三日目の夜を別々に過ごし、しばらく式部卿宮と出くわさない日々が続いた。
 一の姫は何かを悟ったようで、式部卿宮の話題を出さなくなった。
 そうしてしばらくして、桐壺の女御の訃報が届き、桐壺の女御の娘の斎宮退下が決まった。
 帝が御自ら一の姫の元を訪ねてきた。
 弘徽殿の方が一の姫に寄り添い、夕少納言は極度の緊張に包まれながら、その場に同席した。
晴子(はるこ)内親王」
 晴子とは一の姫の本名である。
「伊勢に行ってくれるか」
「主上の仰せのままに」
 一の姫ははっきりとそう答えた。
「ありがとう」
 帝が少し寂しそうな声でそう告げる。
 弘徽殿の方がひっそり涙ぐむ。
 こうして帝と弘徽殿の方の一の姫、晴子内親王は伊勢へ斎宮として奉仕することが決まった。

 しばらく夕少納言はその支度に大いに追われた。
 一の姫の周りは慌ただしく、一の姫はため息をつくことが増えた。
「伊勢に雪は降るかしら」
 そうつぶやいたりしていた。
「……御簾をお上げましょう」
「あなたも冗談が言えるくらいここに慣れたわね、夕少納言」
 そう言い合うと二人は微笑みあった。

 いよいよ明日には出立という夜、夕少納言はなかなか寝付けなかった。
 よもや自分が伊勢に下る日が来るとは思っていなかった。
 あの少納言の邸の中で母や綾大輔とひっそり生きていた時と比べ、なんと思いがけないことばかり起こることであろう。
 思いがけないと言えば、と夕少納言はふと式部卿宮のことを思い出してしまった。
 彼は一度、一の姫に言葉をかけに来たことはあったが、夕少納言はどうにか息を殺し、その場にいないフリをした。
 彼に妻として求められた、それこそ、思いがけないことであったと夕少納言はもうそのことを思い出にしようとしつつあった。
 しばらく寝ようと努めたが、結局、どうしても寝付けずに、夕少納言はまた局を抜け出した。
 あの木の下に足を向けると、そこには先客がいた。
 息が詰まった。
「式部卿宮様……」
「ああ、夕少納言」
 式部卿宮は夕少納言に微笑みかけた。
「ようやく三日目ですね」
 さすがに毎晩ここにいたわけがないだろう。式部卿宮とてそこまで暇ではあるまい。
「……も、餅がありませんから」
 夕少納言はなんとかそう言った。
「そう言われると思いまして」
 式部卿宮は懐から白い鞠を取り出した。
「これでなんとか代わりになりませんか」
「…………」
 夕少納言はじりじりと後ずさった。
 これ以上、近付いたら戻れなくなる。そう思った。
「……小さな邸を四条に建てさせたのです」
 式部卿宮はそう言った。
「来ては、くださいませんか」
 夕少納言は初めて式部卿宮に出会ったときのように頭がくらくらしてきた。
「夕少納言……」
 式部卿宮は真っ直ぐこちらの目を見つめてくる。
 夕少納言は慌てて袖で顔を隠した。
 女房として内裏に仕えている内に、すっかり顔を殿方に見られるのにも慣れたはずが、ここに来ていきなり恥ずかしくなってしまった。
 その隙をついて、式部卿宮は夕少納言ににじり寄った。
「……富家(ふか)(むすめ)()し易く、嫁すること早きも其の夫を軽んず。貧家(ひんか)の女は嫁し難く、嫁すること(おそ)きも姑に孝なり」
 白居易の『議婚』であった。
 金持ちの娘は嫁ぎやすいが、夫を軽んじ、貧しい娘は嫁ぐのは難しいが、姑を大事にする、そういう意味である。
「……姑様は、もういらっしゃらないじゃないですか」
 夕少納言はあまりに風流ではない返しをした。
 そう言いながら、右大臣の娘とあまり上手くいっていないのだろうということは察することが出来た。
 しかしそれは夕少納言にとって安堵の種にはならない。上手くいっていないからこそそこら辺の女に手を出しているだけなのだと、どこまでも自嘲的に思うばかりである。
「来てください、どうか」
 しかし、式部卿宮に静かな声でそう懇願され、夕少納言はとうとうその体を式部卿宮に預けてしまった。
 式部卿宮はそのまま夕少納言の体を抱きしめると、内裏の外へと連れ去ってしまった。

「夕少納言、あなたの名前は」
 牛車の中で、式部卿宮は静かに尋ねた。
 貴族の女にとって名前は普通、親兄弟、あとは夫にしか知らせないものであった。
「……初子(はつこ)
 小さく夕少納言は答えた。
「初子」
 式部卿宮は愛しげにその名を呼んだ。
 初めて呼ばれた名前に、夕少納言は顔を真っ赤にしてうつむいた。心臓が全身を揺らしていた。

 翌朝、夕少納言の不在に一の姫の周りは大騒ぎをしたが、一の姫がぴしゃりとそれをやめさせた。
「この文を、式部卿宮様に」
 一の姫は素速く文をしたためると、大勢の共と伊勢へと下っていった。

 式部卿宮を経由して、夕少納言の元にその文は届いた。
「天上人間(じんかん)(かなら)相見(あいまみ)えん」
 一の姫からの手紙にはただ一言そう書き添えられていた。
 それは『長恨歌』の一節であった。
 仙女となった楊貴妃が、使いを寄越した玄宗へ送った返事であった。
 天と地で別れていようと、いつかは会える。
 そういう意味であった。
 不義理をした自分への心遣いに夕少納言は式部卿宮の邸で泣き崩れた。

 式部卿宮が用意した邸は、小さいとは言え、必要な物はすべて揃っていた。
 夕少納言はすっかりその邸の女主人として下にも置かれぬ扱いをされるようになった。
 式部卿宮はほとんど右大臣の娘の元には帰らなくなり、小さい邸に、夕少納言の元へ帰ってくるようになった。
 ――ああ、自分は父の愛人と同じ立場になってしまった。
 それに気付いて、夕少納言は無性に泣きたい気持ちになった。
 式部卿宮が出仕した後、夕少納言は一人でいつも泣いていた。
 しかし、一の姫が伊勢に下り、何も言わずに内裏から姿を消した彼女にはもう行き場などどこにもなかった。