「ああ、これはこれは式部卿宮様」
 額を床に擦り付けんばかりにして、式部卿宮を歓迎したのは、夕少納言の父・少納言であった。
 式部卿宮はそれを冷たい目で見ていた。
「ああ、どうぞお上がりください。いやはや、この度は不出来な娘がお世話になりまして……!」
「我が妻を不出来などと申すか、お前は」
 式部卿宮の冷え切った声に、少納言は一瞬で汗をかいた。
「い、いえ、その、申し訳ありません」
 少納言の声が覇気を失う。
「謝らなくてよい、お前と会うのは今日が最初で最後だ」
「は……」
「二度と夕少納言……夕姫と言った方がお前には通りが良いか? 本名などは、もう忘れただろうな、お前は。彼女に文を出すな、近付こうなどと思うな」
「そ、それは、その……」
「私はお前のような男が妻の親とは思わぬ。彼女の親は亡くなられた前の北の方と、綾大輔、二人だけだ」
「……し、式部卿宮様……」
「そもそもお前が少納言などという地位に立てたのも元をたどれば前の北の方の実家の後ろ盾あってのことであろう」
「ど、どうして、そのような……」
「にもかかわらず、その娘を追い出し、かと思えば宮に嫁いだからと取り戻そうとするなど、そのようなごうつくばりは、私の視界に入れるも腹立たしい。私が言いたいことはそれだけだ。今日ここに寄ったのはことのついでだ。私の前に立てるなどと思うな」
 式部卿宮は言いたいだけ言うと、少納言に背を向けた。
 少納言は力を失い、へたり込んだまま去って行く式部卿宮を見送ることしか出来なかった。

「ふん、方違えのせいで寄れてしまえるとは腹立たしい」
 そう言いながらも、式部卿宮は牛車の中からちらりと少納言の家を振り返った。
 憤懣やるかたない相手のいる場所ではあったが、夕少納言の生家と思えば、どこか親しみを感じてしまう。
 しかし、その家は見事に少納言とその新しい北の方に乗っ取られた。
 本来ならこの邸は夕少納言が相続すべき邸であった。
 しかし、と式部卿宮は首を横に振る。
 夕少納言も今更この家に戻りたいとも思えないだろう。母との思い出は大切であろうが、寝込むほどに嫌な思い出もある。
「さて……」
 いよいよ彼の今日の本来の役目が迫っていた。
 物思いにふけっているうちに、右大臣の家に牛車は到着した。

「ご無沙汰しております」
「本当にね」
 御簾越しに右大臣の娘はくすくすと笑った。どのような表情をしているのか、式部卿宮にはもうわからなかった。
「そんなに素晴らしい女性だったのね、夕少納言、でしたっけ?」
「……はい」
「よかったではないですか……。こんなに長く連れ合って、子供の一人生めない妻によく今まで我慢してくれたものです」
 右大臣の娘はそう言って軽く腹をさすった。彼女は何度か子を宿したが、どの子も生まれてくることはなかった。次第に二人の間に夫婦の交わりはなくなっていった。
「……祥子(よしこ)
「今更、夫面するのはおやめになって」
 苦しげに名を呼ぶ式部卿宮に、右大臣の娘はぴしゃりとそう言った。
「……別にそれが理由ではなかったでしょう。最初から私達の間に思いなどなかった。ただ、子供が生まれれば何か変わるかもと私が一縷の望みをかけていただけ……」
 右大臣の娘はそう言って笑った。
「お父様には私の方からいろいろと申しておきます。よいのです。むしろ今まで恋の一つもしてこられなかったあなたが心配なくらいです」
 そう言って右大臣の娘はため息をついた。
「あなたの詠まれる和歌と来たら技巧と知識にばかり走って……大丈夫なのかしら、相手様には愛想は尽かされませんこと?」
「…………」
 式部卿宮は苦笑いで黙るしかなかった。
「どうぞ、お幸せに」
 そう言うと右大臣の娘はさっさと去れと言わんばかりに顔を背けてしまった。
「……今までありがとうございました。長らくお世話になりました」
 式部卿宮は礼をすると、立ち上がった。
 愛こそなくとも長らく連れ添った二人の間にはそれ以上の言葉は何も意味がないとわかっていた。

 小さな邸に帰ると、式部卿宮はふと自分の身の軽さに、どこか不安な気持ちに襲われた。
 邸に上がり、家の者どもと言葉を交わすと、一直線に夕少納言の元へと向かった。
 彼女はまだ伏せっていたが、式部卿宮の顔を見るとどこか痛ましげな顔で起き上がってきた。
「ああ、無理をせずに……」
「いえ……大丈夫ですか?」
 夕少納言の式部卿宮は少し考え込むと首を横に振った。
「あまり……」
 素直な言葉に夕少納言は式部卿宮の手を握り締めた。
 小さく柔らかな手の平に花びらを握らせた春のことを思い出す。
 気付けばもう冬が近付いてきていた。
 一の姫が香炉峰の雪を望んだ冬が。
 式部卿宮は寒さに身をすくめた。
 二人は静かに寄り添いあった。

「……そうだ」
 しばらくして、式部卿宮は立ち上がると家の者に私物を持ってこさせるよう命じた。
「……こちら、お渡ししようと思って、機会に恵まれませんでした」
 そう言って式部卿宮が差し出してきたのは紙の束であった。
「これは……?」
「綾大輔の日記です。綾大輔の息子の邸に経を納めに行ったときに、託されました……この最後の巻は自分より持っているにふさわしい方がいるから、と」
 夕少納言はぱらりとめくる。
 それは夕姫と綾大輔が出会った頃の日記であった。
『友の頼みで可愛らしい姫君にお仕えする。友に似て利発で可愛らしい子であられた』
 夕少納言は喉を詰まらせた。
 そこには夕姫を見守ってきた綾大輔の思いが綴られていた。
 母が死んだ後の、実家での処遇についても切々と書かれていた。
「……ご存知でしたのね、私の何もかも」
 夕少納言はざっと目を通して、式部卿宮にそう言った。
「……はい」
 式部卿宮は顔を伏せた。
 日記は綾大輔の死の間際まで続いていた。
 その頃にはもう文字が書けなくなってきていたのであろう。誰かが代筆したらしく筆跡が変わっていた。
『夕姫様にはただ一言しかお伝えすること叶わず、それでもあのお方になら通じるであろう。もっと長く見守りたく思っていた。息子たちは孝行息子に育ってくれて、心残りはただ夕姫様のことばかりである』
 夕少納言はその日記を抱きしめた。

 それから八年後、弘徽殿の方が薨去された。
 晴子内親王は斎宮を退下し、京へと戻ってきた。雪降る日のことであった。
「お久しぶり、夕少納言、また会えたわね」
 溌剌とした様子で笑う十五歳の晴子内親王は、昔と変わらぬ愛くるしさで式部卿宮の邸を訪ねてきた。
「……こちらからお訪ねすべきところを……」
 第四子を懐妊している最中の夕少納言は大きな腹を抱えて晴子内親王に頭を下げた。
「よいのよ。方違えで式部卿宮様の邸を経由できるのは幸いだったわ。それにしても夕少納言が私のいとこを産む日が来るなんてね、それももう四人目!」
 晴子内親王は嬉しそうに笑った。
「私が行き遅れたら、あなたの息子にもらってもらおうかしらねえ」
 晴子内親王はふうとため息をついた。
「あらまあ……。一の姫様は今は、摂関家に?」
「ええ、たぶんその内お祖父さまのご意向で夫を取ることになるでしょうね。いい人だといいのだけれど……それまではせいぜい恋多き斎宮として名を馳せてみせるわ」
「ふふふ」
 夕少納言は笑った。恋物語に憧れた少女は相変わらずきらきらと輝いていた。
「香炉峰の雪は……またお預けみたいね」
 夕少納言の大きな腹を見て晴子内親王はそう言った。
「すみません……」
「いいの、いいの。どうぞお体大事にしてね」
「……八年前も、不義理をいたして……」
「なんとなく、ああなるんじゃないかとは思っていたの。だから何も問題はないわ……式部卿宮様に何か不満があったらすぐにおっしゃい、伊勢の神威を背に説教してあげるわ」
「幸いなことに今のところ、ありませんわ」
「それはそれはお熱いことで」
 晴子内親王は少し呆れた顔をした。
「まあ、あなたが幸せなら、それでいいわ。うん、いい。比翼連理、か……」
 晴子内親王はまぶしそうに夕少納言を見つめると、式部卿宮の邸を辞していった。

「そうか、お元気であられたか」
 夜、帰ってきた式部卿宮は夕少納言の腹を軽く撫でながら、嬉しそうに笑った。
「はい、すっかり元気をいただきました」
「それならよかった」
 式部卿宮の手の平の暖かさを感じながら、夕少納言は目を閉じた。
 ささやかな幸せに包まれながら、今までの人生とこの先の人生を思った。
「比翼連理」
 式部卿宮がそう囁いた。
「いつまでも、あなたとお側に」
「……はい」
 夕少納言ははにかんだ。

 それからしばらくして、晴子内親王は燃え上がるような恋をし、都を騒がせた。
 父帝は頭を痛めたが、弟宮である式部卿宮のとりなしもあり、晴子内親王の恋は実った。
 晴子内親王に子が産まれたのと時同じくして夕少納言の元にも子が産まれたので、晴子内親王は夕少納言をぜひ乳母にと望み、夕少納言はそれを受ける。
 そしてその冬、ようやく二人は香炉峰の雪を見ることが叶ったという。