さて、しばらくの間、夕少納言は行方不明ということになっていたが、次第に式部卿宮の邸に囲われていると噂されるようになった。
 内裏にいた頃の二人のただならぬ様子に気付いていた者はことのほか多かった。
 娘の女房が弟の愛人になるという事態に帝はいささか困惑したが、弘徽殿の方の取りなしもあり、ふたりを責めることはしなかった。
 しかしさすがに式部卿宮の正妻の父である右大臣の心証は悪かった。
 そもそもこの右大臣、娘のことは帝の元に入内させたいと思っていたところをどうしてもと頼まれ、皇太弟である式部卿宮と(めあわ)せたのであった。
 それが式部卿宮が皇太弟を退いた挙句、娘の元からすら去ったというのは右大臣には耐えがたいことであった。
 しかし式部卿宮がのらりくらりと右大臣との対面を避け続けたので、表だった衝突は起こらなかった。

 さて、それを聞いてたまげたのは夕少納言の父の少納言であった。
 捨てたつもりの娘が帝の弟宮の愛人に収まった。
 それを聞いて少納言の心に野心が芽生え始めた。
 少納言でどうしても頭打ちになった自分の立場を、式部卿宮を利用してどうにか出世できぬものかと画策し始めた。
 その頃には新しい北の方も、死んだ夕姫の母のことも溜飲を下げつつあり、少納言が娘と接触しようとするのを許した。

 こうして式部卿宮の邸でぼんやりと過ごしていた夕少納言の元へ、少納言からの文が届けられた。
 式部卿宮の邸の人々は式部卿宮に忠実で、その愛人である夕少納言のことも尊重していたが、夕少納言とその実家との確執については何も知らなかったため、文をそのまま夕少納言に手渡してしまった。
 夕少納言は父からの手紙に目を通すと、倒れ込んだ。
 母と二人で過ごした寂しい幼少期、母を亡くした寂しさ、邸に新しい北の方が来たときのあの冷たい態度、少しでも彼女の視界に入れば追い払われたこと、顔どころか声すらろくに思い出せない父にどこの馬の骨ともわからぬ男に嫁がされそうになったこと、それらによって封じていた悲しみや怒りで夕少納言は一気に具合を崩してしまった。
 それに加えて自分の立場を改めて思い知る。正妻がいる式部卿宮をたぶらかした愛人。正妻から男を奪った。新しい北の方といっしょだと、自己嫌悪が渦巻いた。
 出仕していた式部卿宮の元にその報せは迅速に届き、式部卿宮はすべての仕事をほっぽり出して、邸へと帰ってきた。

「初子!」
 思わず大声で名前を呼んでくる式部卿宮に、夕少納言は目を開けて苦笑した。
「……申し訳ありません」
「謝ることなどあるものか、何があった」
「……父から文が」
「…………」
 式部卿宮は夕少納言の手に握られた文を取り上げ一瞥すると、破り捨てた。
「……はあ」
 その顔には怒りがにじんでいた。
「誰も彼も……」
 式部卿宮が怒りを向ける相手は自分の父の他に誰であろうと、夕少納言は不思議に思った。
「あなたは何も気にしなくてよい」
「……はい」
 夕少納言はうなずいた。しかしその胸中には焦りが渦巻いていた。
 ――私は、人を不幸にし、迷惑をかけている。
「……式部卿宮様」
「どうした」
「……やはり、私、ここを出ていこうと思います」
「そうしたら、あなたはどこへ行くというのです」
「山寺にでも……母の菩提寺がありますので」
 最初からこうしておけばよかったのだ。
 裳着も婚礼も出仕も、すべて自分には出過ぎたことだった。
「皆様にいただいた御恩を胸に、母を弔おうと思います……」
 綾大輔、弘徽殿の方、一の姫、身に余る助けを得てきた。
 一瞬でも幸せを感じることが出来た。それで十分だと夕少納言は思った。
 しかし式部卿宮はうなずかなかった。
「……妻とは別れてきます」
「え……」
「そうすれば、すべての面倒ごとは解消されましょう。あなたの父上も私ではなく私が右大臣との間に持つ権力に興味があるのです。面倒ごとは取り払えます」
「そ、それでは……右大臣の娘御にあまりに……あまりに……」
「私達は、思い合って結ばれたわけではありません。お互いに義務で結ばれた……ええ、あなたが思っているより、よっぽど……愛のない形式的な関係なのですよ」
「…………」
「妻と別れると言うことは妻のものだった多大な財産とも縁切れるということです。いささか、生活に不便を感じさせるかもしれませんが……あなたの心がそれで休まるというのなら……それに代わるものなどありません」
「…………私の、何が、そこまで」
 式部卿宮は困った顔をした。
「……あなたのうたった長恨歌を聞いたとき、情念の様なものを感じた」
「…………」
「――夜半人無く、私語の時。天に在りては願わくは比翼の鳥と()り、地に在りては願わくは連理の枝と()らん。天長く地久しきも、時ありて()く。此の恨みは綿綿(めんめん)として尽くる(とき)無からん」
 比翼連理、男女が強くいつまでも結ばれることをうたったその一節を、夕少納言はあの時、純粋な気持ちで口にしていただろうか?
 いや、恨みがあった。母と比翼連理を貫かない父に、恨みがあった。――長恨歌。
「それがなんとまあ、艶っぽいこと」
 式部卿宮は穏やかに微笑むとそう言った。
「この人と比翼連理と為って綿綿として愛を尽くしたいと、そんな関係に憧れたのです」
 式部卿宮の言葉に夕少納言は顔を覆った。
 涙が止めどなくこぼれてきた。
「……あなたがいてくれるのなら、貧家であろうと、きっと」
 どうにか彼女はそう言った。
 式部卿宮は微笑むと夕少納言の手を撫でて、立ち上がった。
「右大臣邸に行って参ります」
 そう言って彼は小さな邸から出て行った。