〇
翌朝。
高校までの道のりをとぼとぼと歩きながら、昨夜の病院でのことを思い出す。
――あいつが待っているのは、お前のことじゃないかと思ってる。
あのときの流星さんの言葉が、頭から離れなかった。
まもりさんがずっと待っている相手。
それが私かもしれないと彼は言う。
確かに可能性のことだけで言えば、そう考えられなくもない。
まもりさんが記憶を失う直前まで、私たちは知り合い同士だったのだから。
でも。
(本当に、私なのかな……)
私には、とてもそうだとは思えなかった。
まもりさんが忘れてしまったのは、何も私のことだけじゃない。
彼は私のような友人だけでなく、自分の家族のことまでも忘れてしまったのだ。
もしも、絶対に忘れたくない記憶が彼の中で一つだけあるとしたら、それは私のような友人のことではなく、もっと近しい存在である家族の方なのではないだろうか。
そう考えると、まもりさんがずっと待っているのは、
(私じゃなくて……いのりちゃん?)
彼が待っているのは、実の妹であるいのりちゃんのことなのかもしれない。
流星さんの話では、まもりさんたちの家はもともと父子家庭で、仕事で家を空けることが多い父親に代わって、いつもまもりさんがいのりちゃんの面倒を見ていたという。
大切な妹の心を守るために、魔法で記憶を消したまもりさん。
けれど本当は、彼女のことを忘れたくなんてなかったはずだ。
まもりさんはあの暗い森の中でずっと、家族の迎えを待っているのかもしれない。
(なら、いま私にできることは?)
まもりさんの魔法によって、私は過去の記憶を失ってしまった。
けれど、たとえ何も思い出せなくても、今は彼らの事情を知っている。
流星さんから与えられた情報を頼りに、何か、私にできることはないだろうか。
「…………」
そのとき、ふと、どこからか視線を感じた。
気配をたどって顔を上げると、道の先に、一人の女の子が立っているのに気がついた。
私と同じ高校の制服をまとった、小柄な女子生徒。
長い髪をポニーテールにして、ほんのりと吊り上がった大きな目をこちらに向けている。
「……いのりちゃん」
彼女だった。
私とずっとケンカをしたままの、私の大切な幼馴染。
互いの目が合った瞬間、彼女は慌てて視線を逸らしたかと思うと、私から逃げるようにして踵を返した。
「いのりちゃん……。ま、待って!」
私はすかさずその背中を追った。
そうして後ろ手に彼女の腕を捕まえ、半ば無理やり、身体ごとこちらへ振り向かせる。
「いのりちゃん。どうして私のことを避けるのっ?」
いま、聞かなければと思った。
確かめなければならないと思った。
彼女が私を避けている理由。
それはもしかすると、消えてしまった記憶に何か関係しているんじゃないか――と、そんな予感がした。
私たちがケンカをしたのは、記憶が消えた後のことだった。
そして、そのときのいのりちゃんはどう見ても様子がおかしかった。
まるで何かに怯えるような、強迫観念にとらわれたときのような感じが、彼女の言動から滲み出ていたのだ。
「いのりちゃん。何か怒ってるの? 私のせいで嫌な思いをしたのなら謝るよ。ごめん。本当にごめん……。でも、訳を聞かせて。どうして私のこと、そんな風に避けるの?」
思いの丈をぶつけるようにして、私は一息で言った。
そうしないと、彼女の心がまたすぐに遠くまで行ってしまいそうな気がしたから。
「…………」
いのりちゃんは気まずそうに目を泳がせた後、恐る恐る私の顔を見上げた。
至近距離から、互いの視線がぶつかる。
こんなにも近くで彼女の顔を見たのは久しぶりだった。
けれど視線を合わせたまま、彼女はなかなか口を開こうとはしない。
「何か、怒ってるんだよね? あの日……車に轢かれそうになったとき、私がいのりちゃんの腕を掴んで引っ張ったから――」
あの日。
通学路の途中で、いのりちゃんは車に轢かれそうになった。
そのとき私は、彼女の腕を強引に引っ張った。
彼女の身体を安全な場所へ避難させようとして。
「いきなり引っ張ったから、怖がらせちゃった? それとも痛かった? 嫌な思いをしたのなら、正直に言って。私はいのりちゃんに、ちゃんと謝りたいの」
許してほしいなんて言わない。
ただ、彼女に謝りたかった。
彼女がなぜ怒っているのか、その訳を聞いて、そのことに対してちゃんと謝りたかった。
けれど彼女は、
「……やっぱり絵馬ちゃんは、何もわかってない」
「え?」
やっと口を開いた彼女からの返答は、私の予想とはまったく違っていた。
思わず、彼女の腕を掴んでいた手を緩めると、途端にその細い腕はするりと私のもとから離れていく。
そのまま後ろへ一歩下がった彼女は、私と微妙な距離を保ったまま、睨むような目をこちらに向けた。
「絵馬ちゃんはいつもそう。自分のことは二の次で、いつだって人の心配ばかりしてる。……あのときだってそう。あの日、車に轢かれそうになった私を道の端へ追いやって……そのまま、自分が轢かれそうになってたでしょ?」
(そう、だっけ?)
言われて、私は当時のことを振り返ってみる。
けれどあまりにも一瞬のことだったので、はっきりとは思い出せない。
車は、気づいたときには私たちのすぐ後ろにいて。
咄嗟に、いのりちゃんの腕を掴んだことだけは覚えている。
「絵馬ちゃんは、人の心配ばかりして……自分自身を蔑ろにしてるんだよ。それを自分で気づいていないからタチが悪い。私なんかと一緒にいたら、絵馬ちゃんはきっと……いつか死んでしまう」
「!」
一緒にいると、いつか死んでしまう――それはまるで、私がまもりさんに対して抱いていた不安と同じだった。
「私は……絵馬ちゃんのことを傷つけたくない。この気持ちは、わかってもらえなくたっていいよ。このままずっと仲直りができなくたって、私は……絵馬ちゃんが元気でいてくれるなら、それでいいから」
言い終えるのと同時に彼女はこちらに背を向けると、そのまま走り去ってしまった。
「いのりちゃん……っ」
私の声に、彼女は振り向かなかった。
遠くなる彼女の背中を、私はひとり路上に残されたまま、ただ見送ることしかできなかった。
〇
(いのりちゃんが私を避けるようになった理由は……私がまもりさんの店へ近寄らなくなったのと、同じ?)
いのりちゃんの本音を聞いてから、すでに数日が経っていた。
梅雨も終盤に差し掛かり、教室の窓から差す陽射しも厳しくなってきた。
もうじき夏休みがやってくる。
いのりちゃんとはあれから一度も顔を合わせていない。
そしてまもりさんの店にも、まったく顔を出していない。
(私……どうしたらいいんだろう)
私は頭を抱えていた。
何か行動を起こそうとすると、すべてが悪い方向へ行ってしまうような気がしてしまう。
いのりちゃんは私と一緒にいると、いつか私が死ぬかもしれないと言った。
それは心配が過ぎるような気もするけれど、彼女の心を苦しめている原因であることは確かだった。
あれだけ彼女が過剰に心配するのは、もしかすると――消えてしまった記憶の断片が、心の中に少しだけ残っているからなのかもしれない。
二ヶ月前、海で溺れたときのこと。
自分の身代わりに、まもりさんが死んでしまったこと。
そのこと自体を忘れても、心に負った傷だけはどこかに残っているのかもしれない。
まもりさんが、忘れてしまった誰かを待つのと同じように。
いのりちゃんもまた、忘れてしまった不安に押しつぶされそうになっているのかもしれない。
そんな彼らの事情を知っている私は、いま何をするべきなのだろう?
少なくとも、ここでただ何もせずに知らぬ顔をしている場合ではないような気がする。
と、そんなことばかり考えて授業の内容をまったく聞いていなかったとき、不意にスマホのバイブが震えた。
「!」
見ると、流星さんからメッセージが届いていた。
『今日から実家の店の手伝いに戻る。もし気が向いたらまた、まもりの様子を見に行ってやってくれ』
その内容に、私はまた不安になった。
流星さんが実家に帰ってしまう。
また、まもりさんが一人になってしまう。
こうして流星さんがメッセージをくれたということは、やはり彼もまもりさんのことが心配なのだろう。
まもりさんが、また寂しい思いをするかもしれないから。
(でも、私が会いに行ったら……)
また、彼を危険な目に遭わせてしまうかもしれない。
けれど、だからといって、彼をひとりにさせたくもない。
流星さんもきっと、私と同じ気持ちなのだ。
私はしばらく悩んだ末、結局はその日の放課後に、久々にあの店へ寄ることにしたのだった。