あばらやカフェの魔法使い

 
「……おーい!」

 と、そこへ遠くから高い声が届いた。

 聞き覚えのある声。

 私が後ろを振り返ると、道の先から、一人の女の子が走ってきているのが見えた。
 長いポニーテールの、小柄な子。

 いのりちゃんだった。
 どうやら私のことを追いかけてきてくれたらしい。

 彼女は私たちの目の前までやってくると、息を荒くさせたまま、がっくりとその場にしゃがみ込んだ。

「はーっ。もう。やっと追いついた! 絵馬ちゃんってば、いきなり走り出しちゃうんだもん。びっくりしたでしょ!」

「ご、ごめん……」

 私はそう謝りながら、慌ててまもりさんの手を離した。

 まもりさんは無言のまま、いのりちゃんのことを見つめている。
 その視線に気づいたのか、いのりちゃんもまた彼の顔を見上げた。

 記憶を失った彼らは、お互いのことを覚えていない。

 けれど、

「……君は、絵馬ちゃんの言っていた大切なお友達、だね?」

 どこか確信を持ったように微笑んで、彼は言った。

「そういうあなたは、誰? さっき絵馬ちゃんが会わなきゃって言ってた人?」

 きょとん、とした顔でいのりちゃんが聞く。

 そこへ、

「おい、お前ら!」

 後方から、威勢の良い声が届いた。

 私たち三人は一斉に振り返って、

「流星さん!」
「流星」
「流兄?」

 そこに現れた彼――流星さんの名を口にした。

 と、まもりさんといのりちゃんは不思議そうにお互いの顔を見合わせた。

「流星さん、どうしてここに……」

 どこからともなく駆けつけ、肩で息をする彼に私は尋ねた。

 なぜ、流星さんがここにいるのだろう?

 しばらく呼吸を整えた後、彼は私たち三人を見回して、

「……いや。最近まもりの様子がおかしかったから見に来たんだよ。けど店ん中は空っぽだし、どこ行ったのかと思って……。ていうかお前ら、なんで全員集まってんだよ。まさか記憶が戻ったのか?」

「記憶?」

 流星さんの言葉に、まもりさんが反応する。

「僕、また何か忘れたの?」
「あ、……いや」

 わずかに流星さんが言いよどんだのを見て、まもりさんは、

「……思い出さない方が、いい?」

 と、何かを察して、すぐに身を引こうとする。

 せっかく、四人がこうして集まっているのに。
 このままではまた、私たちは離れ離れになってしまう。

「待って」

 と、制止をかけようとした私よりも先に、口を開いたのはいのりちゃんだった。

「待って。……私、何か大事なことを忘れているような気がする」

「!」

 その言葉に、私は耳を疑った。

 流星さんも、わずかに目を見開いていのりちゃんを見る。

「いのりちゃん、もしかして……」

 思い出しかけているのだろうか。

 忘れてしまった記憶を。
 たとえ魔法の力で消されてしまっても、心の奥底に留まり続けるものを。

「僕も……」

 と、今度はまもりさんも口を開く。

「僕も、そんな気がする。こうしてみんなの顔を見ていると、何だかすごくホッとするような……」

 戸惑いながらも確かな期待を込めた彼の眼差しが、私の瞳に問いかけてくる。

「絵馬ちゃん。流星。僕たちは……――」

 その先に続ける言葉を躊躇するまもりさんに代わって、流星さんはゆっくりと頷いて言った。

「俺は、覚えてる。お前たちのことを。今までのことも、全部」

「……聞かせてもらえませんか?」

 無理を承知で、私はお願いした。

 流星さんは少しだけ驚いたような顔でこちらを見る。

「私たちはまだ、全部を思い出せたわけじゃありません。でも……こうして一度失ったはずの記憶が戻りかけているのは、みんなが絶対に忘れたくないって、無意識のうちに思っているからなんじゃないかって、私は思うんです」

 たとえ魔法の力で消されてしまっても、心の奥底で留まり続ける思い。
 それは、私たちにとって何よりも大切なものなんじゃないだろうか。

「……俺がここで教えたら、また、まもりが危ない目に遭うかもしれないぞ」

「なら、そうならないように、みんなで一緒に考えませんか?」

 魔法の代償を受けなくてもいい方法があるかもしれない。

 記憶を消さなくてもいい方法が見つかるかもしれない。

 みんなで一緒に考えれば、きっと。

「まもりさんは、どうしたいですか?」

 一番大事なのは本人の気持ちだ。

 いくらその人のためだとはいえ、周りの意見を一方的に押し付けるわけにはいかない。
 たとえ最善の選択のように思えたとしても、それが本当の意味で、その人のためになるとは限らないから。

「僕は……」

 まもりさんはほんの少しだけ間を置いた後、穏やかな微笑を浮かべて言った。

「……僕も、思い出したい。一人でいるのは、寂しいから。みんなと、もっと一緒にいたいから」

 それを聞いた流星さんは「あー」と葛藤するような声を上げ、がしがしと頭をかく。
 それから一度、ゆっくりと深呼吸をして。
 改めて私たち三人の顔を眺め、困ったように苦笑した。

「後悔すんなよ」

 彼の口から語られようとしている、私たちの思い出。

 それはきっと、すべてが楽しいことばかりじゃない。
 悲しいことや、後悔していることだってきっとたくさんある。

 けれど、それらすべてをひっくるめて、今の私たちがあるのだ。

 そして、今こうして何気なく一緒にいる時間だって、いつかは大切な思い出として記憶されていくのだ。

 私たちにとって何物にも代えがたい、大切な宝物として。

「んじゃ、長い話になりそうだし……場所を移すとするか。とりあえず、あの荒屋(あばらや)のカフェにでもお邪魔しようかね」

「歓迎するよ。よかったら新作のケーキの味見もしてみてよ。ご馳走するから」

「えっ、ケーキ? やったぁ! 私ケーキ大好き!」

「わ、私は遠慮しておきます……」

 夕焼けに包まれた、雨上がりの空の下で。
 私たち四人は肩を並べて、以前のように笑い合いながら、再び歩き出した。