。高野山君が破綻しないように見ていたい。それがだめなら、もうなんだっていい。なにも要らない」
「……そっか。じゃあ、やろうか。キャンピングカーで日本一周」
「え、本気?」
「本気。静と一緒ならきっと楽しいから」
「おれの気が変わるかもしれない」
「それならそれでいい」
彼の言う“気が変わる”というのはきっと、それまで自分がいられないかもしれないということだろう。それなら――。
「おれの中の静と一緒に、行ってくる」
静は美しいものでも見たように、目を大きくした。
「静は、絶対に消えない。いなくなったりしない」
ああ、こういうことじゃなかったのにと思いながらも、これもまた事実だ。おれは静を忘れない。今この瞬間も、綸に恋をしているように。
静の色の薄い虹彩が、疑うように、探るように、揺れる。
「おれは……おれは、なにか残せるのか? 本当に、どこかに、なにか残せるのか……?」
「おれと会ってくれた時点で、おれの中には静との時間が残る。……残らないわけないだろ」消せるわけがないだろう。
「おれは……おれ、……そうか……」
生きてるんだもんな、と、静は音もなく涙を流した。彼は洟を啜ると、深く項垂れて、存在を確認するように自分を体を抱いた。「そうか……そうか」と。
「そうだよ」
静は、生きている。この世に、生きている。
お茶を飲んで、将来のことを話して、冗談を言い合って、お茶を飲んでと過ごした。部屋の扉を開けた時に感じた仄かな甘い香りにも、くすんだ白と黄色で統一された女性らしい家具にも、すっかり慣れていた。今ここには、男二人、おれと静だけがいる。
「本当に、高野山君と二人で旅ができたらいいな。綸とも上手くやっていってさ。綸に嫉妬されない程度、しない程度に交代、なんてやって」
そんな風に生きていけたらな、と、静は大窓の外を見た。手入れの行き届いた綺麗な庭が一望できる。ささやかな家庭菜園ができる程度の小さな庭にしか親しみのないおれには、それは異世界のようにすら感じられる。
「しかし広い庭だね。大型犬ですら、放してあげれば散歩が要らなそう」
「それは大げさでしょう」と静は笑う。
「家族が一斉に帰宅すれば渋滞するような庭しかないおれからすれば、ここはドッグランだよ」
「芝生だしね」と言う静に、「芝生だし」と頷く。
「庭の手入れは誰がしてるの?」
一泊置いて、彼は「母さん」と答えた。自分の母親という感覚が薄いのかもしれない。
「部屋だか建物だか、そういうデザイナーやってるんだよ。フリーで」
「へえ、フリーなんだ」そういった仕事をしていることは綸に聞いていたけれど、フリーランスとは初耳だった。
「そう。そんで園芸も趣味なもんで、ちょくちょくいじってる」
「へええ。うちの母親は観葉植物枯らすような人だからさ。そういうの、羨ましい」
「観葉植物……部屋に置いておくやつでしょ、え、あれって枯れるの?」
「枯れるんだよ。育てる人によっては」
「まじか……」と呟く静に、おれは「そうなんだよ」と返す。
十七時を少し回ったところで、おれは静の部屋を出た。
玄関で「レモンティーすごいおいしかった」と伝えると、静は「おれが淹れたんだから」と、慣れないように笑った。
「よかったらまたきてよ」
「うん、また誘ってよ。……くれぐれも冗談では誘わないようにね。まじでくるから」
「おお、それは嬉しい」と静は笑う。
「また明日、学校で」と手を振って、「またね、高野山君」と微笑んだその静の顔が、よく遊んだ頃の綸によく似ていて、胸が震えた。
「どうした?」と困った顔をする静へ、「なんでもない」と笑い返す。「また」と手を振ると、「おう」と同じように返ってきた。背後で、そっと扉が閉まる。
中庭へ向かう途中の廊下、押村さんと青園が、数メートル先で揉めている。
「タッたー、ですよ」
「たっター、でしょう」
「いや、なんで最後上がっちゃうんですか。せっかく綺麗な曲なのに、途端に土臭くなるんですけど」
「いや訛りとかじゃなくて。てか誰が田舎くさいじゃ。いや違う違う、実際、あの曲はたっター、なんだって」
「おかしいじゃないですか。盛り上がりに盛り上がって、最後すっと音が落ちるのがいいのに。なんで最後微妙に上げるんですか」
「そういう曲なんだってば」
「嘘つけよ、ダサすぎでしょ」
「おいこら、こんでも私先輩だぞ」
ふんっ、と青園が嘲る。「たかだか一年くらいで」
「一年の差はでかいぞ。私が歩いてる頃に、とせちゃんはおぎゃあだもん」
おぎゃあおぎゃあ、と挑発する押村さんに、「うるせえ、田舎者が」と青園。「残念でしたあ」と押村さんも引かない。「私は生まれも育ちもここなんですう」
「うわ、そう見えないんですけど。明らかに土のに匂い混じってますよね」
「芽吹きの香りと言ってくださる? 土は生命の源よ」
「どっちかっていうと水の方がそういうイメージなんですけど」
「ねえ」と、おれの隣を歩く静が言った。「びっくりするくらい論点ずれてるよね。なにについて話してるの、あの人たちは」
「なーんだろうねえ」とおれは首を傾げる。「まずはなんかの曲っぽかったよね。最後で音が上がるとか下がるとか」
「だよね、そう思ってるのおれだけじゃないよね」
「うん」
「それが今、なんだって?」
「生命の源がどうとか」
「土とか水とかね。間に一年の差がどうのとかも入ってた。……で、音楽は?」
「演奏、終わったんじゃない?」
「そういうことでいいのかな」
「そう……思いたい」
「わかる」と頷く静へ、おれも「わかる」と頷いた。そして同時に笑うと、二人がばっとこちらを振り返った。反射的に表情を直し、静と一緒に歩みを止める。「こーっわ」と静が苦笑する。「わかる」とおれは頷いた。
「あっ、いたいた。間に合ったー」と女子の声がして振り返ると、日垣が走ってきた。おれと静の後ろで足を止め、膝に手をついて弾んだ息を整える。顔を上げると、「あれ?」と前の二人を見た。
「どうしたの、この険悪な雰囲気?」と言うので、「わかる?」と静と声を重ねると、「わかる」と日垣は頷いた。「やばいっしょ」と言うおれに、「十秒後には撃ち合いでも始まるんじゃない?」と静が続いて、一緒に笑うと、日垣は「いや本当、どうしたのあの二人?」と小さく笑った。
「たっターだって言ってんじゃん」、「いや、だから――」と、前の二人が議論を再開するのが聞こえる。
中庭に出ると、日垣は「なんの話ー?」と、押村さんと青園と合流した。おれは静と二人、ベンチに腰を下ろす。
「明美も、面白いもの作ったよね」
「本当だね」
静と一緒に振り返ってみると、「日垣ちゃんまで裏切るの⁉」と押村さんが声を上げた。
「押村さん、大分感じ変ったよなあ」
何気なく呟くと、静は「そうなの?」とおれを見た。
「前はもうちょっと静かな感じだったんだけど」とおれは苦笑する。
「高野山君と一緒だったからじゃないの?」と静は言う。「人って、一緒にいる相手によって変わるものだから」と。
「いや、八方美人みたいなことじゃなくてね。ちょっとした話し方とか、表情とか、そういうのって変わるじゃん」
「そうなのかなあ」
「ああ、高野山君は変わんないか」と、静は苦笑するように言う。
「本当、高野山君には傷つかないでほしいよ」
「……静は、傷ついてばかりだもんね」
「ああいや、そんな意味で言ったんじゃなくて」
「わかってる。そんなことが言えたなら、静はそんなに苦しい思いしてないはずだから」
でも、と、静は正面を向いて、俯いた。
「助けを求めるって、難しいよね」
「うん、そうだね」
静のような人には、難しいだろう。
「自分が助けを求められるほど苦しんでるのか、わからない。もっと苦しんでる人がいる中、助けを求めるのは気が引ける」
おれは思わず笑いそうになった。「静だって、うんと優しいじゃん」
「そんなことない。びびりなんだよ」
「……そうなの?」
「怖いんだ。助けを求めた時、お前に構っている暇はないと、手を掴んでくれる人がいないのが。助けを求めた時、誰にも気づかれないことが。それなら最初から、なにも求めない方が気楽じゃないか」
「……そうかもしれないね。だけど、誰かしら見つけてくれるよ」
「それまで待ってるのか?」そんなばかな、と静は力なく笑う。「そんなことしてたら溺れちゃうよ」
はあ、と静は息をつく。柔らかな青色をした空を見上げる。それから、おれを見た。「世の中にいる人がみんな、高野山君だったらいいのに」
「中身のない世になるね」
「そう?」
「多分ね」とおれは笑ってみた。
静の部屋で、二杯のレモンティーを挟んで静と向かい合う。まったりと流れる沈黙が心地いい。
「高野山君には、怖いものってないの?」ふと、静が言った。
「うん……ないこともないよ」
おれは、静がいなくなることがどうしようもなく怖い。静の生きている“世界”が壊れてしまうのが、堪らなく怖い。世界が壊れてしまったら、静はどうなる? 静がいなくなってしまえば、綸はどうなる? なにより、静のいない“世界”を認めた時の自分が怖い。静がいなくなるというのは、言わば親友が死ぬようなものだ。そんな事実に、耐えられる自信がない。
「おれはね、結局のところ……ていうか、今は……」
言葉が止んで、おれは静を見た。唇をきゅっと噛んでいる。
「高野山君がいなくなるのが一番怖い」
ふっと、笑ってしまった。「いなくなんかならないっしょ、おれは」
「高野山君が、全部くれたんだよ。名前も、誕生日も、ある意味では、命だってそうだ」
おれは小さく息を吸ったけれど、大げさだよ、と笑い飛ばすのは違うと思った。声には直さず、密かに吐き出す。
「消えるのが怖くなったのは、高野山君に会ったからなんだってわかった。高野山君に、高野山君から貰った名前を呼ばれなくなるのが、それが聞こえなくなるのが……」
「……おれも、怖いよ。『最高だ』って、静が笑ってくれなくなるのが。名前を呼んでくれなくなるのが。中庭で、話ができなくなるのが。あそこ、周りみんな女子だからさ。静といるのって気楽なんだよ」
「……神様は、許してくれるかな。この世界に必要なくなった時、この世にいないおれを」
「静はいるよ。この世に生きてるんだよ。だからおれと話してる」
「そうだよね」と、静は力なく笑う。「うん、おれは生きてる。昨日だって確認したんだ。高野山君に名前を貰った日にも確認した」
なあ、高野山君、と言う静へ、おれは手を伸ばす。静が生きていることを伝えたい。静がここにいることを、伝えたい。
「きて」と伝えると、静はおずおずと手を差し出した。おれはそれを強く掴んだ。それを両手で包む。少し冷えているけれど、温度がある。生きている証。掴んだ瞬間の微かな震えもまた、彼が生きていることを示していた。
「あったかい」と、静は言った。おれは何度も頷いた。
「この世にいない人が、そんなことを感じられる? 静は生きてるんだよ。この世に存在してる」
確かに、戸籍はないのかもしれない。その上では、夜久綸でしかないのかもしれない。けれど彼は、確かにこの世で生きていて、今、ここにいる。おれの手に、その手が触れている。そしてそれを感じている。これがこの世に存在しないことになるのなら、どうすればこの世に在れるだろう。
「大丈夫。静は静だよ。ちゃんと生きてる」
大丈夫、と、何度も言った。静がここに生きていることを、静自身に伝えたかった。
遅れて中庭に現れた静は、シャツの上に灰色のパーカーを着ていた。手元はポケットに隠れている。
「お疲れ」と声を掛けてみれば、「お疲れ」と返ってきた。
「綸?」と、おれの後ろから押村さんが言う。「どうかした?」と。
「明美ってばずるいぞー、高野山君とそんなくっついちゃって」と静は女の子らしく言う。
「高野山君はあたしのなんだからね」と言う静に、「知ってる。高野は綸にぞっこんだもん」と言う押村さんを「まじで⁉」と振り返ると、「やっぱりそうなんだ」と意地悪に笑われて、「くっそ」と呟く。わざわざ言わなかっただけで隠そうと思っていたわけではない、と自分に言い聞かせる。ただ、青園と日垣に知られたのは恥ずかしい。
押村さんのそばにいる青園が、しつこく背中を叩いてくる。ああ、わかってるよ。静になにかあったんだ。
隣のベンチの隅にこちらを向いてどかんと座り、細長い脚を組む。「今日はなにをするの、部長もどき?」と口角を持ち上げるその様子から、その人が静ではないことに気が付いた。あの日の少女だった。
背後から恐怖に似た感情を感じる。青園が背中を叩くのも止んでいるけれど、それが日垣から発せられるものだと、なんとなくわかった。自分の中に湧き上がるそれとは、少し感じが違う。