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 翌朝。

 教室の窓から見えるグラウンドを見下ろしながら、私はぼんやりと昨日のことを思い出していた。

(そういえば、まだ名前も聞いてなかったな……)

 授業の内容はそっちのけで、あの人のことばかりが頭に浮かぶ。

 薄暗い森の奥に建つ、ボロボロの洋館。
 そこでひっそりとカフェを営んでいる彼。

 昨日はお茶とケーキをご馳走になった上、一緒にストラップまで探してもらった。
 にもかかわらず、最後はお礼を言うことができなかった。

(あそこに行けば、また会えるのかな?)

 あの店は通学路の途中にある。
 帰りに寄れば、また彼に会うことができるかもしれない。

(それにしても……)

 一つだけ、気になることがあった。

 ――虹の麓には、宝物が眠ってる。

 彼が口にした、あの迷信。
 それに従って虹を目指せば、探し物は見つかった。

 あれは、ただの偶然だったのだろうか?

 あのとき私を導いてくれた彼の足取りは、一切の迷いもないように見えた。
 その姿はまるで、あの場所にストラップが落ちていることをあらかじめ知っていたかのようにも思える。
 ……というのは、私の考えすぎなのだろうか。

 そんなことを考えていると、ふと、どこからか視線を感じた。

 はっと我に返ると、グラウンドの真ん中から、明らかに私を見つめる視線が一つあるのに気がついた。

 見ると、体操着に身を包んだ小柄な少女が、まっすぐにこちらを見上げている。
 長いポニーテールに、少しだけ気の強そうな、ほんのりと吊り上がった大きな目。

(……いのりちゃん?)

 現在もケンカ継続中である、私の幼馴染。
 いのりちゃんが、じっとこちらを見つめていた。

 彼女が、私のことを見てくれている。
 私は思わず胸を高鳴らせ、反射的に手を振りかけた。

 けれどそれよりも早く、彼女はふっと視線を逸らすと、そのままくるりと背を向けてどこかへと走り去ってしまった。

(……やっぱり怒ってる、よね)

 遠くなる背中を見つめながら、私は小さく溜息を吐いた。
 まだ仲直りは当分できそうにない。

 そもそも、彼女がなぜあそこまで怒っているのか――その理由も、実はよくわかっていない。

 もちろん、発端となった出来事は覚えている。

 一昨日の帰り道。
 通学路の途中で、私と一緒に歩いていたいのりちゃんは、後ろからやってきた車に轢かれそうになったのだ。

(あのとき、私は――)

 危ないよ、と言ったのだ。
 車が来て危ないから、もっと歩道側を歩いた方がいいと指摘して、彼女の腕を強引にひっぱった。

(あれが、気に障ったのかな……)

 子ども扱いをされた、と思われたのかもしれない。
 あるいは私の言い方が悪かったのか。
 相手を傷つけてしまうような、思いやりを欠いた言葉遣いをしてしまったのかもしれない。

 といっても、普段はそんな些細なことで彼女は怒ったりしない。

 だから、タイミングの問題もあったのかもしれない。
 たまたま虫の居所が悪かったとか。

 いつもの彼女なら、あそこまで感情的になったりしない。
 あのときの彼女は、どこかいつもと違った。

「……はあ」

 当時の光景を思い出し、私は深い溜息を吐く。

 あのとき。
 私から注意を受けた彼女は、驚いたように大きく目を見開いて。

 そして、その瞳からぼろぼろと大粒の涙を溢して、半ば叫ぶように私を拒絶したのだった。





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 放課後。
 西の空がほんのりと赤みを帯び始めた頃。

 私はまた、例の森の中に立っていた。

 目の前にそびえるのは、まるで廃墟のような古びた洋館――もとい、カフェ。
 足元の看板は相変わらず『OPEN』になっている。

 私は一度心を落ち着かせるため、大きく深呼吸をした。

 そして、

「……ごめんくださーい」

 ちょっとだけ緊張を交えつつ、入口の扉を開けた。

「いらっしゃ……――ああ、昨日の」

 扉を開けた先で、優しげな声が私を出迎えた。

 薄暗い部屋。
 その最奥――木漏れ日が差す窓辺の席に、昨日の彼が座っていた。

 身なりは白いシャツに、黒いパンツ。
 腰には昨日と同じエプロンを掛けている。

「こ、こんにちは」

 ぎこちない動きで、私は頭を下げた。

「昨日は、その……一緒にストラップを探してくれてありがとうございました。その、お礼が言いたくて」
「それでわざわざ来てくれたの? 嬉しいな」

 彼はそう言って席を立つと、ゆっくりとこちらへ歩み寄った。
 まるで女性のような柔和な笑みが、私の目の前までやってくる。

 あたたかな声に、穏やかな所作。
 それらは彼の綺麗な容姿と相まって、不意打ちのように私を魅了する――といっても、着ているシャツはやはりヨレヨレで、相変わらずみすぼらしいのだけれど。

(……あれ?)

 と、目の前の彼を改めて見上げてみると。

 優しげな笑みを浮かべているその顔が、ほんのりと熱っぽく赤らんでいるのに気がついた。

「あの、もしかして具合が悪いんですか?」
「……バレちゃった? 実は少し熱があってね」

 言うなり、彼は小さく咳をした。
 風邪をひいたのだろうか。

(そういえば、昨日は雨が降って……)

 雨が降って、ずぶ濡れになった――のは、私の方だったはずだ。
 その割には、私は体調を崩すことなくピンピンとしている。

 まるで、私の代わりに彼が風邪をひいたかのようだった。

「せっかく来てくれたのに申し訳ないんだけど、見ての通りこんな状態だから。今日はこの店にはいない方がいい」

 風邪がうつると大変だからと、彼は早々に私を帰らせようとする。

「そんな状態なのに、お店は閉めないんですか?」

 不思議に思って、私は尋ねた。
 どうせ誰も寄せ付けないつもりなら、最初から店を閉めていればいいのに。

「うん。いいんだ。どうせ開けていても、お客さんなんて滅多に来ないからね」
「ああ、それは確かにそ――……うじゃなくてっ」

 一瞬だけ納得しかけた私は、慌てて訂正した。
 危うく、かなり失礼なことを言ってしまうところだった。

「具合が悪いのなら、いっそ、お店を閉めて横になった方がいいんじゃないですか?」
「まあ、そうなんだけど」

 彼は困ったように苦笑しながら、

「でもやっぱり、閉めるわけにはいかないんだ。僕は、人を待っているからね」
「人を?」

 私は首を傾げた。

 お客さんは来ないのに、一体誰を待っているというのだろう?

「それにほら、ここに来るのは『お客さん』だけじゃないからね」
「え?」

 彼はそう言うと、店の入口の方へと視線を送った。

 つられて私もそちらを見ると、ちょうど入口の扉を開けて、一人の男の子が中へ入ってきた。

 小さな子だった。
 まだ小学校の低学年くらいだろうか。
 今にも泣きそうな顔をしたその子は、縋るような目をこちらに向けて、

「お兄ちゃん、お願い。この子を直して……!」

 そう涙声で訴えた。

 男の子の小さな手には、相当な年代物の人形が抱かれている。

 ヒラヒラのドレスを纏った、金髪碧眼のビスク・ドールだった。
 かなり高価そうに見えるそれは、右腕が肩の辺りからちぎれてしまっている。