「……〝彼女〟のもとへ向かっているんですね?」

 公園を出てしばらく何も話さず歩いていると、不意に浄御原が口を開いた。
 本当にこの女はどこまで俺のことを知っているんだろう。
 そう。実はあの時〝俺〟を痴漢呼ばわりした女を知っている。

 大宝 珪(おおとみ けい)

 俺のバイト先であるファミレスのホールスタッフの一人だ。
 彼女は既婚者の店長と不倫している。
 俺はキッチン担当だが、暇な時間帯に二人が隠れてキスしているところを見てしまったことがあるし、仕事が終わった後に二人でホテルに入っていくところを見かけたこともある。
 何故俺が彼女の居場所を知っているのかというと、先輩の送別会でベロベロに酔った彼女を一度だけ家まで送ったことがあるからだ。

 もちろん、何もしていない。
 店長と不倫していたことは知っていたし、普段から『フリーターはニートと変わらない』だの『お先真っ暗のアラサー』だの散々言われていたから、好きではなかったしな。というより大嫌いだ。
 まぁ同じ部屋に住んでいて同じバイトをしているとは限らないが、行ってみる価値はあるだろう。
 ココの〝俺〟が彼女を知らなかったのは、会社を辞めた後そのままニートになってしまったからなんだろうと思う。

「ココの〝俺〟は嵌められたのかもしれない。確証はないがな」
「お前は嘘をついているから、被害届を取り下げろとでも言うつもりですか? まぁ彼女の素性を知っていれば、そういう考えに行きつくのは当然かもしれませんが。でもリスクも高いですよ」

 彼女が言うことは最もだ。
 冤罪とは言え、痴漢の加害者が被害者に会いに行くわけだ。自首しにいくも同然である。
 ましてや、〝俺〟は一度逃げてしまった。
 万が一〝俺〟が嘘をついていて、冤罪ではなかった場合言い逃れはできない。

「ただ話をしに行くだけだ」
「そうですか、分かりました。ですがその前に一つだけ。少しだけ考えてみて下さい。彼女がそれに至った経緯を」

 浄御原の言う真意までは分からない。
 だが、彼女が大宝をかばっているわけではないことは分かる。
 そして同時にある一つの可能性が頭を過った。
 ココが大宝にとってどんな世界であるかを。



 彼女のアパートに向かい10分程歩いていると、途中俺のバイト先であるファミレスに差し掛かる。
 少し、窓越しに覗いてみることにした。
 午前中ということもあり、暇そうだ。

 最近のファミレスは営業時間を短縮する傾向にあるが、俺の店舗は未だ24時間営業を貫いている。
 通常、平日のこの時間帯は店長と俺の二つ下のフリーターが入ることが多いのだが、どうやら店長は非番のようだ。
 いや、まさかな……。
 先ほど過った可能性が再び脳裏に浮かぶ。


「着いたぞ。お前は死角に隠れていてくれ。コスプレでも見た目警察のヤツがいたら話がややこしくなる」
「分かりました。では近江さん、ご武運を」

 とうとう着いてしまった。
 できれば、もう来たくはなかったが。
 彼女の部屋の前につき、息を整えチャイムを鳴らす。

「……何しにきたん?」

 髪の繊維が悲鳴を上げているであろうほどに明るい、ベージュ系ハイトーンカラーのセミロングへア。
 およそ飲食店勤務にはそぐわない長く伸ばされた爪やまつ毛。
 どこか人を蔑むような瞳。
 見慣れているとはいえ、この姿を見るとやはり少し怯んでしまう。
 それにしても何だ、その第一声。
 この一言で確信した。
 コイツは俺をハメやがった!

「てか、まだ捕まってなかったん? 防犯カメラにも逃げてるところ(・・・・・・・)、バッチリ映ってるし、被害届も出したからその内捕まるよ」
「大宝、取引をしないか?」

 さてここからは探り探りだ。

「はぁ? 何? 取引って。意味わかんない。つかなんでアタシの名前知ってんの? キモいんだけど」
「こっちにも色々事情があんだわ。お前にとって悪い話ではないから聞く価値はあると思うぞ」
「痴漢野郎から聞く話とかないんだけど」
「痴漢ねぇ……。被害者の証言でほとんど決まっちまう便利な言葉だよな」
「……何が言いたいん?」
「まぁ何も言わずに、まずはこれを見てくれ」

 俺は手持ちのスマホの画面を大宝に見せた。

「は!? ナニコレ!? なんであんたがこんな写真持ってんの!?」

 俺は元の世界線でコイツが店長とホテルへ入っていく姿を証拠写真として押さえていた。
 何かの時に役に立つと思い撮っていたが、まさかこんなカタチで活躍するとは。
 我ながら性格が悪い。
 とは言え、ホテルから出るところの写真もなければ、証拠としては認められにくい。
 しかし、飽くまで交渉の材料だ。
 それにコイツの短絡的な性格を考えれば、これでも十分効果的だろう。

「お前が被害届を取り下げるなら、この写真を店長の奥さんに送らないでやる」
「……こんなん取引じゃなくて脅しじゃん」
「痴漢の示談金なんてどんなに取れても100万程度だ。不倫が原因で離婚なんてことになっちまえば慰謝料で300万以上請求されるケースもある。おまけに子持ちだった日には養育費も上乗せだ。ちょっと考えればどっちが利口かわかるだろ」
「……そんなん知ってるし」

 そうか。やはりか。

「言いたきゃ言えば!? 何あんた偉そうに! 不倫なんかとっくの昔にバレてるっつーの! だから今その慰謝料とかで大変なんじゃん……」

 店長がこの時間帯に店にいないのを見て、もしやとは思ったが、やはり大宝は最悪の結末を迎えていたようだ。
 元々、俺が店長の奥さんに垂れ込みをしようがしなかろうが、不倫なんてバレるときはバレる。
 しかし参った。これで俺が切れるカードがなくなった。

「だからってな……。そこまでするか? 何がお前をそうさせてんだよ」
「そんなの好きだからに決まってんじゃん!」

 俺の問いに大宝は食い気味に答えた。

「店長、会社の就業規則に触れるからって遠くの店舗に飛ばされちゃった。息子さんもまだ小さいらしくて養育費もあと10年以上払わなきゃいけないんだって……。あの人は『全部俺の責任だから君はいいよ』って言ってくれたんだけど、アタシがさ……、アタシがいけないからさ。せめて慰謝料は全額アタシが払いますって言ったんだ」
 
 そうか。
 大宝は大宝なりに罪悪感を感じているというわけか。

「でもアタシ、バカだからさ。大金提示されてどうしたらいいか分からなくなっちゃった……」
「だからあんな行動に出たのか。クソ迷惑な奴だな」
「関係ないあんたを巻き込んじゃったのも悪かったと思ってる……。ホントにごめんなさい。でもアタシだってどうすれば良いか分かんなかったの! アタシが間違ってることなんて最初から分かってるよ!」

 泣きながら必死に訴える彼女を見て、俺は何故か何も言えなかった。
 なんとも身勝手で醜くて無様で最低で、真っ直ぐな姿だろうか。

「アタシさ……、初めてだったんだ。こんなにバイト続いたのも仕事が楽しいって思えたのも」

 それから大宝は、自身の過去について話し始めた。
 彼女は新卒で入った会社を3ヶ月で退社後、職を転々とし、現在のファミレスに辿り着いたらしい。何でも仕事が続かない理由は人間関係、だそうだ。
 やはりというべきか、この性格では無理もない。
 その高圧的な態度が災いして、どの職場でも馴染めなかった彼女にとって、一から丁寧に仕事を教えてくれる店長の存在は新鮮だったようだ。
 頼りになる兄と、出来が悪いが放って置けない妹のような二人が本気になるまで時間はかからなかった。何ともまぁ、ありきたりな馴れ初めだ。

 また、彼女が元の世界線で俺にやたらと突っかかってくる理由も分かった。
 彼女の父親はとある法律事務所の雇われ弁護士、所謂〝イソ弁〟だったらしい。イソ弁にとって、〝ボス弁〟と呼ばれる事務所経営者との関係は生命線だ。
 というのも、弁護士は独立してナンボの仕事とは言え、最近の業界は中々シビアだ。十分な開業資金とコネクションがなければ、やはりリスクが高い。家族持ちなら、なおさらだ。

 だからこそ、ボス弁に切られないよう色々と気を遣うため、ストレスも凄まじい。何というか、弁護士も本質的にはサラリーマンと変わらんな。
 大宝の父親が抱えていたストレスの矛先は家族へと向かった。平たく言うと、彼女と母親はDV被害に遭っていた。彼女の物心がついた頃には、既に自分や母親に対して乱暴を働いていたと言う。彼女にとって、弁護士という職業は一種のトラウマなのだ。
 まぁ要するに、俺が嫌いというより単純に弁護士という人種が嫌い、ということだろう。思えばそういった家庭環境の歪みが、彼女の性格をつくり上げていったのかもしれない。

 話がだいぶ逸れた。
 さてここからどうするか。正直、打つ手がない。
 次の交渉カードを決めあぐねていると、あの鬱陶しい声が聞こえた。隠れてろって言っただろ。

「大宝さん、話は聞かせてもらいました」
「は!? えっ!? 警察!? まさかあんた通報したの!?」

 何回やるんすか、このやり取り。

「いや、そいつは警察じゃなくてだな……」
「大宝さん、提案があります」
「……何だし」
「あなたの罪、チャラ(・・・)にしませんか?」

 浄御原の言葉の意味を悟った俺は、すかさず彼女を制す。

「ちょっ!? お前、何考えてんだっ!?」
「私は本気ですっ! 代わりに〝近江さん〟への被害届を取り下げていただきますが」

 彼女の勢いに俺はたじろいでしまった。

「……それって、どういうこと?」
「詳しくお話します」

 浄御原は平行世界や俺たちの現状、特典について詳しく説明した。

「ふーん、あんたらもその平行世界から来たんだ?」
「まぁそうだな。向こうでは一応バイト仲間だから、お前の名前も知ってんだよ」
「あっそ。全っ然信じらんないだけど。ただのストーカーじゃないの?」
「それが普通だ。あとストーカーじゃないから通報とかホント勘弁して下さいお願いします」
「今更そんなことしないし」

 フフっと微笑を浮かべながら、彼女は言った。今日一番やわらかい声だった。
 不覚にも可愛らしいと思ってしまった。
 見た目の派手さとは裏腹に、彼女は本来素朴な女性なのかもしれない。

「では大宝さん、いかがでしょうか?」
「いらない」
「「へ?」」

 俺と浄御原は、仲良く間の抜けた声を上げてしまった。

「いらないって言ってんの」
「理由を聞いてもよろしいでしょうか?」
「結局、それって向こうの〝アタシ〟に迷惑がかかるってことでしょ。嫌だよ、そんなの。だってさ……、向こうの〝アタシ〟は今幸せかもしんないじゃん」

 果たして、彼女はこれまで幸せだったのだろうか。
 結局のところ、彼女の幸せのカタチは彼女にしか分からない。

「あとさ。アタシこれから警察行く。被害届を取り下げるんじゃなくてさ、ちゃんと嘘だったて言うよ」
「そうですか……」
「あんたたちと話してちょっと冷静になれたし。バカなことしたって気づいた。それにさ……、もうこれ以上自分を嫌いになりたくないよ」

 俺は何もしていない。
 彼女が勝手に気づいただけだ。というより、ただ見て見ぬ振りをしていただけで、初めから気づいていたのかもしれない。

「わかりました。それでは、」
「それはやめとけ」

 浄御原の話を遮り、俺は大宝に語り掛けた。

「どうしてさ? やってもいない痴漢の示談金払ってくれんの? それともあんたが慰謝料肩代わりしてくれるわけ?」

 笑いながら冗談めいた雰囲気で大宝は言った。

「死んでもゴメンだね。そうじゃなくてだな、被害届を取り下げるだけにしとけって言ってんだ」
「どういう意味?」
「虚偽告訴はそれなりに重罪だ。万が一お前がムショ入りなんかしちまったら、誰が多額の慰謝料稼ぐんだよ」

「……やっぱあんた変だわ」

 そう言ってクスっと笑った彼女は、素直に綺麗だと思った。
 きっと店長には初めからこの顔を見せていたのだろう。

「あんた弁護士目指してるんだっけ? まぁせいぜい頑張んなよ! アタシはあんたも弁護士も大っ嫌いだけど!」
「俺の方がもっと嫌いだよ。余計なお世話かもしれんが、もう道踏み外すなよ」

「うん……、ありがとう」

 こうして俺たちは被害届の取り下げを約束させ、彼女の部屋を後にした。
 これで良かったのだろうか。
 今回、俺は彼女の虚偽告訴を見逃してしまった。
 この件の被害者は間違いなく〝俺〟と、店長の奥さんだ。
 だとすれば、味方をするべきはこの両者であり、大宝ではない。
 だが俺は、結果的に言えば一番の加害者にある意味加担してしまったことになる。
 全く……。最低な気分だ。

「良かったですね。誤解が解けて」
「そうだな」

 そう言えば何故浄御原はあの時、特典を引き換えにしてまでこの世界線の〝俺〟を救おうとしたのだろう。

「んで、これからどうするんだ? 結局ココには殺人鬼の〝俺〟はいないんだろ?」

 思えばとんだロスタイムだ。
 この世界線の〝俺〟の疑いが晴れたところで、俺自身に何か大きな影響が及ぶことはないのだろうから。

「世界線と世界線の移動には、手引きが必要です。分かりますね?」

 はぁ、やはりか。
 二度目だ。覚悟は出来ている。

「……分かってる、頼むからちょっとは手加減してくれよ」

 俺は歯を食いしばり、浄御原に頬を差し出した。

「近江さん、少し屈んでくれませんか?」
「おう……、このくらいか?」
「はい、ありがとうございます。それでは」

 そう言うと浄御原は殴るでもなく、俺の耳元で何かを囁き始めた。
 ん? え? ちょっ、ちょっと待て!? え!?
 コ、コイツなんで俺のクローゼットに眠っている秘蔵のコレクションのタイトルを知ってやがるんだ!? しかも一字一句違わず!
 俺は目の前が真っ白になった。
 出会って間もない、しかも見た目だけで言えば上等と言って差し支えない女性に自分の性癖を知られる。
 どうやら、俺が意識を手放すには十分な理由だったようだ。