「あなたは……、陣海(じんかい)さん!?」

「はい……、お疲れ様です」

 久慈方さんの部下だろうか。
 焦点が定まっているかすらも際どい半開きの目、フラフラと安定しない体幹。
 右腕に抱えたこれでもかというほどに分厚い書類ファイルは、疲れ切った彼の体を右に左に振り回している。
 彼もまたこの渦中において、体を酷使せざるを得ないのだろう。

「えっと……、そちらの方は?」

 彼は値踏みするかのような視線を此方に向ける。
 心底俺を警戒している、ということは伝わった。

「そうですね……、簡単に言うと協力者(・・・)さんですかね」

 まぁ、間違いではないが。
 確かに現状詳しい素性を明かす理由も時間もないだろうから、無難と言っちゃ無難な表現だな。

「そうですか。申し遅れました。理事長秘書の陣海 治(じんかい おさむ)と申します。宜しくお願い致します」

「あっ……、近江 憲です。宜しく」

 俺が名乗ると、陣海さんは目の色を変え俺の肩に掴みかかってきた。

「近江っ!? あなたは確かに近江 憲さんなんですか!?」
「そうだが……」

 陣海さんはおもむろに抱えていたファイルのページをめくり始め、ある場所で手を止めた。
 穴が空く勢いで中の書類を凝視したかと思いきや、その次には書類と俺の顔を何度も往復し始めた。

「理事長っ! 少しよろしいですか!?」

 彼は久慈方さんを引き寄せ何やら耳打ちを始めた。

「っ!? それは、本当ですか……」
「はい……。ご確認下さい」

 そう言うと、彼は手持ちのファイルを押し付けるように久慈方さんに渡した。
 彼女もそれに応じ書類に目を移すと、彼と同じように俺の顔を二度見、三度見とする。
 その後じっくりと書類を読み込んだ後、ボソッと力なく呟く。

「間違いありません……」
「……何かあったのか?」
「近江さん、あなたには辛い選択をしていただくことになりそうです……」
「どういう意味だ?」
「そうですね。まずはこちらをご覧下さい」

 久慈方さんに促されるまま、俺はファイルを手に取った。
 開かれているページに目を向ける。何かの名簿であることに間違いない。
 そこには俺の顔写真に名前、生年月日、そして敢えて見たいとは思わない経歴が羅列してあった。

 何々? 

 〝新卒で入った会社を退職後、弁護士を目指すも司法試験に3年連続不合格〟

 〝現在、ファミリーレストランのキッチンアルバイトで生計を立てているが、日々の出費に追われ万年金欠状態〟

 うるせぇ! ほっとけ。
 第三者に悪意を持って書かれた履歴書を読まされているような気分になるが、事実であることに変わりない。
 その他、ご丁寧にも飛鳥との一件や心因性健忘症を患ったことなども事細かく記載してあった。

「で、これが何だっていうんだ? 誠に遺憾ながら俺のことで間違いないが……」
「そうですか……。実はそのファイル、メジャーの特典保持者の情報を纏めたものなんです。歴代も含めてですが」
「そ、そうなのか?」

 もう一度ページを確認する。
 良く見るとページの右上に〝未〟という文字が記載されている。
 恐らく、特典の使用状況についてだろう。歴代の保持者も含まれているらしいからな。
 他にも特典が付与された日付や担当者の名前なども書かれている。
 後は……、〝パラレルメイト〟? 何だこれ? この欄にもアイツの名前が書かれているが。

「なるほど。自分が本流と言うのは正直驚いた。だが、それが何だって言うんだ?」
「ここからが重要です。次のページを開いていただけますか?」

 次のページ? 状況を把握できないまま、恐る恐るページをめくった。
 目に飛び込んだ光景を前に、一瞬思考が止まる。
 確かな意志を感じさせるキリっとした切れ長の目。
 そのキツめの印象を和らげるかのような丸みを帯びたダークブラウンのボブヘア。
 名前の欄に踊る〝浄御原 律〟という文字。
 それらを先ほどの享保との一連のやりとりを頭の中で照らし合わせる。
 ここ数日の記憶と空白の4年間が点と点で繋がり、疑念は確信に変わった。

「思い、出されましたか」
「あぁ……。おかげでトラウマ完全復活だよ」
「この書類は書き換えられています。近江さんの話からすると、メジャーの彼女は既にお亡くなりのようですからね。ですが、彼女が入職した時期などを加味しても、浄御原さんはマイナーの飛鳥さんでまず間違いないと思います」
「そうみだいだな……。だが、どうしてそれで俺が辛い選択をすることに繋がるんだ?」
「それは……」

 言い辛いのか。彼女の様子を察した陣海さんは助け船を出す。

「その件については僕からお話しさせていただきます。近江さん、今一度浄御原理事のページをご覧になって下さい」

 俺は陣海さんの言う通り、もう一度ファイルに目を落とす。
 性別、生年月日……。特段変わったことはないな。
 強いて言えば、経歴が空欄ということくらいか。まぁこれは諸々の事情があってのことだろう。
 一通り書いてある内容に目を通すが、これと言って目新しい情報はない。
 しかし、ページの右端に記載のある項目に目が留まる。
 まただ。〝パラレルメイト〟と書かれたその項目には、俺の名前が書かれてあった。
 念のため、ページを遡り確認する。
 やはり、俺のパラレルメイトの欄に書かれている文字は〝飛鳥 令那〟だった。

「すまん。さっきも聞こうと思ったんだが、パラレルメイトって何だ?」
「パラレルメイト。それは互いに相反し合い、世界線に歪みを生み出す〝可能性〟の組み合わせのことを言います」
「歪み、って……。まるで俺たちが原因で世界線が乱れているみたいな言い方だな」
「そう申しております」

 陣海さんにはっきりと答えを突き付けられ、俺は言葉を失う。

「……で、どうして俺とアイツがその、パラレルメイト? なんだ?」
「残念ながら、現時点でパラレルメイトが生まれる要因は判明しておりません。実例が極端に少なく、研究が進んでいないためです」

 そんな……。どうして俺とアイツが……。

「ここからが本題です。パラレルメイトを持つ者にはある命題が与えられます」

 やめろ。その続きは聞きたくない。

「それは、〝可能性〟の選別。つまりどちらかの本流を処分する、ということ」
「処分、て……、ふざけてんのか?」
「いえ。冗談ではありません」

 簡単に処分とか言いやがって。人の命を平面上の駒とでも思っているのか?
 俺の心情を尽くスルーし、陣海さんは淡々と続ける。

「一つ、僕個人の意見を言わせていただきます。本流となる浄御原 律もとい、飛鳥 令那は既に亡くなっております。そして、僕たちの知る彼女は元々傍流でありながら、立場を偽り、本流の人間にしか許されない機構の業務に従事。そればかりか、その機構すらも裏切り組織の存続を脅かす存在と成り果てました。正統性は近江さんにあるかと」

 そう言われた瞬間、俺は陣海さんに掴みかかった。

「……アンタ、俺の過去知ってんだろ? アンタらにとって悪者だからって、俺にまたアイツを殺せって言いたいのか?」

「世界線の歪みはあなたたちだけの問題ではありません! このままではメジャーで暮らす全ての人々の存在そのものが脅かされることになるんですよ!」

「そもそもアイツは傍流なんだろ? じゃあ関係ねぇじゃねぇか……」

「それは違います。彼女は本流としての意識と責任を引き継ぎ、本流として生きることを望み、本流として生きていますから。そして、この名簿に彼女の名が載っていることが何よりの証拠」

 どうしてだ。どうして俺たちにはこんなロクでもない運命しかないんだ。

「どうしても聞き入れていただけませんか?」

「誰が好き好んで犯罪者になるかよ……」

「それでは仕方ありませんね」

 彼は懐に手を突っ込み、護身用らしき自動小銃を取り出し、俺に銃口を向けてきた。

「また随分と物騒なモン持ってんな。何の真似だ?」

「仕事上、何かと身に危険が及ぶことも多いですからね。この程度の備えはマナーの範疇です。あなたが浄御原理事を始末しないのであれば、メジャーの人々のため、僕があなたを処分致します」

「さっきからメジャーとか本流とか……、ふざけんな! それ以外は邪道みたいに言いやがって。アイツが偽物だって言いたいのか!? アンタらが率先して人の〝可能性〟を否定していいのかよ!」

「……では逆にお聞きしますが、僕が本気で浄御原理事を偽物や紛い物であると思っているとお考えですか?」

 陣海さんは重く疲れ切った目をますます細め、俺を睨みつけてくる。
 軽蔑や憎悪などではないことくらい分かる。
 彼の悲嘆の視線を浴び、俺は途端にバツが悪くなった。
 彼とて、この機構で彼女と同じ時間を過ごしてきたのだ。俺と同じように。

「もうやめて下さいっ!」

 これまで沈黙していた久慈方さんが声をあげ、俺たちの諍いを咎めた。

「近江さん、本当に申し訳ありません……。私がもっと状況を早く把握し、近江さんに報告するべきでした。全てはこの一大事に休養を取っていた私が悪いんです……」
「理事長……。やめて下さい。ただでさえ、あなたはココのところ働き詰めだったんですから。それを言うなら、休養を進言した僕に責任があります」

 陣海さんは俺に向き直り、深々と頭を下げてきた。

「近江さん、先ほどは失礼しました。事実とは言え、もう少し近江さんのお立場を汲み取るべきでした」
「いや、コッチも好き勝手言って悪かったな。久慈方さんも気にしないでくれ。報告が早かろうが遅かろうが、どの道俺が命題を背負っていることに変わりはない。そうだろ?」
「…………」

 陣海さんはここへ来て初めて言い淀んだ。

「だがそれならどうする? 他に味方はいないのか?」
「正直、あまり期待は出来ないと思います。お分かりかと思いますが、既に本部は浄御原理事の陣営が占拠しており、現状他の職員とコンタクトを取ること自体難しいでしょう」
「アイツらの動きが思ったより早かったってことか」
「それについては僕が原因なんです……」
「どういうことだ?」
「実は…」

 話は3日前、つまり俺がアイツに殺人鬼扱いされてラブホテルに連れ込まれた日に遡る。
 その時には既に監視AIは破壊されていたが、陣海さんは予備端末を通じて彼女の居場所を突き止めることに成功する。追跡部隊を派遣し、彼女を拘束一歩手前まで追い詰めるも、寸前で逃してしまう。
 その後、陣海さんの暗躍に気付いた彼女は機構に戻り、彼を拘束した。
 陣海さんは連絡手段を奪われ、厳しい監視のもと二日間、監禁室で過ごす。
 しかしその間も抵抗を試み、今日になって監視の目を欺き、本部の外へ抜け出すことに成功した。
 なお、その際理事室に寄り、先ほどの名簿を持ち出すことが出来たらしい。
 初日に俺たちが死に物狂いで撒いたのは、陣海さんが手配した追手だったということか。

「僕が先走って行動したせいで、結果としてあちらの警戒感を強めてしまいました。素直に理事長の戻りを待つべきでした……」
「予備端末は、本端末に比べると性能が落ちます。一度、監視対象を見失い、込み入った動きをとられると追跡自体が難しくなりますから。陣海さんの判断は間違っていないと思います」

 なるほど。陣海さんが捕らえられた後、予備端末にも細工がされた、というわけか。
 やはり久慈方さんの休暇を狙われたと考えるのが自然だな。

「それに名簿が手元にあるのは、不幸中の幸いです! ある意味、機構の不祥事を証明する証拠ですからね。これをそのまま政府に提出されれば、無条件で重い処分が下ってしまいかねないですから」
「確かにその通りですね。例え現状が政府の意図するものであっても、証拠があがってしまえばこちらの建前を保てませんからね」

 二人は俺に気を遣っているのだろう。
 例え、機構が正当性を主張し認められようとも、根本的な解決にはならない。
 俺とアイツがいる限り、世界は歪み続ける。それは紛れもない事実だ。
 結局のところ、これは俺とアイツの問題なんだ。

「……まぁいずれにせよ、アイツを探さんと始まらんだろ。本部に入る方法を探さねぇとな」
「その件についてですが……」

 陣海さんが改まった様子で話し出す。

「先ほど味方を探すのは難しいと申しましたが、一人だけ内通者がいます。実は僕もその者のサポートによって本部を脱出することが出来たんです」
「そうなのか?」
「はい。彼はこの時間ですと、恐らく本館の裏口の警備に当たっているはず」
「そりゃご都合主義な展開で助かるな」
「ですが油断は禁物です。僕が逃げ出したことは内部に伝わっているはず。彼についても既に捕らえられている可能性は否定できません。しかし、行ってみる価値はあるでしょう」

 今後の方針が決まりかけた頃、辺りが急に騒がしくなった。
 俺たちが来た林道の先から、無数の足音が聞こえる。
 その足音は次第に大きくなり、周囲の木々がざわめく音を徐々にかき消していった。

「近江さん! 陣海さん! 追手がやって来ましたっ!」
「やはりあちらも動いてきましたか……」
「なぁ! 一時的にどこかへ転移とかは出来ないのか!?」
「現状、世界線間を行き来するのはリスクが高いと思います。僕と理事長の動きについては恐らく監視が強化されていると思いますので」
「ココから離れない方が却って安心ってわけか……」
「理事長! ここは二手に分かれましょう。理事長は近江さんと本館へ!」
「そんなっ! 陣海さんは!?」
「何とか時間稼ぎをしてみます……。近江さん」

 俺を呼びつける陣海さんの手元には、先ほど俺を打ち抜こうとした小銃があった。

「……後でいくらでもお叱り下さい」

 この期に及んで俺だけが、いつまでも駄々を捏ねているわけにはいかない。
 陣海さんの意図を察した俺は、無言でその小銃を受け取った。

「……アンタは大丈夫なのか?」
「はい。お気になさらず。理事長を頼みます」
「分かった。だが一つだけ言わせてくれ。最後に決めるのは、俺とアイツだ」

 俺がそう言うと、陣海さんは無言で頷き俺たちに背を向けた。

「急いで下さいっ! 追手はアレだけではないはずですっ!」
「分かった! 久慈方さん、行くぞっ!」
「は、はい! 陣海さん、ご無事で……」
「生意気言ってすみません……。後から追いかけます」

 見送る陣海さんを背に、俺と久慈方さんは林道から離れた。