「……私っ?」
耳を疑った。
何かの冗談かと思った。
あの暗い森の奥で、まもりさんがずっと待っている相手。
それが、――私?
「まもりさんが、私を? ……って、そんなわけないじゃないですか。だって私、まもりさんと出会ってからまだ一か月も――」
経っていない、と言いかけて、私はハッとした。
(まさか……)
さっき流星さんが言っていた。
まもりさんは、今まで何度も人の記憶を消している――それが本当なら、今は私が忘れているだけで、
(私とまもりさんは、以前にも会ったことがある……?)
そんな私の心中を察したのか、流星さんは私の顔を見ながら、こくりと頷いた。
「お前は忘れているだろうけどな。俺たちは前にもこうして会ったことがある。……いや、会うどころか、一緒に何度も遊んだりしたんだ。俺と、まもりと、お前と、そして……いのりも一緒に」
「いのりちゃん、も?」
胸がざわざわとした。
私の幼馴染であるいのりちゃん。
彼女もまた、まもりさんや流星さんと会ったことがあるのだという。
「お前も、まもりも、いのりも、みんな忘れちまっただろうけどな……。俺だけは覚えている。俺たちは子どもの頃から、何度もこうして会っていたんだ」
「子どもの、頃から……?」
私たちは、今までに何度も会っている。
それも子どもの頃から。
まるで信じられないことだけれど、それはつまり――私と彼らは、みんな幼馴染だったということだろうか?
でも。
「せ、接点がわかりません。私といのりちゃんはともかく、まもりさんと流星さんは私たちと学年も全然違うじゃないですか。特に流星さんは、この街の人でもないですし……」
学校で出会うこともなければ、お互いに近所に住んでいるわけでもない。
そんな彼らと私たちが、一体どうやって出会っていたというのだろう?
混乱する私に対し、流星さんは落ち着いたまま、諭すような声で言った。
「何も不思議なことじゃないさ。まもりといのりは、実の兄妹なんだからな」
「……え?」
兄妹。
血の繋がった、兄と妹。
その響きに、私は水を浴びせられたような感じがした。
「いのりちゃんと……まもりさんが?」
「そうだ。その二人が繋がってるんだから、あとはわかるだろ?」
言われて、私は混乱した頭を何とか働かせる。
流星さんは続けた。
「お前といのりは、小さい頃からずっと仲が良かったからな。お前がいのりの家に遊びに来るたび、お前はいつも、まもりに会っていたんだ。そして、あいつらの従兄弟である俺とも、何度も顔を合わせる機会があった」
「そんな。私……覚えていません」
「そりゃそうだろ。魔法で記憶が消えちまったんだから」
当たり前のように言われて、私はほんの少しだけ胸がちくりと痛んだ。
まもりさんと、流星さん――幼馴染だったはずの二人の存在を、私は忘れてしまっていたなんて。
「お前は、いのりと特別仲が良かったからな。あの兄妹と一緒に、お前は俺の店にも来たことがあるんだぞ」
「えっ?」
その言葉に、私は面食らった。
流星さんのお店。
というのは確か、海水浴場にある海の家――と、まもりさんが言っていたはず。
「最後に来たのは二か月くらい前だったな。ちょうど、まもりが最後に記憶を消す直前だ」
二か月前。
私がまもりさんの店を見つけるよりも前の話だ。
その頃に私は、流星さんの店に行っていた?
そう口で言われても、私の記憶は一向に戻ってくる気配がない。
「思えばあれが、お前たちの記憶を消すことになる、直接の原因だったんだろう」
そう言った流星さんの顔は沈んでいた。
これから話そうとしている内容に、何か大きな重圧を感じているようだった。
「……聞かせてもらえますか?」
私が恐る恐る聞くと、彼はどこか緊張した面持ちで頷く。
「あの日はな……まだ五月だってのに、すげー暑い日だったんだ」
流星さんは語る。
その日は例年よりも気温が高く、海開きもまだだというのに、すでに何人もの人が海水浴を楽しんでいたのだという。
「家族連れやらカップルやらが楽しそうにしててよ。そいつらを見て、いのりも泳ぎたいって言いだしたんだ。危ないからやめとけって言ったんだけど、聞かなくてさ」
嫌な予感がした。
海開き前ということは、遊泳者たちを見守るライフセーバーもまだいない頃だ。
何かあったときは完全に自己責任ということになる。
「案の定、いのりが溺れたよ。やたら沖の方まで行ったらしくてな。俺は船の切符売りの仕事で離れてたんだが……」
そこまで聞いて、私は何となく先が読めた。
「もしかして……いのりちゃんを助けるために、まもりさんが魔法を使ったんですか?」
「まあ、そういうことだ」
やはり。
溺れているいのりちゃんを見て、まもりさんは魔法を使った。
きっと、その代償のことなんて本人は考えもしなかったのだろう。
「人の命がかかっている場面だ。魔法の代償はそれなりのものだった。あのとき、まもりは……魔法の報いを受けて、一度死んだんだ」
「!」
死んだ。
まもりさんが?
「俺が戻ってきたときには、すでに心臓が止まっていた。いのりもお前も、パニックを起こして号泣していたよ。すぐに心臓マッサージをして、何とか一命は取り留めたけどな」
まもりさんが、たとえ一時的なこととはいえ、死んでしまった。
そのとき私は、一体どんな気持ちになっていただろう。
そして、私と一緒にいた、いのりちゃんも――。
「あのことがあってから、いのりの様子が明らかにおかしくなったんだ。心配性っつーか、周りの人間の怪我にやけに敏感になってさ。その日の夜なんか、俺がちょっと指先を切ったくらいでヒステリックになって」
その気持ちは、わからなくもない。
もしも私がいのりちゃんの立場だったら、同じような反応をしていたかもしれないから。
自分のために、たとえ一時的とはいえ、まもりさんが死んでしまった。
そのとき負った心の傷は、そう簡単に癒せるものではないと思う。
「あれからすぐだったよ。お前たちが記憶を失くしたのは」
「…………」
私は何も返事ができなかった。
これだけ説明されても、私は結局、何の記憶も思い出すことはできなかった。
「俺は……まもりが記憶を消したのは、いのりの心を守るためだったんじゃないかって思ってる。そして、絶対に消したくなかった思い出まで、魔法の代償として失ったんだ」
流星さんがそう言い終えたとき、がらりと診察室の扉が開いた。
「!」
私と流星さんはほぼ同時に顔を上げた。
扉の奥から出てきたのは、穏やかな笑みを浮かべたまもりさんだった。
「お待たせ。遅くなってごめんね」
久方ぶりに耳にしたその声は、いつも通りの優しい彼のものだった。
「まもりさん。もう、大丈夫なんですか?」
私は思わず立ち上がり、彼のそばへと駆け寄った。
「うん。もう家に帰ってもいいみたい。心配かけてごめんね」
ごめんね――と、彼はいつも謝罪の言葉を口にする。
人のために自分を犠牲にして傷ついた彼が、どうして謝る必要があるのだろう?
私はなんだか泣きそうになって、
「……本当に、心配したんですよ。もう、無茶なことはしないでください」
声を震わせながら、そう言った。
これ以上、危険なことはしないでほしい。
自分を蔑ろにしないでほしい。
けれど、この人は。
「うん。……ごめんね」
と、何度も謝罪の言葉を口にして、困ったように苦笑するだけだった。