(ここって、カフェだったんだ……)
濡れた髪をタオルで拭きながら、古そうなイスに腰を落ち着ける。
ギシギシと音を立てる木製のイスは、今にも私の体重でつぶれてしまいそうだった。
ほどなくして、テーブルの上には紅茶とケーキとが運ばれてきた。
「はい、どうぞ。味に自信はないけど、よかったら召し上がれ」
どうやら彼の手作りらしい。
チーズケーキだろうか?
少し焦げ目が目立つような気もするけれど、こんがりと焼きあがっていて香ばしい匂いがする。
「な、なんだかすみません。雨宿りをさせてもらった上に、お茶とケーキまで」
「気にしなくていいよ。これは僕が勝手にやっているだけなんだから」
そう言って微笑んだ彼の顔は、とても優しげだった。
そのやわらかな雰囲気に触れて、それまで荒んでいた私の心は少しずつ落ち着きを取り戻し始める。
(良い人だなあ……)
お店の見た目はちょっと怖いけれど、店主である彼自身はとても優しい人なのかもしれない。
「それで、さっきはどうして泣いていたの?」
聞かれて、私は例のストラップのことを思い出した。
「その、私……ストラップを探しているんです。学校の帰りにどこかで落としちゃったみたいで」
「ストラップ?」
「はい。小さなテディベアのストラップで……友達から貰ったものなんですけど」
私が説明している間、彼は私の向かいに座って真剣な眼差しをこちらに向けていた。
私の話を真面目に聞いてくれているのだと一目でわかる。
やがて私が説明を終えると、彼は私から視線を逸らさずに、
「大事なものなんだね。大切な友達から貰ったものだから」
そう、静かな声で理解を示してくれた。
そんな彼の優しげな声を聞いたとき、私は心のどこかで安堵を覚えた。
それまで一人で悩んでいた私の心を、理解してくれる人がいた――そう思ったとき、一度は引っ込んだはずの悲しい思いが再び溢れそうになって。
気づけば私は、また泣いてしまっていた。
「! ごめん。何か気に障ったかな?」
彼は慌てた様子で私の顔を覗き込む。
「いえ、ごめんなさい。……もう、大丈夫ですから」
私はタオルを顔に押し当て、必死に嗚咽を噛み殺した。
なんとか気を落ち着けようと、すかさず紅茶へ手を伸ばす。
年季の入ったティーカップに注がれた、きれいな色の紅茶。
それをぐっと一気飲みするように口へ含んだとき、
(……まっず!?)
あまりの苦味に、思わず噴き出した。
「あっ……。大丈夫?」
たまらず咳き込んだ私に、彼はそれほど驚いた様子もなく、すぐさま私の隣に立って背中をさすってくれた。
「ごめんね。やっぱり美味しくなかった?」
「……やっぱり……って、どういうことですか……?」
涙目になりながら、私は掠れた声で尋ねた。
「うん……。実は僕のお茶、美味しいって言われたことがなくて」
そう言って、彼は困ったように苦笑した。
美味しいと言われたことがない。
それって、カフェを営む者としてはかなり致命的では?
「そ、そうなんですか……」
あ、あはは、と私も苦笑する。
確かにこの味ではフォローのしようがない。
まるで茶葉をそのまま食したときのような、とんでもない苦味が凝縮されている。
一体何をどうすればここまで不味いお茶が出来上がるのか。
(でも、実はすっごく身体に良いお茶なのかもしれないし……)
そう、ポジティブに考えることにした。
良薬は口に苦しって言うし。
けれど、あまりの苦さに舌はビリビリと痺れている。
せめて口直しをと、今度はケーキに手を伸ばす。
しかし。
(! あっま……!?)
反射的にリバースしかけたそれを、両手で必死に抑え込んだ。
超絶、甘い。
砂糖の入れ過ぎだろうか。
これは百パーセント、身体に悪い。
「ごめんね。やっぱりケーキもだめだった?」
わかっていたと言わんばかりの彼の反応に、私もさすがに疑いの目を向ける。
「あの。失礼ですが、もしかして……お料理はあまり得意じゃないとか……?」
無礼を承知で聞くと、彼は気まずそうに頬をかきながら、
「うん……。実は料理だけといわず、家事全般が壊滅的にダメで」
ごめんね、と、何に対してかわからない謝罪を彼は口にする。
確かに彼の言う通り、家事は全く出来ないらしい。
料理もダメなら掃除もダメ。
それによくよく見てみると、彼の着ている白いシャツも襟元はヨレヨレで、全体的にシワがよっている。
おそらくは洗濯やアイロンがけも下手なのだろう。
なまじ顔が良いだけに最初は気づかなかったけれど、彼の身なりはどことなくみすぼらしかった。
「……変だって思われるかもしれないね。料理も出来ないのに、カフェをやってるなんて」
「え。あ、いえっ。そんなこと……」
正直、否定はできない。
「でも、あの……もう少しお掃除をした方が、お客さんも入りやすいんじゃないですか? この建物、結構古いですし……ぱっと見た感じじゃ、ちょっと入りにくいっていうか」
差し出がましいとは思ったけれど、少しだけ助言してみる。
さすがにこの有様では、ここに店があること自体、誰にも気づいてもらえないかもしれないから。
「入りにくい?」
と、なぜかそこだけびっくりしたように彼は聞き返した。
「えっ? あ、はい……」
予想外の反応に、私も思わず身構える。
それまで当たり前のように全てを受け止めていた彼が、急に意外そうな顔をしたので、
「す、すみません。言い過ぎました……」
私は慌てて頭を下げた。
「いや、謝ることじゃないよ。教えてくれてありがとう。入りにくい雰囲気があるのなら、あの人もきっと、ここに来てはくれないだろうから……」
「え?」
最後の方は、ほとんど独り言のようだった。
「それより、早く君のストラップを探さないとね」
そう言うと、彼はおもむろに席を立った。
「え。探すって……?」
私がぼんやりとしているうちに、彼は店の入口の方へと歩いていく。
まさかとは思うけれど、一緒に探してくれるということだろうか。
彼は入口の扉を開け、未だ雨の降り続ける外へと繰り出そうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
私は慌てて彼の後を追いかけ、その細い腕を引き止めた。
どこまでも優しい彼の、その気持ちは嬉しいけれど。
さすがにこれ以上お世話になるわけにはいかない。
「あのっ。ストラップを探すのは私一人で大丈夫ですから。それに今はまだ雨も降っていますし……」
「でも、もうじき日が暮れてしまうよ。暗くなったら見つからないかもしれない」
私の手に引き止められた彼はそう言って、どんよりとした夕空を眺める。
確かに、このまま夜になってしまえば捜索はさらに困難を極めるだろう。
でも。
「そのときは、また……朝になってから探すので大丈夫ですよ」
無理やり笑顔を作って、私は言った。
本当は、朝までなんて待てない。
たとえ徹夜をしてでも、私はストラップを探すつもりだった。
だってあれは――いのりちゃんから貰った、私の大切な宝物だったから。
けれど、
「いいや、いま探そう。心配しなくても、必ず見つかるよ」
そう、彼は言った。
「え……?」
私は情けない顔をしたまま、彼の顔を見上げる。
「大切な友達がくれた、大事なものなんでしょ。大丈夫。君がその友達を大切に思うのなら、きっと神様は味方してくれるよ」
そう言った彼の声は、相変わらず穏やかではあるものの、どこか力強く私の耳に響いた。
そして、私の不安を取り払ってくれるような、そのあたたかな眼差し。
彼を見ていると、まるで本当にすぐ見つかるような気さえする。
「さて。ちょっと待っててね」
彼はそう言うと、再びこちらに背を向けた。
そうして胸の前で両手を組んだかと思うと、静かに目を閉じ、何か祈りを捧げるようにして頭を垂れる。
「?」
一体何をしているのだろう。
首を傾げながら、私が静かに待っていると、
「……あ」
不思議なことが、起こった。
それまで地面を叩きつけていた、強い雨。
それが、急激にその勢いを衰えさせたのだ。
どんよりとしていた空が、少しずつ光を取り戻していく。
「雨が、止んだ?」
私は建物の外に飛び出して、雲間に現れた夕焼け空を仰いだ。
雨は確かに止んでいた。
「虹も出たね」
そう彼が言って、私はさらに視線を巡らせた。
彼の言う通り、茜色に染まった空の片隅には薄っすらと七色の橋が架かっていた。
「……いま、何をしたんですか?」
私は彼を振り返って聞いた。
けれど、私を見下ろす彼は穏やかな笑みを浮かべたまま、
「ほら、あそこ」
と、虹の方を指差して言った。
「虹の麓には、宝物が眠ってる……って、昔から言うよね。君の探し物も、きっとそこにあると思うよ」
「虹の、麓に……?」
言われて、私はまた虹の方を見る。
その場所は私の家のある方角で、確かに通学路の途中だった。
「行ってみようか」
言いながら、彼は私の手を取って雨上がりの道を歩き始めた。
触れた手のぬくもりが、私の胸を高鳴らせる。
「って、えっ……ほ、ほんとに行くんですかっ?」
ただの迷信だろう、と思いつつも、私は彼に連れられるまま虹の麓へと向かっていく。
腕を振り解くことは簡単にできる。
けれど私は、あえてそれをしなかった。
なぜだかわからないけれど、虹の麓に行けば本当に見つかるかもしれない――と、私は心のどこかで、彼の言う迷信を信じ始めていたのだった。
〇
「……ああっ!」
思わず、そんな声が出た。
彼と二人でやってきた、虹の麓。
私の家のすぐそばにある花壇――その隙間から、見覚えのあるテディベアがちょこんと顔を覗かせている。
「ほんとに……あった……?」
まさかと思いながらも、私は彼の手を離して、そこへ駆け寄った。
雨に濡れ、土にまみれた手作りのぬいぐるみ。
私はそれを壊してしまわないよう、そっと拾い上げる。
首元に赤いリボンを付けた、愛らしいテディベア。
それは正真正銘、探していたストラップだった。
「す、すごい。本当に虹の麓にあるなんて」
信じられない。
思わず涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、まじまじとそれを見つめていると、
「よかったね」
と、背後から彼の声が届く。
そこで私はハッとして、まずはお礼を言わなきゃ、と後ろを振り返った。
「あ、あのっ――」
しかし。
「あれっ?」
振り返った先には、すでに誰もいなかった。
雨上がりの澄んだ空気の中、私一人だけがそこに取り残されていた。
「……もう帰っちゃったの?」
さっきまでは確かに私と手を繋いでいた彼は、一瞬にして、まるで蜃気楼のように、忽然とその場から姿を消していたのだった。