――王宮に来るのは何日ぶりだろうか。

 退職して、アトス様と知らぬ間に結婚して、家出をして、俺様アビシニアンもどきに嫁にされかけて、這う這うの体で逃げ帰って以来だ。

 それにしても、もうメイドをやっていたのがはるか昔の出来事に思える。この数ヶ月、濃ゆい毎日を過ごしたからか、一気に精神だけ二十歳は老けた気分だわ……。

 正門奥にある大きな扉の前で、馬車から降りた弟のユーリが、壮麗な王宮を見上げて歓声を上げる。

「うわ、すっげーでっかい!」

 カレリアの王宮は某ネズミの国にあるシンデレラ城によく似ていて、壁は真っ白で屋根は淡いエメラルドグリーンをしている。ちなみに、この国で一番高い建物だった。

「姉ちゃん、こんなところでメイドやってたのか~。いいな~」

 目をキラキラさせるユーリの肩を、アトス様がポンポンと叩く。

「魔術師になれば、君もここに部屋ができますよ」

「ほんと!? オレ、絶対魔術師になる!!」

 今日、私たちは結婚を報告するため、一時間後に陛下に謁見することになっている。アトス様のように魔術師団の副総帥ともなると、結婚にも高位の貴族と同じ手続きが必要で、これは第一段階なのだそうだ。ついでにユーリの魔術師適正検査もやってくれるらしいのでありがたい。

 私はユーリの前で両の拳を握り締めた。

「ユーリ、頑張るのよ。魔術師になれればあんたの人生バラ色だからね! 酒池肉林もハーレムも思いのままよ!」

「姉ちゃん、わかったよ! ところでハーレムってなんだ?」

「ハーレムって言うのはね、どんな女の子も選り取り見取りでーー」

 ところが、そこでアトス様が素早く動き、背後から私の口を塞いだのだ……!

「む、むぐぐ」

 アトス様が唇の端に笑みを浮かべて私を見下ろす。

「アイラ、教育に悪いですから、説明はそこまでにするように」

 そんな、馬だって目の前にニンジンをぶら下げられないと、なかなか走る気にはならないものよ。ユーリもお父さんから猫族の血を引いているからか、お昼寝好き遊び好きで将来が若干不安なのだ。何かで釣らないと必死にならないと思うわけ。

 アトス様は私を荷物のようにひょいと肩に担ぎ上げ、「さあ、行きましょうか」とユーリの背に手を当てた。

 一方、私はいきなり世界が逆さまになって、ハーレムを語るどころではなくなってしまう。

 アトス様とユーリはじたばたする私を気にすることもなく、開けられた扉の中に足を踏み入れる。次の瞬間、私たちを待ち構えていたメイドたちが、シンクロナイズドスイミング顔負けのシンクロ率で一斉に挨拶をした。

「「「アトス様、アイラ様、ユーリ様、お待ちしておりました」」」

 ここで何年かメイドをやってきたけど、正門から王宮に入るのは初めてだ。メイドやその他の召使いは、裏門からと決まっていたから。私は宮廷魔術師であるアトス様の妻、ユーリは義弟になったから、待遇が一八〇度変わったみたい。

 足元に敷かれたエメラルドグリーンの絨毯は、土足で踏みつけるのが怖くなるほどふかふかだ。両脇にずらりと並んで頭を下げるメイドに、庶民で小心者の私は「いや、そんな、私めなどにもったいない」とオタオタするばかりだった。

 ユーリはすぐに検査に入るからと、迎えに来たアトス様の部下に連れて行かれた。アトス様にようやく肩から降ろしてもらい、心配になってまだ小さな背を見送る。

 すると、アトス様が優しく私の肩を抱いてくれた。

「大丈夫ですよ。ユーリなら十中八九合格すると思います」

 私たちもやってきたメイドに案内され、まずは身なりのチェックをするため、用意された客間へと向かう。ちなみに、もう法律では夫婦と認められているから、アトス様と同じ部屋に同じダブルベッドだ。まさか、スイートルームに泊まる日が来るとは思わなかった……。

 ユーリにもちゃんと一人部屋があるらしい。

 アトス様はメイドに服の乱れを直されながら、今日のスケジュールをもう一度確認する。

「陛下に謁見ののちに休憩を挟み、その後晩餐会に招待されています。今夜はチキンに魚料理が勢揃いだそうですから、思う存分食べるといいですよ。私たちもユーリも帰るのは明日ですから、その後はゆっくりしましょう」

 なんと、私の好きなものを料理長に細かに伝えてくれたのだそうだ。

 ドレスよりも宝石よりも食べ物に弱い私は、それを聞いて俄然やる気が出てきた。そして、我ながらどれだけ単純なのかと呆れつつ、また、好みを完全に把握されているのに戦慄しつつ、アトス様に手を取られて謁見の間へ向かったのだった……。

 メイドとして掃除をしたことはあったけど、こうして謁見の間に招かれたのは初めてだ。

 てっきり王妃様や王太子殿下、臣下の皆様もお待ちかと思いきや、陛下だけが奥にある金ピカの玉座に腰掛けていた。

 陛下はアトス様と私が跪き、扉が閉められたことを確かめると、しみじみとした目で私たちを眺めた。

「少々お前たちと話がしたくてな。人払いをしてある」

 陛下はマリカ様と同じ金髪に、アメジスト色の瞳の美中年だった。昔はさぞかしおモテになっただろう。ド派手な緋色のビロードの上下とマントを、なんなく着こなしているのだから、できる。

「まずは、祝いの言葉を述べよう。お前が身を固めてくれたので、ようやく少々安心できたぞ。ああ、マリカについては気にせずともよい。年が釣り合うので縁談を勧めはしたが、アレはその、親の私でもちょっとなと思うところが、なきにしもあらずというかかなりあると言うか……」

 ……陛下ですら手こずらせるマリカ様って、まさかカレリアで最強だったりする?

 私が密かに冷や汗を流していると、「とにかく」と陛下は話を変えた。

「これであの世のヴァルトにも、わずかだが顔が立った。お前が日に日にあの男に似てくるので、思い出さずにはいられなくてな……」 

 んん? ヴァルトって聞いたことのある名前だわ。

 そう、カレリアの歴史書にも登場する「黒き風のヴァルト」だ。大陸一だと呼ばれていた有名な魔術師じゃない。カレリアを大国にした功績者でもあり、英雄だと今でも尊敬され、各地に銅像が建てられている。事故で亡くなったと聞いたけど、どうしてここで話にヴァルトが出てくるのだろう。

 繋がりがわからず首を傾げる私の前で、アトス様が胸に手を当てた。

「陛下にそこまで気にかけていただけるとは、父の霊も喜んでいると思います」

 はい? 今なんておっしゃいました。乳でも遅々でも秩父でもなくて、父ィィ!? 

 アトス様のお父さんは亡くなっていて、お母さんは行方不明だとは聞いていた。だけど、なんとなく話したくなさそうだったから、無理に聞こうとも思わなかったのよね。

 人間、胸に仕舞っておきたいことのひとつやふたつやみっつ、ちょっと生きていればあって当然だし、仕方ないもの。私だって前世の記憶があるなんていう、とんでもない秘密があるし。

 なのに、まさかこんなところでアトス様の家庭事情を知ることになるとは! 

 仰天しつつも私は待てよと首を傾げる。

 確かヴァルトは死ぬまで独り身だったような……。ま、まさかアトス様は隠し子!?

 脳内でカメラのフラッシュがいくつも光り、「宮廷スクープ! ブレイク中のイケメン魔術師はあのヴァルトの隠し子!? 母親は一般人か!?」との週刊誌の記事の見出しが踊った――って何アホな妄想をしているのよ!

 陛下とアトス様はその後もあれこれと話していたものの、私は仰天ニュースに頭がぼーっとなってしまい、ふと気が付くと謁見の間から連れ出されていた。そして、やはりぼーっとしながら晩餐会に出席し、我に返った時には、シーフードサラダとマグロのカルパッチョと鯛の丸焼き、鶏のレバーパテとチキンジャーキーとローストチキンを平らげていたのだった……。もちろんお代わりもさせていただいた。