雨上がりの空に浮かび上がる虹は、まるで蜃気楼(しんきろう)のようで、少しでも目を離せばすぐにでも消えてしまいそうだった。

(急がなきゃ!)

 あの虹が見えなくなってしまう前に、まもりさんを見つけなければ。

 心の奥に眠っていた、彼に会いたいという確かな思いに突き動かされて。
 私は、弾かれたようにその場から駆け出した。

 雨でずぶ濡れになった服は鉛のように重く、私の肌にまとわりついている。
 もつれそうになる脚を必死に動かしながら、私は脳裏でまもりさんのことを思い出す。

 彼の笑った顔。
 困った顔。
 喜んだ顔。
 寂しそうな顔。

 その優しげなすべての表情が、私の中で大切な記憶として蘇る。

 といっても、私はきっとまだすべてを思い出したわけじゃない。
 おぼろげな記憶はあちこちが穴だらけで、ともすれば、またすぐにでも忘れてしまいそうな危うさを帯びている。

 あの人のことを、私はきっとたくさん忘れている。

 それでも。
 曖昧な記憶の中で、たった一つだけ確かなことがある。

 私はいま、『まもりさんに会いたい』――。





       〇





 やがて、空の彼方へ虹が消えようとした頃。
 私がたどり着いたのは、ひと気のない広い公園だった。

 テニスコートが併設されているそこは、広々とした敷地の周りをぐるりとランニングコースが取り囲んでいる。
 いつもなら親子連れの一組や二組くらいは見かけるのだけれど、さっきまで雨が降っていたせいか、今は誰もいない。

 日没を目前にした空は燃えるような赤色だった。

「まもりさん……」

 私はその名を呼びながら、彼を捜して園内を走った。

 虹はすでに消えてしまったけれど、その麓となっていた場所は大方この辺りだった。
 この近くに、まもりさんがいるかもしれない。

 次第に荒くなっていく自分の呼吸音と足音だけを耳にしながら、テニスコートの横を通り過ぎる。
 すると今度は大きな池が見えてきた。

 そして、そのさらに先に遊具広場が見えてきた、そのとき。

「!」

 あるものに気づいて、私はハッとした。

 道の脇にぽつんとあるベンチに、誰かが座っている。

 男の人だった。
 細い身体をベンチの背に委ね、まるで眠っているかのように顔を俯かせている。
 その華奢な身に纏った白いシャツはずぶ濡れで、肌の色が透けていた。

「まもり、さん?」

 私はベンチの数メートル手前で立ち止まると、恐る恐るその名を呼んだ。

 途端、その人はぴくりと肩を震わせた。
 そうしてゆっくりとこちらを見上げる。

 その顔は、私の予想した通り――私の捜し求めていた彼のものだった。

 まもりさんだ。

 彼は私の方を見つめたまま、その垂れ目がちな瞳を不思議そうに瞬いている。
 そして、雨に濡れたその赤い唇を動かして、

「君は……?」

 と、消え入りそうな声で言った。

 その反応に、私は胸が締め付けられるような感じがした。
 この様子だと、彼はやはり私のことを忘れている。

「私のこと、覚えていませんか?」

 そう、尋ねずにはいられなかった。

 彼が私を忘れていることは、誰の目にも明らかだった。
 けれど私は、その事実を素直に受け入れることができなかった。

 わかっていたはずなのに。
 いざそれを目の前にすると、私はやるせない気持ちでいっぱいになった。

 認めたくない現実が、そこにあった。

 まもりさんはしばらくの間、黙って私の顔を見つめていた。
 きっと、私が傷つかないように次の言葉を選んでくれているのだろう。

 彼はいつだって、相手のことを大切にする。
 そうして何度も、自分自身を傷つけてきたのだ。

「……ごめんね。僕、忘れっぽいから」

 彼はそれだけ言うと、困ったようにはにかんだ。
 寂しげな笑みだった。

 そうだ。
 彼はよく、こんな顔をしていた。
 どれだけつらいことがあっても、彼はいつも、こんな風に寂しげに笑うだけだった。

「……やっぱり、覚えていませんよね」

 私は力なく言った。

 一度失ってしまったものは、そう簡単に取り戻すことはできない。
 私がこうして彼を思い出すことができたのも、やはり運が良かっただけなのだ。

 彼はもう、私を思い出すことはできない。

 でも。

「たとえ、あなたが忘れても……。私は、あなたのことを覚えています。あなたに何度も助けてもらったから」

 私の中に、彼との思い出が残っている。

 肝試しの日に、彼に助けてもらったこと。
 いのりちゃんの家で、三人で一緒に遊んだこと。
 流星さんのお店にも行ったこと。
 それから――。

(それから……なんだっけ?)

 もっとたくさんの思い出があったはずなのに、私はそれ以上思い出すことができなかった。

 大切な思い出を、そのほとんどを忘れてしまった。
 そして、それはもう二度と取り戻すことはできない。

 そのことを改めて思い知ったとき、胸を締め付けていた思いがついに堰き止められなくなって。

 気づいたときには私の頬を、一筋の涙が伝っていた。

「…………」

 まもりさんは黙ったまま、心配そうに私のことを見つめていた。

 そして、

「君は……――」

 その後に続けられた彼の言葉に、私は思わず耳を疑った。

「――……絵馬、ちゃん?」

「!」

 私の名前だった。

 私のことを忘れたはずのまもりさんが、私の名を呼んでいた。

「……まもり、さん?」

 私は涙を拭うのも忘れて、彼を見返した。

 まもりさんはしばらく放心したように固まっていた。
 何が起こったのかわからない、というような表情だった。

「絵馬ちゃん。どうして、君がここに? 君の記憶は、僕が魔法で消したはずなのに」

「え?」

 彼の口から語られようとしている真実。
 それはやはり私の予想していた通り、彼の魔法が関係しているようだった。

「……そうだ。そうだよ。いま、思い出した。僕は一週間前に、君の記憶を消したんだ」

 一週間前。
 ということは、ちょうど終業式の辺りだろうか?
 思えばその頃から、あのモヤモヤが始まったような気がする。

「まもりさんが、私の記憶を消した……んですか? それは、どうして」

 彼が魔法を使うのは、決まって誰かのために何かをするときだ。
 私の記憶を消すことで、何か意味があったのかもしれない。

 なら、その意味とは一体何だろう?

「記憶を消した理由は……僕が君に、つらい思いをさせてしまったからだよ」

「私に?」

 つらい思いをさせてしまった。

 まもりさんが、私に?

「そんな、私……。まもりさんに何かひどいことをされた覚えなんて、ありませんけど……」

 まもりさんがそんなことをするはずはない、と思う。
 けれどそれは、私がただ記憶を失っているからそう思うだけ、なのだろうか。

「君は、どこまで覚えているかわからないけれど……。前に最後に会ったとき、君は僕のために泣いてくれたんだ。あの店で、ずっと誰かを待ち続けて悩んでいた僕のことを、まるで自分のことのように思ってくれて……」

「私が?」

 そうだっけ、と頭を巡らせてみるけれど、思い出せない。

「君が僕のために泣いてくれたから……。だから僕は、君から離れなければいけないと思ったんだ。一緒にいたらこれから先もずっと、君を泣かせてしまうと思ったから……。だから僕は一週間前に、君の記憶を消したんだ。その代償として、僕も記憶を失った。はずなのに、どうして今ごろ……」

 その話を聞いて、私は改めて、彼の優しさを知った。
 彼はやはり私のためを思って、魔法を使ったのだ。

「記憶を消して、何も思い出せなくなって……それからずっと独りでいると……恥ずかしいことだけれど、僕は段々と寂しくなってきたんだ。誰かに会いたいと、心のどこかで叫んでいたのかもしれない。そんなときに限って、いきなり雨が降ってきて……ここで濡れていたら、君が――」

 そこで彼は口を止め、急に何かを思い出したときのようにハッとした。

「? まもりさん?」

 私が首を傾げていると、それに気づいた彼は、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。

「君は、いつもそうだね。君と一緒にいると、いつも不思議なことが起こる。今回だってそうだ。僕がここで寂しがっていると、君はここへ来てくれた。まるで僕の思いを汲み取って、奇跡を起こしたかのように」

 奇跡。

 その単語を、つい最近もどこかで耳にしたような気がする。
 でも、どこだっただろう?

「絵馬ちゃん」

 未だ曖昧な記憶の中でふわふわとしている私の疑問を取り払うように、まもりさんは自らの手を伸ばして、私の右手をそっと包み込んだ。

 触れ合った手のぬくもりが、私の心をじんわりと温めてくれる。

「迎えに来てくれてありがとう。僕はずっと、君が来てくれるのを待っていたんだ」

「!」

 こんな至近距離から、そんな綺麗な顔で、そんなことを言われて。

 この状況で、照れない人がいるわけない。

 私はまるで愛の告白を受けたときのように、熱い胸の高鳴りを抑えることができなかった。