後宮にて女房は、長恨歌をうたう

 次の日の朝、夕少納言は泣きはらした目で一の姫の前に現れた。
「下がって良いわ、夕少納言」
「い、いえ……」
「少しは休んで」
 そう言う一の姫は一の姫でどこか気落ちしているようであった。
「……私のことより、何かございましたか、一の姫様」
「……里下がりされている桐壺の女御様の具合がいよいよ悪いようなの」
 桐壺の女御とは帝の妃のひとりであり、病気で実家に戻っていた。帝との間に一人の姫がいる。
 姫は一の姫の異母姉に当たり、現在、伊勢で斎宮をしている。
「斎宮の母君が亡くなれば斎宮は退下(たいげ)するのが通例だわ……私、たぶん、そうなったら斎宮に卜定(ぼくじょう)される」
 他にちょうどいい姫君が帝にはいないのだ。
 幼いとばかり思っていた七つの子が、大人びた顔でそう語るのを、夕少納言はなんともいえない顔で見ていた。
 その頃には目の腫れも引いていた。
 ちらりと一の姫の側の乳母を見やれば、気遣わしげに一の姫を見ていた。
 斎宮になるというのは光栄なことであるが、本人からしてみれば、恋も結婚も封じられる。キラキラとした顔で伊勢物語や源氏物語に憧れた少女の顔を思い出して、気付けば夕少納言の瞳にうっすらと涙が浮かんでいた。
「……泣いていいのよ、少納言。家族も同然の綾大輔が亡くなったばかりなのですから」
 あえて一の姫はそう言った。
 夕少納言はとうとう耐えきれず、おいおいと泣き出し、乳母もまたしくしくと泣いてしまった。
 それを一の姫は柔らかな表情で見守っていた。
 夕少納言はしゃくり上げるとき、一の姫の顔を見て、思わずドキリとした。
 その柔らかな表情は、どこか式部卿宮にそっくりであった。

 しばらくして泣き止んでから、夕少納言は恐る恐る一の姫に尋ねた。
「……あの、一の姫様、おそれながら、式部卿宮様とは、どういうお方でしょう」
「……あなたもよく知っているでしょう。愛想がよくて、いつも穏やかで、気配りが出来て……欲がないお方よ」
「欲……」
「かつてね、私の産まれる前の話。主上には姫君――内親王は何人かいたけど、皇子――親王が生まれるのはずいぶんと遅かったの。だから式部卿宮様は長いこと皇太弟であられたわ。主上に何かあったら帝になれたのよ。それなのに、私の兄……東宮様が生まれると、すぐさま皇嗣を譲ると表明されたわ。式部卿宮様と主上は同母兄弟だし、母……中宮様の出身も皇太后様のお家だから、摂関家も誰も文句はつけなかったけど……欲があまりにないとは思わない?」
「……そう、ですね」
 幼い子供など身分の別なく、すぐに死ぬ。不敬ではあるが東宮が死ぬ可能性に賭けて、皇位継承権を握っていてもよかっただろうに。
「……まあ、悪いお方ではないと思うわ。だから、夕少納言、考えておいてね。私が伊勢にゆくときに、ついてくるか、それとも京に残って式部卿宮様と添い遂げるか」
「あ……」
 思ってもいなかったことを言われ、夕少納言は呆然とする。
 一の姫が伊勢に行くのなら、当然、夕少納言も身の振り方を考えなくてはならない。
 もちろんあの新しい北の方がいる実家には帰れまい。一の姫について伊勢に下るか、それとも一の姫以外につかせてもらえるだろうか?
「……ここに残りたかったら、中宮様にそうお願いするからね」
 一の姫は夕少納言を安心させるようにそう言った。
「……ありがとう、ございます」
 夕少納言は声を詰まらせ、頭を下げた。
 七つの子の気遣いがどうしようもなく身に染みた。

 その後、その日は和歌を詠んだ。一の姫はすっかり上手く和歌を詠めるようになっていた。

 その夜も、夕少納言はこっそり外に出た。
 昨日と同じ木の下にたどり着いたが、そこでふと本当に式部卿宮は来るだろうかと不安になった。
 からかわれてはいないだろうか、戯れだったのではないだろうか、ご友人を連れてきてまんまと現れた身の程知らずの女房をせせら笑うのではないか。
 そう思うと夕少納言はさっさとそこから消えてしまいたい気分になったが、万が一にも式部卿宮が本気だったときのことを思うと、去ってしまうことはできなかった。
 ボンヤリと空を見上げた。昨日の満月より少し欠けた月が空に浮かんでいた。
「よかった」
 そんな声が後ろからした。
 振り返ると式部卿宮がひとりでそこにいた。
 相変わらず柔和な微笑みを浮かべている。
「……明日は来ません」
 夕少納言は式部卿宮が近付いてくる前にそう言った。
 式部卿宮は足を止めた。
「……夕少納言」
 式部卿宮の声には切なさがにじんでいた。戯れでやっているのではないと感じさせるに足る態度に夕少納言の心は痛む。
「それをお伝えに来ました。さようなら」
 そう早口に告げると、夕少納言は式部卿宮に背を向けた。
 背後から走り寄ってくる音がする。体が後ろから引き留められる。
 ふわりと上品な薫物(たきもの)が香る。
「……私は、父の愛人に邸を追い出されました」
 夕少納言は淡々と告げた。
「あなたには正妻がいる。私は……愛人になりたくはない」
「……それなら妻と別れます」
 式部卿宮の言葉に夕少納言は思わず失笑を漏らす。
「……それでは、あなたは多くのものを失うではありませんか」
 皇太弟を退いた式部卿宮は正妻の家に住んでいる。
 母方の摂関家に頼ることもできるだろうが、皇嗣ではなくなった彼に、摂関家はさほど重きを置いてはいないだろう。
「その衣一つ、香り一つ、あなたの北の方様が用意したものでしょう。私にはそのようなことできません。ご存知ないかもしれませんが、私は少納言の家を追い出された身です。無一文なのです」
「夕少納言……」
「……桐壺の女御様のことは聞き及んでいらっしゃいますか」
「…………」
 沈黙。聞いているのだろう。一の姫が次の斎宮になるであろうことも、この人の立場ならわかっているだろう。
「私、一の姫様が伊勢に行かれるのならそれについていこうと思います。ですから……離してください」
 夕少納言の言葉に式部卿宮は素直に腕を離した。
 夕少納言は一礼して彼の元を去って行く。
 その背に式部卿宮は声を投げかけた。
「……明日の夜も、ここで待っています」
 夕少納言は振り返ることなく局に戻って行った。

 次の日、一の姫にせがまれるままに漢詩を読み聞かせ、その内容について解説した。
 何事もないように振る舞って、そして夜を迎えた。
 夕少納言は局の中で眠れぬ夜を過ごした。
 三日目の夜を別々に過ごし、しばらく式部卿宮と出くわさない日々が続いた。
 一の姫は何かを悟ったようで、式部卿宮の話題を出さなくなった。
 そうしてしばらくして、桐壺の女御の訃報が届き、桐壺の女御の娘の斎宮退下が決まった。
 帝が御自ら一の姫の元を訪ねてきた。
 弘徽殿の方が一の姫に寄り添い、夕少納言は極度の緊張に包まれながら、その場に同席した。
晴子(はるこ)内親王」
 晴子とは一の姫の本名である。
「伊勢に行ってくれるか」
「主上の仰せのままに」
 一の姫ははっきりとそう答えた。
「ありがとう」
 帝が少し寂しそうな声でそう告げる。
 弘徽殿の方がひっそり涙ぐむ。
 こうして帝と弘徽殿の方の一の姫、晴子内親王は伊勢へ斎宮として奉仕することが決まった。

 しばらく夕少納言はその支度に大いに追われた。
 一の姫の周りは慌ただしく、一の姫はため息をつくことが増えた。
「伊勢に雪は降るかしら」
 そうつぶやいたりしていた。
「……御簾をお上げましょう」
「あなたも冗談が言えるくらいここに慣れたわね、夕少納言」
 そう言い合うと二人は微笑みあった。

 いよいよ明日には出立という夜、夕少納言はなかなか寝付けなかった。
 よもや自分が伊勢に下る日が来るとは思っていなかった。
 あの少納言の邸の中で母や綾大輔とひっそり生きていた時と比べ、なんと思いがけないことばかり起こることであろう。
 思いがけないと言えば、と夕少納言はふと式部卿宮のことを思い出してしまった。
 彼は一度、一の姫に言葉をかけに来たことはあったが、夕少納言はどうにか息を殺し、その場にいないフリをした。
 彼に妻として求められた、それこそ、思いがけないことであったと夕少納言はもうそのことを思い出にしようとしつつあった。
 しばらく寝ようと努めたが、結局、どうしても寝付けずに、夕少納言はまた局を抜け出した。
 あの木の下に足を向けると、そこには先客がいた。
 息が詰まった。
「式部卿宮様……」
「ああ、夕少納言」
 式部卿宮は夕少納言に微笑みかけた。
「ようやく三日目ですね」
 さすがに毎晩ここにいたわけがないだろう。式部卿宮とてそこまで暇ではあるまい。
「……も、餅がありませんから」
 夕少納言はなんとかそう言った。
「そう言われると思いまして」
 式部卿宮は懐から白い鞠を取り出した。
「これでなんとか代わりになりませんか」
「…………」
 夕少納言はじりじりと後ずさった。
 これ以上、近付いたら戻れなくなる。そう思った。
「……小さな邸を四条に建てさせたのです」
 式部卿宮はそう言った。
「来ては、くださいませんか」
 夕少納言は初めて式部卿宮に出会ったときのように頭がくらくらしてきた。
「夕少納言……」
 式部卿宮は真っ直ぐこちらの目を見つめてくる。
 夕少納言は慌てて袖で顔を隠した。
 女房として内裏に仕えている内に、すっかり顔を殿方に見られるのにも慣れたはずが、ここに来ていきなり恥ずかしくなってしまった。
 その隙をついて、式部卿宮は夕少納言ににじり寄った。
「……富家(ふか)(むすめ)()し易く、嫁すること早きも其の夫を軽んず。貧家(ひんか)の女は嫁し難く、嫁すること(おそ)きも姑に孝なり」
 白居易の『議婚』であった。
 金持ちの娘は嫁ぎやすいが、夫を軽んじ、貧しい娘は嫁ぐのは難しいが、姑を大事にする、そういう意味である。
「……姑様は、もういらっしゃらないじゃないですか」
 夕少納言はあまりに風流ではない返しをした。
 そう言いながら、右大臣の娘とあまり上手くいっていないのだろうということは察することが出来た。
 しかしそれは夕少納言にとって安堵の種にはならない。上手くいっていないからこそそこら辺の女に手を出しているだけなのだと、どこまでも自嘲的に思うばかりである。
「来てください、どうか」
 しかし、式部卿宮に静かな声でそう懇願され、夕少納言はとうとうその体を式部卿宮に預けてしまった。
 式部卿宮はそのまま夕少納言の体を抱きしめると、内裏の外へと連れ去ってしまった。

「夕少納言、あなたの名前は」
 牛車の中で、式部卿宮は静かに尋ねた。
 貴族の女にとって名前は普通、親兄弟、あとは夫にしか知らせないものであった。
「……初子(はつこ)
 小さく夕少納言は答えた。
「初子」
 式部卿宮は愛しげにその名を呼んだ。
 初めて呼ばれた名前に、夕少納言は顔を真っ赤にしてうつむいた。心臓が全身を揺らしていた。

 翌朝、夕少納言の不在に一の姫の周りは大騒ぎをしたが、一の姫がぴしゃりとそれをやめさせた。
「この文を、式部卿宮様に」
 一の姫は素速く文をしたためると、大勢の共と伊勢へと下っていった。

 式部卿宮を経由して、夕少納言の元にその文は届いた。
「天上人間(じんかん)(かなら)相見(あいまみ)えん」
 一の姫からの手紙にはただ一言そう書き添えられていた。
 それは『長恨歌』の一節であった。
 仙女となった楊貴妃が、使いを寄越した玄宗へ送った返事であった。
 天と地で別れていようと、いつかは会える。
 そういう意味であった。
 不義理をした自分への心遣いに夕少納言は式部卿宮の邸で泣き崩れた。

 式部卿宮が用意した邸は、小さいとは言え、必要な物はすべて揃っていた。
 夕少納言はすっかりその邸の女主人として下にも置かれぬ扱いをされるようになった。
 式部卿宮はほとんど右大臣の娘の元には帰らなくなり、小さい邸に、夕少納言の元へ帰ってくるようになった。
 ――ああ、自分は父の愛人と同じ立場になってしまった。
 それに気付いて、夕少納言は無性に泣きたい気持ちになった。
 式部卿宮が出仕した後、夕少納言は一人でいつも泣いていた。
 しかし、一の姫が伊勢に下り、何も言わずに内裏から姿を消した彼女にはもう行き場などどこにもなかった。
 さて、しばらくの間、夕少納言は行方不明ということになっていたが、次第に式部卿宮の邸に囲われていると噂されるようになった。
 内裏にいた頃の二人のただならぬ様子に気付いていた者はことのほか多かった。
 娘の女房が弟の愛人になるという事態に帝はいささか困惑したが、弘徽殿の方の取りなしもあり、ふたりを責めることはしなかった。
 しかしさすがに式部卿宮の正妻の父である右大臣の心証は悪かった。
 そもそもこの右大臣、娘のことは帝の元に入内させたいと思っていたところをどうしてもと頼まれ、皇太弟である式部卿宮と(めあわ)せたのであった。
 それが式部卿宮が皇太弟を退いた挙句、娘の元からすら去ったというのは右大臣には耐えがたいことであった。
 しかし式部卿宮がのらりくらりと右大臣との対面を避け続けたので、表だった衝突は起こらなかった。

 さて、それを聞いてたまげたのは夕少納言の父の少納言であった。
 捨てたつもりの娘が帝の弟宮の愛人に収まった。
 それを聞いて少納言の心に野心が芽生え始めた。
 少納言でどうしても頭打ちになった自分の立場を、式部卿宮を利用してどうにか出世できぬものかと画策し始めた。
 その頃には新しい北の方も、死んだ夕姫の母のことも溜飲を下げつつあり、少納言が娘と接触しようとするのを許した。

 こうして式部卿宮の邸でぼんやりと過ごしていた夕少納言の元へ、少納言からの文が届けられた。
 式部卿宮の邸の人々は式部卿宮に忠実で、その愛人である夕少納言のことも尊重していたが、夕少納言とその実家との確執については何も知らなかったため、文をそのまま夕少納言に手渡してしまった。
 夕少納言は父からの手紙に目を通すと、倒れ込んだ。
 母と二人で過ごした寂しい幼少期、母を亡くした寂しさ、邸に新しい北の方が来たときのあの冷たい態度、少しでも彼女の視界に入れば追い払われたこと、顔どころか声すらろくに思い出せない父にどこの馬の骨ともわからぬ男に嫁がされそうになったこと、それらによって封じていた悲しみや怒りで夕少納言は一気に具合を崩してしまった。
 それに加えて自分の立場を改めて思い知る。正妻がいる式部卿宮をたぶらかした愛人。正妻から男を奪った。新しい北の方といっしょだと、自己嫌悪が渦巻いた。
 出仕していた式部卿宮の元にその報せは迅速に届き、式部卿宮はすべての仕事をほっぽり出して、邸へと帰ってきた。

「初子!」
 思わず大声で名前を呼んでくる式部卿宮に、夕少納言は目を開けて苦笑した。
「……申し訳ありません」
「謝ることなどあるものか、何があった」
「……父から文が」
「…………」
 式部卿宮は夕少納言の手に握られた文を取り上げ一瞥すると、破り捨てた。
「……はあ」
 その顔には怒りがにじんでいた。
「誰も彼も……」
 式部卿宮が怒りを向ける相手は自分の父の他に誰であろうと、夕少納言は不思議に思った。
「あなたは何も気にしなくてよい」
「……はい」
 夕少納言はうなずいた。しかしその胸中には焦りが渦巻いていた。
 ――私は、人を不幸にし、迷惑をかけている。
「……式部卿宮様」
「どうした」
「……やはり、私、ここを出ていこうと思います」
「そうしたら、あなたはどこへ行くというのです」
「山寺にでも……母の菩提寺がありますので」
 最初からこうしておけばよかったのだ。
 裳着も婚礼も出仕も、すべて自分には出過ぎたことだった。
「皆様にいただいた御恩を胸に、母を弔おうと思います……」
 綾大輔、弘徽殿の方、一の姫、身に余る助けを得てきた。
 一瞬でも幸せを感じることが出来た。それで十分だと夕少納言は思った。
 しかし式部卿宮はうなずかなかった。
「……妻とは別れてきます」
「え……」
「そうすれば、すべての面倒ごとは解消されましょう。あなたの父上も私ではなく私が右大臣との間に持つ権力に興味があるのです。面倒ごとは取り払えます」
「そ、それでは……右大臣の娘御にあまりに……あまりに……」
「私達は、思い合って結ばれたわけではありません。お互いに義務で結ばれた……ええ、あなたが思っているより、よっぽど……愛のない形式的な関係なのですよ」
「…………」
「妻と別れると言うことは妻のものだった多大な財産とも縁切れるということです。いささか、生活に不便を感じさせるかもしれませんが……あなたの心がそれで休まるというのなら……それに代わるものなどありません」
「…………私の、何が、そこまで」
 式部卿宮は困った顔をした。
「……あなたのうたった長恨歌を聞いたとき、情念の様なものを感じた」
「…………」
「――夜半人無く、私語の時。天に在りては願わくは比翼の鳥と()り、地に在りては願わくは連理の枝と()らん。天長く地久しきも、時ありて()く。此の恨みは綿綿(めんめん)として尽くる(とき)無からん」
 比翼連理、男女が強くいつまでも結ばれることをうたったその一節を、夕少納言はあの時、純粋な気持ちで口にしていただろうか?
 いや、恨みがあった。母と比翼連理を貫かない父に、恨みがあった。――長恨歌。
「それがなんとまあ、艶っぽいこと」
 式部卿宮は穏やかに微笑むとそう言った。
「この人と比翼連理と為って綿綿として愛を尽くしたいと、そんな関係に憧れたのです」
 式部卿宮の言葉に夕少納言は顔を覆った。
 涙が止めどなくこぼれてきた。
「……あなたがいてくれるのなら、貧家であろうと、きっと」
 どうにか彼女はそう言った。
 式部卿宮は微笑むと夕少納言の手を撫でて、立ち上がった。
「右大臣邸に行って参ります」
 そう言って彼は小さな邸から出て行った。
「ああ、これはこれは式部卿宮様」
 額を床に擦り付けんばかりにして、式部卿宮を歓迎したのは、夕少納言の父・少納言であった。
 式部卿宮はそれを冷たい目で見ていた。
「ああ、どうぞお上がりください。いやはや、この度は不出来な娘がお世話になりまして……!」
「我が妻を不出来などと申すか、お前は」
 式部卿宮の冷え切った声に、少納言は一瞬で汗をかいた。
「い、いえ、その、申し訳ありません」
 少納言の声が覇気を失う。
「謝らなくてよい、お前と会うのは今日が最初で最後だ」
「は……」
「二度と夕少納言……夕姫と言った方がお前には通りが良いか? 本名などは、もう忘れただろうな、お前は。彼女に文を出すな、近付こうなどと思うな」
「そ、それは、その……」
「私はお前のような男が妻の親とは思わぬ。彼女の親は亡くなられた前の北の方と、綾大輔、二人だけだ」
「……し、式部卿宮様……」
「そもそもお前が少納言などという地位に立てたのも元をたどれば前の北の方の実家の後ろ盾あってのことであろう」
「ど、どうして、そのような……」
「にもかかわらず、その娘を追い出し、かと思えば宮に嫁いだからと取り戻そうとするなど、そのようなごうつくばりは、私の視界に入れるも腹立たしい。私が言いたいことはそれだけだ。今日ここに寄ったのはことのついでだ。私の前に立てるなどと思うな」
 式部卿宮は言いたいだけ言うと、少納言に背を向けた。
 少納言は力を失い、へたり込んだまま去って行く式部卿宮を見送ることしか出来なかった。

「ふん、方違えのせいで寄れてしまえるとは腹立たしい」
 そう言いながらも、式部卿宮は牛車の中からちらりと少納言の家を振り返った。
 憤懣やるかたない相手のいる場所ではあったが、夕少納言の生家と思えば、どこか親しみを感じてしまう。
 しかし、その家は見事に少納言とその新しい北の方に乗っ取られた。
 本来ならこの邸は夕少納言が相続すべき邸であった。
 しかし、と式部卿宮は首を横に振る。
 夕少納言も今更この家に戻りたいとも思えないだろう。母との思い出は大切であろうが、寝込むほどに嫌な思い出もある。
「さて……」
 いよいよ彼の今日の本来の役目が迫っていた。
 物思いにふけっているうちに、右大臣の家に牛車は到着した。

「ご無沙汰しております」
「本当にね」
 御簾越しに右大臣の娘はくすくすと笑った。どのような表情をしているのか、式部卿宮にはもうわからなかった。
「そんなに素晴らしい女性だったのね、夕少納言、でしたっけ?」
「……はい」
「よかったではないですか……。こんなに長く連れ合って、子供の一人生めない妻によく今まで我慢してくれたものです」
 右大臣の娘はそう言って軽く腹をさすった。彼女は何度か子を宿したが、どの子も生まれてくることはなかった。次第に二人の間に夫婦の交わりはなくなっていった。
「……祥子(よしこ)
「今更、夫面するのはおやめになって」
 苦しげに名を呼ぶ式部卿宮に、右大臣の娘はぴしゃりとそう言った。
「……別にそれが理由ではなかったでしょう。最初から私達の間に思いなどなかった。ただ、子供が生まれれば何か変わるかもと私が一縷の望みをかけていただけ……」
 右大臣の娘はそう言って笑った。
「お父様には私の方からいろいろと申しておきます。よいのです。むしろ今まで恋の一つもしてこられなかったあなたが心配なくらいです」
 そう言って右大臣の娘はため息をついた。
「あなたの詠まれる和歌と来たら技巧と知識にばかり走って……大丈夫なのかしら、相手様には愛想は尽かされませんこと?」
「…………」
 式部卿宮は苦笑いで黙るしかなかった。
「どうぞ、お幸せに」
 そう言うと右大臣の娘はさっさと去れと言わんばかりに顔を背けてしまった。
「……今までありがとうございました。長らくお世話になりました」
 式部卿宮は礼をすると、立ち上がった。
 愛こそなくとも長らく連れ添った二人の間にはそれ以上の言葉は何も意味がないとわかっていた。

 小さな邸に帰ると、式部卿宮はふと自分の身の軽さに、どこか不安な気持ちに襲われた。
 邸に上がり、家の者どもと言葉を交わすと、一直線に夕少納言の元へと向かった。
 彼女はまだ伏せっていたが、式部卿宮の顔を見るとどこか痛ましげな顔で起き上がってきた。
「ああ、無理をせずに……」
「いえ……大丈夫ですか?」
 夕少納言の式部卿宮は少し考え込むと首を横に振った。
「あまり……」
 素直な言葉に夕少納言は式部卿宮の手を握り締めた。
 小さく柔らかな手の平に花びらを握らせた春のことを思い出す。
 気付けばもう冬が近付いてきていた。
 一の姫が香炉峰の雪を望んだ冬が。
 式部卿宮は寒さに身をすくめた。
 二人は静かに寄り添いあった。

「……そうだ」
 しばらくして、式部卿宮は立ち上がると家の者に私物を持ってこさせるよう命じた。
「……こちら、お渡ししようと思って、機会に恵まれませんでした」
 そう言って式部卿宮が差し出してきたのは紙の束であった。
「これは……?」
「綾大輔の日記です。綾大輔の息子の邸に経を納めに行ったときに、託されました……この最後の巻は自分より持っているにふさわしい方がいるから、と」
 夕少納言はぱらりとめくる。
 それは夕姫と綾大輔が出会った頃の日記であった。
『友の頼みで可愛らしい姫君にお仕えする。友に似て利発で可愛らしい子であられた』
 夕少納言は喉を詰まらせた。
 そこには夕姫を見守ってきた綾大輔の思いが綴られていた。
 母が死んだ後の、実家での処遇についても切々と書かれていた。
「……ご存知でしたのね、私の何もかも」
 夕少納言はざっと目を通して、式部卿宮にそう言った。
「……はい」
 式部卿宮は顔を伏せた。
 日記は綾大輔の死の間際まで続いていた。
 その頃にはもう文字が書けなくなってきていたのであろう。誰かが代筆したらしく筆跡が変わっていた。
『夕姫様にはただ一言しかお伝えすること叶わず、それでもあのお方になら通じるであろう。もっと長く見守りたく思っていた。息子たちは孝行息子に育ってくれて、心残りはただ夕姫様のことばかりである』
 夕少納言はその日記を抱きしめた。

 それから八年後、弘徽殿の方が薨去された。
 晴子内親王は斎宮を退下し、京へと戻ってきた。雪降る日のことであった。
「お久しぶり、夕少納言、また会えたわね」
 溌剌とした様子で笑う十五歳の晴子内親王は、昔と変わらぬ愛くるしさで式部卿宮の邸を訪ねてきた。
「……こちらからお訪ねすべきところを……」
 第四子を懐妊している最中の夕少納言は大きな腹を抱えて晴子内親王に頭を下げた。
「よいのよ。方違えで式部卿宮様の邸を経由できるのは幸いだったわ。それにしても夕少納言が私のいとこを産む日が来るなんてね、それももう四人目!」
 晴子内親王は嬉しそうに笑った。
「私が行き遅れたら、あなたの息子にもらってもらおうかしらねえ」
 晴子内親王はふうとため息をついた。
「あらまあ……。一の姫様は今は、摂関家に?」
「ええ、たぶんその内お祖父さまのご意向で夫を取ることになるでしょうね。いい人だといいのだけれど……それまではせいぜい恋多き斎宮として名を馳せてみせるわ」
「ふふふ」
 夕少納言は笑った。恋物語に憧れた少女は相変わらずきらきらと輝いていた。
「香炉峰の雪は……またお預けみたいね」
 夕少納言の大きな腹を見て晴子内親王はそう言った。
「すみません……」
「いいの、いいの。どうぞお体大事にしてね」
「……八年前も、不義理をいたして……」
「なんとなく、ああなるんじゃないかとは思っていたの。だから何も問題はないわ……式部卿宮様に何か不満があったらすぐにおっしゃい、伊勢の神威を背に説教してあげるわ」
「幸いなことに今のところ、ありませんわ」
「それはそれはお熱いことで」
 晴子内親王は少し呆れた顔をした。
「まあ、あなたが幸せなら、それでいいわ。うん、いい。比翼連理、か……」
 晴子内親王はまぶしそうに夕少納言を見つめると、式部卿宮の邸を辞していった。

「そうか、お元気であられたか」
 夜、帰ってきた式部卿宮は夕少納言の腹を軽く撫でながら、嬉しそうに笑った。
「はい、すっかり元気をいただきました」
「それならよかった」
 式部卿宮の手の平の暖かさを感じながら、夕少納言は目を閉じた。
 ささやかな幸せに包まれながら、今までの人生とこの先の人生を思った。
「比翼連理」
 式部卿宮がそう囁いた。
「いつまでも、あなたとお側に」
「……はい」
 夕少納言ははにかんだ。

 それからしばらくして、晴子内親王は燃え上がるような恋をし、都を騒がせた。
 父帝は頭を痛めたが、弟宮である式部卿宮のとりなしもあり、晴子内親王の恋は実った。
 晴子内親王に子が産まれたのと時同じくして夕少納言の元にも子が産まれたので、晴子内親王は夕少納言をぜひ乳母にと望み、夕少納言はそれを受ける。
 そしてその冬、ようやく二人は香炉峰の雪を見ることが叶ったという。

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