あばらやカフェの魔法使い

 
 その日は、小さなぬいぐるみを失くした。

 高校のカバンにぶら下げていた、テディベアのストラップ。

 いのりちゃんから貰ったものだ。
 去年の私の誕生日に、彼女がその手で作ってくれた。
 私の宝物。

(ない……。どこかで落とした? 確か学校を出るときはまだ付いていたはず……)

 気づいたのは、帰宅してすぐのことだった。
 なんとなくカバンが軽いな、とは思ったけれど。

 まさかよりによってコレを、このタイミングで落としてしまうなんて。





 すぐさま家を飛び出した私は、もときた道を小走りで戻った。
 どこかで落としたのなら、この道なりにあるはず。

 幸い、家から学校までは歩いても三十分ほどの距離だ。
 急いで探せばきっと見つかる――と、甘く見ていた私がバカだった。

 かれこれ二時間ほどは探しているけれど、ストラップの姿は一向に見当たらない。
 西の空は段々と赤みを帯び、辺りは少しずつ暗くなっていく。

「な、なんで……」

 思わず泣きそうになった。

 すでに通学路を二往復した私の足は震え始めていた。
 走るのに疲れたからというよりは、悲しくて仕方がなかったからだ。

 よりによって、このタイミング。

 いのりちゃんとは昨日、生まれて初めての大ゲンカをしたばかりなのだ。

 幼い頃からずっと一緒だった私たちは、たまに軽い言い合いはすることがあっても、ここまで大きなケンカをしたことはなかった。
 そして、今日もまだ仲直りはできていない。

 このタイミングで、彼女からの大事なプレゼントを失くしてしまった。

 毎日カバンにぶら下げていたストラップを、ケンカしてすぐに外してしまう――それはきっと、いのりちゃんからすれば、私の挑発行為にしか見えないはずだ。
 早く仲直りがしたいと思っている私の本心とは正反対の行動である。

(悪いことって、どうしてこう重なるのかな……)

 運が悪い、なんて思いたくはないけれど。
 それでも神様を呪わずにはいられなかった。

 溜息を吐いてから天を仰ぐと、ぽつりと鼻先に水滴が落ちてくる。

(もしかして、雨?)

 このタイミングで、雨が降ってきた。
 凹んでいる私に追い打ちをかけるような、ちょっと強めのにわか雨。
 容赦のない水責めに、髪も、制服も、すべてがずぶ濡れになる。

 今朝の天気予報では、今日は雨が降るなんて一言も言っていなかったのに。
 梅雨入りだって、まだ数日は先のことだと言っていたのに。

「……うぅ……っ」

 あまりの仕打ちに耐え切れなくなって、私はついに涙を零した。
 その場にうずくまり、膝に顔を押し当てる。

 情けない。
 高校一年生にもなって、路上でひとりで泣いているなんて。

 昔からそうだった。
 困ったことがあると、すぐに泣いてしまう。

 泣いても仕方がないのはわかっているのに、勝手に涙が溢れてきてしまう。
 こんな子どもみたいな姿、誰にも見せたくはないのに。

 けれど、幸か不幸か、この辺りはひと気が少ない。

 道の横には、暗い森の入り口がある。
 閑静な住宅街の中で、ここだけが異様な雰囲気を放っている。

 森の奥には、廃墟と成り果てた空き家がいくつかあった。
 中には肝試しに使われるような薄気味悪い洋館もあって、普段はあまり人が寄り付かない。

 この場所でなら、少しくらい泣いたって誰にも気づかれないはず。

 と、そう思っていた、そのとき。

「大丈夫?」

 声が降ってきた。

 優しげな声。
 男の人の――。

(……誰?)

 私はそろそろと顔を上げた。

 すると、そこに見えたのは知らない顔。

 線の細い、中性的な顔立ちをした、大学生くらいの男の人だった。
 一瞬女の人かと思うくらいのきれいな人。
 ほんのりと垂れ下がった目尻が、どこか儚げな雰囲気を漂わせている。

 身なりは白いシャツに黒いパンツ。
 腰にはエプロンを掛けているので、どこかのお店の人だろうか。

「どうしたの。何か悲しいことがあった?」

 名前も知らないその人は心配そうにこちらの顔を覗き込み、そして、手にした傘をこちらへ傾けてくれる。

「……あ、え……。ええと……っ」

 いきなりのことに緊張した私は、顔面がカッと熱くなるのを感じた。

 泣き顔を見られた。
 うずくまって泣いているところも。

(は……恥ずかしい!)

 思わずその場に立ち上がり、情けない顔を隠すようにしてすぐさま背を向ける。

「なっななななっなんでもないです!」

 すかさず逃げ出そうとした私に、

「待って」

 彼はそう言って、私の手をそっと掴んだ。

「そのままじゃ風邪をひいちゃうよ。まずは身体を拭かなきゃ。すぐそこに僕の店があるから、おいで」
「え……?」

 言い終えるが早いか、彼は私の手を引いて、森のある方角へと足を進めた。

「えっ、えっ……。あ、あの、一体どこへ?」
「この奥だよ」

 彼の視線の先にあるのは、薄暗い森。
 奥に見えるのは、古びた洋館。
 その外壁はあちこちの塗装が剥がれ、さらには伸び放題になった植物が絡みついている。

 通称・お化け屋敷。
 夏には肝試しの舞台となっているその洋館に向かって、彼は進んでいく。

「えっ、あの。もしかして、ここに入るんですか?」

 まさかの展開に、私は声をひっくり返らせた。

 お店、と彼は言っていたけれど。
 これはどう見てもお店じゃないし、ましてや普通の家でもない。

 こんな怪しげな場所に連れ込んで、まさかとは思うけれど、非合法的な薬を売りつけようとか、何か良からぬことを企んでいるのでは――なんて邪推していると。

「……ん?」

 足元。
 洋館の入口横に立てられた、小さな看板が目に入った。

 『OPEN』――と、黒板になっている表面にはそれだけ書いてある。

(……何がオープン?)

 その小さな立て看板を見下ろしながら、私は首を傾げた。

 薄暗い森の奥に建つ、ボロボロの洋館。
 と、そこに添えられた『開店』を示す文字。

 あまりにも不可解な光景に、私の頭はハテナで埋め尽くされる。

 けれど、私の手を引く彼はおもむろに洋館の入口を開けて、

「さあ、どうぞ。すぐにタオルを持ってくるから、中でゆっくりしててね」

 言いながら、部屋の奥を指し示した。

 私は恐る恐る中を見渡す。

 中は思ったよりも整頓されている――ように見えたけれど、ただ単に物が少ないだけで、床や壁はあちこちに空いた穴が放置されたままだった。

 だだっ広いフローリングの部屋に、四席のテーブルがある。
 洒落た造形のそれは磨けば光りそうではあるけれど、長年手入れされていないのか、至る所に染みや錆びが目立つ。

 天井からぶら下がった照明は割れていて使えそうにない。

 窓が大きなガラス張りになっているので、そこから光は入ってくるけれど。
 それでも、外は高い木々に覆われているため、木漏れ日程度にしか光は届かない。

「ここが……お店?」

 正直なところ、廃墟としか思えない。
 しかしテーブルとイスが並べられているところを見ると、飲食店か何かだろうか。

 私は呆気にとられながらも周囲をきょろきょろと見渡す。

 そうしているうちに、彼はどこからかタオルを持って戻ってきた。

「よかったら座ってね。今、お茶を淹れるから」

 タオルを私に手渡すなり、彼はそう言って奥のキッチンへと向かった。

 半ば放心していた私は、そこでハッとした。

 飲食店(?)でお茶をいただくということはつまり、お金が発生する。

「! す、すみません。私、手ぶらで……今はお金を持っていないんです!」
「お金?」

 きょとん、とした顔で彼はこちらを振り返った。

「なに言ってるの。お金なんかいらないよ」
「え? でも、ここってお店なんじゃ……」
「うん。確かにここはカフェだけれど、君は僕が勝手に連れてきただけだから。お金なんか取らないよ」

(カフェ……!?)

 お金なんかいらない――という彼の優しさを差し置いて、私の意識は真っ先に『カフェ』という言葉に驚愕していた。
 
 
(ここって、カフェだったんだ……)

 濡れた髪をタオルで拭きながら、古そうなイスに腰を落ち着ける。
 ギシギシと音を立てる木製のイスは、今にも私の体重でつぶれてしまいそうだった。

 ほどなくして、テーブルの上には紅茶とケーキとが運ばれてきた。

「はい、どうぞ。味に自信はないけど、よかったら召し上がれ」

 どうやら彼の手作りらしい。
 チーズケーキだろうか?
 少し焦げ目が目立つような気もするけれど、こんがりと焼きあがっていて香ばしい匂いがする。

「な、なんだかすみません。雨宿りをさせてもらった上に、お茶とケーキまで」
「気にしなくていいよ。これは僕が勝手にやっているだけなんだから」

 そう言って微笑んだ彼の顔は、とても優しげだった。

 そのやわらかな雰囲気に触れて、それまで荒んでいた私の心は少しずつ落ち着きを取り戻し始める。

(良い人だなあ……)

 お店の見た目はちょっと怖いけれど、店主である彼自身はとても優しい人なのかもしれない。

「それで、さっきはどうして泣いていたの?」

 聞かれて、私は例のストラップのことを思い出した。

「その、私……ストラップを探しているんです。学校の帰りにどこかで落としちゃったみたいで」
「ストラップ?」
「はい。小さなテディベアのストラップで……友達から貰ったものなんですけど」

 私が説明している間、彼は私の向かいに座って真剣な眼差しをこちらに向けていた。
 私の話を真面目に聞いてくれているのだと一目でわかる。

 やがて私が説明を終えると、彼は私から視線を逸らさずに、

「大事なものなんだね。大切な友達から貰ったものだから」

 そう、静かな声で理解を示してくれた。

 そんな彼の優しげな声を聞いたとき、私は心のどこかで安堵を覚えた。
 それまで一人で悩んでいた私の心を、理解してくれる人がいた――そう思ったとき、一度は引っ込んだはずの悲しい思いが再び溢れそうになって。

 気づけば私は、また泣いてしまっていた。

「! ごめん。何か気に障ったかな?」

 彼は慌てた様子で私の顔を覗き込む。

「いえ、ごめんなさい。……もう、大丈夫ですから」

 私はタオルを顔に押し当て、必死に嗚咽を噛み殺した。
 なんとか気を落ち着けようと、すかさず紅茶へ手を伸ばす。

 年季の入ったティーカップに注がれた、きれいな色の紅茶。
 それをぐっと一気飲みするように口へ含んだとき、

(……まっず!?)

 あまりの苦味に、思わず噴き出した。

「あっ……。大丈夫?」

 たまらず咳き込んだ私に、彼はそれほど驚いた様子もなく、すぐさま私の隣に立って背中をさすってくれた。

「ごめんね。やっぱり美味しくなかった?」
「……やっぱり……って、どういうことですか……?」

 涙目になりながら、私は掠れた声で尋ねた。

「うん……。実は僕のお茶、美味しいって言われたことがなくて」

 そう言って、彼は困ったように苦笑した。

 美味しいと言われたことがない。
 それって、カフェを営む者としてはかなり致命的では?

「そ、そうなんですか……」

 あ、あはは、と私も苦笑する。

 確かにこの味ではフォローのしようがない。
 まるで茶葉をそのまま食したときのような、とんでもない苦味が凝縮されている。
 一体何をどうすればここまで不味いお茶が出来上がるのか。

(でも、実はすっごく身体に良いお茶なのかもしれないし……)

 そう、ポジティブに考えることにした。
 良薬は口に苦しって言うし。

 けれど、あまりの苦さに舌はビリビリと痺れている。
 せめて口直しをと、今度はケーキに手を伸ばす。

 しかし。

(! あっま……!?)

 反射的にリバースしかけたそれを、両手で必死に抑え込んだ。

 超絶、甘い。
 砂糖の入れ過ぎだろうか。
 これは百パーセント、身体に悪い。

「ごめんね。やっぱりケーキもだめだった?」

 わかっていたと言わんばかりの彼の反応に、私もさすがに疑いの目を向ける。

「あの。失礼ですが、もしかして……お料理はあまり得意じゃないとか……?」

 無礼を承知で聞くと、彼は気まずそうに頬をかきながら、

「うん……。実は料理だけといわず、家事全般が壊滅的にダメで」

 ごめんね、と、何に対してかわからない謝罪を彼は口にする。

 確かに彼の言う通り、家事は全く出来ないらしい。
 料理もダメなら掃除もダメ。
 それによくよく見てみると、彼の着ている白いシャツも襟元はヨレヨレで、全体的にシワがよっている。
 おそらくは洗濯やアイロンがけも下手なのだろう。

 なまじ顔が良いだけに最初は気づかなかったけれど、彼の身なりはどことなくみすぼらしかった。

「……変だって思われるかもしれないね。料理も出来ないのに、カフェをやってるなんて」
「え。あ、いえっ。そんなこと……」

 正直、否定はできない。

「でも、あの……もう少しお掃除をした方が、お客さんも入りやすいんじゃないですか? この建物、結構古いですし……ぱっと見た感じじゃ、ちょっと入りにくいっていうか」

 差し出がましいとは思ったけれど、少しだけ助言してみる。
 さすがにこの有様では、ここに店があること自体、誰にも気づいてもらえないかもしれないから。

「入りにくい?」

 と、なぜかそこだけびっくりしたように彼は聞き返した。

「えっ? あ、はい……」

 予想外の反応に、私も思わず身構える。

 それまで当たり前のように全てを受け止めていた彼が、急に意外そうな顔をしたので、

「す、すみません。言い過ぎました……」

 私は慌てて頭を下げた。

「いや、謝ることじゃないよ。教えてくれてありがとう。入りにくい雰囲気があるのなら、あの人もきっと、ここに来てはくれないだろうから……」
「え?」

 最後の方は、ほとんど独り言のようだった。

「それより、早く君のストラップを探さないとね」

 そう言うと、彼はおもむろに席を立った。

「え。探すって……?」

 私がぼんやりとしているうちに、彼は店の入口の方へと歩いていく。

 まさかとは思うけれど、一緒に探してくれるということだろうか。

 彼は入口の扉を開け、未だ雨の降り続ける外へと繰り出そうとする。

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 私は慌てて彼の後を追いかけ、その細い腕を引き止めた。

 どこまでも優しい彼の、その気持ちは嬉しいけれど。
 さすがにこれ以上お世話になるわけにはいかない。

「あのっ。ストラップを探すのは私一人で大丈夫ですから。それに今はまだ雨も降っていますし……」
「でも、もうじき日が暮れてしまうよ。暗くなったら見つからないかもしれない」

 私の手に引き止められた彼はそう言って、どんよりとした夕空を眺める。

 確かに、このまま夜になってしまえば捜索はさらに困難を極めるだろう。

 でも。

「そのときは、また……朝になってから探すので大丈夫ですよ」

 無理やり笑顔を作って、私は言った。

 本当は、朝までなんて待てない。
 たとえ徹夜をしてでも、私はストラップを探すつもりだった。

 だってあれは――いのりちゃんから貰った、私の大切な宝物だったから。

 けれど、

「いいや、いま探そう。心配しなくても、必ず見つかるよ」

 そう、彼は言った。

「え……?」

 私は情けない顔をしたまま、彼の顔を見上げる。

「大切な友達がくれた、大事なものなんでしょ。大丈夫。君がその友達を大切に思うのなら、きっと神様は味方してくれるよ」

 そう言った彼の声は、相変わらず穏やかではあるものの、どこか力強く私の耳に響いた。

 そして、私の不安を取り払ってくれるような、そのあたたかな眼差し。

 彼を見ていると、まるで本当にすぐ見つかるような気さえする。

「さて。ちょっと待っててね」

 彼はそう言うと、再びこちらに背を向けた。
 そうして胸の前で両手を組んだかと思うと、静かに目を閉じ、何か祈りを捧げるようにして頭を垂れる。

「?」

 一体何をしているのだろう。

 首を傾げながら、私が静かに待っていると、

「……あ」

 不思議なことが、起こった。

 それまで地面を叩きつけていた、強い雨。
 それが、急激にその勢いを衰えさせたのだ。

 どんよりとしていた空が、少しずつ光を取り戻していく。

「雨が、止んだ?」

 私は建物の外に飛び出して、雲間に現れた夕焼け空を仰いだ。

 雨は確かに止んでいた。

「虹も出たね」

 そう彼が言って、私はさらに視線を巡らせた。

 彼の言う通り、茜色に染まった空の片隅には薄っすらと七色の橋が架かっていた。

「……いま、何をしたんですか?」

 私は彼を振り返って聞いた。

 けれど、私を見下ろす彼は穏やかな笑みを浮かべたまま、

「ほら、あそこ」

 と、虹の方を指差して言った。

「虹の(ふもと)には、宝物が眠ってる……って、昔から言うよね。君の探し物も、きっとそこにあると思うよ」
「虹の、麓に……?」

 言われて、私はまた虹の方を見る。
 その場所は私の家のある方角で、確かに通学路の途中だった。

「行ってみようか」

 言いながら、彼は私の手を取って雨上がりの道を歩き始めた。

 触れた手のぬくもりが、私の胸を高鳴らせる。

「って、えっ……ほ、ほんとに行くんですかっ?」

 ただの迷信だろう、と思いつつも、私は彼に連れられるまま虹の麓へと向かっていく。

 腕を振り解くことは簡単にできる。
 けれど私は、あえてそれをしなかった。

 なぜだかわからないけれど、虹の麓に行けば本当に見つかるかもしれない――と、私は心のどこかで、彼の言う迷信を信じ始めていたのだった。





     〇





「……ああっ!」

 思わず、そんな声が出た。

 彼と二人でやってきた、虹の麓。
 私の家のすぐそばにある花壇――その隙間から、見覚えのあるテディベアがちょこんと顔を覗かせている。

「ほんとに……あった……?」

 まさかと思いながらも、私は彼の手を離して、そこへ駆け寄った。

 雨に濡れ、土にまみれた手作りのぬいぐるみ。
 私はそれを壊してしまわないよう、そっと拾い上げる。

 首元に赤いリボンを付けた、愛らしいテディベア。
 それは正真正銘、探していたストラップだった。

「す、すごい。本当に虹の麓にあるなんて」

 信じられない。
 思わず涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、まじまじとそれを見つめていると、

「よかったね」

 と、背後から彼の声が届く。

 そこで私はハッとして、まずはお礼を言わなきゃ、と後ろを振り返った。

「あ、あのっ――」

 しかし。

「あれっ?」

 振り返った先には、すでに誰もいなかった。

 雨上がりの澄んだ空気の中、私一人だけがそこに取り残されていた。

「……もう帰っちゃったの?」

 さっきまでは確かに私と手を繋いでいた彼は、一瞬にして、まるで蜃気楼のように、忽然とその場から姿を消していたのだった。
 
 
       ◯



 翌朝。

 教室の窓から見えるグラウンドを見下ろしながら、私はぼんやりと昨日のことを思い出していた。

(そういえば、まだ名前も聞いてなかったな……)

 授業の内容はそっちのけで、あの人のことばかりが頭に浮かぶ。

 薄暗い森の奥に建つ、ボロボロの洋館。
 そこでひっそりとカフェを営んでいる彼。

 昨日はお茶とケーキをご馳走になった上、一緒にストラップまで探してもらった。
 にもかかわらず、最後はお礼を言うことができなかった。

(あそこに行けば、また会えるのかな?)

 あの店は通学路の途中にある。
 帰りに寄れば、また彼に会うことができるかもしれない。

(それにしても……)

 一つだけ、気になることがあった。

 ――虹の麓には、宝物が眠ってる。

 彼が口にした、あの迷信。
 それに従って虹を目指せば、探し物は見つかった。

 あれは、ただの偶然だったのだろうか?

 あのとき私を導いてくれた彼の足取りは、一切の迷いもないように見えた。
 その姿はまるで、あの場所にストラップが落ちていることをあらかじめ知っていたかのようにも思える。
 ……というのは、私の考えすぎなのだろうか。

 そんなことを考えていると、ふと、どこからか視線を感じた。

 はっと我に返ると、グラウンドの真ん中から、明らかに私を見つめる視線が一つあるのに気がついた。

 見ると、体操着に身を包んだ小柄な少女が、まっすぐにこちらを見上げている。
 長いポニーテールに、少しだけ気の強そうな、ほんのりと吊り上がった大きな目。

(……いのりちゃん?)

 現在もケンカ継続中である、私の幼馴染。
 いのりちゃんが、じっとこちらを見つめていた。

 彼女が、私のことを見てくれている。
 私は思わず胸を高鳴らせ、反射的に手を振りかけた。

 けれどそれよりも早く、彼女はふっと視線を逸らすと、そのままくるりと背を向けてどこかへと走り去ってしまった。

(……やっぱり怒ってる、よね)

 遠くなる背中を見つめながら、私は小さく溜息を吐いた。
 まだ仲直りは当分できそうにない。

 そもそも、彼女がなぜあそこまで怒っているのか――その理由も、実はよくわかっていない。

 もちろん、発端となった出来事は覚えている。

 一昨日の帰り道。
 通学路の途中で、私と一緒に歩いていたいのりちゃんは、後ろからやってきた車に轢かれそうになったのだ。

(あのとき、私は――)

 危ないよ、と言ったのだ。
 車が来て危ないから、もっと歩道側を歩いた方がいいと指摘して、彼女の腕を強引にひっぱった。

(あれが、気に障ったのかな……)

 子ども扱いをされた、と思われたのかもしれない。
 あるいは私の言い方が悪かったのか。
 相手を傷つけてしまうような、思いやりを欠いた言葉遣いをしてしまったのかもしれない。

 といっても、普段はそんな些細なことで彼女は怒ったりしない。

 だから、タイミングの問題もあったのかもしれない。
 たまたま虫の居所が悪かったとか。

 いつもの彼女なら、あそこまで感情的になったりしない。
 あのときの彼女は、どこかいつもと違った。

「……はあ」

 当時の光景を思い出し、私は深い溜息を吐く。

 あのとき。
 私から注意を受けた彼女は、驚いたように大きく目を見開いて。

 そして、その瞳からぼろぼろと大粒の涙を溢して、半ば叫ぶように私を拒絶したのだった。





       ◯





 放課後。
 西の空がほんのりと赤みを帯び始めた頃。

 私はまた、例の森の中に立っていた。

 目の前にそびえるのは、まるで廃墟のような古びた洋館――もとい、カフェ。
 足元の看板は相変わらず『OPEN』になっている。

 私は一度心を落ち着かせるため、大きく深呼吸をした。

 そして、

「……ごめんくださーい」

 ちょっとだけ緊張を交えつつ、入口の扉を開けた。

「いらっしゃ……――ああ、昨日の」

 扉を開けた先で、優しげな声が私を出迎えた。

 薄暗い部屋。
 その最奥――木漏れ日が差す窓辺の席に、昨日の彼が座っていた。

 身なりは白いシャツに、黒いパンツ。
 腰には昨日と同じエプロンを掛けている。

「こ、こんにちは」

 ぎこちない動きで、私は頭を下げた。

「昨日は、その……一緒にストラップを探してくれてありがとうございました。その、お礼が言いたくて」
「それでわざわざ来てくれたの? 嬉しいな」

 彼はそう言って席を立つと、ゆっくりとこちらへ歩み寄った。
 まるで女性のような柔和な笑みが、私の目の前までやってくる。

 あたたかな声に、穏やかな所作。
 それらは彼の綺麗な容姿と相まって、不意打ちのように私を魅了する――といっても、着ているシャツはやはりヨレヨレで、相変わらずみすぼらしいのだけれど。

(……あれ?)

 と、目の前の彼を改めて見上げてみると。

 優しげな笑みを浮かべているその顔が、ほんのりと熱っぽく赤らんでいるのに気がついた。

「あの、もしかして具合が悪いんですか?」
「……バレちゃった? 実は少し熱があってね」

 言うなり、彼は小さく咳をした。
 風邪をひいたのだろうか。

(そういえば、昨日は雨が降って……)

 雨が降って、ずぶ濡れになった――のは、私の方だったはずだ。
 その割には、私は体調を崩すことなくピンピンとしている。

 まるで、私の代わりに彼が風邪をひいたかのようだった。

「せっかく来てくれたのに申し訳ないんだけど、見ての通りこんな状態だから。今日はこの店にはいない方がいい」

 風邪がうつると大変だからと、彼は早々に私を帰らせようとする。

「そんな状態なのに、お店は閉めないんですか?」

 不思議に思って、私は尋ねた。
 どうせ誰も寄せ付けないつもりなら、最初から店を閉めていればいいのに。

「うん。いいんだ。どうせ開けていても、お客さんなんて滅多に来ないからね」
「ああ、それは確かにそ――……うじゃなくてっ」

 一瞬だけ納得しかけた私は、慌てて訂正した。
 危うく、かなり失礼なことを言ってしまうところだった。

「具合が悪いのなら、いっそ、お店を閉めて横になった方がいいんじゃないですか?」
「まあ、そうなんだけど」

 彼は困ったように苦笑しながら、

「でもやっぱり、閉めるわけにはいかないんだ。僕は、人を待っているからね」
「人を?」

 私は首を傾げた。

 お客さんは来ないのに、一体誰を待っているというのだろう?

「それにほら、ここに来るのは『お客さん』だけじゃないからね」
「え?」

 彼はそう言うと、店の入口の方へと視線を送った。

 つられて私もそちらを見ると、ちょうど入口の扉を開けて、一人の男の子が中へ入ってきた。

 小さな子だった。
 まだ小学校の低学年くらいだろうか。
 今にも泣きそうな顔をしたその子は、縋るような目をこちらに向けて、

「お兄ちゃん、お願い。この子を直して……!」

 そう涙声で訴えた。

 男の子の小さな手には、相当な年代物の人形が抱かれている。

 ヒラヒラのドレスを纏った、金髪碧眼のビスク・ドールだった。
 かなり高価そうに見えるそれは、右腕が肩の辺りからちぎれてしまっている。
 
 
「これは、君が壊したの?」

 お兄ちゃん、と呼ばれた彼は男の子の方へと歩み寄り、床に膝をついて目線を合わせた。

 男の子は悔しそうに口をへの字に曲げて、

「ママが大事にしてたものなんだ。勝手に触ったってバレたら怒られちゃう!」

 と、急かすように訴えた。

 そのやり取りから察するに、どうやら二人はお互いに面識はあるものの、家族や親戚といった繋がりはないようだった。
 おそらくは近所に住む知り合い同士なのだろう。
 幼いやんちゃな男の子が、近所のお兄さんに助けを求めてきたのだ。

「これは……直すのは難しそうだね」

 人形の腕に触れながら、彼は難色を示した。

 これが例えば布製のぬいぐるみならば、何とか縫い直すこともできたかもしれない。
 けれど今回のそれはヴィンテージもののビスク・ドール。
 磁器で出来たその腕を直すには、プロの修理屋に頼むしかない。

「お兄ちゃんなら直せるんでしょっ? いつもみたいに魔法で直してよ!」

(魔法……?)

 男の子の放った突拍子もない言葉に、私は驚いていた。
 と同時に、昨日の光景を思い出す。

 昨日の夕方。
 私のストラップを探しに行こうと言った彼が、何か祈りを捧げるようにして両手を組むと、それまで激しく降っていた雨はぴたりと止んだ。
 空には虹が現れ、その麓に向かえば、探し物はすぐに見つかった。

 それらは普通ではありえない光景で、まるで魔法のようだった。

「お願いだよ。お兄ちゃんだけが頼りなんだ!」

 目の前の男の子は必死に訴える。

 その声で私は我に返った。

(そんな、まさかね……)

 さすがに考えすぎだろう。

 それよりも今は、壊れた人形をどうするかだ。

 正直に言うと、私はこの男の子の要求にちょっと引いていた。

 人形が壊れてしまった原因は、どうあがいてもこの男の子本人にある。
 勝手に触ったら怒られる──それを知っていながらイタズラをしたのだから尚更。
 反省の意味も込めて、今回は母親に本当のことを白状した方がいい。

 その方が本人のためにもなるし――と、そう考える私の前で、

「わかった。じゃあ、ママには内緒だよ?」
「やったあ! お兄ちゃん、だーいすきっ」

 と、たやすく交渉は成立してしまった。

 一体どうやって直すつもりなのかはわからないけれど、人形を秘密裏に修理することは決定したようだった。
 男の子はその小さな全身で喜びを表現する。

 その向かいでニコニコと満足そうに微笑んでいる彼に、私は不安になってこっそり耳打ちした。

「あの、いいんですか? こういうときはちゃんと間違いを正してあげないと、教育に悪いっていうか……」

 子どもの間違いを黙って見過ごすどころか、あまつさえ証拠隠滅に手を貸すなんて。

「だって可哀想じゃないか」

 彼はごく自然に、当たり前のことのように言う。

「それは、そうですけど……」

 私は少しだけ言い淀んでいたけれど、やはり見逃すわけにはいかず、意を決して言った。

「あなたがそうしたいとおっしゃるのなら、それを止める権利は私にはありません。でも、いくら可哀想だからといっても、何でもかんでも相手の望みを叶えてしまうというのは本当の優しさではないと思いますよ。……少なくとも、私は」

 言いながら私は、どんどん気まずい気持ちになっていた。

 これではまるで説教だ。
 目上の人に、それも恩人である彼に対して言うのは失礼だったかもしれない。

「……すみません、生意気なことを言って」

 居た堪れなくなり、小さく謝罪する。

 そんな私に彼は嫌な顔一つせず、ほんの少しだけ寂しそうに微笑んだかと思うと、

「……君の言っていることは、きっと正しい。僕も、頭ではわかっているつもりなんだ」
「え?」

 彼はそう言うと、今度はいたずらっぽく苦笑して、

「だけど、ごめんね。今回だけは、どうか見逃してほしいんだ」

 言い終えるが早いか、彼は男の子の方へ向き直ると、目の前の人形へと手を伸ばした。
 そうして男の子の小さな両手ごと、そっと包み込む。

 一体どうするつもりだろう――と、私が目を凝らしていると。

「!」

 不意にどこからともなく、真っ白な光が辺りを包んだ。

「わっ……!?」

 目を開けていられないほどの、まばゆい光。
 私は反射的に目を瞑った。

 何が起きたのかはわからなかった。

 一体何の光だろう?

 外はもう夕方で薄暗いし、部屋の照明は壊れていて使えない。
 こんな強い光がいきなり生まれるような状況ではなかったのに。

「…………?」

 やがて光がおさまってくると、私はそろそろと目を開けた。

 そして、

「!」

 その場の光景に、目を疑った。

 二人の手の中にあった、腕のちぎれた人形。
 その腕がいつのまにか、しっかりと胴体にくっついている。

「え……?」

 思わず私はぽかんとして、まぬけな声を漏らしていた。

 修繕したような跡はどこにもない。
 まるで新品のような傷一つないビスク・ドールが、男の子の腕に抱かれている。

「わあ、すごい!」

 すっかり元通りとなった人形を見て、男の子は飛び上がって喜んだ。

「ありがとう、お兄ちゃん! 今日も助かったよ!」

 男の子はそれだけ言うと、もう用はないといわんばかりに足早に店を出ていった。

 静かになった部屋の中で、私は恐る恐る口を開いた。

「……いま、何をしたんですか?」

 ゆっくりと立ち上がった彼の背中に、私は問いかける。

 一体どうやって人形を直したのだろう。

 まさかとは思うけれど、

「今のって、もしかして本当に……魔法、なんですか?」

 尋ねずにはいられなかった。

 昨日のことも、さっきのことも。
 奇跡か、魔法か、まるでそういった類のものとしか思えない。

「…………」

 背を向けたまま、彼は答えない。

「あの……?」

 何の反応もない彼の様子に、私が戸惑っていると、

「――……う」

 彼は突然、胸の辺りを押さえて前のめりになった。
 何か、耐えがたい激痛に耐えている――そんな仕草だった。

「ど、どうしたんですかっ?」

 私は慌てて彼の背に駆け寄った。
 そうして俯いた彼の顔を横から覗き込んでみると、額に脂汗がにじんでいるのが見えた。

「大丈夫ですか? どこか痛むんですか? 一度横に――」
「いけない。僕から離れて……!」
「えっ?」

 珍しく彼が声を荒げた、その瞬間。
 気づいたときには、私の身体は、彼の腕に突き飛ばされていた。

 たまらず後ろへ仰け反り、世界が反転する。

 その視界の端で、

「ッ……!」

 何か鋭利なモノが、彼の左腕を切り裂いた――ように見えた。

 何もない所で、本当に突然、彼の左腕――ちょうど人形の腕がちぎれていたのと同じ肩口の辺りから、真っ赤な血が噴き出したのだ。

(えっ……?)

 何が起きたのかわからなかった。

 混乱したまま、私は尻餅をつく。
 そうして目を丸くして、目の前の彼を見上げた。

 それまで苦しそうに胸を押さえていた彼は、今度は左腕を押さえてその場にしゃがみ込んだ。
 押さえた個所からは赤い色がじわりとシャツに染み込み、そこからぽたぽたと滴を垂らし、床を汚す。

 みるみるうちに、床には小さな血だまりが出来た。

 彼の左腕は、あきらかに負傷していた。

(……何が起こったの?)

 訳がわからず、私はただ呆然としていた。

 一体何が起こったのか。

 わからない。
 けれど、ただ一つだけ確かなのは、彼が怪我をしたということだ。

「た、大変……。すぐに救急車を――」
「待って」

 すかさずスマホを取り出した私の手を、彼はおもむろに掴んだ。

「大丈夫。こんなのかすり傷だよ」
「な、何言ってるんですか。こんなに血が出てるのに」

 私は震える声で反論した。

 私の手首を掴む彼の手は、生温かい血で滑っていた。

「あまり大事にしたくないんだ。それに……これが、魔法を使うということなんだから」
「……どういう、ことですか?」

 彼は今度こそ、『魔法』という言葉をはっきりと口にした。
 
 
「魔法は……タダで使えるものじゃない。この力を使えばそれと引き換えに、それ相応の報いを受けることになるんだ」
「報い?」
「魔法を使った代償……みたいなものかな」

 そう言って、彼は苦笑した。
 傷が痛むのか、その表情はどこか引きつっている。

「魔法の、代償……? じゃあこの傷は、さっきの人形を直したから?」

 魔法の力で、人形を直した。
 その代償として、彼が怪我をしたという。

「そんな……。じゃあ、あなたは本当に……魔法が使えるんですか?」

 疑う余地はもうなかった。

 現に私は二度にわたって、彼の不思議な力を目にしているのだ。
 さっきのことも、そして、昨日の虹のことも。

 でも。

「魔法を使ったらこうなるって、わかっていたんですよね? なら、どうしてそんな危険なことを……?」

 そこが理解できなかった。
 なぜ、こんな危険を犯してまで魔法を使う必要があったのか。

 ――だって可哀想じゃないか。

 不意に、先ほどの彼の言葉が思い出された。

 あの男の子のことが『可哀想だから』――たったそれだけの理由で、彼は魔法を使ったというのか。
 赤の他人のために、自分の身を犠牲にして?

 当の本人は気まずそうに視線を逸らすと、掴んでいた私の手首をそっと離した。

 私は胸の奥にどうしようもない焦りを感じて、思わず声を荒げて言った。

「こんなの、危ないじゃないですか。なんでっ……、どうして、こんな危険なことをするんですか。さっきだって、一歩間違えれば死んでいたかもしれないんでしょうっ?」

 死ぬ、なんて言葉を簡単に口にしたくはなかったけれど。
 それでも、過言ではないと思った。

 魔法で人形の腕を直したことで、彼は自分の腕に傷を負った。
 今回はまだ腕だったから良かったものの、これが例えば首だったら。

 壊れた人形の箇所がもしも首だったなら、彼は今頃どうなっていただろう?

 考えただけでぞっとする。

 それに、

「あなたがこうして怪我をしたこと、あの男の子は知らないんでしょう?」

 あの男の子。
 おそらくは近所の子だろう。

 あの子にとって彼は、困ったときに助けてくれる優しいお兄さんであって、それ以外のことはきっと何も知らない。
 魔法の代償のことだって知らない。
 こうして彼が怪我をしていることだって、きっと。

 だからこそあんな風に、気軽に魔法に頼ることができてしまうのだ。
 その代償がどんなものであるのかも知らずに。

「知らない間に、あなたのことを傷つけて……それが、本当にあの子のためになると思っているんですか?」

 そこまで言ったとき、それまで穏やかだった彼の顔が少しだけ陰りを見せた。
 尚も黙ったままの彼の横顔からは、その心中を探ることはできない。

 彼の返答を待ちながら、私はふとあることに気づく。

(まさか……)

 魔法を使えば、それ相応の報いがある。
 ということは、つまり。

(昨日の、あの虹のときも……?)

 嫌な予感がして、私は背が寒くなるのを感じた。

 昨日の夕方。
 彼の周りで、不思議なことが何度も起こった。

 突然止んだ雨。
 現れた虹。
 見つかった探し物――それらはどう考えても、魔法の力以外には考えられない。

「昨日も……あなたは魔法を使ったんですか?」

 私のために。
 あのストラップを探すために、彼は魔法を使ったのかもしれない。
 そしてそれが事実なら、おそらくはそのときの代償も受けている。

 私の知らない間に、彼は怪我をしていた?

 いや。

「あなたが風邪をひいたのは……私のせいなんですか?」

 怪我をしたのではなく、彼は風邪をひいたのだ。

 本来ならば、風邪をひくのは私の方だったはずだ。
 あれだけの雨に濡れて震えていたのだから。

 けれどその割には、私の身体はピンピンとしている。
 未だに体調一つ崩していないのは、彼がその身代わりになったからではないのか。

「……君のせいなんかじゃないよ。これは、僕が勝手にやったことなんだから」

 彼は弱々しい声で言うと、小さく咳をした。

 やはり、と私は確信する。

 彼は昨日も魔法を使ったのだ。
 そして、私のために体調を崩した。

「そんな……」

 どこまでも優しい彼。
 自分よりも他人を優先しようとするその性格は、思いやりがあって、あたたかくて、私には到底真似できそうにない。
 すごい人だ、と素直に思う。

 けれど私は、

「そんなことされたって、ちっとも嬉しくなんかありません!」

 思わず怒鳴っていた。

 途端、彼は驚いたように私を見た。

 相当びっくりしたのだろう。
 無理もない。
 彼が良かれと思ってやったことに対して、私は責め立てるような発言をしたのだから。

 彼の見開かれた瞳が不安げに揺れるのを見て、私はハッと口元を押さえた。

(私、なんて失礼なことを)

 つい勢いに任せて、とんでもないことを口にしてしまった。
 彼の厚意を受けておきながら、それを感謝するどころか否定してしまうなんて。

「……すみません、私っ……」

 本当は、こんなことを言いたかったわけじゃない。

 彼のやったことは、相手への思いやりの心があったからこそ――それは痛いほどにわかっている。
 だから本来なら、彼のことはむしろ称えるべきなのだ。

 けれど、それでも。

「……ごめんなさい。でも私……あなたが傷ついてしまうくらいなら、優しさなんかいりません。あなたは優しい人だけれど、でもそれは……私にとって、『本当の優しさ』ではないんです」

 言いながら、自分でも何を言っているのかわからなくなる。

 『本当の優しさ』なんて、人それぞれだ。
 それをどうこう言う権利なんて、私にはない。

 けれど、彼の『優しさ』すべてを肯定することは、私にはできなかった。

 人を思いやることは確かに大切だ。
 でも、そのために自分を犠牲にするという彼のやり方は、本末転倒な気がする。

 もちろん、相手がそれを望んでいるのなら話は別だ。
 けれど私は、彼に犠牲になんてなって欲しくない。

 彼に傷ついてほしくない――元をたどればたったそれだけのことなのに、半ばパニックになっていた私はうまく言葉にできなかった。
 そんな自分自身に対して、次第に苛立ちと、情けなさと、悲しさとが込み上げてくる。

 ついには堪え切れなくなって、私は涙を零した。

「……すみません。……ごめんなさい……っ」

 ここで泣いたって何も解決しない。
 わかっているのに、私の意思とは関係なく、涙はとめどなく溢れてくる。

 本当に情けない。
 彼の前で泣くのはこれで三度目だ。

 また、彼に迷惑をかけている。

 恥ずかしい。
 今すぐにでも、ここから逃げ出したい――そう思い詰める私の頭の上に、彼はそっと手を置いて、

「……ありがとう。君は優しい子だね」

 そう、穏やかな声で慰めてくれた。

 そして、

「もう、これ以上……君に悲しい思いをさせるわけにはいかない。どうか、僕のことは忘れてほしい」
「……え?」

 彼はどこか寂しげに微笑むと、再び胸の前で両手を組む。

 この仕草は確か、さっき魔法を使うときにも見せたものだ。

(もしかして……)

 彼はまた、魔法を使おうとしている。

 一体何のために?

「あの……待って。何をするつもりですかっ?」

 慌てて私が尋ねると、彼は困ったように苦笑して言った。

「ごめんね。君の頭の中から、僕に関する記憶を消させてもらうよ」
「なっ……」

 記憶を消す。
 そんなことが本当にできてしまうのだろうか。

「ど、どうして。やめてください。どうしてそんなことを」
「君は、とても優しい人だから。僕と一緒にいると、君はきっと、僕のために何度も泣いてしまうだろう?」

 言いながら彼は、先ほどと同じように、祈りを捧げるようにして頭を垂れる。

 私が泣いてしまうから。
 私を泣かせないために、彼はまた魔法を使おうとしている。

「まっ……待ってください!」

 このままでは、私はきっと彼のことを忘れてしまう。

 あんなに優しくしてくれた彼のことを。

 まだ、何の恩返しもできていないのに?

 そしてまた、彼はこの森の奥で、誰にも知られないまま、ひとりで無茶をするのかもしれない。

(そんなの嫌……!)

 私は咄嗟に彼の手を握りこむと、

「やめてください!」

 力任せにその手を左右へ引き離し、そこへ自らの身体を滑り込ませた。
 勢い余って、彼の胸に顔を埋めるような形になる。

「嫌です。忘れたくありません! どうか、もう魔法を使わないで……っ」

 忘れたくない。

 それに、もう魔法を使ってほしくない。

 魔法を使えば、後でどんな代償が待っているかわからない。
 下手をすれば、命を落とすことだってあるかもしれないのだ。

「お願いです。どうか、もう魔法を使わないでっ……。私のためを思うなら、記憶を消すなんてやめてください……。私は、あなたのことを忘れたくなんかありません……!」

 彼のシャツに顔を埋めたまま、私は幼子のように泣きじゃくっていた。

 ああ、また情けない顔をしている。
 こんな子どもみたいな姿、誰にも見せたくはないのに。

 けれど、こうして駄々をこねたおかげか、彼が再び魔法を使おうとする気配はなかった。

 そうして私が落ち着くまで、彼は怪我をした腕とは反対の手で、私の背中を優しくさすってくれたのだった。





     〇





 空がすっかり暗くなった頃。

 森の出口までやってきた私は、後ろを振り返ると、心の底から懺悔するような気持ちで深々と頭を下げた。

「……すみません。また迷惑をかけてしまって」

 振り返った先には、見送りに出てきてくれた彼がそこに立っていた。

「ううん。僕の方こそ、見苦しいところを見せちゃってごめんね。それより、本当に家まで送らなくて大丈夫? もうかなり暗いけど」

 そう言って私の心配をしてくれる彼の左腕には、包帯が巻かれている。
 今はシャツの下に隠れて見えないけれど、応急処置をしただけのそこは今も痛むはずだった。

 私は彼の申し出を丁重に断ると、改めて頭を下げた。

「あの、私……明日もここに来て、いいですか?」

 気まずさを感じながらも、おずおずと私が尋ねると、

「それは、もちろん。来てくれると嬉しいよ」

 まるで当たり前のように、彼は笑って答えてくれた。

 私は下げていた頭をばっと勢いよく上げると、

「明日だけじゃなくて、明後日も、その次の日もです!」

 そう語気を強めて言うと、彼は少しだけびっくりしたような顔をした。

 明日も、明後日も。
 そばで見守っていたい、と思った。
 こんな場所に彼を一人残しておくのは、とても心配だった。

 穏やかで優しくて、魔法が使える彼はきっと、これからも自分の身の危険など顧みずに簡単に魔法を使ってしまう。

 放っておけば彼はこのまま、いつか死んでしまうような気がする。
 この暗い森の奥で、ひとりで。

「お店の邪魔はしません。だから……だめ、ですか?」

 彼のために、私に何ができるのかはわからない。
 むしろ昨日や今日みたいに、迷惑ばかりかけてしまうかもしれない。

 けれど彼は、ほんの少しだけ間を置いた後、

「……いいや。大歓迎だよ」

 と、囁くような声で了承してくれた。

 私はそれが嬉しくて、思わず泣きそうになりながら笑った。

「それじゃあ、今日から君は常連さんだ。これからもよろしくね。……ええと」

 そこで彼は言葉に詰まった。

 その様子を見て私は、

「私、 霧江(きりえ)絵馬(えま)っていいます」

 と、改めて自己紹介した。

 思えばまだお互いの名前すら知らなかったのだ。

 少し遅くなってしまったけれど、それでもやっと自分のことを知ってもらえる機会が得られたような気がして、私はちょっぴり嬉しくなる。

 と、そんな私の顔を見下ろしながら彼は、

「『えま』……?」

 わずかに目を丸くして、不思議そうに私の名を口にした。

「? どうかしましたか?」

 彼の反応に、私も首を傾げる。

「……いや、なんでもない。けど、なんとなく……懐かしい響きだな、と思って」
「え?」

 懐かしい響き。
 って、どういう意味だろう?

「いや、ごめん。本当に何でもないんだ。絵馬ちゃんか。可愛い名前だね」
「!」

 まるで息をするように「可愛い」と言われて、私は耳が熱くなるのを感じた。
 こんなのは社交辞令だとわかっているのに、身体が勝手に反応してしまう。

 これでは自意識過剰だ。
 慌てて火照った顔を隠しながら、

「そ、それで、あなたの名前はっ……?」

 そう促すと、彼は落ち着いた声のまま、いつもの優しい笑みを浮かべて言った。

「僕は、瀬良(せら)まもり。改めて、これからよろしくね。絵馬ちゃん」





     〇





(まもりさん、か……)

 帰り道を一人歩きながら、胸の内でその名を何度も復唱する。

 見た目と同じく、中性的で綺麗な名前だな、と思った。
 『まもり』という響きは、まるで女の子のようだ。

 けれど、私の意識はその名前よりも、むしろ『瀬良』という名字の方に関心がいっていた。

(瀬良……か)

 どちらかといえば珍しい名字。
 この町内でも被るとすれば一軒か二軒くらいだろう。

 単なる偶然か。
 その名字は、私の幼馴染――いのりちゃんと同じものだった。

(たまたま同じだけ、だよね?)

 いのりちゃんのことは小学校の頃から知っているし、今までに何度も家へお邪魔させてもらっている。
 けれど彼女に兄がいるという話は一度も聞いたことがない。

(もしかして、従兄妹(いとこ)とか……?)

 兄妹でないのなら、親戚という可能性もある。

(また明日、まもりさんに聞いてみようかな)

 もしかしたら、いのりちゃんと仲直りするきっかけになるかもしれない――なんて淡い期待が胸を過る。

 けれどその一方で。

(…………?)

 何か、胸がざわざわとする。

(……何だろう?)

 いのりちゃんと、まもりさん。

 その二人を並べて考えたとき、何か胸騒ぎがするのを、私は心のどこかで感じていたのだった。
 
 
「ねえ、森の洋館にオープンしたカフェって知ってる?」

 高校のクラスメイトたちにさりげなく尋ねてみたものの、返ってくるのは疑わしげな反応ばかりだった。

「森の洋館? って、『お化け屋敷』のこと?」
「昼間でも暗いよね、あそこ」
「あんな所にお店なんて出せないでしょ」
「幽霊でも見たんじゃないの?」

 予想はしていたが、ひどい評判だった。

 暗い森の奥に佇む、どう見ても廃墟としか思えないあのカフェ。

 誰か一人でもあの店のことを知っている人はいないかと期待したのだけれど、そもそもあそこに店が存在すること自体信じてもらえない。
 どころか、「もしかして今年の肝試しの前振り?」と、あらぬ誤解まで招く始末だ。

 季節はもうじき梅雨を迎える。

 梅雨が明けて本格的な夏になれば、あの森では毎年のように肝試し大会が開かれる。
 まもりさんの店があるあの洋館も、そのエリア内にあるはずだった。

(本当に、どうしてあんな場所に店を開いたんだろう……)

 あんなひと気のない所で店をやっていたって、気づいてくれる人はほとんどいない。
 肝試しのシーズンになれば少しは人も訪れるようにはなるけれど、恐怖体験を期待してやってきた人が果たしてそこでお茶をする気になるかどうか。
 むしろアピールの仕方を間違えれば気味の悪い店として認知されてしまいそうだ。

 あの店の存在を知ってから二週間。
 私はほぼ毎日のようにあの場所を訪れている。

 けれど、カフェを利用するためにやってくるお客さんの姿は今まで一度も見たことがない。

 私があそこに顔を見せるたびに、まもりさんはいつも紅茶とケーキをご馳走してくれる。
 その壮絶な味は相変わらずだけれど、「これは僕が勝手にやっているだけだから」と笑って、彼は一向に私からお金を取ろうとしない。

 あれでは採算が合わないどころの話じゃない。
 まごうことなき赤字で、店が潰れるのも時間の問題だ。
 せめて口コミを広げて力になれればと思ったのだけれど、この調子ではかえって悪い噂を流してしまうだけかもしれない。

(こんなとき、いのりちゃんがいてくれたらなあ……)

 思わず彼女の優しさに縋ってしまいそうになる。

 小学校の頃からの幼馴染であるいのりちゃん。
 彼女は私が困っていると、いつも助け船を出してくれた。

(でも、今は……)

 彼女とは二週間前にケンカをしてから、一度も口を聞いていない。

「はあ……」

 どんよりとした気分を払拭できないまま、放課後がやってくる。

 学校を出たその足で、私はいつものようにあの店へと向かった。



 暗い森の奥にあるボロボロの洋館。
 そこでひっそりとカフェを営むまもりさん。

 彼は、いのりちゃんと同じ『瀬良』という名字を持っていた。
 もしかしたら親戚同士なんじゃないか――なんて考えたこともあったけれど、本人に確認してみたところ、きっぱりと否定されてしまった。

 ――たまたま同じだけだよ。少なくとも僕の知る限りでは、この街に親戚はいないからね。

 すでに実家を出て独り立ちしている彼は、あの洋館の二階に住んでいるらしい。
 もともと他の街からやってきたという彼は、この辺りには家族も友人もいないのだという。

 寂しくないんですか、と私が聞くと、彼は寂しくないと微笑して答えた。
 その儚げな笑みが、私にはどこか寂しげに見えた。

 ――僕は、人を待っているからね。

 故郷を出て、知らない街でひっそりと店を開けているまもりさん。
 そんな彼は、誰かの訪れを待っているという。

(お客さんは来ないし、知り合いもいないのに……一体誰を待っているんだろう?)

 待ち人の相手については、私はまだ尋ねたことがない。

 彼が「待っている」と発言したのは、ほとんど独り言のようだった。

 だから私は、彼がその話を自分からしてくれるまでは触れないようにしようと思った。
 というよりも、安易に触れてはいけないような気がしたのだ。

 彼が店を開けている理由が本当にその人のためだというのなら、その人はきっと、まもりさんにとってとても大切な人だから。

(……なんだか、悔しいなあ)

 私はまもりさんに毎日会いに行っているのに。
 なかなか顔を見せないその人はきっと、私の何倍も、何十倍も、まもりさんにとって大きな存在なのだ。






       〇





 森の入り口までやってきたとき、ちょうど森の奥から一人の男の子が飛び出してきた。
 危うくぶつかりそうになって咄嗟に避けると、男の子は私には目もくれずに走り去っていく。

 一瞬だけ見えた横顔には見覚えがあった。
 以前、まもりさんに人形の修理を頼みに来たあの男の子だ。

 満面の笑みを浮かべた男の子の腕には、ドールハウスのようなものが抱かれている。

 私は嫌な予感がした。

(まさか……)

 今回は、あのドールハウスを直してくれと頼みに来たのだろうか。
 だとすれば今頃、魔法を使ったまもりさんはその代償を受けている可能性がある。

(まもりさん……!)

 私は弾かれたようにその場から駆け出して、彼の店のドアを乱暴に開けた。

「まもりさん! 大丈夫――」
「だから何度も言ってるだろう!!」

 いきなり、怒号が飛んできた。

 反射的に、私はびくりと身体を強張らせる。

 私の声を遮ったそれは、男の人のものだった。
 まもりさんのものではない、どすの効いた声。

 見ると、店内には珍しく人がいた。
 たった一人だけだけれど、まもりさんと向かい合うようにして立っている。

 背の高い人だった。
 こちらに背を向けているため、その顔は見えない。
 けれどその出で立ちから、まもりさんと同じくらいの年代の男性だと予想がつく。

 淡い色のシャツにパンツ姿のそのシルエットは、細いながらもほどよい筋肉が付いているのがわかる。
 肌は日焼けして、長く伸びた髪は明るい。
 ピアスなどのアクセサリーをじゃらじゃら付けているところを見ると、『チャラ男』なんて言葉が似合いそうだ。

 この店に、お客さんがいる?

 いや。

(もしかして、まもりさんが待っている相手って……)

 こんな場所に、何の関係もない普通の人がやってくるとは思えない。
 ということはもしかすると、この人が例のまもりさんの待っていた相手なのかもしれない。

 けれど、

(待っていた相手って、男の人だったの……?)

 てっきり女の人だとばかり思っていたのだけれど、まもりさんにとっての大切な人というのは、まさかのまさかで同性の人? なのか?

「まもり、さん……?」

 私は恐る恐る声を掛けた。

 途端、まもりさんはハッとしたような目をこちらに向けた。
 どうやら私が店に入ってきたことを知らなかったようだ。

 そんな彼の反応に釣られるようにして、今度は向かいの男性もこちらに顔を向ける。
 首だけを動かして「ああん?」と威圧的な声を漏らしながら、斜めに私を睨みつける。

 眉間にシワを寄せたその顔は、私の予想に反して整っていた。
 チャラそうな印象はやはり拭えないけれど、彫りの深いその顔立ちはどう見ても『イケメン』の類に入る。

 そして何より、恐い。

 顔が整っているからこそ出せる威圧感、とでも言えばいいだろうか。
 私は震えそうになる足を必死に踏ん張る。

 すると、

「! お前、なんでここに……――」

 私を睨みつけていた男性の目が、はっと見開かれた。

「えっ……?」

 私はぽかんとしたまま彼を見つめ返す。

 彼のその反応は、まるで私を見知っているかのようだった。

 けれど私は、彼の顔に見覚えがない。

「? 流星(りゅうせい)。絵馬ちゃんのこと、知ってるの?」

 まもりさんが聞いた。

 流星と呼ばれたその男性は、

「いや……。何でもねえ。人違いだ」

 と、歯切れの悪い声を漏らす。

 私はその様子を不思議に思いながらも、改めて店の中へと足を踏み入れた。
 
 
       ◯



 年季の入った丸テーブルを囲んで、私たち三人は向かい合って座った。

 今日はまもりさんに代わって、長身の彼――流星さんがお茶を淹れてくれた。

「まもりの紅茶なんて飲めたもんじゃねーからな」

 冗談なのかそうでないのかわからない声色で言う流星さん。
 に対し、まもりさんは特に気にした様子もなく隣で静かに微笑んでいる。

 テーブルの上には氷の入ったグラスが並べられていた。
 そこへ流星さんがガラス製のティーポットからお茶を注いでくれる。

 一体何のお茶だろう?
 見た目は麦茶のようにも見えるけれど、ほのかに甘い香りが漂ってくる。

 私がまじまじと見つめていると、流星さんはそれに気づいたのか、

「ピーチティだよ。うちの店から持って来たんだ」
「うちの、店?」

 おうむ返しに聞くと、彼は一瞬だけ面倒くさそうな顔をして、

「親の店を手伝ってんだよ。古くて汚ねー所だけど、味はまあまあだから心配すんな」

 別に味の心配をしていたわけではないのだけれど、考えてみれば彼は『あの』まもりさんと付き合いのある人なのだ。
 仲の良い友人同士というのは趣味が似ている場合もある。
 したがって、彼らの味覚が似ている可能性もなくはない。

 私はまもりさんの作る壮絶な味を思い出しながら、

「い、いただきます……」

 と、緊張まじりにグラスへ口を付けた。

 すると、

「……あれ。おいしい?」
「なんで疑問形なんだよ」

 じろりと恐い目で睨まれながらも、私は続けて二口、三口と口へ運んだ。
 あっさりとした酸味が口いっぱいに広がって、ほうっと溜息を吐く。

 そんな私の反応に、流星さんはすでに興味を失っているようで、視線はまもりさんの方へと移っていた。

「で、お前らは今どういう関係なんだ? 付き合ってんのか?」
「!?」

 唐突すぎる質問に、私はピーチティを噴き出した。

「い、いきなり何を言い出すんですか!」

 思わず立ち上がって叫んだ。

 流星さんは恐い顔のまま、睨むような視線をこちらに向ける。

「とぼけんな。こんな荒屋(あばらや)に、何の意味もなく女子高生が一人で来るはずねーだろ」
「そ、それは……」

 言われてみれば確かにそうだ。

 何か特別な理由でもない限り、こんな薄暗い森の中にあるボロボロの洋館に足を踏み入れることなどそうあることではない。
 この場所へ来るには、何かそれなりの理由がいる。
 流星さんのように勘繰ってしまうのも無理はない。
 私が流星さんに対してそう思ったように。

「お前、絵馬とかいったな。お前はまもりのことが好きなのか?」
「すっ……!?」

 遠慮の「え」の字もない流星さんは、そんな下世話な質問もぐいぐいくる。

 そりゃあ、まもりさんは綺麗で優しくて……とても素敵な人だと思う。
 一緒にいると落ち着くし、家事ができないところも意外性があって可愛いと思うし――

(って、私……まもりさんのことが結構好きなのかな……?)

 改めて意識した途端、顔が熱くなった。

 と、そこで、

「!」

 ハッとあることに気づく。

(まさか……)

 なぜ流星さんがそこまで私たち二人の仲を疑うのか。

 なぜ私にその気があると勘繰るのか。

 それはもしかすると、彼がまもりさんのことを好きだからではないのか……?

 家族や友人としての『好き』ではなくて、本気の意味での『好き』――つまりは恋愛感情を抱いているということ。
 それが事実なら、まもりさんの『待っている相手』というのが流星さんであることにも頷ける。

 彼らは実はそういう関係で……えっと、つまりは恋仲?

(いや。でも、二人とも男の人だし……。あ、でも、最近はそう珍しくもないんだっけ?)

 頭の中がぐるぐるとして、パンクしそうになる。

「絵馬ちゃん、大丈夫?」

 まもりさんが隣から心配してくれる。

「だ、大丈夫、です……たぶん」

 頭はまだ混乱しているけれど、このまま黙っているわけにもいかない。
 私は流星さんの質問に答えるべく、改めて彼の険しい顔に向き直る。

 彼からの質問――すなわち、私はまもりさんのことが好きなのか?

「そ、その。まもりさんのことは、とても尊敬しています。すごく優しくて、あたたかくて、包み込んでくれる人っていうか……」
「おう。だから、好きなのかって聞いてんだ」

 苛立ちを含んだ眼光で迫られ、私は慌てて答える。

「す、好きは好きですよ!」

 ついそんな告白まがいの言葉を口にしてしまって、私はさらに慌てて付け加えた。

「あっ、好きっていうのはそういう意味じゃなくて、えっと、普通に人としての好きっていうかっ……。間違っても、お二人の仲を邪魔するような感情ではありませんから!」
「はあ?」

 あ、いま余計なことを言ったかも――なんて考えているうちに、流星さんはその整った顔を斜めに歪ませて、

「お前、何か勘違いしてねーか?」
「へ?」

 勘違い。

 何のことだかわからず、私は無意識のうちにまもりさんの方へ縋るような視線を向けていた。

 すると彼は、私の心中を汲み取ったかのように穏やかな微笑を浮かべて言った。

「流星は僕の従兄弟(いとこ)だよ。昔から仲は良いけれど、変な意味じゃないから誤解しないでね」
「え?」

(従兄弟……?)

 思わぬ返答に、私は拍子抜けする。

「え。従兄弟って、あの……親戚同士ってことですか? じゃあ、まもりさんの待っている人っていうのは、流星さんのことじゃなかったんですか?」

 そんな私の反応を見て、まもりさんは少しだけ驚いたような顔をしていたけれど、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻り、

「僕がわざわざ待っていなくても、流星は勝手にやってくるよ。こう見えて彼はおせっかいだからね。僕の代わりに、掃除や洗濯をしにここまで来てくれるんだ」
「なんだよ。嫌ならもう来てやんねーぞ」

 相変わらず恐い声で言う流星さん。
 けれど、本気で怒っているわけではないということが私にも段々とわかってきた。
 彼の言葉の端々には、確かな思いやりの心が窺える。

 彼はまもりさんのことを大事にしている。
 けれどそれは恋愛的なものではなくて、あくまでも家族や友人に向けるような愛情からくるもののようだ。

(な、なんだ……よかった)

 思わずホッとする。

 って、なんで私がホッとする必要があるんだろう?





       〇





 それからまもりさんは、流星さんについて色んなことを教えてくれた。

 流星さんとは昔から仲が良かったこと。
 家はここから少し遠いこと。
 ご両親のお店は海水浴場にある海の家であること。
 そこで食べる焼きそばが格別に美味しいこと。
 などなど。

 まもりさんが話している間、流星さんはほとんど口を開かなかった。
 ぶすっとした表情のまま、部屋のあちこちを不満そうに眺めている。

 そうして時折、私の持ってきた高校のカバンに目を留める。

 一体何を見ているのだろう――と私も釣られて目をやると、そこに見えたのは例のストラップだった。
 いのりちゃんからもらった、テディベアのストラップ。

 流星さんの恐い顔からはイメージしにくいけれど、意外とこういう可愛いものが好きだったりするんだろうか?
 ……なんて言ったら怒られそうなので、口にはしないけれど。





 そのうち、時計の針は十九時を回った。
 辺りは段々と暗くなって、テーブルにはキャンドルの火が灯される。

 そろそろ帰らなければ、と私が席を立つと、

「俺が送る。車を出すからちょっと待ってろ」

 と、まさかの流星さんが言った。

「え。送る……?」
「なんだよ。嫌なのか?」

 じろりと睨まれて、私は慌てて頭を振る。

「僕も一緒に行くよ」

 まもりさんが腰を上げながら言った。

 その声に私はホッと胸を撫で下ろす。
 送ってくれるのはありがたいのだけれど、さすがに流星さんと二人きりで車に乗るのはちょっと緊張する。

 しかし、

「お前は店番してろ。閉店まではまだ時間があるんだろ」

 そう流星さんが言って、まもりさんは苦笑した。

 そういえば、お店が閉まるのは確か二十時だったはず。
 あまりにもお客さんが入って来ないので忘れそうになるけれど、ここはただの家ではなく、立派なカフェなのだ。
 私のために営業時間を短縮させるわけにはいかない。

 けれどまもりさんは、

「ちょっとくらい早めに閉めたって大丈夫だよ。どうせ開けていても、お客さんが来る可能性は限りなくゼロに近いからね」

 そう、当たり前のことのように言う。

「だめだ。閉店時間まではここにいろ」

 有無を言わさぬ声で流星さんが制する。
 そして、

「まだ、『待ってる』んだろ?」

 何かを含んだような声で、そう付け足した。

 途端、まもりさんの穏やかな表情がわずかに強張ったように、私の目には映った。
 
 
       ◯



 二人きりの車内は静かだった。
 お互いに何も話さず、道案内のナビの声だけが、私の家へと的確に指示を出してくれる。

 私は窓の外を流れていく黒い景色を見つめながら、先ほどの二人のやり取りを思い出していた。

 ――まだ、待ってるんだろ?

 あの言動からして、流星さんはきっと、まもりさんが誰かを待っていることを知っている。
 そして、その相手が誰なのかも、きっと。

(どんな人なんだろう……)

 聞いてみたい、と思った。
 流星さんに聞けば、まもりさんが誰を、何のために待っているのかもわかるかもしれない。

 けれど、それではまもりさんのプライベートを勝手に詮索することになる。
 本人が未だに話してくれない情報を、第三者から探ろうとするのは失礼な気もする。

 やっぱり、まもりさんが自分から話してくれるのを待つしかないか――と、小さく溜息を吐いたとき。

「お前、まもりのことは大事か?」

 と、それまで沈黙を続けていた流星さんが唐突に口を開いた。

「え、大事……?」

 大事、という言葉の意味を計りかねた私は、少しだけ反応が遅れた。

 さっき店にいたときには「好きなのか」という質問だったけれど、今回は「大事」という言葉を使っている。
 ということは、今回と前回の質問とでは微妙にニュアンスが違うようだ。

「お前があいつを大事だと思うのなら、あの店にはもう二度と行くな」
「え……?」

 続けられた言葉に、私は驚きを隠せなかった。

 どうして、と尋ねようとした私の声を遮るように、流星さんは再び口を開く。

「お前も、あいつの魔法を見たんだろ? あいつは困ってる人間を見たら形振り構わず魔法を使っちまう。今日だって、近所の悪ガキが母親の私物を壊しちまったから直せとか言ってきやがったんだ」

 その言葉で、私は例の男の子のことを思い出した。

 ちょうど、私がお店へやってきたときに入れ替わりで出ていった、あの男の子。
 その腕には確かドールハウスのようなものが抱かれていたと思うが、やはり今回もまた、まもりさんを頼ってきたらしい。

「今回のは簡単に直せるやつだったから、俺が修理してやったけどな。普段はまもりが魔法で直してやってるらしい。あんなのが入り浸ってるんじゃ、まもりの身体が持たねーだろ。魔法を使うのはタダじゃ済まねーんだから」

「それは……」

 私も、同じことを考えていた。

 けれど、

「でも、だからこそ、何かあったときのためにも、まもりさんのそばには誰かがいた方がいいんじゃないですか? 私、何の役にも立てないかもしれませんけど……でも、まもりさんが本当に危険な魔法を使おうとしていたら、そのときは私だって止めに入りますし――」

「わかってねーなあ」

 いつにも増して不機嫌な声が、車内に響いた。

「あいつは困ってる奴を見ると放っとけねーんだよ。あのガキんちょだけじゃねえ。俺やお前のためにだって、あいつは魔法を使っちまうんだ。だから、誰かと一緒にいるだけであいつは必ず危険な目に遭う。あいつが平穏無事に暮らしていくためには、一人にさせておくのが一番なんだよ。それに――」

 溜まっていたものを吐き出すようにして、流星さんは言う。

「あいつはな、今まで何度も人の記憶を魔法で消してきたんだ。友達も、知り合いも、みんなあいつのことを忘れちまうようにな。それがどれだけ覚悟のいることだか、お前にわかるか?」

「!」

 その言葉で、私は先日のことを思い出す。

 まもりさんに、私の記憶を消されそうになったときのことだ。

 ――僕と一緒にいると、君はきっと、僕のために何度も泣いてしまうだろう?

 私が泣いてしまうから。
 私を泣かせないために、まもりさんは私の記憶を消そうとした。

 そして、

「……今まで、何度も?」

 流星さんの言うことが本当なら、まもりさんはそれを何度も繰り返しているのだ。
 友達も、知り合いもみんな、まもりさんのことを忘れてしまう。

「そんな……どうして。それじゃあまもりさんは、いつもひとりぼっちになってしまうじゃないですか。そんなの、絶対に寂しいはずなのに、どうして」

「あいつの性格を見てりゃわかるだろ? 周りに心配をかけないようにするためだよ。こうでもしなきゃ、お前みたいに、あいつを心配する奴がいくらでも増えちまう。かといって、あいつに魔法を使うな、なんて言っても無駄だろうし。だから――」

 言いながら、流星さんはどこか後悔するような苦い顔をした。

「……だから、俺も同意したんだ。魔法で記憶を消すって。そうでもしなきゃ、あいつはきっと生きていけねえ。……今まで、どれだけ寂しい思いをさせたかもわからねえ。けど、俺にはそれしか方法が見つからなかったんだ。あんなひと気のねえ森に住まわせてるのも、俺の意思だ。客なんか来なくていい。ただ、あいつが生きていてくれさえすれば……」

 悔しげに語る流星さんの横顔を見ながら、私は何も言い返せなかった。

 流星さんはそんな風に考えていたんだ――と、まるで予想していなかった彼の思いにただ戸惑うばかりだった。

 私がいると、まもりさんが魔法を使ってしまうかもしれない――そう考えたとき、真っ先に思い出されたのは、私が初めてまもりさんと会った日のことだった。

 あの雨の日に、大事なストラップを失くして泣いていた私。
 それを助けてくれたのはまさに、まもりさんの魔法による力だった。

「あいつのそばに誰かがいると、あいつはいつか死ぬかもしれねえ。わかったなら、もう関わるな」
「…………」

 そこから何も話せないまま、やがて車は私の家へとたどり着いた。

 静寂の中で、私たちは別れた。

「……話してくれて、ありがとうございました」

 小さく礼を述べた私の声は、走り去る車の音にかき消された。

 



       〇





 次の日から、私があの店へ行くことはなくなった。

 学校への行き帰りには必ずあの森の前を通るけれど、そのときは横目でちらりと確認をするだけで、足早にその場を去る。

 脳裏には、流星さんから言われたことがずっとこびりついていた。

 ――あいつはいつか死ぬかもしれねえ。

 死ぬ、という言葉の響きを思い出すたび、私は身震いした。

 自分よりも他人のことを優先する、心優しいまもりさん。
 彼はその優しさから、自らの身を滅ぼしてしまうかもしれない。

 私がそばにいることで、彼は私のために魔法を使って、いつか死んでしまうかもしれない。
 それはつまり私の存在が、彼を殺すことになるということだ。

(やっぱり……会わない方がいいよね)

 彼をあの森の奥で一人にさせておくのは心配だけれど、今は流星さんがいる。

 いや、もともと二人は昔から一緒だったのだ。
 私なんかがまもりさんの心配をしなくたって、彼のことは流星さんが守ってくれる。

 私があの店へ足を運ぶ理由なんて何もない。

 なのにどうして、私の心はこんなにもモヤモヤとしているのだろう?

(こんなとき、いのりちゃんがいてくれたら……)

 わずかな期待を抱きながら、スマホでSNSの画面を開く。

 しかし、いのりちゃんからの新着メッセージの通知はなかった。

 数日前に私が送ったメッセージにも返信はない。
 既読のマークは付いているので、一応目だけは通してくれているみたいだけれど。

(……文字だけで話しかけたって、だめだよね。ちゃんと顔を見て伝えなきゃ……)

 高校からの帰り道をとぼとぼと歩いていると、ふと、カバンにぶら下げていた例のストラップが目に入った。

 いのりちゃんがくれた、テディベアのストラップ。
 これを見ると、彼女のことを思い出すのと同時に、まもりさんの笑顔が頭に浮かぶ。

 二人との思い出が詰まった、私の大切な宝物。

 結局、いのりちゃんとはケンカしたまま、今度はまもりさんとも会うことができなくなってしまった。

 寂しい、なんていうのは私の勝手な感情だけれど。
 せめていのりちゃんとは、ちゃんと話し合って、早く仲直りをしなければ。

 彼女は一体何を怒っている?

 私は、彼女の何を傷つけてしまったのか?

 考えているうちに、何か大事なことを思い出したときのような、フラッシュバックのような映像が、唐突に頭に中に飛び込んできた。

「……!」

 いのりちゃんが泣いている。
 泣きながら、何かを必死に叫んでいる。
 私にではない、誰か他の人に向かって。

(これは……)

 強烈な既視感だった。

 一体いつの記憶だろう?

 私とケンカをしたときも、彼女は泣いていた。
 けれどこの映像は、そのときのものとは違う。

 たった一秒ほどの、短い記憶。
 思い出せたのはそれだけだったけれど、その刹那的な瞬間の中にも、様々な感情が込められていたような気がする。

 何だろう。
 何かを思い出しそうになって、けれど何も思い出せない。
 まるで何か不思議な力によって、記憶に(ふた)をされているかのようだ。

 なんだか胸騒ぎがする。

 私は、何か大事なことを忘れている?

 そう不安になりながらも、私はやっと我に返り、いつのまにか俯いていた視線をわずかに上げた。

 すると、

(……あ)

 道の先に、一人の男性が立っていた。
 その人はコンクリートの塀に背を預けながら、ぼんやりと空を眺めている。

 白いシャツに黒いパンツ姿で、腰にはエプロンを掛けている。
 塀のすぐ隣には、例の暗い森の入り口があった。

 線の細い、中性的な顔立ちをしたその男性の横顔には、ひどく見覚えがあった。

(あれは、……まもりさん?)