「これは、君が壊したの?」
お兄ちゃん、と呼ばれた彼は男の子の方へと歩み寄り、床に膝をついて目線を合わせた。
男の子は悔しそうに口をへの字に曲げて、
「ママが大事にしてたものなんだ。勝手に触ったってバレたら怒られちゃう!」
と、急かすように訴えた。
そのやり取りから察するに、どうやら二人はお互いに面識はあるものの、家族や親戚といった繋がりはないようだった。
おそらくは近所に住む知り合い同士なのだろう。
幼いやんちゃな男の子が、近所のお兄さんに助けを求めてきたのだ。
「これは……直すのは難しそうだね」
人形の腕に触れながら、彼は難色を示した。
これが例えば布製のぬいぐるみならば、何とか縫い直すこともできたかもしれない。
けれど今回のそれはヴィンテージもののビスク・ドール。
磁器で出来たその腕を直すには、プロの修理屋に頼むしかない。
「お兄ちゃんなら直せるんでしょっ? いつもみたいに魔法で直してよ!」
(魔法……?)
男の子の放った突拍子もない言葉に、私は驚いていた。
と同時に、昨日の光景を思い出す。
昨日の夕方。
私のストラップを探しに行こうと言った彼が、何か祈りを捧げるようにして両手を組むと、それまで激しく降っていた雨はぴたりと止んだ。
空には虹が現れ、その麓に向かえば、探し物はすぐに見つかった。
それらは普通ではありえない光景で、まるで魔法のようだった。
「お願いだよ。お兄ちゃんだけが頼りなんだ!」
目の前の男の子は必死に訴える。
その声で私は我に返った。
(そんな、まさかね……)
さすがに考えすぎだろう。
それよりも今は、壊れた人形をどうするかだ。
正直に言うと、私はこの男の子の要求にちょっと引いていた。
人形が壊れてしまった原因は、どうあがいてもこの男の子本人にある。
勝手に触ったら怒られる──それを知っていながらイタズラをしたのだから尚更。
反省の意味も込めて、今回は母親に本当のことを白状した方がいい。
その方が本人のためにもなるし――と、そう考える私の前で、
「わかった。じゃあ、ママには内緒だよ?」
「やったあ! お兄ちゃん、だーいすきっ」
と、たやすく交渉は成立してしまった。
一体どうやって直すつもりなのかはわからないけれど、人形を秘密裏に修理することは決定したようだった。
男の子はその小さな全身で喜びを表現する。
その向かいでニコニコと満足そうに微笑んでいる彼に、私は不安になってこっそり耳打ちした。
「あの、いいんですか? こういうときはちゃんと間違いを正してあげないと、教育に悪いっていうか……」
子どもの間違いを黙って見過ごすどころか、あまつさえ証拠隠滅に手を貸すなんて。
「だって可哀想じゃないか」
彼はごく自然に、当たり前のことのように言う。
「それは、そうですけど……」
私は少しだけ言い淀んでいたけれど、やはり見逃すわけにはいかず、意を決して言った。
「あなたがそうしたいとおっしゃるのなら、それを止める権利は私にはありません。でも、いくら可哀想だからといっても、何でもかんでも相手の望みを叶えてしまうというのは本当の優しさではないと思いますよ。……少なくとも、私は」
言いながら私は、どんどん気まずい気持ちになっていた。
これではまるで説教だ。
目上の人に、それも恩人である彼に対して言うのは失礼だったかもしれない。
「……すみません、生意気なことを言って」
居た堪れなくなり、小さく謝罪する。
そんな私に彼は嫌な顔一つせず、ほんの少しだけ寂しそうに微笑んだかと思うと、
「……君の言っていることは、きっと正しい。僕も、頭ではわかっているつもりなんだ」
「え?」
彼はそう言うと、今度はいたずらっぽく苦笑して、
「だけど、ごめんね。今回だけは、どうか見逃してほしいんだ」
言い終えるが早いか、彼は男の子の方へ向き直ると、目の前の人形へと手を伸ばした。
そうして男の子の小さな両手ごと、そっと包み込む。
一体どうするつもりだろう――と、私が目を凝らしていると。
「!」
不意にどこからともなく、真っ白な光が辺りを包んだ。
「わっ……!?」
目を開けていられないほどの、まばゆい光。
私は反射的に目を瞑った。
何が起きたのかはわからなかった。
一体何の光だろう?
外はもう夕方で薄暗いし、部屋の照明は壊れていて使えない。
こんな強い光がいきなり生まれるような状況ではなかったのに。
「…………?」
やがて光がおさまってくると、私はそろそろと目を開けた。
そして、
「!」
その場の光景に、目を疑った。
二人の手の中にあった、腕のちぎれた人形。
その腕がいつのまにか、しっかりと胴体にくっついている。
「え……?」
思わず私はぽかんとして、まぬけな声を漏らしていた。
修繕したような跡はどこにもない。
まるで新品のような傷一つないビスク・ドールが、男の子の腕に抱かれている。
「わあ、すごい!」
すっかり元通りとなった人形を見て、男の子は飛び上がって喜んだ。
「ありがとう、お兄ちゃん! 今日も助かったよ!」
男の子はそれだけ言うと、もう用はないといわんばかりに足早に店を出ていった。
静かになった部屋の中で、私は恐る恐る口を開いた。
「……いま、何をしたんですか?」
ゆっくりと立ち上がった彼の背中に、私は問いかける。
一体どうやって人形を直したのだろう。
まさかとは思うけれど、
「今のって、もしかして本当に……魔法、なんですか?」
尋ねずにはいられなかった。
昨日のことも、さっきのことも。
奇跡か、魔法か、まるでそういった類のものとしか思えない。
「…………」
背を向けたまま、彼は答えない。
「あの……?」
何の反応もない彼の様子に、私が戸惑っていると、
「――……う」
彼は突然、胸の辺りを押さえて前のめりになった。
何か、耐えがたい激痛に耐えている――そんな仕草だった。
「ど、どうしたんですかっ?」
私は慌てて彼の背に駆け寄った。
そうして俯いた彼の顔を横から覗き込んでみると、額に脂汗がにじんでいるのが見えた。
「大丈夫ですか? どこか痛むんですか? 一度横に――」
「いけない。僕から離れて……!」
「えっ?」
珍しく彼が声を荒げた、その瞬間。
気づいたときには、私の身体は、彼の腕に突き飛ばされていた。
たまらず後ろへ仰け反り、世界が反転する。
その視界の端で、
「ッ……!」
何か鋭利なモノが、彼の左腕を切り裂いた――ように見えた。
何もない所で、本当に突然、彼の左腕――ちょうど人形の腕がちぎれていたのと同じ肩口の辺りから、真っ赤な血が噴き出したのだ。
(えっ……?)
何が起きたのかわからなかった。
混乱したまま、私は尻餅をつく。
そうして目を丸くして、目の前の彼を見上げた。
それまで苦しそうに胸を押さえていた彼は、今度は左腕を押さえてその場にしゃがみ込んだ。
押さえた個所からは赤い色がじわりとシャツに染み込み、そこからぽたぽたと滴を垂らし、床を汚す。
みるみるうちに、床には小さな血だまりが出来た。
彼の左腕は、あきらかに負傷していた。
(……何が起こったの?)
訳がわからず、私はただ呆然としていた。
一体何が起こったのか。
わからない。
けれど、ただ一つだけ確かなのは、彼が怪我をしたということだ。
「た、大変……。すぐに救急車を――」
「待って」
すかさずスマホを取り出した私の手を、彼はおもむろに掴んだ。
「大丈夫。こんなのかすり傷だよ」
「な、何言ってるんですか。こんなに血が出てるのに」
私は震える声で反論した。
私の手首を掴む彼の手は、生温かい血で滑っていた。
「あまり大事にしたくないんだ。それに……これが、魔法を使うということなんだから」
「……どういう、ことですか?」
彼は今度こそ、『魔法』という言葉をはっきりと口にした。