次の日の朝、夕少納言は泣きはらした目で一の姫の前に現れた。
「下がって良いわ、夕少納言」
「い、いえ……」
「少しは休んで」
そう言う一の姫は一の姫でどこか気落ちしているようであった。
「……私のことより、何かございましたか、一の姫様」
「……里下がりされている桐壺の女御様の具合がいよいよ悪いようなの」
桐壺の女御とは帝の妃のひとりであり、病気で実家に戻っていた。帝との間に一人の姫がいる。
姫は一の姫の異母姉に当たり、現在、伊勢で斎宮をしている。
「斎宮の母君が亡くなれば斎宮は退下するのが通例だわ……私、たぶん、そうなったら斎宮に卜定される」
他にちょうどいい姫君が帝にはいないのだ。
幼いとばかり思っていた七つの子が、大人びた顔でそう語るのを、夕少納言はなんともいえない顔で見ていた。
その頃には目の腫れも引いていた。
ちらりと一の姫の側の乳母を見やれば、気遣わしげに一の姫を見ていた。
斎宮になるというのは光栄なことであるが、本人からしてみれば、恋も結婚も封じられる。キラキラとした顔で伊勢物語や源氏物語に憧れた少女の顔を思い出して、気付けば夕少納言の瞳にうっすらと涙が浮かんでいた。
「……泣いていいのよ、少納言。家族も同然の綾大輔が亡くなったばかりなのですから」
あえて一の姫はそう言った。
夕少納言はとうとう耐えきれず、おいおいと泣き出し、乳母もまたしくしくと泣いてしまった。
それを一の姫は柔らかな表情で見守っていた。
夕少納言はしゃくり上げるとき、一の姫の顔を見て、思わずドキリとした。
その柔らかな表情は、どこか式部卿宮にそっくりであった。
しばらくして泣き止んでから、夕少納言は恐る恐る一の姫に尋ねた。
「……あの、一の姫様、おそれながら、式部卿宮様とは、どういうお方でしょう」
「……あなたもよく知っているでしょう。愛想がよくて、いつも穏やかで、気配りが出来て……欲がないお方よ」
「欲……」
「かつてね、私の産まれる前の話。主上には姫君――内親王は何人かいたけど、皇子――親王が生まれるのはずいぶんと遅かったの。だから式部卿宮様は長いこと皇太弟であられたわ。主上に何かあったら帝になれたのよ。それなのに、私の兄……東宮様が生まれると、すぐさま皇嗣を譲ると表明されたわ。式部卿宮様と主上は同母兄弟だし、母……中宮様の出身も皇太后様のお家だから、摂関家も誰も文句はつけなかったけど……欲があまりにないとは思わない?」
「……そう、ですね」
幼い子供など身分の別なく、すぐに死ぬ。不敬ではあるが東宮が死ぬ可能性に賭けて、皇位継承権を握っていてもよかっただろうに。
「……まあ、悪いお方ではないと思うわ。だから、夕少納言、考えておいてね。私が伊勢にゆくときに、ついてくるか、それとも京に残って式部卿宮様と添い遂げるか」
「あ……」
思ってもいなかったことを言われ、夕少納言は呆然とする。
一の姫が伊勢に行くのなら、当然、夕少納言も身の振り方を考えなくてはならない。
もちろんあの新しい北の方がいる実家には帰れまい。一の姫について伊勢に下るか、それとも一の姫以外につかせてもらえるだろうか?
「……ここに残りたかったら、中宮様にそうお願いするからね」
一の姫は夕少納言を安心させるようにそう言った。
「……ありがとう、ございます」
夕少納言は声を詰まらせ、頭を下げた。
七つの子の気遣いがどうしようもなく身に染みた。
その後、その日は和歌を詠んだ。一の姫はすっかり上手く和歌を詠めるようになっていた。
その夜も、夕少納言はこっそり外に出た。
昨日と同じ木の下にたどり着いたが、そこでふと本当に式部卿宮は来るだろうかと不安になった。
からかわれてはいないだろうか、戯れだったのではないだろうか、ご友人を連れてきてまんまと現れた身の程知らずの女房をせせら笑うのではないか。
そう思うと夕少納言はさっさとそこから消えてしまいたい気分になったが、万が一にも式部卿宮が本気だったときのことを思うと、去ってしまうことはできなかった。
ボンヤリと空を見上げた。昨日の満月より少し欠けた月が空に浮かんでいた。
「よかった」
そんな声が後ろからした。
振り返ると式部卿宮がひとりでそこにいた。
相変わらず柔和な微笑みを浮かべている。
「……明日は来ません」
夕少納言は式部卿宮が近付いてくる前にそう言った。
式部卿宮は足を止めた。
「……夕少納言」
式部卿宮の声には切なさがにじんでいた。戯れでやっているのではないと感じさせるに足る態度に夕少納言の心は痛む。
「それをお伝えに来ました。さようなら」
そう早口に告げると、夕少納言は式部卿宮に背を向けた。
背後から走り寄ってくる音がする。体が後ろから引き留められる。
ふわりと上品な薫物が香る。
「……私は、父の愛人に邸を追い出されました」
夕少納言は淡々と告げた。
「あなたには正妻がいる。私は……愛人になりたくはない」
「……それなら妻と別れます」
式部卿宮の言葉に夕少納言は思わず失笑を漏らす。
「……それでは、あなたは多くのものを失うではありませんか」
皇太弟を退いた式部卿宮は正妻の家に住んでいる。
母方の摂関家に頼ることもできるだろうが、皇嗣ではなくなった彼に、摂関家はさほど重きを置いてはいないだろう。
「その衣一つ、香り一つ、あなたの北の方様が用意したものでしょう。私にはそのようなことできません。ご存知ないかもしれませんが、私は少納言の家を追い出された身です。無一文なのです」
「夕少納言……」
「……桐壺の女御様のことは聞き及んでいらっしゃいますか」
「…………」
沈黙。聞いているのだろう。一の姫が次の斎宮になるであろうことも、この人の立場ならわかっているだろう。
「私、一の姫様が伊勢に行かれるのならそれについていこうと思います。ですから……離してください」
夕少納言の言葉に式部卿宮は素直に腕を離した。
夕少納言は一礼して彼の元を去って行く。
その背に式部卿宮は声を投げかけた。
「……明日の夜も、ここで待っています」
夕少納言は振り返ることなく局に戻って行った。
次の日、一の姫にせがまれるままに漢詩を読み聞かせ、その内容について解説した。
何事もないように振る舞って、そして夜を迎えた。
夕少納言は局の中で眠れぬ夜を過ごした。
「下がって良いわ、夕少納言」
「い、いえ……」
「少しは休んで」
そう言う一の姫は一の姫でどこか気落ちしているようであった。
「……私のことより、何かございましたか、一の姫様」
「……里下がりされている桐壺の女御様の具合がいよいよ悪いようなの」
桐壺の女御とは帝の妃のひとりであり、病気で実家に戻っていた。帝との間に一人の姫がいる。
姫は一の姫の異母姉に当たり、現在、伊勢で斎宮をしている。
「斎宮の母君が亡くなれば斎宮は退下するのが通例だわ……私、たぶん、そうなったら斎宮に卜定される」
他にちょうどいい姫君が帝にはいないのだ。
幼いとばかり思っていた七つの子が、大人びた顔でそう語るのを、夕少納言はなんともいえない顔で見ていた。
その頃には目の腫れも引いていた。
ちらりと一の姫の側の乳母を見やれば、気遣わしげに一の姫を見ていた。
斎宮になるというのは光栄なことであるが、本人からしてみれば、恋も結婚も封じられる。キラキラとした顔で伊勢物語や源氏物語に憧れた少女の顔を思い出して、気付けば夕少納言の瞳にうっすらと涙が浮かんでいた。
「……泣いていいのよ、少納言。家族も同然の綾大輔が亡くなったばかりなのですから」
あえて一の姫はそう言った。
夕少納言はとうとう耐えきれず、おいおいと泣き出し、乳母もまたしくしくと泣いてしまった。
それを一の姫は柔らかな表情で見守っていた。
夕少納言はしゃくり上げるとき、一の姫の顔を見て、思わずドキリとした。
その柔らかな表情は、どこか式部卿宮にそっくりであった。
しばらくして泣き止んでから、夕少納言は恐る恐る一の姫に尋ねた。
「……あの、一の姫様、おそれながら、式部卿宮様とは、どういうお方でしょう」
「……あなたもよく知っているでしょう。愛想がよくて、いつも穏やかで、気配りが出来て……欲がないお方よ」
「欲……」
「かつてね、私の産まれる前の話。主上には姫君――内親王は何人かいたけど、皇子――親王が生まれるのはずいぶんと遅かったの。だから式部卿宮様は長いこと皇太弟であられたわ。主上に何かあったら帝になれたのよ。それなのに、私の兄……東宮様が生まれると、すぐさま皇嗣を譲ると表明されたわ。式部卿宮様と主上は同母兄弟だし、母……中宮様の出身も皇太后様のお家だから、摂関家も誰も文句はつけなかったけど……欲があまりにないとは思わない?」
「……そう、ですね」
幼い子供など身分の別なく、すぐに死ぬ。不敬ではあるが東宮が死ぬ可能性に賭けて、皇位継承権を握っていてもよかっただろうに。
「……まあ、悪いお方ではないと思うわ。だから、夕少納言、考えておいてね。私が伊勢にゆくときに、ついてくるか、それとも京に残って式部卿宮様と添い遂げるか」
「あ……」
思ってもいなかったことを言われ、夕少納言は呆然とする。
一の姫が伊勢に行くのなら、当然、夕少納言も身の振り方を考えなくてはならない。
もちろんあの新しい北の方がいる実家には帰れまい。一の姫について伊勢に下るか、それとも一の姫以外につかせてもらえるだろうか?
「……ここに残りたかったら、中宮様にそうお願いするからね」
一の姫は夕少納言を安心させるようにそう言った。
「……ありがとう、ございます」
夕少納言は声を詰まらせ、頭を下げた。
七つの子の気遣いがどうしようもなく身に染みた。
その後、その日は和歌を詠んだ。一の姫はすっかり上手く和歌を詠めるようになっていた。
その夜も、夕少納言はこっそり外に出た。
昨日と同じ木の下にたどり着いたが、そこでふと本当に式部卿宮は来るだろうかと不安になった。
からかわれてはいないだろうか、戯れだったのではないだろうか、ご友人を連れてきてまんまと現れた身の程知らずの女房をせせら笑うのではないか。
そう思うと夕少納言はさっさとそこから消えてしまいたい気分になったが、万が一にも式部卿宮が本気だったときのことを思うと、去ってしまうことはできなかった。
ボンヤリと空を見上げた。昨日の満月より少し欠けた月が空に浮かんでいた。
「よかった」
そんな声が後ろからした。
振り返ると式部卿宮がひとりでそこにいた。
相変わらず柔和な微笑みを浮かべている。
「……明日は来ません」
夕少納言は式部卿宮が近付いてくる前にそう言った。
式部卿宮は足を止めた。
「……夕少納言」
式部卿宮の声には切なさがにじんでいた。戯れでやっているのではないと感じさせるに足る態度に夕少納言の心は痛む。
「それをお伝えに来ました。さようなら」
そう早口に告げると、夕少納言は式部卿宮に背を向けた。
背後から走り寄ってくる音がする。体が後ろから引き留められる。
ふわりと上品な薫物が香る。
「……私は、父の愛人に邸を追い出されました」
夕少納言は淡々と告げた。
「あなたには正妻がいる。私は……愛人になりたくはない」
「……それなら妻と別れます」
式部卿宮の言葉に夕少納言は思わず失笑を漏らす。
「……それでは、あなたは多くのものを失うではありませんか」
皇太弟を退いた式部卿宮は正妻の家に住んでいる。
母方の摂関家に頼ることもできるだろうが、皇嗣ではなくなった彼に、摂関家はさほど重きを置いてはいないだろう。
「その衣一つ、香り一つ、あなたの北の方様が用意したものでしょう。私にはそのようなことできません。ご存知ないかもしれませんが、私は少納言の家を追い出された身です。無一文なのです」
「夕少納言……」
「……桐壺の女御様のことは聞き及んでいらっしゃいますか」
「…………」
沈黙。聞いているのだろう。一の姫が次の斎宮になるであろうことも、この人の立場ならわかっているだろう。
「私、一の姫様が伊勢に行かれるのならそれについていこうと思います。ですから……離してください」
夕少納言の言葉に式部卿宮は素直に腕を離した。
夕少納言は一礼して彼の元を去って行く。
その背に式部卿宮は声を投げかけた。
「……明日の夜も、ここで待っています」
夕少納言は振り返ることなく局に戻って行った。
次の日、一の姫にせがまれるままに漢詩を読み聞かせ、その内容について解説した。
何事もないように振る舞って、そして夜を迎えた。
夕少納言は局の中で眠れぬ夜を過ごした。