〇
結局、いのりちゃんと仲直りができないまま、終業式の日がやってきた。
長かった梅雨は明け、明日から夏休みがやってくる。
手渡された通知表は、五段階評価でやたらと『3』と『4』とが多かった。
その中途半端な数字を見ていると、まるで今の自分のあやふやな立ち位置が成績にも反映されているような気がしてならない。
結局、いのりちゃんとは距離を置いたまま。
まもりさんとの交流も中途半端に続いている。
このまま夏休みに入ったら、私はどんな風に毎日を過ごせばいいのだろう?
まもりさんに記憶のことを黙ったまま、何も知らないフリをしてあの店を訪れてもいいのだろうか。
――僕の会いたいと思っているその人は、正真正銘の『本当の魔法使い』だったんだよ。
まもりさんが言っていた。
彼があの店で待っているのは、本当の魔法使いだと。
それが事実なら、彼が待っている相手は私ではないということになる。
前に流星さんが口にした予想は、見事に外れてしまったということだ。
なら、まもりさんが待っているのはやはり、いのりちゃんなのだろうか。
彼女が魔法使いだという話は聞いたことがないけれど、それは私が忘れているだけなのかもしれない。
彼女をあの店に連れていけば、まもりさんの心は救われるのだろうか?
でも。
――まもりが記憶を消したのは、いのりの心を守るためだったんじゃないかって思ってる。
流星さんが言っていた。
彼らが記憶を失くしたのは、いのりちゃんのためを思ってまもりさんが選択したこと。
それを第三者である私が横からどうこうしようとするのは、おこがましいことではないのか?
そもそもあの二人を会わせたところで、お互いの記憶がすぐに戻るとは思えない。
私が余計な真似をすることで、結果的にはまた二人を傷つけてしまうかもしれない。
(私は、どうすればいいんだろう?)
いのりちゃんと、まもりさん。
二人がいま苦しんでいるのは、きっと心のどこかに不安や後悔の念があるからだ。
それは失われたはずの記憶が、断片的に残っているせいなのかもしれない。
(……どうして、残っているんだろう?)
ふと、疑問に思った。
まもりさんは今まで、魔法で何度も人の記憶を消してきた。
そのせいで、彼自身もたくさんの記憶を失ってきたという。
でも、彼らの心には記憶の断片が残っている。
すべてを忘れてしまえば楽になれるのかもしれないのに、彼らの心はそうはならない。
それは、まもりさんの魔法が『未熟』なせいなのか?
いや。
もしかすると。
(いのりちゃんも、まもりさんも、本当は……)
忘れたくない――と、無意識のうちに思っているのではないだろうか。
たとえ記憶が曖昧になっても、心の奥底に留まり続けるもの。
それは、彼らにとって『絶対に忘れたくない記憶』なのではないか?
たとえどんなにつらい記憶だったとしても、彼らは心のどこかでそれを覚えていたいと願っているのかもしれない。
悲しみも、後悔も、すべて。
といっても、実際のところはわからない。
記憶の断片が残っているのはただの偶然で、そこに深い意味はないのかもしれない。
でも。
このままずっと思い出せないでいると、きっと二人は永遠に苦しみ続けることになる。
(なら、いま私にできることは……)
いま、私にできること。
二人の苦しみを、少しでもやわらげること。
このまま何もしなければ、現状はきっと変わらない。
曖昧な記憶に心を揺さぶられ、不安を抱えたまま二人は生きていかなければならない。
なら、いっそ。
彼らは思い出すべきなのかもしれない。
そして私は、彼らが記憶を取り戻すための、架け橋になるべきなのかもしれない。
この先、まもりさんが何度記憶を消すことになったとしても。
私は、二人に真実を伝えるべきなのかもしれない。
たとえどれだけ彼らの心を傷つけることになっても、それが本当の意味で彼らのためになるのなら。
私は何度だって、彼らの架け橋になりたい――。
「!」
と、そのとき。
スマホのバイブが鳴った。
見ると、画面には『まもりさん』の文字が表示されている。
(まもりさん……?)
SNSでのメッセージだった。
彼の方から連絡してくるのは珍しい。
私は少しだけ不安になりながらも、恐る恐るメッセージを開く。
するとそこには、
「え……?」
たった一言だけ、短い挨拶が綴られていた。
『さよなら。今までありがとう』
「――……絵馬ちゃん!」
「!」
いきなり名前を呼ばれて、私は我に返った。
声のした方を見ると、教室の後方にある扉の所から、一人の女の子が手を振っていた。
長いポニーテールに、ほんのりと吊り上がった大きな目。
いのりちゃんだった。
彼女はすでに帰り支度を終えた様子で、廊下側から私のことを手招きする。
「なにボーっとしてるの。もう終礼はとっくに終わってるよ。早く帰ろ!」
「えっ……」
そう言われて初めて、私は周囲を見渡した。
教室に残っていたのは、すでに私一人だけだった。
(あれ……?)
どうやら彼女の言うように、ボーっとしてしまっていたらしい。
手にしていたスマホに目を落とすと、SNSのトーク画面に『メンバーがいません』と表示されている。
誤って迷惑アカウントのメッセージでも開いてしまったのだろうか。
「ほら絵馬ちゃん。早くしないと置いてっちゃうよ!」
なおも廊下の方からいのりちゃんの声が届く。
私は手にしたスマホをすぐさまカバンに詰めると、慌てて教室を出た。
「もう。どうしちゃったの? もしかして寝てた?」
いのりちゃんは可笑しそうに笑って言った。
恥ずかしい。
クラスメイトが全員退室したというのに、私は今の今まで全く気づいていなかったのだ。
(私、どうしちゃったんだろう……?)
なんだかふわふわとする。
何だろう。
ついさっきまで、何か別のことを考えていたような気がするけれど……。
「ねえ。帰りにさ、駅前のパンケーキ食べていかない? 期間限定メニューが今日までなんだって」
いのりちゃんが言った。
駅前のパンケーキは、二人でよく行くお店だった。
そこのパンケーキは甘さが控えめで、やわらかな生地が絶妙に美味しいのだ。
私は二つ返事で快諾する。
「それじゃあ決まり! 売り切れる前に早く行こっ」
いのりちゃんは嬉しそうに言いながら、私の手を引いて歩き出す。
いつもの彼女だ。
元気で明るくて、いつも私と仲良くしてくれる。
でも。
「…………?」
いつもの風景のはずなのに、何か違和感があった。
「? どうしたの、絵馬ちゃん。なんだか元気ないね?」
妙に口数の少ない私の様子に、いのりちゃんは首を傾げた。
「いのりちゃん。私……いのりちゃんと、ケンカしたりしなかったっけ?」
「え?」
私の問いかけに、彼女は目をぱちくりとさせて、
「なに言ってるの。私と絵馬ちゃんがケンカするわけないでしょ?」
と、笑い飛ばすようにして言った。
「そ、そうだよね……。ごめんね、急に変なこと言って」
本当に、どうしてそんなことを言い出したのだろう、私は。
なんだか頭がぼんやりとする。
何か大事なことを忘れているような気がするけれど、思い出せない。
学校の帰りに、私はどこかへ寄る予定がなかっただろうか?
「ああ、そうそう」
不意に、いのりちゃんが思い出したように言った。
「帰りにさ、テイクアウトの分も一つ頼むの覚えてて。今日はパパが久々に出張から帰ってくるの」
言われて、うんわかった――と頷きかけたとき、私はふと、何かを思い出しそうになった。
「一つだけでいいの?」
思わず、そんなことを口走っていた。
自分でも、どうしてそんなことを言い出したのかはわからない。
いのりちゃんは不思議そうな顔をして、そして当たり前のように言った。
「一つで十分だよ。パパはそんな大食いじゃないし……それに私、兄弟もいないからね」