私は居ない。
小さく縮こまった自信なさげな少女の背中が見える。少女は身動きひとつしないように体中に力を込めており、暗い表情で俯いて机の上に置かれている教科書の文字を凝視している。
このまま人形のように一ミリも動かずに椅子に座り続けよう、と少女は固く決意していた。
しかし、たった今、ノートの上に乗せている両腕を動かしたくなる。今すぐ動かして耳を塞ぎたい。そう思ったからだ。今日だけではなく毎日だ。四方を壁に囲まれた狭いこの空間でみんなの賑やかな笑い声が響く度に、少女は耳を塞ぎたいと思ってしまう。
でも、そんなことしたら絶対に駄目だ。私という人間が存在してしまうから駄目なんだ。私は居ないんだから。少女は自分にそのように言い聞かせながら、体中に強く力を込めて必死に動かないようにした。
「瀬川さん」
突然、自分の名前を呼ばれて少女はとても驚く。慌てるあまりビクリと肩を震わせるのと同時に右腕も大きく動かしてしまった。しまった。派手に動いてしまった。今までの苦労が全部水の泡だ。存在してしまった、と少女はひどく落ち込む。そうじゃなくて早く返事しなきゃ! とハッと気づいたが咄嗟に声が出ない。授業が開始してから、一言も言葉を発していなかったからだろうか。
つい先程、少女の名前を呼んだのは担任の先生である。二十代の女性教師で返事をしない少女のことを怪訝そうに見詰めている。女性教師だけではなく、クラスメイトのほぼ全員が少女に視線を注いでいた。嫌だ嫌だ嫌だ。みんなが私を見てる。早く返事しなきゃ、と焦りながらもふと気づく。先生が名前を呼んだってことは私はまだ消えてないんだ、と。
まだこの世に自分が存在しているという事実は、少女にとっては喜ばしいことではない。
今、この瞬間に、跡形もなく、この世から消えてしまえたらどんなに楽だろう──。毎日、学校にいる間は特に、心の底からそう願っているからだ。
「瀬川さん?」
女性教師が返事すらしない少女に対して、一回目とは違って僅かに苛立ちの滲んだ声で呼びかける。女性教師が苛立ち始めたことに気づいた少女はパニックになった。早く返事しなきゃ! まず「はい」って返事しなきゃ!! 鼓動が早鐘を打ち始め、一気に呼吸がしづらくなる。ノートの上に置いていた両腕は無意識の内に膝の上に動かしていた。両手をギュッと握りしめており、手と手の間は汗が滲み始めている。少女は恐る恐る口を開いた。
「はい」
そうして懸命に絞り出した声は高く震えており、羞恥心で顔がじんと熱くなった。そんな中でも、少女は何とか頑張って女性教師に当てられた問題の答えをはっきりと言う。
どうか正解していますように、と密かに願っていたのだが、少女の解答は間違っていた。多分、異常なほど緊張していて授業にあまり集中できていなかったからだろう。
教室中にクラスメイトの笑い声が響いて、少女は耐えきれずに俯いた。恥ずかしくて悔しくて情けなくて、頬や耳が真っ赤に染まる。身体中まで熱くなってきた。鼓動の音がドッドッドッと激しくなる。
……苦しい……嫌だ……助けて……神さま、お願い……ああきっと、美里ちゃんたちも笑ってるんだろうなぁ……。少女は泣きそうになりながらも、何とか顔を上げて美里の方をちらりと見た。
やはり、少女の予想通り美里は笑っていた。馬鹿にしている事が明らかな、見るだけでゾッとするような冷たい笑顔だ。やっぱり、美里ちゃんは私のことが嫌いなんだ、と確信した少女は哀しい、遣る瀬無い気持ちになった。見るのが辛くて、視線を美里から別の場所に移した次の瞬間、少女は思わずハッと息を呑む。
何で……? 心の中で嘆くようにそう呟いたのは、少女が密かに好意を寄せている男子生徒まで、美里の隣の席で楽しげに笑っているのを目撃したからだ。
「華那!」
少女ではなく、現在は高校二年生の瀬川華那は、聞き馴染みのある声で長い悪夢から覚めたかのように我に返った。
ゆっくりと顔を上げると、深緑の黒板が正面に見える。深緑が殆ど見えないくらい、数字や文字が白と黄色のチョークで書かれていた。華那はどろっとした重苦しい息を深く吐き、それから、今しがた自分の名前を呼んだ声の主に返事をしようと振り返った。
小さく縮こまった自信なさげな少女の背中が見える。少女は身動きひとつしないように体中に力を込めており、暗い表情で俯いて机の上に置かれている教科書の文字を凝視している。
このまま人形のように一ミリも動かずに椅子に座り続けよう、と少女は固く決意していた。
しかし、たった今、ノートの上に乗せている両腕を動かしたくなる。今すぐ動かして耳を塞ぎたい。そう思ったからだ。今日だけではなく毎日だ。四方を壁に囲まれた狭いこの空間でみんなの賑やかな笑い声が響く度に、少女は耳を塞ぎたいと思ってしまう。
でも、そんなことしたら絶対に駄目だ。私という人間が存在してしまうから駄目なんだ。私は居ないんだから。少女は自分にそのように言い聞かせながら、体中に強く力を込めて必死に動かないようにした。
「瀬川さん」
突然、自分の名前を呼ばれて少女はとても驚く。慌てるあまりビクリと肩を震わせるのと同時に右腕も大きく動かしてしまった。しまった。派手に動いてしまった。今までの苦労が全部水の泡だ。存在してしまった、と少女はひどく落ち込む。そうじゃなくて早く返事しなきゃ! とハッと気づいたが咄嗟に声が出ない。授業が開始してから、一言も言葉を発していなかったからだろうか。
つい先程、少女の名前を呼んだのは担任の先生である。二十代の女性教師で返事をしない少女のことを怪訝そうに見詰めている。女性教師だけではなく、クラスメイトのほぼ全員が少女に視線を注いでいた。嫌だ嫌だ嫌だ。みんなが私を見てる。早く返事しなきゃ、と焦りながらもふと気づく。先生が名前を呼んだってことは私はまだ消えてないんだ、と。
まだこの世に自分が存在しているという事実は、少女にとっては喜ばしいことではない。
今、この瞬間に、跡形もなく、この世から消えてしまえたらどんなに楽だろう──。毎日、学校にいる間は特に、心の底からそう願っているからだ。
「瀬川さん?」
女性教師が返事すらしない少女に対して、一回目とは違って僅かに苛立ちの滲んだ声で呼びかける。女性教師が苛立ち始めたことに気づいた少女はパニックになった。早く返事しなきゃ! まず「はい」って返事しなきゃ!! 鼓動が早鐘を打ち始め、一気に呼吸がしづらくなる。ノートの上に置いていた両腕は無意識の内に膝の上に動かしていた。両手をギュッと握りしめており、手と手の間は汗が滲み始めている。少女は恐る恐る口を開いた。
「はい」
そうして懸命に絞り出した声は高く震えており、羞恥心で顔がじんと熱くなった。そんな中でも、少女は何とか頑張って女性教師に当てられた問題の答えをはっきりと言う。
どうか正解していますように、と密かに願っていたのだが、少女の解答は間違っていた。多分、異常なほど緊張していて授業にあまり集中できていなかったからだろう。
教室中にクラスメイトの笑い声が響いて、少女は耐えきれずに俯いた。恥ずかしくて悔しくて情けなくて、頬や耳が真っ赤に染まる。身体中まで熱くなってきた。鼓動の音がドッドッドッと激しくなる。
……苦しい……嫌だ……助けて……神さま、お願い……ああきっと、美里ちゃんたちも笑ってるんだろうなぁ……。少女は泣きそうになりながらも、何とか顔を上げて美里の方をちらりと見た。
やはり、少女の予想通り美里は笑っていた。馬鹿にしている事が明らかな、見るだけでゾッとするような冷たい笑顔だ。やっぱり、美里ちゃんは私のことが嫌いなんだ、と確信した少女は哀しい、遣る瀬無い気持ちになった。見るのが辛くて、視線を美里から別の場所に移した次の瞬間、少女は思わずハッと息を呑む。
何で……? 心の中で嘆くようにそう呟いたのは、少女が密かに好意を寄せている男子生徒まで、美里の隣の席で楽しげに笑っているのを目撃したからだ。
「華那!」
少女ではなく、現在は高校二年生の瀬川華那は、聞き馴染みのある声で長い悪夢から覚めたかのように我に返った。
ゆっくりと顔を上げると、深緑の黒板が正面に見える。深緑が殆ど見えないくらい、数字や文字が白と黄色のチョークで書かれていた。華那はどろっとした重苦しい息を深く吐き、それから、今しがた自分の名前を呼んだ声の主に返事をしようと振り返った。