あばらやカフェの魔法使い

 
「魔法は……タダで使えるものじゃない。この力を使えばそれと引き換えに、それ相応の報いを受けることになるんだ」
「報い?」
「魔法を使った代償……みたいなものかな」

 そう言って、彼は苦笑した。
 傷が痛むのか、その表情はどこか引きつっている。

「魔法の、代償……? じゃあこの傷は、さっきの人形を直したから?」

 魔法の力で、人形を直した。
 その代償として、彼が怪我をしたという。

「そんな……。じゃあ、あなたは本当に……魔法が使えるんですか?」

 疑う余地はもうなかった。

 現に私は二度にわたって、彼の不思議な力を目にしているのだ。
 さっきのことも、そして、昨日の虹のことも。

 でも。

「魔法を使ったらこうなるって、わかっていたんですよね? なら、どうしてそんな危険なことを……?」

 そこが理解できなかった。
 なぜ、こんな危険を犯してまで魔法を使う必要があったのか。

 ――だって可哀想じゃないか。

 不意に、先ほどの彼の言葉が思い出された。

 あの男の子のことが『可哀想だから』――たったそれだけの理由で、彼は魔法を使ったというのか。
 赤の他人のために、自分の身を犠牲にして?

 当の本人は気まずそうに視線を逸らすと、掴んでいた私の手首をそっと離した。

 私は胸の奥にどうしようもない焦りを感じて、思わず声を荒げて言った。

「こんなの、危ないじゃないですか。なんでっ……、どうして、こんな危険なことをするんですか。さっきだって、一歩間違えれば死んでいたかもしれないんでしょうっ?」

 死ぬ、なんて言葉を簡単に口にしたくはなかったけれど。
 それでも、過言ではないと思った。

 魔法で人形の腕を直したことで、彼は自分の腕に傷を負った。
 今回はまだ腕だったから良かったものの、これが例えば首だったら。

 壊れた人形の箇所がもしも首だったなら、彼は今頃どうなっていただろう?

 考えただけでぞっとする。

 それに、

「あなたがこうして怪我をしたこと、あの男の子は知らないんでしょう?」

 あの男の子。
 おそらくは近所の子だろう。

 あの子にとって彼は、困ったときに助けてくれる優しいお兄さんであって、それ以外のことはきっと何も知らない。
 魔法の代償のことだって知らない。
 こうして彼が怪我をしていることだって、きっと。

 だからこそあんな風に、気軽に魔法に頼ることができてしまうのだ。
 その代償がどんなものであるのかも知らずに。

「知らない間に、あなたのことを傷つけて……それが、本当にあの子のためになると思っているんですか?」

 そこまで言ったとき、それまで穏やかだった彼の顔が少しだけ陰りを見せた。
 尚も黙ったままの彼の横顔からは、その心中を探ることはできない。

 彼の返答を待ちながら、私はふとあることに気づく。

(まさか……)

 魔法を使えば、それ相応の報いがある。
 ということは、つまり。

(昨日の、あの虹のときも……?)

 嫌な予感がして、私は背が寒くなるのを感じた。

 昨日の夕方。
 彼の周りで、不思議なことが何度も起こった。

 突然止んだ雨。
 現れた虹。
 見つかった探し物――それらはどう考えても、魔法の力以外には考えられない。

「昨日も……あなたは魔法を使ったんですか?」

 私のために。
 あのストラップを探すために、彼は魔法を使ったのかもしれない。
 そしてそれが事実なら、おそらくはそのときの代償も受けている。

 私の知らない間に、彼は怪我をしていた?

 いや。

「あなたが風邪をひいたのは……私のせいなんですか?」

 怪我をしたのではなく、彼は風邪をひいたのだ。

 本来ならば、風邪をひくのは私の方だったはずだ。
 あれだけの雨に濡れて震えていたのだから。

 けれどその割には、私の身体はピンピンとしている。
 未だに体調一つ崩していないのは、彼がその身代わりになったからではないのか。

「……君のせいなんかじゃないよ。これは、僕が勝手にやったことなんだから」

 彼は弱々しい声で言うと、小さく咳をした。

 やはり、と私は確信する。

 彼は昨日も魔法を使ったのだ。
 そして、私のために体調を崩した。

「そんな……」

 どこまでも優しい彼。
 自分よりも他人を優先しようとするその性格は、思いやりがあって、あたたかくて、私には到底真似できそうにない。
 すごい人だ、と素直に思う。

 けれど私は、

「そんなことされたって、ちっとも嬉しくなんかありません!」

 思わず怒鳴っていた。

 途端、彼は驚いたように私を見た。

 相当びっくりしたのだろう。
 無理もない。
 彼が良かれと思ってやったことに対して、私は責め立てるような発言をしたのだから。

 彼の見開かれた瞳が不安げに揺れるのを見て、私はハッと口元を押さえた。

(私、なんて失礼なことを)

 つい勢いに任せて、とんでもないことを口にしてしまった。
 彼の厚意を受けておきながら、それを感謝するどころか否定してしまうなんて。

「……すみません、私っ……」

 本当は、こんなことを言いたかったわけじゃない。

 彼のやったことは、相手への思いやりの心があったからこそ――それは痛いほどにわかっている。
 だから本来なら、彼のことはむしろ称えるべきなのだ。

 けれど、それでも。

「……ごめんなさい。でも私……あなたが傷ついてしまうくらいなら、優しさなんかいりません。あなたは優しい人だけれど、でもそれは……私にとって、『本当の優しさ』ではないんです」

 言いながら、自分でも何を言っているのかわからなくなる。

 『本当の優しさ』なんて、人それぞれだ。
 それをどうこう言う権利なんて、私にはない。

 けれど、彼の『優しさ』すべてを肯定することは、私にはできなかった。

 人を思いやることは確かに大切だ。
 でも、そのために自分を犠牲にするという彼のやり方は、本末転倒な気がする。

 もちろん、相手がそれを望んでいるのなら話は別だ。
 けれど私は、彼に犠牲になんてなって欲しくない。

 彼に傷ついてほしくない――元をたどればたったそれだけのことなのに、半ばパニックになっていた私はうまく言葉にできなかった。
 そんな自分自身に対して、次第に苛立ちと、情けなさと、悲しさとが込み上げてくる。

 ついには堪え切れなくなって、私は涙を零した。

「……すみません。……ごめんなさい……っ」

 ここで泣いたって何も解決しない。
 わかっているのに、私の意思とは関係なく、涙はとめどなく溢れてくる。

 本当に情けない。
 彼の前で泣くのはこれで三度目だ。

 また、彼に迷惑をかけている。

 恥ずかしい。
 今すぐにでも、ここから逃げ出したい――そう思い詰める私の頭の上に、彼はそっと手を置いて、

「……ありがとう。君は優しい子だね」

 そう、穏やかな声で慰めてくれた。

 そして、

「もう、これ以上……君に悲しい思いをさせるわけにはいかない。どうか、僕のことは忘れてほしい」
「……え?」

 彼はどこか寂しげに微笑むと、再び胸の前で両手を組む。

 この仕草は確か、さっき魔法を使うときにも見せたものだ。

(もしかして……)

 彼はまた、魔法を使おうとしている。

 一体何のために?

「あの……待って。何をするつもりですかっ?」

 慌てて私が尋ねると、彼は困ったように苦笑して言った。

「ごめんね。君の頭の中から、僕に関する記憶を消させてもらうよ」
「なっ……」

 記憶を消す。
 そんなことが本当にできてしまうのだろうか。

「ど、どうして。やめてください。どうしてそんなことを」
「君は、とても優しい人だから。僕と一緒にいると、君はきっと、僕のために何度も泣いてしまうだろう?」

 言いながら彼は、先ほどと同じように、祈りを捧げるようにして頭を垂れる。

 私が泣いてしまうから。
 私を泣かせないために、彼はまた魔法を使おうとしている。

「まっ……待ってください!」

 このままでは、私はきっと彼のことを忘れてしまう。

 あんなに優しくしてくれた彼のことを。

 まだ、何の恩返しもできていないのに?

 そしてまた、彼はこの森の奥で、誰にも知られないまま、ひとりで無茶をするのかもしれない。

(そんなの嫌……!)

 私は咄嗟に彼の手を握りこむと、

「やめてください!」

 力任せにその手を左右へ引き離し、そこへ自らの身体を滑り込ませた。
 勢い余って、彼の胸に顔を埋めるような形になる。

「嫌です。忘れたくありません! どうか、もう魔法を使わないで……っ」

 忘れたくない。

 それに、もう魔法を使ってほしくない。

 魔法を使えば、後でどんな代償が待っているかわからない。
 下手をすれば、命を落とすことだってあるかもしれないのだ。

「お願いです。どうか、もう魔法を使わないでっ……。私のためを思うなら、記憶を消すなんてやめてください……。私は、あなたのことを忘れたくなんかありません……!」

 彼のシャツに顔を埋めたまま、私は幼子のように泣きじゃくっていた。

 ああ、また情けない顔をしている。
 こんな子どもみたいな姿、誰にも見せたくはないのに。

 けれど、こうして駄々をこねたおかげか、彼が再び魔法を使おうとする気配はなかった。

 そうして私が落ち着くまで、彼は怪我をした腕とは反対の手で、私の背中を優しくさすってくれたのだった。





     〇





 空がすっかり暗くなった頃。

 森の出口までやってきた私は、後ろを振り返ると、心の底から懺悔するような気持ちで深々と頭を下げた。

「……すみません。また迷惑をかけてしまって」

 振り返った先には、見送りに出てきてくれた彼がそこに立っていた。

「ううん。僕の方こそ、見苦しいところを見せちゃってごめんね。それより、本当に家まで送らなくて大丈夫? もうかなり暗いけど」

 そう言って私の心配をしてくれる彼の左腕には、包帯が巻かれている。
 今はシャツの下に隠れて見えないけれど、応急処置をしただけのそこは今も痛むはずだった。

 私は彼の申し出を丁重に断ると、改めて頭を下げた。

「あの、私……明日もここに来て、いいですか?」

 気まずさを感じながらも、おずおずと私が尋ねると、

「それは、もちろん。来てくれると嬉しいよ」

 まるで当たり前のように、彼は笑って答えてくれた。

 私は下げていた頭をばっと勢いよく上げると、

「明日だけじゃなくて、明後日も、その次の日もです!」

 そう語気を強めて言うと、彼は少しだけびっくりしたような顔をした。

 明日も、明後日も。
 そばで見守っていたい、と思った。
 こんな場所に彼を一人残しておくのは、とても心配だった。

 穏やかで優しくて、魔法が使える彼はきっと、これからも自分の身の危険など顧みずに簡単に魔法を使ってしまう。

 放っておけば彼はこのまま、いつか死んでしまうような気がする。
 この暗い森の奥で、ひとりで。

「お店の邪魔はしません。だから……だめ、ですか?」

 彼のために、私に何ができるのかはわからない。
 むしろ昨日や今日みたいに、迷惑ばかりかけてしまうかもしれない。

 けれど彼は、ほんの少しだけ間を置いた後、

「……いいや。大歓迎だよ」

 と、囁くような声で了承してくれた。

 私はそれが嬉しくて、思わず泣きそうになりながら笑った。

「それじゃあ、今日から君は常連さんだ。これからもよろしくね。……ええと」

 そこで彼は言葉に詰まった。

 その様子を見て私は、

「私、 霧江(きりえ)絵馬(えま)っていいます」

 と、改めて自己紹介した。

 思えばまだお互いの名前すら知らなかったのだ。

 少し遅くなってしまったけれど、それでもやっと自分のことを知ってもらえる機会が得られたような気がして、私はちょっぴり嬉しくなる。

 と、そんな私の顔を見下ろしながら彼は、

「『えま』……?」

 わずかに目を丸くして、不思議そうに私の名を口にした。

「? どうかしましたか?」

 彼の反応に、私も首を傾げる。

「……いや、なんでもない。けど、なんとなく……懐かしい響きだな、と思って」
「え?」

 懐かしい響き。
 って、どういう意味だろう?

「いや、ごめん。本当に何でもないんだ。絵馬ちゃんか。可愛い名前だね」
「!」

 まるで息をするように「可愛い」と言われて、私は耳が熱くなるのを感じた。
 こんなのは社交辞令だとわかっているのに、身体が勝手に反応してしまう。

 これでは自意識過剰だ。
 慌てて火照った顔を隠しながら、

「そ、それで、あなたの名前はっ……?」

 そう促すと、彼は落ち着いた声のまま、いつもの優しい笑みを浮かべて言った。

「僕は、瀬良(せら)まもり。改めて、これからよろしくね。絵馬ちゃん」





     〇





(まもりさん、か……)

 帰り道を一人歩きながら、胸の内でその名を何度も復唱する。

 見た目と同じく、中性的で綺麗な名前だな、と思った。
 『まもり』という響きは、まるで女の子のようだ。

 けれど、私の意識はその名前よりも、むしろ『瀬良』という名字の方に関心がいっていた。

(瀬良……か)

 どちらかといえば珍しい名字。
 この町内でも被るとすれば一軒か二軒くらいだろう。

 単なる偶然か。
 その名字は、私の幼馴染――いのりちゃんと同じものだった。

(たまたま同じだけ、だよね?)

 いのりちゃんのことは小学校の頃から知っているし、今までに何度も家へお邪魔させてもらっている。
 けれど彼女に兄がいるという話は一度も聞いたことがない。

(もしかして、従兄妹(いとこ)とか……?)

 兄妹でないのなら、親戚という可能性もある。

(また明日、まもりさんに聞いてみようかな)

 もしかしたら、いのりちゃんと仲直りするきっかけになるかもしれない――なんて淡い期待が胸を過る。

 けれどその一方で。

(…………?)

 何か、胸がざわざわとする。

(……何だろう?)

 いのりちゃんと、まもりさん。

 その二人を並べて考えたとき、何か胸騒ぎがするのを、私は心のどこかで感じていたのだった。
 
 
「ねえ、森の洋館にオープンしたカフェって知ってる?」

 高校のクラスメイトたちにさりげなく尋ねてみたものの、返ってくるのは疑わしげな反応ばかりだった。

「森の洋館? って、『お化け屋敷』のこと?」
「昼間でも暗いよね、あそこ」
「あんな所にお店なんて出せないでしょ」
「幽霊でも見たんじゃないの?」

 予想はしていたが、ひどい評判だった。

 暗い森の奥に佇む、どう見ても廃墟としか思えないあのカフェ。

 誰か一人でもあの店のことを知っている人はいないかと期待したのだけれど、そもそもあそこに店が存在すること自体信じてもらえない。
 どころか、「もしかして今年の肝試しの前振り?」と、あらぬ誤解まで招く始末だ。

 季節はもうじき梅雨を迎える。

 梅雨が明けて本格的な夏になれば、あの森では毎年のように肝試し大会が開かれる。
 まもりさんの店があるあの洋館も、そのエリア内にあるはずだった。

(本当に、どうしてあんな場所に店を開いたんだろう……)

 あんなひと気のない所で店をやっていたって、気づいてくれる人はほとんどいない。
 肝試しのシーズンになれば少しは人も訪れるようにはなるけれど、恐怖体験を期待してやってきた人が果たしてそこでお茶をする気になるかどうか。
 むしろアピールの仕方を間違えれば気味の悪い店として認知されてしまいそうだ。

 あの店の存在を知ってから二週間。
 私はほぼ毎日のようにあの場所を訪れている。

 けれど、カフェを利用するためにやってくるお客さんの姿は今まで一度も見たことがない。

 私があそこに顔を見せるたびに、まもりさんはいつも紅茶とケーキをご馳走してくれる。
 その壮絶な味は相変わらずだけれど、「これは僕が勝手にやっているだけだから」と笑って、彼は一向に私からお金を取ろうとしない。

 あれでは採算が合わないどころの話じゃない。
 まごうことなき赤字で、店が潰れるのも時間の問題だ。
 せめて口コミを広げて力になれればと思ったのだけれど、この調子ではかえって悪い噂を流してしまうだけかもしれない。

(こんなとき、いのりちゃんがいてくれたらなあ……)

 思わず彼女の優しさに縋ってしまいそうになる。

 小学校の頃からの幼馴染であるいのりちゃん。
 彼女は私が困っていると、いつも助け船を出してくれた。

(でも、今は……)

 彼女とは二週間前にケンカをしてから、一度も口を聞いていない。

「はあ……」

 どんよりとした気分を払拭できないまま、放課後がやってくる。

 学校を出たその足で、私はいつものようにあの店へと向かった。



 暗い森の奥にあるボロボロの洋館。
 そこでひっそりとカフェを営むまもりさん。

 彼は、いのりちゃんと同じ『瀬良』という名字を持っていた。
 もしかしたら親戚同士なんじゃないか――なんて考えたこともあったけれど、本人に確認してみたところ、きっぱりと否定されてしまった。

 ――たまたま同じだけだよ。少なくとも僕の知る限りでは、この街に親戚はいないからね。

 すでに実家を出て独り立ちしている彼は、あの洋館の二階に住んでいるらしい。
 もともと他の街からやってきたという彼は、この辺りには家族も友人もいないのだという。

 寂しくないんですか、と私が聞くと、彼は寂しくないと微笑して答えた。
 その儚げな笑みが、私にはどこか寂しげに見えた。

 ――僕は、人を待っているからね。

 故郷を出て、知らない街でひっそりと店を開けているまもりさん。
 そんな彼は、誰かの訪れを待っているという。

(お客さんは来ないし、知り合いもいないのに……一体誰を待っているんだろう?)

 待ち人の相手については、私はまだ尋ねたことがない。

 彼が「待っている」と発言したのは、ほとんど独り言のようだった。

 だから私は、彼がその話を自分からしてくれるまでは触れないようにしようと思った。
 というよりも、安易に触れてはいけないような気がしたのだ。

 彼が店を開けている理由が本当にその人のためだというのなら、その人はきっと、まもりさんにとってとても大切な人だから。

(……なんだか、悔しいなあ)

 私はまもりさんに毎日会いに行っているのに。
 なかなか顔を見せないその人はきっと、私の何倍も、何十倍も、まもりさんにとって大きな存在なのだ。






       〇





 森の入り口までやってきたとき、ちょうど森の奥から一人の男の子が飛び出してきた。
 危うくぶつかりそうになって咄嗟に避けると、男の子は私には目もくれずに走り去っていく。

 一瞬だけ見えた横顔には見覚えがあった。
 以前、まもりさんに人形の修理を頼みに来たあの男の子だ。

 満面の笑みを浮かべた男の子の腕には、ドールハウスのようなものが抱かれている。

 私は嫌な予感がした。

(まさか……)

 今回は、あのドールハウスを直してくれと頼みに来たのだろうか。
 だとすれば今頃、魔法を使ったまもりさんはその代償を受けている可能性がある。

(まもりさん……!)

 私は弾かれたようにその場から駆け出して、彼の店のドアを乱暴に開けた。

「まもりさん! 大丈夫――」
「だから何度も言ってるだろう!!」

 いきなり、怒号が飛んできた。

 反射的に、私はびくりと身体を強張らせる。

 私の声を遮ったそれは、男の人のものだった。
 まもりさんのものではない、どすの効いた声。

 見ると、店内には珍しく人がいた。
 たった一人だけだけれど、まもりさんと向かい合うようにして立っている。

 背の高い人だった。
 こちらに背を向けているため、その顔は見えない。
 けれどその出で立ちから、まもりさんと同じくらいの年代の男性だと予想がつく。

 淡い色のシャツにパンツ姿のそのシルエットは、細いながらもほどよい筋肉が付いているのがわかる。
 肌は日焼けして、長く伸びた髪は明るい。
 ピアスなどのアクセサリーをじゃらじゃら付けているところを見ると、『チャラ男』なんて言葉が似合いそうだ。

 この店に、お客さんがいる?

 いや。

(もしかして、まもりさんが待っている相手って……)

 こんな場所に、何の関係もない普通の人がやってくるとは思えない。
 ということはもしかすると、この人が例のまもりさんの待っていた相手なのかもしれない。

 けれど、

(待っていた相手って、男の人だったの……?)

 てっきり女の人だとばかり思っていたのだけれど、まもりさんにとっての大切な人というのは、まさかのまさかで同性の人? なのか?

「まもり、さん……?」

 私は恐る恐る声を掛けた。

 途端、まもりさんはハッとしたような目をこちらに向けた。
 どうやら私が店に入ってきたことを知らなかったようだ。

 そんな彼の反応に釣られるようにして、今度は向かいの男性もこちらに顔を向ける。
 首だけを動かして「ああん?」と威圧的な声を漏らしながら、斜めに私を睨みつける。

 眉間にシワを寄せたその顔は、私の予想に反して整っていた。
 チャラそうな印象はやはり拭えないけれど、彫りの深いその顔立ちはどう見ても『イケメン』の類に入る。

 そして何より、恐い。

 顔が整っているからこそ出せる威圧感、とでも言えばいいだろうか。
 私は震えそうになる足を必死に踏ん張る。

 すると、

「! お前、なんでここに……――」

 私を睨みつけていた男性の目が、はっと見開かれた。

「えっ……?」

 私はぽかんとしたまま彼を見つめ返す。

 彼のその反応は、まるで私を見知っているかのようだった。

 けれど私は、彼の顔に見覚えがない。

「? 流星(りゅうせい)。絵馬ちゃんのこと、知ってるの?」

 まもりさんが聞いた。

 流星と呼ばれたその男性は、

「いや……。何でもねえ。人違いだ」

 と、歯切れの悪い声を漏らす。

 私はその様子を不思議に思いながらも、改めて店の中へと足を踏み入れた。
 
 
       ◯



 年季の入った丸テーブルを囲んで、私たち三人は向かい合って座った。

 今日はまもりさんに代わって、長身の彼――流星さんがお茶を淹れてくれた。

「まもりの紅茶なんて飲めたもんじゃねーからな」

 冗談なのかそうでないのかわからない声色で言う流星さん。
 に対し、まもりさんは特に気にした様子もなく隣で静かに微笑んでいる。

 テーブルの上には氷の入ったグラスが並べられていた。
 そこへ流星さんがガラス製のティーポットからお茶を注いでくれる。

 一体何のお茶だろう?
 見た目は麦茶のようにも見えるけれど、ほのかに甘い香りが漂ってくる。

 私がまじまじと見つめていると、流星さんはそれに気づいたのか、

「ピーチティだよ。うちの店から持って来たんだ」
「うちの、店?」

 おうむ返しに聞くと、彼は一瞬だけ面倒くさそうな顔をして、

「親の店を手伝ってんだよ。古くて汚ねー所だけど、味はまあまあだから心配すんな」

 別に味の心配をしていたわけではないのだけれど、考えてみれば彼は『あの』まもりさんと付き合いのある人なのだ。
 仲の良い友人同士というのは趣味が似ている場合もある。
 したがって、彼らの味覚が似ている可能性もなくはない。

 私はまもりさんの作る壮絶な味を思い出しながら、

「い、いただきます……」

 と、緊張まじりにグラスへ口を付けた。

 すると、

「……あれ。おいしい?」
「なんで疑問形なんだよ」

 じろりと恐い目で睨まれながらも、私は続けて二口、三口と口へ運んだ。
 あっさりとした酸味が口いっぱいに広がって、ほうっと溜息を吐く。

 そんな私の反応に、流星さんはすでに興味を失っているようで、視線はまもりさんの方へと移っていた。

「で、お前らは今どういう関係なんだ? 付き合ってんのか?」
「!?」

 唐突すぎる質問に、私はピーチティを噴き出した。

「い、いきなり何を言い出すんですか!」

 思わず立ち上がって叫んだ。

 流星さんは恐い顔のまま、睨むような視線をこちらに向ける。

「とぼけんな。こんな荒屋(あばらや)に、何の意味もなく女子高生が一人で来るはずねーだろ」
「そ、それは……」

 言われてみれば確かにそうだ。

 何か特別な理由でもない限り、こんな薄暗い森の中にあるボロボロの洋館に足を踏み入れることなどそうあることではない。
 この場所へ来るには、何かそれなりの理由がいる。
 流星さんのように勘繰ってしまうのも無理はない。
 私が流星さんに対してそう思ったように。

「お前、絵馬とかいったな。お前はまもりのことが好きなのか?」
「すっ……!?」

 遠慮の「え」の字もない流星さんは、そんな下世話な質問もぐいぐいくる。

 そりゃあ、まもりさんは綺麗で優しくて……とても素敵な人だと思う。
 一緒にいると落ち着くし、家事ができないところも意外性があって可愛いと思うし――

(って、私……まもりさんのことが結構好きなのかな……?)

 改めて意識した途端、顔が熱くなった。

 と、そこで、

「!」

 ハッとあることに気づく。

(まさか……)

 なぜ流星さんがそこまで私たち二人の仲を疑うのか。

 なぜ私にその気があると勘繰るのか。

 それはもしかすると、彼がまもりさんのことを好きだからではないのか……?

 家族や友人としての『好き』ではなくて、本気の意味での『好き』――つまりは恋愛感情を抱いているということ。
 それが事実なら、まもりさんの『待っている相手』というのが流星さんであることにも頷ける。

 彼らは実はそういう関係で……えっと、つまりは恋仲?

(いや。でも、二人とも男の人だし……。あ、でも、最近はそう珍しくもないんだっけ?)

 頭の中がぐるぐるとして、パンクしそうになる。

「絵馬ちゃん、大丈夫?」

 まもりさんが隣から心配してくれる。

「だ、大丈夫、です……たぶん」

 頭はまだ混乱しているけれど、このまま黙っているわけにもいかない。
 私は流星さんの質問に答えるべく、改めて彼の険しい顔に向き直る。

 彼からの質問――すなわち、私はまもりさんのことが好きなのか?

「そ、その。まもりさんのことは、とても尊敬しています。すごく優しくて、あたたかくて、包み込んでくれる人っていうか……」
「おう。だから、好きなのかって聞いてんだ」

 苛立ちを含んだ眼光で迫られ、私は慌てて答える。

「す、好きは好きですよ!」

 ついそんな告白まがいの言葉を口にしてしまって、私はさらに慌てて付け加えた。

「あっ、好きっていうのはそういう意味じゃなくて、えっと、普通に人としての好きっていうかっ……。間違っても、お二人の仲を邪魔するような感情ではありませんから!」
「はあ?」

 あ、いま余計なことを言ったかも――なんて考えているうちに、流星さんはその整った顔を斜めに歪ませて、

「お前、何か勘違いしてねーか?」
「へ?」

 勘違い。

 何のことだかわからず、私は無意識のうちにまもりさんの方へ縋るような視線を向けていた。

 すると彼は、私の心中を汲み取ったかのように穏やかな微笑を浮かべて言った。

「流星は僕の従兄弟(いとこ)だよ。昔から仲は良いけれど、変な意味じゃないから誤解しないでね」
「え?」

(従兄弟……?)

 思わぬ返答に、私は拍子抜けする。

「え。従兄弟って、あの……親戚同士ってことですか? じゃあ、まもりさんの待っている人っていうのは、流星さんのことじゃなかったんですか?」

 そんな私の反応を見て、まもりさんは少しだけ驚いたような顔をしていたけれど、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻り、

「僕がわざわざ待っていなくても、流星は勝手にやってくるよ。こう見えて彼はおせっかいだからね。僕の代わりに、掃除や洗濯をしにここまで来てくれるんだ」
「なんだよ。嫌ならもう来てやんねーぞ」

 相変わらず恐い声で言う流星さん。
 けれど、本気で怒っているわけではないということが私にも段々とわかってきた。
 彼の言葉の端々には、確かな思いやりの心が窺える。

 彼はまもりさんのことを大事にしている。
 けれどそれは恋愛的なものではなくて、あくまでも家族や友人に向けるような愛情からくるもののようだ。

(な、なんだ……よかった)

 思わずホッとする。

 って、なんで私がホッとする必要があるんだろう?





       〇





 それからまもりさんは、流星さんについて色んなことを教えてくれた。

 流星さんとは昔から仲が良かったこと。
 家はここから少し遠いこと。
 ご両親のお店は海水浴場にある海の家であること。
 そこで食べる焼きそばが格別に美味しいこと。
 などなど。

 まもりさんが話している間、流星さんはほとんど口を開かなかった。
 ぶすっとした表情のまま、部屋のあちこちを不満そうに眺めている。

 そうして時折、私の持ってきた高校のカバンに目を留める。

 一体何を見ているのだろう――と私も釣られて目をやると、そこに見えたのは例のストラップだった。
 いのりちゃんからもらった、テディベアのストラップ。

 流星さんの恐い顔からはイメージしにくいけれど、意外とこういう可愛いものが好きだったりするんだろうか?
 ……なんて言ったら怒られそうなので、口にはしないけれど。





 そのうち、時計の針は十九時を回った。
 辺りは段々と暗くなって、テーブルにはキャンドルの火が灯される。

 そろそろ帰らなければ、と私が席を立つと、

「俺が送る。車を出すからちょっと待ってろ」

 と、まさかの流星さんが言った。

「え。送る……?」
「なんだよ。嫌なのか?」

 じろりと睨まれて、私は慌てて頭を振る。

「僕も一緒に行くよ」

 まもりさんが腰を上げながら言った。

 その声に私はホッと胸を撫で下ろす。
 送ってくれるのはありがたいのだけれど、さすがに流星さんと二人きりで車に乗るのはちょっと緊張する。

 しかし、

「お前は店番してろ。閉店まではまだ時間があるんだろ」

 そう流星さんが言って、まもりさんは苦笑した。

 そういえば、お店が閉まるのは確か二十時だったはず。
 あまりにもお客さんが入って来ないので忘れそうになるけれど、ここはただの家ではなく、立派なカフェなのだ。
 私のために営業時間を短縮させるわけにはいかない。

 けれどまもりさんは、

「ちょっとくらい早めに閉めたって大丈夫だよ。どうせ開けていても、お客さんが来る可能性は限りなくゼロに近いからね」

 そう、当たり前のことのように言う。

「だめだ。閉店時間まではここにいろ」

 有無を言わさぬ声で流星さんが制する。
 そして、

「まだ、『待ってる』んだろ?」

 何かを含んだような声で、そう付け足した。

 途端、まもりさんの穏やかな表情がわずかに強張ったように、私の目には映った。
 
 
       ◯



 二人きりの車内は静かだった。
 お互いに何も話さず、道案内のナビの声だけが、私の家へと的確に指示を出してくれる。

 私は窓の外を流れていく黒い景色を見つめながら、先ほどの二人のやり取りを思い出していた。

 ――まだ、待ってるんだろ?

 あの言動からして、流星さんはきっと、まもりさんが誰かを待っていることを知っている。
 そして、その相手が誰なのかも、きっと。

(どんな人なんだろう……)

 聞いてみたい、と思った。
 流星さんに聞けば、まもりさんが誰を、何のために待っているのかもわかるかもしれない。

 けれど、それではまもりさんのプライベートを勝手に詮索することになる。
 本人が未だに話してくれない情報を、第三者から探ろうとするのは失礼な気もする。

 やっぱり、まもりさんが自分から話してくれるのを待つしかないか――と、小さく溜息を吐いたとき。

「お前、まもりのことは大事か?」

 と、それまで沈黙を続けていた流星さんが唐突に口を開いた。

「え、大事……?」

 大事、という言葉の意味を計りかねた私は、少しだけ反応が遅れた。

 さっき店にいたときには「好きなのか」という質問だったけれど、今回は「大事」という言葉を使っている。
 ということは、今回と前回の質問とでは微妙にニュアンスが違うようだ。

「お前があいつを大事だと思うのなら、あの店にはもう二度と行くな」
「え……?」

 続けられた言葉に、私は驚きを隠せなかった。

 どうして、と尋ねようとした私の声を遮るように、流星さんは再び口を開く。

「お前も、あいつの魔法を見たんだろ? あいつは困ってる人間を見たら形振り構わず魔法を使っちまう。今日だって、近所の悪ガキが母親の私物を壊しちまったから直せとか言ってきやがったんだ」

 その言葉で、私は例の男の子のことを思い出した。

 ちょうど、私がお店へやってきたときに入れ替わりで出ていった、あの男の子。
 その腕には確かドールハウスのようなものが抱かれていたと思うが、やはり今回もまた、まもりさんを頼ってきたらしい。

「今回のは簡単に直せるやつだったから、俺が修理してやったけどな。普段はまもりが魔法で直してやってるらしい。あんなのが入り浸ってるんじゃ、まもりの身体が持たねーだろ。魔法を使うのはタダじゃ済まねーんだから」

「それは……」

 私も、同じことを考えていた。

 けれど、

「でも、だからこそ、何かあったときのためにも、まもりさんのそばには誰かがいた方がいいんじゃないですか? 私、何の役にも立てないかもしれませんけど……でも、まもりさんが本当に危険な魔法を使おうとしていたら、そのときは私だって止めに入りますし――」

「わかってねーなあ」

 いつにも増して不機嫌な声が、車内に響いた。

「あいつは困ってる奴を見ると放っとけねーんだよ。あのガキんちょだけじゃねえ。俺やお前のためにだって、あいつは魔法を使っちまうんだ。だから、誰かと一緒にいるだけであいつは必ず危険な目に遭う。あいつが平穏無事に暮らしていくためには、一人にさせておくのが一番なんだよ。それに――」

 溜まっていたものを吐き出すようにして、流星さんは言う。

「あいつはな、今まで何度も人の記憶を魔法で消してきたんだ。友達も、知り合いも、みんなあいつのことを忘れちまうようにな。それがどれだけ覚悟のいることだか、お前にわかるか?」

「!」

 その言葉で、私は先日のことを思い出す。

 まもりさんに、私の記憶を消されそうになったときのことだ。

 ――僕と一緒にいると、君はきっと、僕のために何度も泣いてしまうだろう?

 私が泣いてしまうから。
 私を泣かせないために、まもりさんは私の記憶を消そうとした。

 そして、

「……今まで、何度も?」

 流星さんの言うことが本当なら、まもりさんはそれを何度も繰り返しているのだ。
 友達も、知り合いもみんな、まもりさんのことを忘れてしまう。

「そんな……どうして。それじゃあまもりさんは、いつもひとりぼっちになってしまうじゃないですか。そんなの、絶対に寂しいはずなのに、どうして」

「あいつの性格を見てりゃわかるだろ? 周りに心配をかけないようにするためだよ。こうでもしなきゃ、お前みたいに、あいつを心配する奴がいくらでも増えちまう。かといって、あいつに魔法を使うな、なんて言っても無駄だろうし。だから――」

 言いながら、流星さんはどこか後悔するような苦い顔をした。

「……だから、俺も同意したんだ。魔法で記憶を消すって。そうでもしなきゃ、あいつはきっと生きていけねえ。……今まで、どれだけ寂しい思いをさせたかもわからねえ。けど、俺にはそれしか方法が見つからなかったんだ。あんなひと気のねえ森に住まわせてるのも、俺の意思だ。客なんか来なくていい。ただ、あいつが生きていてくれさえすれば……」

 悔しげに語る流星さんの横顔を見ながら、私は何も言い返せなかった。

 流星さんはそんな風に考えていたんだ――と、まるで予想していなかった彼の思いにただ戸惑うばかりだった。

 私がいると、まもりさんが魔法を使ってしまうかもしれない――そう考えたとき、真っ先に思い出されたのは、私が初めてまもりさんと会った日のことだった。

 あの雨の日に、大事なストラップを失くして泣いていた私。
 それを助けてくれたのはまさに、まもりさんの魔法による力だった。

「あいつのそばに誰かがいると、あいつはいつか死ぬかもしれねえ。わかったなら、もう関わるな」
「…………」

 そこから何も話せないまま、やがて車は私の家へとたどり着いた。

 静寂の中で、私たちは別れた。

「……話してくれて、ありがとうございました」

 小さく礼を述べた私の声は、走り去る車の音にかき消された。

 



       〇





 次の日から、私があの店へ行くことはなくなった。

 学校への行き帰りには必ずあの森の前を通るけれど、そのときは横目でちらりと確認をするだけで、足早にその場を去る。

 脳裏には、流星さんから言われたことがずっとこびりついていた。

 ――あいつはいつか死ぬかもしれねえ。

 死ぬ、という言葉の響きを思い出すたび、私は身震いした。

 自分よりも他人のことを優先する、心優しいまもりさん。
 彼はその優しさから、自らの身を滅ぼしてしまうかもしれない。

 私がそばにいることで、彼は私のために魔法を使って、いつか死んでしまうかもしれない。
 それはつまり私の存在が、彼を殺すことになるということだ。

(やっぱり……会わない方がいいよね)

 彼をあの森の奥で一人にさせておくのは心配だけれど、今は流星さんがいる。

 いや、もともと二人は昔から一緒だったのだ。
 私なんかがまもりさんの心配をしなくたって、彼のことは流星さんが守ってくれる。

 私があの店へ足を運ぶ理由なんて何もない。

 なのにどうして、私の心はこんなにもモヤモヤとしているのだろう?

(こんなとき、いのりちゃんがいてくれたら……)

 わずかな期待を抱きながら、スマホでSNSの画面を開く。

 しかし、いのりちゃんからの新着メッセージの通知はなかった。

 数日前に私が送ったメッセージにも返信はない。
 既読のマークは付いているので、一応目だけは通してくれているみたいだけれど。

(……文字だけで話しかけたって、だめだよね。ちゃんと顔を見て伝えなきゃ……)

 高校からの帰り道をとぼとぼと歩いていると、ふと、カバンにぶら下げていた例のストラップが目に入った。

 いのりちゃんがくれた、テディベアのストラップ。
 これを見ると、彼女のことを思い出すのと同時に、まもりさんの笑顔が頭に浮かぶ。

 二人との思い出が詰まった、私の大切な宝物。

 結局、いのりちゃんとはケンカしたまま、今度はまもりさんとも会うことができなくなってしまった。

 寂しい、なんていうのは私の勝手な感情だけれど。
 せめていのりちゃんとは、ちゃんと話し合って、早く仲直りをしなければ。

 彼女は一体何を怒っている?

 私は、彼女の何を傷つけてしまったのか?

 考えているうちに、何か大事なことを思い出したときのような、フラッシュバックのような映像が、唐突に頭に中に飛び込んできた。

「……!」

 いのりちゃんが泣いている。
 泣きながら、何かを必死に叫んでいる。
 私にではない、誰か他の人に向かって。

(これは……)

 強烈な既視感だった。

 一体いつの記憶だろう?

 私とケンカをしたときも、彼女は泣いていた。
 けれどこの映像は、そのときのものとは違う。

 たった一秒ほどの、短い記憶。
 思い出せたのはそれだけだったけれど、その刹那的な瞬間の中にも、様々な感情が込められていたような気がする。

 何だろう。
 何かを思い出しそうになって、けれど何も思い出せない。
 まるで何か不思議な力によって、記憶に(ふた)をされているかのようだ。

 なんだか胸騒ぎがする。

 私は、何か大事なことを忘れている?

 そう不安になりながらも、私はやっと我に返り、いつのまにか俯いていた視線をわずかに上げた。

 すると、

(……あ)

 道の先に、一人の男性が立っていた。
 その人はコンクリートの塀に背を預けながら、ぼんやりと空を眺めている。

 白いシャツに黒いパンツ姿で、腰にはエプロンを掛けている。
 塀のすぐ隣には、例の暗い森の入り口があった。

 線の細い、中性的な顔立ちをしたその男性の横顔には、ひどく見覚えがあった。

(あれは、……まもりさん?)
 
 
 まもりさんが、そこに立っていた。

 一瞬、幻かと思った。

 私がぼうっと突っ立っていると、彼はやっとこちらに気づいたようで、

「……絵馬ちゃん」

 と、いつになく掠れた声で言った。

 数日ぶりに見た彼の顔は、どことなく青白い。
 ほんのりと垂れ下がった目尻からは、どこか疲れたような印象を受ける。

「まもりさん。どうしたんですか、そんな所で……」

 私が駆け寄ると、彼は疲れた表情のまま、ふっと頬を緩ませた。

「君のことを待ってたんだよ」
「え?」

 いきなり冗談のようなことを言われて、私は面食らった。

「最近来てくれないから、寂しくてね。ここで待っていれば会えるかなと思って」
「……そんな」

 たとえ冗談でも、嬉しいと思った。
 まもりさんがそんなことを言ってくれるなんて。

 でも、彼がずっと待っている相手は、私ではない――それを思い出して、私は浮かれそうになっていた思考を慌てて振り払う。

 彼が待っているのは私ではなく、私の知らない、彼にとって特別な人なのだ。
 こうして珍しく森の外に立っているのもきっと、たまたま外の空気を吸いに出てきただけだろう。

 けれどまもりさんはそんなことをおくびにも出さず、まるで本当に私のことを待ってくれていたかのように話を続けた。

「本当に寂しかったんだよ。少し前までは毎日ここへ寄ってくれていたのに、いきなり来なくなっちゃったから」
「す、すみません……」

 思わず謝ると、まもりさんは穏やかな笑みを浮かべたままゆっくりと頭を振る。

「君が謝ることじゃないよ。だって君は……僕のためを思って、ここに来なかったんでしょ?」
「え?」

 どうやらその件については、すでに流星さんから聞き出していたらしい。
 あの日、車の中で私と流星さんがどんな会話をしたのかはすべて筒抜けのようだった。

「謝るのは僕の方だよ。君に余計な気を遣わせてしまったからね」
「そんな。私は別に……」

 まもりさんが謝ることなんてない。私はただ、怖くなって逃げ出しただけだ。

 私のせいで、彼が死んでしまうかもしれない――それが怖くて、私は自らこの店を離れようとした。
 それはただ私が楽になるためだけの、勝手な行動だった。

 けれどまもりさんは、まるですべての責任が自分の方にあったかのように言う。

「本当に、自分が情けないよ。僕の魔法が未熟でなければ……――僕の心が『(けが)れて』さえいなければ……最初から、こんな風に君を不安にさせることもなかったのに」

「え……?」

 彼の口から漏れたその言葉の意味を、私はすぐに理解することができなかった。

(心が、穢れている……?)

 思いがけない言葉だった。
 一体どういう意味だろう?

「穢れている……って、どういうことですか?」

 思わず聞き返していた。

「文字通りの意味だよ。僕の心は穢れている。だからこそ、僕の魔法は未熟なんだ」
「未熟? って、何言ってるんですか。まもりさんの魔法は、全然失敗したりしないじゃないですか」

 私は反論した。

 彼の魔法は完璧だった。
 私のストラップを探してくれたときも、あの小さな男の子の人形を直したときも。
 まもりさんのおかげでストラップは見つかったし、人形の腕も元通りになった。

 けれどまもりさんはどこか暗い顔をしたまま、

「ごめんね。実は……僕は君に、一つ嘘を吐いたんだ」
「嘘?」

 どくん、と心臓が跳ねた。

 まもりさんが嘘を吐いた?
 いつ、何を?

 思わず身構える私に、彼は寂しそうな目を向けて言った。

「前に僕は、魔法はタダじゃないと言ったね。魔法を使えばその分だけ、何かしらの代償があると。けれど本当は……魔法を使うときに、僕の心が『穢れて』さえいなければ、報いを受けることなんてないんだ」
「え……?」

 心が穢れてさえいなければ、報いを受けることはない。

「どういう、ことですか? それってつまり……魔法がちゃんと成功すれば、報いを受けなくて済むってことですか?」

 魔法の代償を受けなくて済む方法が、あるかもしれない。

 今までまもりさんが魔法による報いを受けてきたのは、彼の言うように、彼の魔法が『未熟』だったから……なのか?

「そう。僕が報いを受けてしまうのは、それだけ僕の心が穢れていて未熟だからなんだよ」

 『未熟』というのがどの程度のことをいうのかはわからない。
 けれど、『穢れている』という言葉には、私は納得がいかなかった。

 心が穢れている人というのは、自分のことばかり考えて、私利私欲のために他人を蔑ろにするような人のことではないだろうか。

「……何かの、間違いじゃないですか? まもりさんの心が穢れているだなんて、そんな風には思えません。だってまもりさんは、いつも自分のためじゃなくて、人のために魔法を使っているじゃないですか」

 魔法を使う人の心が穢れていたら、その報いを受けてしまう――それが本当なら、なぜ、まもりさんは報いを受けてしまうのだろう?

 彼は常に自分のことよりも、他人のことを優先する。
 魔法を使うときだって、彼は自分のためではなく人のために尽くしているのだ。
 そんな思いやりのある人の心が穢れているだなんて、私には到底思えない。

「……確かに、魔法を使うのは『誰かの願いを聞き入れたとき』だけだよ。もともと魔法というのは、自分のために使うことはできないものだからね。でも、『誰かのため』というのはただのきっかけにすぎない。僕が魔法を使うのは『誰かのため』でもあり、同時に、『僕自身のため』でもある。僕は胸の内で、見返りを求めているんだよ」

「見返り? ……って、何かお礼をもらうってことですか?」

「そう」

「で、でも私、まもりさんに魔法で助けてもらったとき、何もあげていませんよ?」

「物理的なものは関係ないんだ。僕が求めてしまう見返りは……――『自己満足』のことだよ」

 その返答に、私はますます訳が分からなくなった。

 まもりさんはわずかに視線を落とすと、どこか自嘲するような笑みを浮かべて言った。

「魔法を使って、誰かを救うことができた。だから僕は幸せだ……――そう感じることで、僕は満足する。それはまぎれもない『自己満足』だよ」

「自己満足……? わかりません。どういうことですか?」

「エゴなんだよ。僕はその人を救ったつもりで満足しているけれど、実際には本当にその人のためになったかどうかなんてわからない。僕は僕の厚意を、無理やり相手に押し付けているだけなんだ」

「それは……」

 難しい話だった。
 少なくとも私にとっては。

 誰かのために何かをすることで、満足感を得る――それは、いけないことなのだろうか?

 私が頭を悩ませているうちに、まもりさんはふっと視線を逸らすと、今度は車道の方へと目をやった。

 釣られて私もそちらを見ると、車道を挟んだ向かい側から、一人の男の子が手を振っているのがわかった。

 小さな子。
 小学校の低学年くらいだろうか。

 例の、あの男の子だった。
 彼はまもりさんの顔をまっすぐに見つめたまま、嬉しそうにこちらへ走ってくる。

 私は嫌な予感がした。
 あの子に会うたびに、まもりさんは魔法を使っている。
 今回もまた、何かを修理してほしいと頼みに来たのだろうか。
 見たところ、今は何も手に持っていないようだけれど。

 と、男の子が車道へと差し掛かったとき、私は気づいた。

「!」

 道の先からは、一台の車が接近していた。

 男の子はそれに気づいていない様子で、勢いよく車道へと飛び出した。

「! あぶな――」

 私が制止の声をかけるよりも早く、まもりさんは胸の前で両手を組み、祈りを捧げるようにして頭を垂れた。

(……まもりさん)

 この仕草は、いつも彼が魔法を使うときに見せるものだった。

 瞬間。

 車の前へ飛び出した男の子の身体は、まるで強風に煽られたときのように、不自然に後ろへと押し戻された。

「わっ……!」

 男の子の短い悲鳴と、車の甲高いブレーキ音とが重なる。

 よろめいた男の子の身体は、歩道の上まで押し戻され、勢いよく仰向けに転がった。

 車は戸惑うように一度減速したけれど、やがて男の子の無事を確認したのか、再びスピードを上げてその場を走り去っていった。

「まもりさん……!」

 私はすかさず彼を見た。

 それまで胸の前で両手を組んでいた彼は、ゆっくりと顔を上げると、男の子の方を見てホッと息を吐く。

 いま、彼はあきらかに魔法を使った。

 このままでは魔法の報いを受けてしまう――と、不安になる私を落ち着かせるように、彼は穏やかな声で私に語りかけた。

「……絵馬ちゃん。君は、前に言ったね。僕の優しさは『本当の優しさ』じゃないって……。僕もそう思う。だから……こうして魔法の報いを受けてしまうのは、仕方がないことなんだ」

 そう言い終えるのと同時に、彼は胸の辺りを両手で押さえた。
 そうして苦しそうに小さく呻きながら、ゆっくりとその場に崩れ落ちたのだった。
 
 
     〇



 病院の待合室でまもりさんを待っていると、先に診察室から出てきたのは流星さんだった。

 私は椅子に座ったまま、力なく彼の顔を見上げた。

「軽い脳震盪(のうしんとう)だってよ。幸い意識は早めに戻ったし、特に後遺症もないらしい」
「そう、ですか……」

 ひとまずホッと息を吐く。

 流星さんがいてくれて、本当によかった。

 あのとき――まもりさんが倒れた後、半ばパニックを起こしていた私は救急車を呼ぶことさえ頭に浮かばないほど混乱していた。
 そこへちょうど買い出しに出ていた流星さんが戻ってきてくれたのだ。

 私が説明をしなくとも、彼はすぐに事態を把握して車を出してくれた。

 もしもあのとき彼が帰ってきてくれなかったら、私は結局何もできずに、ただまもりさんの隣で泣いていただけかもしれない。
 魔法の代償によって苦しんでいるまもりさんを助けることもできずに。

 そう思うと、自分が情けなくて恥ずかしくて、穴があったら入りたい気分になる。
 そして何より、まもりさんに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「そんな暗い顔すんな。まもりは助かったんだから」
「…………」

 流星さんに言われて、私は今どんな顔をしているのだろうと、ぼんやりと考えた。

 もうじきまもりさんも診察室から出てくるはずだ。
 彼に会ったとき、私は一体どんな顔をすればいいのだろう?

 流星さんは近くの自動販売機で飲み物を買うと、再びこちらへ戻ってきた。
 そうして手にしたミルクティーの缶を私に手渡して、どかっと私の隣に座る。

「……すみません。私、何もできなくて」

 ミルクティーを両手で握りしめながら、私は項垂れていた。
 今は誰とも目を合わせる勇気がない。
 流星さんとも、まもりさんとも。

「今回のことはお前のせいじゃない。あんまり気に病んでると、まもりが悲しむぞ」

 流星さんが言った。
 励ましてくれているのだろうか。
 ぶっきらぼうな言い方だったけれど、その低い声色とは裏腹に、言葉にはあたたかみが感じられる。

 私が黙っていると、彼は少しだけ間を空けてから、何かを思い出すように天井を見上げて、再び口を開いた。

「最近、まもりの元気がなかったんだよ。お前があの店に来なくなってから」
「え?」

 流星さんはがしがしと頭をかき、次の言葉を選ぶように「うー」と低く唸った。

「だから、まもりはお前の顔を見ねーと落ち込むんだよ。この意味がわかるか?」
「意味……?」

 まもりさんが、落ち込んでいる?
 私の顔を見なかったから?

 それは、私の思い上がりでなければ――私に会えないことを、寂しいと思ってくれたのだろうか。

「まもりさんが……」

 彼が私に、会いたいと思ってくれた?

 いや。
 別に、私でなくてもよかったのかもしれない。

 あの森の奥で、いつも一人で誰かを待っているまもりさん。
 今は流星さんがそばにいるけれど、それもきっと一時的なものだ。
 またしばらくすれば、流星さんは自分の街へと帰ってしまう。
 そして、まもりさんはまた一人になってしまう。

 あんなひと気のない場所でずっと一人でいるなんて、きっと寂しいに決まっている。
 けれどそんな寂しさも、私があの店を訪れることで少しはマシになるのかもしれない。

「……まもりさんは、寂しいのかもしれませんね。あのお店で、ずっと一人でいるから……」

 私がそう呟いたとき、隣に座っていた流星さんはわざとらしく大きな溜息を吐いた。

「……まあ、わかるはずねーよな。どうせお前は覚えてねーんだから」
「え?」

 どこか落胆したような彼の態度に、私は不安になった。
 何か、気に障るようなことを言ってしまっただろうか。

 流星さんはゆっくりとその場に立ち上がると、診察室の方を見据えながら、わずかに声のトーンを落として言った。

「まもりは、あの店でずっと誰かを待ってる。けど、その相手が誰なのかは誰にもわからねーんだ」

 そう言った彼の横顔は真剣だった。

 まもりさんの待っている相手は、誰にもわからない――ということは、流星さんにもわからないということだ。

「そう、なんですか」

 意外だった。
 これだけまもりさんのことをよく知っている流星さんでも、わからないことがあるのだ。

 なら、私は――まだ出会ってから数週間しか経っていない私なんかは、まもりさんのことを何も知らなくて当然だ。
 さっき流星さんが言っていた、まもりさんの元気がない理由も、私には到底想像もつかないものなのだろう。

「おい。ちゃんと俺の話を聞いてたか?」
「え?」

 いきなりそう聞かれて、私はびくりと肩を強張らせた。

 流星さんは首から上だけをこちらに向け、恐い顔で私の方を睨む。

「『誰にも』わからねーんだぞ。俺やお前だけじゃねえ。当人であるまもり自身も、自分が待っている相手の素性を知らねーんだ」

「…………へ?」

 一体何を言っているのか、わからなかった。
 私はぽかんと口を開けたまま固まっていた。

 まもりさんが待っている相手のことを、まもりさん自身も知らない――それは一体、どういうことなのだろう?

「まもりさんも知らないって、どういうことですか? 知らない相手のことを待っているなんて、そんなこと……」

 ありえるのだろうか、そんな話が。

「いいか。これから俺が話すことは、ここだけの秘密だ。間違っても今はまだ、まもりには言うな。それから――」

 流星さんはそこで一度切ると、ほんの少しだけ何かを躊躇してから、やがて再び口を開いた。

「お前の親友の、いのりにも言うな。絶対に」
「!」

 その名前を耳にして、私は一瞬頭が真っ白になった。

 いのり。

 って、いのりちゃんのこと?

 小学校の頃からの幼馴染である、瀬良いのりちゃん。
 私の一番大切な友達。
 そんな彼女のことを、どうして流星さんが知っているのだろう?

 彼女の話を、私は今まで流星さんにしたことがあっただろうか?

「いいか。今はまだ、誰にも言うな。これは俺とお前の、二人だけの秘密だ」

 その忠告に、私はごくりと息を呑む。

 受付時間を終了した病院の中は人通りが少なく、ともすれば私の息を呑む音さえ廊下中に響き渡ってしまいそうな気がした。

 まもりさんはまだ診察室から出てこない。
 それを確認してから、流星さんは重い口を開くようにして、私に『真実』を話し始めた。
 
 
「……ただいまー」

「あら絵馬ちゃん、おかえりなさい。遅かったじゃないの。お腹空いてるでしょ、ご飯できてるわよ」

「ありがとう、ママ。でも今はお腹減ってないから……また明日食べるね」

「?」

 家に帰りついた頃には、時計の針は午後九時を回っていた。
 まもりさんの検査が思ったより長引いたのだ。

 帰りは例のごとく流星さんが車で送ってくれた。
 ついでにコンビニに寄ってオニギリやらサンドイッチやらも買ってくれた。
 相変わらず物腰は荒いけれど、根は世話好きな人なのだということがよくわかる。
 以前まもりさんが言っていた通りだ。

 きっと、不器用な人なのだ。
 見た目からはわかりにくいけれど、流星さんはきっと誰よりも繊細で、まもりさんや私のことを常に気にかけてくれている。

 だからこそ――迷った末に、『あの話』を私に打ち明けてくれたのだ。

「…………」

 私は自室のベッドへ倒れ込むと、そのまま静かに瞳を閉じた。

 そして先ほどの、病院での流星さんとの会話を思い出していた。





       〇





「まもりには記憶がねえんだ」

 開口一番に告げられたのは、そんな言葉だった。

「記憶が、ない?」

 私はミルクティーの缶を握りしめたまま、恐る恐る聞き返した。

 途中、看護師の女性が近くを通りかかったのを見て、流星さんは少しのあいだ口を噤んでいた。
 そうして女性が遠くまで離れると、彼は再び口を開いた。

「あいつが今まで、人の記憶を何度も消してきたことは前に話しただろ? 友達も、知り合いも、みんなあいつのことを忘れちまった。そして……まもり自身も、魔法の代償で記憶を失くしちまってるんだ」

「! そんな……」

 魔法の代償で、まもりさんも記憶を失くした。

 考えてみればそうだ。

 魔法を使うには代償がいる。
 周りの人がまもりさんを忘れたように、彼自身もまた記憶を失くしてしまっているのだ。

「まもりが周りの人間の記憶を消したのは、一度や二度の話じゃねえ。今まで何度も、あいつは人の記憶を消してきた。そうやって……周囲の人間との関わりを、何度も絶ってきたんだ」

 何度も何度も、まもりさんは周りとの関係を絶ってきた。
 そしてその度に、彼自身も記憶を失っていたのだ。

「そんな……。それじゃあまもりさんは、友達も、知り合いも、誰のことも覚えていないということですか?」

 もともと別の街に住んでいたから、この辺りには知り合いはいない――とまもりさんは言っていたけれど、あれは実はそうじゃなくて、ただ彼が過去のことを忘れているだけではないのだろうか。

「友達だけで済めばいいけどな。あいつは……自分の家族のことすら覚えてねえんだよ」

 その事実に、私は驚愕した。

 家族のことすら、覚えていない。

 魔法を使ってしまったことで、彼は友人どころか、家族の記憶すら失ってしまったというのだ。

「ど、どうして……。流星さんのことは覚えているのに、どうして家族のことまで忘れてしまったんですか?」

 流星さんは無言のまま、改めて私の方を向き直った。

 すらりと背の高い彼の身体が、まるで壁のように私の前にそびえていた。
 その迫力に、私は気圧されそうになった。

 彼は一度何かを言おうとして、けれど、すぐにまた口を閉じてしまった。
 そうして何かを思案するように、静かに目を伏せる。

 どうやら慎重に言葉を選んでいるらしい。

「……こんなことになるなんて、俺だって予想してなかったんだ」

 震える拳を握りしめながら、呟くように言う。

 そのまま彼は私の隣へ座り直すと、斜め下を向いたまま、いつになく力のない声で言った。

「まもりは今まで、何度も人の記憶を消してきた。けど、本当に身近な人間の記憶――それこそ俺みたいな親戚や家族の記憶だけは、今まで一度だって消したことがなかったんだ。なのに……」

 彼はそこで一度切ると、さらに声のトーンを落として、か細い声で続けた。

「……今から二ヶ月くらい前の話だ。あのときだけは、まもりは俺に何の相談もなく、自分の判断だけで、身近な人間の記憶を消したんだ。俺のことだけはかろうじて覚えていたが、他の奴のことは……家族の記憶すら失くしちまった。そしてそのときのことを、あいつはきっと後悔している」

 二か月前。
 というと、私がまだあの店の存在を知らなかったときのことだ。

「後悔している……って、記憶を消してしまったことを、ですか?」
「たぶん……。まあ、細かいところまではわかんねーけどな。何せ魔法を使った当人の記憶があやふやになっちまってるんだから」

 言いながら、流星さんはがしがしと頭をかいた。

「ただ、これだけはわかる。あいつが今回失くしちまった記憶の中に、あいつが一番大切にしていた人間の記憶が含まれていたんだよ」

 まもりさんにとって、一番大切な人の記憶。

「それって、もしかして――」

 脳裏で、まもりさんの声が蘇る。

 ――僕は、人を待っているからね。

 間違いない、と思った。

「まもりさんがずっと待っている人って、その人のことなんですか?」

「たぶんな」

 その返答に、私は胸が苦しくなった。

 まもりさんが待っていたのは、まもりさんにとってとても大事な人。
 だけれど、その人のことをまもりさんは忘れてしまっている。

「会いたいって感覚だけが残ってるんだろう。魔法の代償で、一体どれだけの人間の記憶を失ったかは知らねえが――」

 言いながら、流星さんは瞳だけを動かして、私の顔を睨むように見る。

「俺は……あいつが待っているのは、お前のことじゃないかと思ってる」
 
 
「……私っ?」

 耳を疑った。

 何かの冗談かと思った。

 あの暗い森の奥で、まもりさんがずっと待っている相手。
 それが、――私?

「まもりさんが、私を? ……って、そんなわけないじゃないですか。だって私、まもりさんと出会ってからまだ一か月も――」

 経っていない、と言いかけて、私はハッとした。

(まさか……)

 さっき流星さんが言っていた。

 まもりさんは、今まで何度も人の記憶を消している――それが本当なら、今は私が忘れているだけで、

(私とまもりさんは、以前にも会ったことがある……?)

 そんな私の心中を察したのか、流星さんは私の顔を見ながら、こくりと頷いた。

「お前は忘れているだろうけどな。俺たちは前にもこうして会ったことがある。……いや、会うどころか、一緒に何度も遊んだりしたんだ。俺と、まもりと、お前と、そして……いのりも一緒に」

「いのりちゃん、も?」

 胸がざわざわとした。

 私の幼馴染であるいのりちゃん。
 彼女もまた、まもりさんや流星さんと会ったことがあるのだという。

「お前も、まもりも、いのりも、みんな忘れちまっただろうけどな……。俺だけは覚えている。俺たちは子どもの頃から、何度もこうして会っていたんだ」

「子どもの、頃から……?」

 私たちは、今までに何度も会っている。
 それも子どもの頃から。

 まるで信じられないことだけれど、それはつまり――私と彼らは、みんな幼馴染だったということだろうか?

 でも。

「せ、接点がわかりません。私といのりちゃんはともかく、まもりさんと流星さんは私たちと学年も全然違うじゃないですか。特に流星さんは、この街の人でもないですし……」

 学校で出会うこともなければ、お互いに近所に住んでいるわけでもない。
 そんな彼らと私たちが、一体どうやって出会っていたというのだろう?

 混乱する私に対し、流星さんは落ち着いたまま、諭すような声で言った。

「何も不思議なことじゃないさ。まもりといのりは、実の兄妹なんだからな」

「……え?」

 兄妹。

 血の繋がった、兄と妹。
 その響きに、私は水を浴びせられたような感じがした。

「いのりちゃんと……まもりさんが?」

「そうだ。その二人が繋がってるんだから、あとはわかるだろ?」

 言われて、私は混乱した頭を何とか働かせる。

 流星さんは続けた。

「お前といのりは、小さい頃からずっと仲が良かったからな。お前がいのりの家に遊びに来るたび、お前はいつも、まもりに会っていたんだ。そして、あいつらの従兄弟(いとこ)である俺とも、何度も顔を合わせる機会があった」

「そんな。私……覚えていません」

「そりゃそうだろ。魔法で記憶が消えちまったんだから」

 当たり前のように言われて、私はほんの少しだけ胸がちくりと痛んだ。

 まもりさんと、流星さん――幼馴染だったはずの二人の存在を、私は忘れてしまっていたなんて。

「お前は、いのりと特別仲が良かったからな。あの兄妹と一緒に、お前は俺の店にも来たことがあるんだぞ」

「えっ?」

 その言葉に、私は面食らった。

 流星さんのお店。
 というのは確か、海水浴場にある海の家――と、まもりさんが言っていたはず。

「最後に来たのは二か月くらい前だったな。ちょうど、まもりが最後に記憶を消す直前だ」

 二か月前。
 私がまもりさんの店を見つけるよりも前の話だ。
 その頃に私は、流星さんの店に行っていた?

 そう口で言われても、私の記憶は一向に戻ってくる気配がない。

「思えばあれが、お前たちの記憶を消すことになる、直接の原因だったんだろう」

 そう言った流星さんの顔は沈んでいた。
 これから話そうとしている内容に、何か大きな重圧を感じているようだった。

「……聞かせてもらえますか?」

 私が恐る恐る聞くと、彼はどこか緊張した面持ちで頷く。

「あの日はな……まだ五月だってのに、すげー暑い日だったんだ」

 流星さんは語る。

 その日は例年よりも気温が高く、海開きもまだだというのに、すでに何人もの人が海水浴を楽しんでいたのだという。

「家族連れやらカップルやらが楽しそうにしててよ。そいつらを見て、いのりも泳ぎたいって言いだしたんだ。危ないからやめとけって言ったんだけど、聞かなくてさ」

 嫌な予感がした。

 海開き前ということは、遊泳者たちを見守るライフセーバーもまだいない頃だ。
 何かあったときは完全に自己責任ということになる。

「案の定、いのりが溺れたよ。やたら沖の方まで行ったらしくてな。俺は船の切符売りの仕事で離れてたんだが……」

 そこまで聞いて、私は何となく先が読めた。

「もしかして……いのりちゃんを助けるために、まもりさんが魔法を使ったんですか?」
「まあ、そういうことだ」

 やはり。

 溺れているいのりちゃんを見て、まもりさんは魔法を使った。
 きっと、その代償のことなんて本人は考えもしなかったのだろう。

「人の命がかかっている場面だ。魔法の代償はそれなりのものだった。あのとき、まもりは……魔法の報いを受けて、一度死んだんだ」

「!」

 死んだ。

 まもりさんが?

「俺が戻ってきたときには、すでに心臓が止まっていた。いのりもお前も、パニックを起こして号泣していたよ。すぐに心臓マッサージをして、何とか一命は取り留めたけどな」

 まもりさんが、たとえ一時的なこととはいえ、死んでしまった。

 そのとき私は、一体どんな気持ちになっていただろう。

 そして、私と一緒にいた、いのりちゃんも――。

「あのことがあってから、いのりの様子が明らかにおかしくなったんだ。心配性っつーか、周りの人間の怪我にやけに敏感になってさ。その日の夜なんか、俺がちょっと指先を切ったくらいでヒステリックになって」

 その気持ちは、わからなくもない。
 もしも私がいのりちゃんの立場だったら、同じような反応をしていたかもしれないから。

 自分のために、たとえ一時的とはいえ、まもりさんが死んでしまった。
 そのとき負った心の傷は、そう簡単に癒せるものではないと思う。

「あれからすぐだったよ。お前たちが記憶を失くしたのは」

「…………」

 私は何も返事ができなかった。

 これだけ説明されても、私は結局、何の記憶も思い出すことはできなかった。

「俺は……まもりが記憶を消したのは、いのりの心を守るためだったんじゃないかって思ってる。そして、絶対に消したくなかった思い出まで、魔法の代償として失ったんだ」

 流星さんがそう言い終えたとき、がらりと診察室の扉が開いた。

「!」

 私と流星さんはほぼ同時に顔を上げた。

 扉の奥から出てきたのは、穏やかな笑みを浮かべたまもりさんだった。

「お待たせ。遅くなってごめんね」

 久方ぶりに耳にしたその声は、いつも通りの優しい彼のものだった。

「まもりさん。もう、大丈夫なんですか?」

 私は思わず立ち上がり、彼のそばへと駆け寄った。

「うん。もう家に帰ってもいいみたい。心配かけてごめんね」

 ごめんね――と、彼はいつも謝罪の言葉を口にする。

 人のために自分を犠牲にして傷ついた彼が、どうして謝る必要があるのだろう?

 私はなんだか泣きそうになって、

「……本当に、心配したんですよ。もう、無茶なことはしないでください」

 声を震わせながら、そう言った。

 これ以上、危険なことはしないでほしい。
 自分を(ないがし)ろにしないでほしい。

 けれど、この人は。

「うん。……ごめんね」

 と、何度も謝罪の言葉を口にして、困ったように苦笑するだけだった。
 
 
     〇



 翌朝。

 高校までの道のりをとぼとぼと歩きながら、昨夜の病院でのことを思い出す。

 ――あいつが待っているのは、お前のことじゃないかと思ってる。

 あのときの流星さんの言葉が、頭から離れなかった。

 まもりさんがずっと待っている相手。
 それが私かもしれないと彼は言う。

 確かに可能性のことだけで言えば、そう考えられなくもない。
 まもりさんが記憶を失う直前まで、私たちは知り合い同士だったのだから。

 でも。

(本当に、私なのかな……)

 私には、とてもそうだとは思えなかった。

 まもりさんが忘れてしまったのは、何も私のことだけじゃない。
 彼は私のような友人だけでなく、自分の家族のことまでも忘れてしまったのだ。

 もしも、絶対に忘れたくない記憶が彼の中で一つだけあるとしたら、それは私のような友人のことではなく、もっと近しい存在である家族の方なのではないだろうか。

 そう考えると、まもりさんがずっと待っているのは、

(私じゃなくて……いのりちゃん?)

 彼が待っているのは、実の妹であるいのりちゃんのことなのかもしれない。

 流星さんの話では、まもりさんたちの家はもともと父子家庭で、仕事で家を空けることが多い父親に代わって、いつもまもりさんがいのりちゃんの面倒を見ていたという。

 大切な妹の心を守るために、魔法で記憶を消したまもりさん。
 けれど本当は、彼女のことを忘れたくなんてなかったはずだ。

 まもりさんはあの暗い森の中でずっと、家族の迎えを待っているのかもしれない。

(なら、いま私にできることは?)

 まもりさんの魔法によって、私は過去の記憶を失ってしまった。
 けれど、たとえ何も思い出せなくても、今は彼らの事情を知っている。

 流星さんから与えられた情報を頼りに、何か、私にできることはないだろうか。

「…………」

 そのとき、ふと、どこからか視線を感じた。

 気配をたどって顔を上げると、道の先に、一人の女の子が立っているのに気がついた。

 私と同じ高校の制服をまとった、小柄な女子生徒。
 長い髪をポニーテールにして、ほんのりと吊り上がった大きな目をこちらに向けている。

「……いのりちゃん」

 彼女だった。
 私とずっとケンカをしたままの、私の大切な幼馴染。

 互いの目が合った瞬間、彼女は慌てて視線を逸らしたかと思うと、私から逃げるようにして(きびす)を返した。

「いのりちゃん……。ま、待って!」

 私はすかさずその背中を追った。
 そうして後ろ手に彼女の腕を捕まえ、半ば無理やり、身体ごとこちらへ振り向かせる。

「いのりちゃん。どうして私のことを避けるのっ?」

 いま、聞かなければと思った。
 確かめなければならないと思った。

 彼女が私を避けている理由。
 それはもしかすると、消えてしまった記憶に何か関係しているんじゃないか――と、そんな予感がした。

 私たちがケンカをしたのは、記憶が消えた後のことだった。
 そして、そのときのいのりちゃんはどう見ても様子がおかしかった。
 まるで何かに怯えるような、強迫観念にとらわれたときのような感じが、彼女の言動から滲み出ていたのだ。

「いのりちゃん。何か怒ってるの? 私のせいで嫌な思いをしたのなら謝るよ。ごめん。本当にごめん……。でも、訳を聞かせて。どうして私のこと、そんな風に避けるの?」

 思いの丈をぶつけるようにして、私は一息で言った。
 そうしないと、彼女の心がまたすぐに遠くまで行ってしまいそうな気がしたから。

「…………」

 いのりちゃんは気まずそうに目を泳がせた後、恐る恐る私の顔を見上げた。

 至近距離から、互いの視線がぶつかる。
 こんなにも近くで彼女の顔を見たのは久しぶりだった。

 けれど視線を合わせたまま、彼女はなかなか口を開こうとはしない。

「何か、怒ってるんだよね? あの日……車に轢かれそうになったとき、私がいのりちゃんの腕を掴んで引っ張ったから――」

 あの日。

 通学路の途中で、いのりちゃんは車に轢かれそうになった。
 そのとき私は、彼女の腕を強引に引っ張った。
 彼女の身体を安全な場所へ避難させようとして。

「いきなり引っ張ったから、怖がらせちゃった? それとも痛かった? 嫌な思いをしたのなら、正直に言って。私はいのりちゃんに、ちゃんと謝りたいの」

 許してほしいなんて言わない。
 ただ、彼女に謝りたかった。

 彼女がなぜ怒っているのか、その訳を聞いて、そのことに対してちゃんと謝りたかった。

 けれど彼女は、

「……やっぱり絵馬ちゃんは、何もわかってない」
「え?」

 やっと口を開いた彼女からの返答は、私の予想とはまったく違っていた。

 思わず、彼女の腕を掴んでいた手を緩めると、途端にその細い腕はするりと私のもとから離れていく。

 そのまま後ろへ一歩下がった彼女は、私と微妙な距離を保ったまま、睨むような目をこちらに向けた。

「絵馬ちゃんはいつもそう。自分のことは二の次で、いつだって人の心配ばかりしてる。……あのときだってそう。あの日、車に轢かれそうになった私を道の端へ追いやって……そのまま、自分が轢かれそうになってたでしょ?」

(そう、だっけ?)

 言われて、私は当時のことを振り返ってみる。
 けれどあまりにも一瞬のことだったので、はっきりとは思い出せない。

 車は、気づいたときには私たちのすぐ後ろにいて。
 咄嗟に、いのりちゃんの腕を掴んだことだけは覚えている。

「絵馬ちゃんは、人の心配ばかりして……自分自身を(ないがし)ろにしてるんだよ。それを自分で気づいていないからタチが悪い。私なんかと一緒にいたら、絵馬ちゃんはきっと……いつか死んでしまう」

「!」

 一緒にいると、いつか死んでしまう――それはまるで、私がまもりさんに対して抱いていた不安と同じだった。

「私は……絵馬ちゃんのことを傷つけたくない。この気持ちは、わかってもらえなくたっていいよ。このままずっと仲直りができなくたって、私は……絵馬ちゃんが元気でいてくれるなら、それでいいから」

 言い終えるのと同時に彼女はこちらに背を向けると、そのまま走り去ってしまった。

「いのりちゃん……っ」

 私の声に、彼女は振り向かなかった。

 遠くなる彼女の背中を、私はひとり路上に残されたまま、ただ見送ることしかできなかった。





     〇





(いのりちゃんが私を避けるようになった理由は……私がまもりさんの店へ近寄らなくなったのと、同じ?)

 いのりちゃんの本音を聞いてから、すでに数日が経っていた。
 梅雨も終盤に差し掛かり、教室の窓から差す陽射しも厳しくなってきた。
 もうじき夏休みがやってくる。

 いのりちゃんとはあれから一度も顔を合わせていない。
 そしてまもりさんの店にも、まったく顔を出していない。

(私……どうしたらいいんだろう)

 私は頭を抱えていた。
 何か行動を起こそうとすると、すべてが悪い方向へ行ってしまうような気がしてしまう。

 いのりちゃんは私と一緒にいると、いつか私が死ぬかもしれないと言った。
 それは心配が過ぎるような気もするけれど、彼女の心を苦しめている原因であることは確かだった。

 あれだけ彼女が過剰に心配するのは、もしかすると――消えてしまった記憶の断片が、心の中に少しだけ残っているからなのかもしれない。

 二ヶ月前、海で溺れたときのこと。
 自分の身代わりに、まもりさんが死んでしまったこと。

 そのこと自体を忘れても、心に負った傷だけはどこかに残っているのかもしれない。

 まもりさんが、忘れてしまった誰かを待つのと同じように。
 いのりちゃんもまた、忘れてしまった不安に押しつぶされそうになっているのかもしれない。

 そんな彼らの事情を知っている私は、いま何をするべきなのだろう?
 少なくとも、ここでただ何もせずに知らぬ顔をしている場合ではないような気がする。

 と、そんなことばかり考えて授業の内容をまったく聞いていなかったとき、不意にスマホのバイブが震えた。

「!」

 見ると、流星さんからメッセージが届いていた。

『今日から実家の店の手伝いに戻る。もし気が向いたらまた、まもりの様子を見に行ってやってくれ』

 その内容に、私はまた不安になった。

 流星さんが実家に帰ってしまう。
 また、まもりさんが一人になってしまう。

 こうして流星さんがメッセージをくれたということは、やはり彼もまもりさんのことが心配なのだろう。
 まもりさんが、また寂しい思いをするかもしれないから。

(でも、私が会いに行ったら……)

 また、彼を危険な目に遭わせてしまうかもしれない。

 けれど、だからといって、彼をひとりにさせたくもない。

 流星さんもきっと、私と同じ気持ちなのだ。

 私はしばらく悩んだ末、結局はその日の放課後に、久々にあの店へ寄ることにしたのだった。
 

あばらやカフェの魔法使い

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