とある少納言の正妻――北の方のところに姫が生まれた。
夕星輝く頃に生まれたので誰からともなく彼女は夕姫様と呼ばれるようになった。
しかし夕姫が四つになる頃には少納言は北の方に飽いてしまい、他の女の元へばかり入り浸るようになった。
邸で、夕姫と北の方はひっそりと暮らしていた。
北の方は夕姫に綾大輔という女房をつけた。
この綾大輔、亡くなった皇太后にお仕えしていた熟練の女房であった。本来なら少納言ごときの家に仕えるような人ではなかったが、北の方との交流があり、北の方の子であれば、と女房を引き受けた。
彼女は賢く、また漢詩によく通じていた。
夕姫は綾大輔の手ほどきで女だてらに漢詩を読み親しんだ。
特に夕姫は『長恨歌』がお気に入りだった。
『長恨歌』は白居易という詩人が、かの有名な唐の楊貴妃を謳ったもので、一二〇句にも渡る長編であるが、夕姫はわずか七つでそれをそらんじることが出来た。
北の方はそれを大層喜んだ。
しかし、その北の方も夕姫が十二歳を過ぎた頃に病で死んでしまった。
北の方の喪が明けると、綾大輔の手回しで夕姫は成人式――裳着を済ませた。このままでは裳着すらさせてもらえないだろうとの懸念があった。
少納言は夕姫にまったく目を掛けずにいたばかりか、北の方が死んだのをいいことに新しい妻を邸に迎えた。
妻と少納言の間には姫が二人、若君が一人いた。夕姫の肩身はどんどんと狭くなっていった。
新しい北の方は悋気の激しいお方であった。
前の北の方の子である夕姫が邸にいることが我慢ならず、夕姫が少しでも視界に入るようなことあらば金切り声を上げ、そのことで何度も少納言をなじった。
少納言は北の方の悋気に耐えきれず、とうとう夕姫に夫をあてがうことにした。
しかし少納言が選んだのはあまり評判のよくない男だったので、綾大輔は密かに今の皇后、住まいの名を取った通称・弘徽殿の方と接触した。
弘徽殿の方は亡き皇太后がとても可愛がっていた女御で、帝が寵愛する皇后であった。
摂関家の出で、皇太子――東宮も生み、まさに我が世の春、はばかるものなど誰もいない立場であった。
弘徽殿の方は皇太后に仕えていた綾大輔のことをよく覚えていた。
綾大輔が涙ながらに夕姫のことを訴えると、弘徽殿の方は夕姫をぜひ内裏に上げ、自分の一の姫の女房として迎えたいと言ってくれた。
少納言は邸宅から夕姫を追い出せるのなら、何でも良いと綾大輔の采配に従った。支度はすべて綾大輔が駆けずり回り、少納言は夕姫を見送りもしなかった。
夕姫は内裏に上がり、一の姫のもとで夕少納言と呼ばれることになった。
夕姫十五の春のことだった。
「しょ、少納言のところの、ゆ、夕でございます。な、何とぞよろしくお願いいたします」
父からの愛こそ受けなかったが、箱入り娘の夕姫は、可哀想なくらい固まりながら、一の姫に頭を下げた。
対する一の姫はまだ七つだというのに、おおらかにうなずいた。
「よろしく、夕少納言」
その姿には気品が溢れ出ていて、夕少納言はひたすら頭を下げた。
「そう何度も頭を下げずともよいわ。あなたは私の女房になったのですから、胸を張ってなさい」
「は、はい……」
「夕少納言が好きなことはなあに」
「え……」
「私は鞠が好き。この鞠は中宮様からいただいたの」
そう言うと一の姫は側に置いていた鞠を引き寄せた。中宮様とは皇后、つまり一の姫の母のことであった。
「綺麗でしょう」
一の姫が掲げる鞠は色鮮やかで確かに綺麗であった。
夕少納言はどう答えればよいかわからずただただうなずいた。
一の姫にはそれが美しさに感服しているように見えたようで、満足げにうなずいた。そういうところは子供らしくて可愛らしいと夕少納言は密かに思った。
「私は……私は、ええと、長恨歌が好きです」
「なあに、それは」
「漢詩です」
一の姫は物珍しそうな顔をした。
「あなた女なのに漢詩を嗜むのね」
「は、はい……」
夕少納言は恥じ入るように顔を伏せた。
「だからそう頭を下げなくてよろしいいってば。よいじゃない、漢詩。……私はそもそも勉学をあまり好まないけど」
一の姫はそう言って口を尖らせた。
「さ、左様でございますか」
綾大輔と漢詩に限らず勉強ばかりしていた夕少納言はいささか戸惑った。
「私はどうせそのうち賀茂か伊勢のどちらかにやられるだろうし、勉強などしても、ねえ?」
賀茂とは賀茂神社、伊勢とは伊勢神宮のことである。
どちらも内親王が送られ、斎王として仕える。
一の姫は帝の娘であると同時に皇太子の妹でもあり、いつ斎王として推挙されてもおかしくない身の上であった。
「……お嫌ですか、斎王になられるのが」
夕少納言は気遣うようにそう言った。
「内裏でのんびり暮らしていたいわ。そもそも斎王になったら恋の一つもできやしない」
夕少納言は七歳の子供がそのようなことを言っているのは可愛らしいと思った。
「夕少納言だって恋のひとつやふたつしてらっしゃるでしょう。伊勢物語や源氏物語のような!」
きらきらと目を光らせる一の姫に対して、夕少納言はあわあわと顔を伏せた。
もちろんこの夕少納言、この年になって恋どころか、殿方から歌の一つも、送られたことがなかった。
「……ございません、ございません」
慌てて首を横に振る夕少納言に、一の姫はにこにこと微笑んだ。
「でしたら、内裏でなさればいいわ」
「い、一の姫様……!」
夕少納言は顔を真っ赤に染めた。
「なんだかんだと男がやたらうろうろしているのが内裏ですもの、きっと良い男のひとりくらい見つかるでしょう。それとも東宮妃でも狙ってみる?」
「東宮様はまだ九つではありませんか……」
消え入りそうな声で夕少納言は一の姫をたしなめた。
一の姫の兄である東宮はまだ九つ。夕少納言から見ればあまりに幼い。
「まあね。でも、主上は駄目よ。あの方は中宮様一筋だから」
一の姫はおかしそうに笑った。
自分の両親のことをそのように開けっぴろげに語る七つの子供に、夕少納言はなんだか不思議なものを眺めている気分になった。
「それじゃあ、夕少納言、長恨歌を聞かせてちょうだい。そらんじることのできる範囲でよろしいから。あなたの好きなものを私、知りたいわ」
一の姫にそう促され、夕少納言はピンと背筋を伸ばした。
一の姫の傍らに控えていた乳母が少し困り顔になる。何しろ『長恨歌』は一二〇句からなる長編である。そらんじろと言われても夕少納言も困るであろうと乳母は助け船を出そうとしたが、夕少納言はそれより先に口を開いた。
「漢皇色を重んじて傾国を思う。御宇多年求むれども得ず。楊家に女有り、初めて長成す。養われて深閨に在り――」
夕少納言はよどみなく『長恨歌』を口にしていった。
「――夜半人無く、私語の時。天に在りては願わくは比翼の鳥と作り、地に在りては願わくは連理の枝と為らん。天長く地久しきも、時ありて尽く。此の恨みは綿綿として尽くる期無からん」
一の姫はぽかんと口を開けてしまった。
「……長いわ」
「も、申し訳ありません」
「いえ、驚いただけなの。怒ってはいないわ。これはどういう意味?」
「唐の楊貴妃をご存知ですか?」
「傾国の美女でしょう。皇帝に愛されたけれど、国を傾けた責任を取らされ首を絞められてしまうのよね」
「はい、その方の歌です」
「へえ……。他には? 他にはあるのかしら!」
一の姫が前へずいと身を乗り出す。
夕少納言が慌てて頭の中から『長恨歌』以外の漢詩を引き出そうとしていると、御簾の向こうから声がした。
「春風、先ず発く苑中の梅」
朗々とした男の声であった。彼が詠じたのは『春風』という漢詩の始まりであった。春の花を喜ぶ詩だ。まだ続きがあるのに何も言わない。これは自分が待たれているのだと、夕少納言にもわかった。
「桜杏桃李、次第に開く」
夕少納言が続けてやると、男もその続きを口にする。
こうして二人は御簾越しに一つの漢詩を歌い上げた。
「え、ええと……」
夕少納言はおろおろと御簾の向こうを見た。
「式部卿宮様!」
一の姫が楽しそうにはしゃぎ声を上げた。
夕少納言の顔が青ざめた。
式部卿宮といえば、帝の弟君であり、東宮が生まれるまでは皇太弟だったお方である。間違いなく偉さでいえば上から数えた方が早いお方である。そこらへんの殿上人かと思えば、ずいぶんと位の高い人と漢詩を歌ってしまったものである。
「ご機嫌よう、一の姫様。少し用事があってこちらを通ったのですが、なんとも胸締め付けられるような長恨歌が聞こえてきて、すっかり長居してしまいました」
涼やかな男の声がそう言った。
まさか『長恨歌』を詠うのを聞かれていたのだろうか。夕少納言の喉は恥ずかしさですっかり締まってしまった。
「式部卿宮様、こちら今日からおいでになった夕少納言、綾大輔の紹介でいらしたの」
「ああ、綾大輔の」
式部卿宮の声に懐かしさがにじんだ。彼は帝の同母弟である。亡くなった皇太后は実の母に当たるため、綾大輔とも面識があった。
「どうぞ、よろしく、夕少納言。この春の良き日にお目にかかれて幸いです」
「は、はい……」
夕姫は今まで父以外の男と会うことはほとんどなかった。
御簾越しとはいえ、涼やかな男の声に、夕少納言は頭がくらくらしてきた。
「それでは今日はこれにて失礼いたします」
そう言うと式部卿宮はさっさと立ち上がって去って行った。
夕少納言はふうと小さく息を吐いた。
その日から、一の姫はすっかり漢詩の勉強を楽しむようになった。
拙いながらも自分で漢詩を詠むようにもなった。
乳母は泣きながら喜んだ。
「何もかも夕少納言様がいらしてくださったおかげでございます! この調子で和歌も練習してくださると良いのですが……」
この時代、何はともあれ和歌を詠むのが貴族達の伝達方法である。
それならばと、夕少納言は香炉峰の雪の話をすることにした。
「一の姫様、今日は『香炉峰下新卜山居』を詠みましょう」
香炉峰というのは山の名前だ。
「これは白居易が左遷されたときに詠んだ漢詩でございます。左遷された先の住居で御簾を押し上げ、香炉峰に積もる雪を見る……という内容ですね」
一の姫はふむふむと興味深そうに何度も頷きながら夕少納言の解説を聞く。
「清少納言という人をご存知ですね?」
「ええ、もちろん」
「彼女はある雪の日、お仕えしていた中宮様からこう尋ねられます。『香炉峰の雪いかならむ』と。もちろん京の都から香炉峰など見えません。しかし清少納言は御簾を上げさせたのです。これは『香炉峰下新卜山居』を知っているからこそ通じたのです。これは和歌でも同じ事ができます。試しに白居易の漢詩を引いて和歌を詠んでみませんか」
一の姫はすっかりかつての女房の機知に感じ入り、こくこくとうなずいた。
そうして一の姫は漢詩から着想を得た和歌を詠むようになっていった。
「ああ、早く冬にならないかしら。そうしたら私、あなたに香炉峰の雪について尋ねるわ!」
「あらあら……」
夕少納言はそんな一の姫を微笑ましく思った。
夕少納言が一の姫の元に来てからというもの、式部卿宮は幾度か一の姫の元に遊びに来た。
その度に梅の花や、桜の花、桃の花を持ってきてくれた。
初めて会ったときに歌った『春風』に掛けているのだと夕少納言にはわかった。
「これは一の姫様のお部屋を照らすために、そしてこちらは……あなたの側にどうぞ、私だと思って」
そう言って式部卿宮は一の姫に渡す花束の他に、一枚の花びらを取り次ぎをする夕少納言にそっと握らせていくのであった。
「お、お、お、恐れ多いことで……」
夕少納言はそんな式部卿宮の振る舞いにすっかり参ってしまったが、きちんと立場をわきまえていた。
そもそも式部卿宮にはすでに正妻がいた。
右大臣の娘で、式部卿宮が元服した夜に共寝した添い臥しの相手で、年上の妻であった。
いつも着ている装束も、焚きしめられた香りも、すべてその妻の支度である。夜を共に過ごして、朝には仕事へ送り出す。貴人の妻とはそういうものであった。
本来なら、夕少納言の母もそれを父にするはずであったが、夕少納言が物心ついた頃には、父は他の女の元で夜を過ごし、支度もその女にさせていた。
そういったことを思い出すと、夕少納言の胸はきりきりと痛んだ。
「私は応援するわ!」
一の姫はキラキラと顔を輝かせてそう言った。
「男君など恋人の一人や二人いての甲斐性ではないの」
「……一の姫様」
夕少納言は苦笑して姫君を諫めた。
「私ごとき式部卿宮には釣り合いませんよ。あれは……それこそ、そう、恋人の……真似事でしょう」
口ではそう達観したことを言いながらも、実際に振る舞われるとすっかりのぼせ上がって顔を真っ赤にしてしまう夕少納言であったが、彼女は冷静であった。
「……私は、父の愛人に邸を追い出されました」
夕少納言は翳った顔でそう言った。
「……夕少納言」
「ですから、愛人にはなりたくないのです。……大仰な夢かもしれませぬが、それが叶わぬなら女房としてここに骨を埋めとうございます」
「不吉だから内裏に骨は埋められないけれど……わかったわ」
一の姫はうなずいた。
「……式部卿宮様のことがご迷惑なら、中宮様から主上に申し上げるようお願いしてみる?」
「い、いいえ! そんなこのような些事で主上や弘徽殿の方を動かすなどとんでもない!」
「そう……」
一の姫はふうとため息をついた。
夕少納言は寂しげに微笑んだ。
さて、一方その頃、夕少納言が内裏に上がった後、綾大輔は息子の家に退いた。
夫はすでに亡かったが、綾大輔の息子は孝行息子で綾大輔を快く邸に迎え入れた。
しかしその日々は長くは続かなかった。
綾大輔も年齢には勝てず、寝込むようになってしまった。
風の便りにそれを聞いた夕少納言は心配する文を送った。
その返事がくるのにはいささか時間がかかった。
そこにはたった一節、「久為労生事」と震える文字で書かれていた。
これは白居易が若い頃の詩『病中作』の書き出しで、若くして病気をしてしまった、長生きが出来るであろうか、という意味の漢詩であった。
一の姫が、心配そうに夕少納言の顔を見た。
「ああ、夕少納言、綾大輔はなんて?」
「……あまり、お体、かんばしくないようで……」
つっかえつっかえ夕少納言はそう言った。震える文字から、綾大輔の病状が手に取るようにわかるようであった。
「そう……。お見舞いに行く?」
夕少納言の態度から、一の姫にもその病状は伝わったのであろう。
一の姫が気遣わしげにそう言った。
「いえ……綾大輔様のご子息様にご迷惑ですから……」
「…………」
一の姫はため息をついたが、多くを語らなかった。
それからしばらく、暑さが増してきた頃、綾大輔の訃報が届いた。
夕少納言は一の姫の前では気丈に振る舞った。
しかし、夜になって、夕少納言はこっそり局を抜け出し、外でひとりシクシクと泣いた。
まだ夜は冷えたが、気にならなかった。
「……夕少納言」
そんな夕少納言に声をかける者があった。ビクリと肩を震わすと、そこには式部卿宮が立っていた。
「し、式部卿宮様……。何故、こちらに……」
「……綾大輔の事は私達の耳にも入りまして。主上と思い出話に花が咲いてしまいました」
式部卿宮からは微かに酒の香りがした。兄弟で母に仕えていた女房を偲んで酒を酌み交わしていたようだ。
「後日、私が主上の名代で綾大輔の息子のところへ、経を納めにうかがいます。何か言伝などあれば……」
「…………」
夕少納言は少し考えて、首を横に振った。
「ごめんなさい、何も思い付かない……」
「わかりました、何かありましたら、いつでも仰せ付けください」
式部卿宮は柔らかく微笑んだ。
「その様子では、今夜は寝られますまい。我らも、思い出話をしましょうか」
式部卿宮に促され、夕少納言は小さくうなずいた。
「……こちらでお仕えしていた頃の綾大輔は、どうでしたの」
「……春風は、綾大輔に習ったのです」
式部卿宮はにこりと笑ってそう言った。その目には少しの寂しさが混じっていた。
「春の花の咲く中……ああ、なんて懐かしい」
式部卿宮は近くの木を振り仰いだ。
もう花は散っていた。
「……花が散ってしまいましたね」
「……老いて香山に住せんとして初めて到る夜」
夕少納言は木より上の月を見て、そうつぶやいた。
それは香山とは白居易の親友が眠る寺のことであった。
香山に赴いて月を見、それはその日から、自分の家の月にもなるのだ、という香山への親しみを感じさせる詩であった。
「秋、白月の正に円なる時に逢う。今より便ち是れ家山の月。試みに問う、清光知るや知らずや」
涙に濡れた声で夕少納言はそう言った。
「……ええ、そうですね。我らの友ですとも、綾大輔は」
気付けば、式部卿宮は夕少納言の側近くに寄っていた。
夕少納言が何かをする暇もなく、式部卿宮は夕少納言を抱きしめた。
「……いけません、いけません」
夕少納言は力なく首を横に振った。
「三日間、こうしてあなたのもとに通いましょう」
式部卿宮は夕少納言の耳元でそう囁いた。
男が女の元に三日通うと結婚が成立する。式部卿宮が言っているのはそういうことだった。
「この内裏で餅を用意しろなどと無茶なことはもちろん申しませんとも」
くすりと式部卿宮は笑った。
三日夜餅といって、男に女が三日目の夜に餅を出す。
そうすれば婚姻は成立する。
「ただ……待っていてくだされば、それでいい」
式部卿宮はそう囁くと夕少納言を解放し、そのまま去って行ってしまった。
次の日の朝、夕少納言は泣きはらした目で一の姫の前に現れた。
「下がって良いわ、夕少納言」
「い、いえ……」
「少しは休んで」
そう言う一の姫は一の姫でどこか気落ちしているようであった。
「……私のことより、何かございましたか、一の姫様」
「……里下がりされている桐壺の女御様の具合がいよいよ悪いようなの」
桐壺の女御とは帝の妃のひとりであり、病気で実家に戻っていた。帝との間に一人の姫がいる。
姫は一の姫の異母姉に当たり、現在、伊勢で斎宮をしている。
「斎宮の母君が亡くなれば斎宮は退下するのが通例だわ……私、たぶん、そうなったら斎宮に卜定される」
他にちょうどいい姫君が帝にはいないのだ。
幼いとばかり思っていた七つの子が、大人びた顔でそう語るのを、夕少納言はなんともいえない顔で見ていた。
その頃には目の腫れも引いていた。
ちらりと一の姫の側の乳母を見やれば、気遣わしげに一の姫を見ていた。
斎宮になるというのは光栄なことであるが、本人からしてみれば、恋も結婚も封じられる。キラキラとした顔で伊勢物語や源氏物語に憧れた少女の顔を思い出して、気付けば夕少納言の瞳にうっすらと涙が浮かんでいた。
「……泣いていいのよ、少納言。家族も同然の綾大輔が亡くなったばかりなのですから」
あえて一の姫はそう言った。
夕少納言はとうとう耐えきれず、おいおいと泣き出し、乳母もまたしくしくと泣いてしまった。
それを一の姫は柔らかな表情で見守っていた。
夕少納言はしゃくり上げるとき、一の姫の顔を見て、思わずドキリとした。
その柔らかな表情は、どこか式部卿宮にそっくりであった。
しばらくして泣き止んでから、夕少納言は恐る恐る一の姫に尋ねた。
「……あの、一の姫様、おそれながら、式部卿宮様とは、どういうお方でしょう」
「……あなたもよく知っているでしょう。愛想がよくて、いつも穏やかで、気配りが出来て……欲がないお方よ」
「欲……」
「かつてね、私の産まれる前の話。主上には姫君――内親王は何人かいたけど、皇子――親王が生まれるのはずいぶんと遅かったの。だから式部卿宮様は長いこと皇太弟であられたわ。主上に何かあったら帝になれたのよ。それなのに、私の兄……東宮様が生まれると、すぐさま皇嗣を譲ると表明されたわ。式部卿宮様と主上は同母兄弟だし、母……中宮様の出身も皇太后様のお家だから、摂関家も誰も文句はつけなかったけど……欲があまりにないとは思わない?」
「……そう、ですね」
幼い子供など身分の別なく、すぐに死ぬ。不敬ではあるが東宮が死ぬ可能性に賭けて、皇位継承権を握っていてもよかっただろうに。
「……まあ、悪いお方ではないと思うわ。だから、夕少納言、考えておいてね。私が伊勢にゆくときに、ついてくるか、それとも京に残って式部卿宮様と添い遂げるか」
「あ……」
思ってもいなかったことを言われ、夕少納言は呆然とする。
一の姫が伊勢に行くのなら、当然、夕少納言も身の振り方を考えなくてはならない。
もちろんあの新しい北の方がいる実家には帰れまい。一の姫について伊勢に下るか、それとも一の姫以外につかせてもらえるだろうか?
「……ここに残りたかったら、中宮様にそうお願いするからね」
一の姫は夕少納言を安心させるようにそう言った。
「……ありがとう、ございます」
夕少納言は声を詰まらせ、頭を下げた。
七つの子の気遣いがどうしようもなく身に染みた。
その後、その日は和歌を詠んだ。一の姫はすっかり上手く和歌を詠めるようになっていた。
その夜も、夕少納言はこっそり外に出た。
昨日と同じ木の下にたどり着いたが、そこでふと本当に式部卿宮は来るだろうかと不安になった。
からかわれてはいないだろうか、戯れだったのではないだろうか、ご友人を連れてきてまんまと現れた身の程知らずの女房をせせら笑うのではないか。
そう思うと夕少納言はさっさとそこから消えてしまいたい気分になったが、万が一にも式部卿宮が本気だったときのことを思うと、去ってしまうことはできなかった。
ボンヤリと空を見上げた。昨日の満月より少し欠けた月が空に浮かんでいた。
「よかった」
そんな声が後ろからした。
振り返ると式部卿宮がひとりでそこにいた。
相変わらず柔和な微笑みを浮かべている。
「……明日は来ません」
夕少納言は式部卿宮が近付いてくる前にそう言った。
式部卿宮は足を止めた。
「……夕少納言」
式部卿宮の声には切なさがにじんでいた。戯れでやっているのではないと感じさせるに足る態度に夕少納言の心は痛む。
「それをお伝えに来ました。さようなら」
そう早口に告げると、夕少納言は式部卿宮に背を向けた。
背後から走り寄ってくる音がする。体が後ろから引き留められる。
ふわりと上品な薫物が香る。
「……私は、父の愛人に邸を追い出されました」
夕少納言は淡々と告げた。
「あなたには正妻がいる。私は……愛人になりたくはない」
「……それなら妻と別れます」
式部卿宮の言葉に夕少納言は思わず失笑を漏らす。
「……それでは、あなたは多くのものを失うではありませんか」
皇太弟を退いた式部卿宮は正妻の家に住んでいる。
母方の摂関家に頼ることもできるだろうが、皇嗣ではなくなった彼に、摂関家はさほど重きを置いてはいないだろう。
「その衣一つ、香り一つ、あなたの北の方様が用意したものでしょう。私にはそのようなことできません。ご存知ないかもしれませんが、私は少納言の家を追い出された身です。無一文なのです」
「夕少納言……」
「……桐壺の女御様のことは聞き及んでいらっしゃいますか」
「…………」
沈黙。聞いているのだろう。一の姫が次の斎宮になるであろうことも、この人の立場ならわかっているだろう。
「私、一の姫様が伊勢に行かれるのならそれについていこうと思います。ですから……離してください」
夕少納言の言葉に式部卿宮は素直に腕を離した。
夕少納言は一礼して彼の元を去って行く。
その背に式部卿宮は声を投げかけた。
「……明日の夜も、ここで待っています」
夕少納言は振り返ることなく局に戻って行った。
次の日、一の姫にせがまれるままに漢詩を読み聞かせ、その内容について解説した。
何事もないように振る舞って、そして夜を迎えた。
夕少納言は局の中で眠れぬ夜を過ごした。
三日目の夜を別々に過ごし、しばらく式部卿宮と出くわさない日々が続いた。
一の姫は何かを悟ったようで、式部卿宮の話題を出さなくなった。
そうしてしばらくして、桐壺の女御の訃報が届き、桐壺の女御の娘の斎宮退下が決まった。
帝が御自ら一の姫の元を訪ねてきた。
弘徽殿の方が一の姫に寄り添い、夕少納言は極度の緊張に包まれながら、その場に同席した。
「晴子内親王」
晴子とは一の姫の本名である。
「伊勢に行ってくれるか」
「主上の仰せのままに」
一の姫ははっきりとそう答えた。
「ありがとう」
帝が少し寂しそうな声でそう告げる。
弘徽殿の方がひっそり涙ぐむ。
こうして帝と弘徽殿の方の一の姫、晴子内親王は伊勢へ斎宮として奉仕することが決まった。
しばらく夕少納言はその支度に大いに追われた。
一の姫の周りは慌ただしく、一の姫はため息をつくことが増えた。
「伊勢に雪は降るかしら」
そうつぶやいたりしていた。
「……御簾をお上げましょう」
「あなたも冗談が言えるくらいここに慣れたわね、夕少納言」
そう言い合うと二人は微笑みあった。
いよいよ明日には出立という夜、夕少納言はなかなか寝付けなかった。
よもや自分が伊勢に下る日が来るとは思っていなかった。
あの少納言の邸の中で母や綾大輔とひっそり生きていた時と比べ、なんと思いがけないことばかり起こることであろう。
思いがけないと言えば、と夕少納言はふと式部卿宮のことを思い出してしまった。
彼は一度、一の姫に言葉をかけに来たことはあったが、夕少納言はどうにか息を殺し、その場にいないフリをした。
彼に妻として求められた、それこそ、思いがけないことであったと夕少納言はもうそのことを思い出にしようとしつつあった。
しばらく寝ようと努めたが、結局、どうしても寝付けずに、夕少納言はまた局を抜け出した。
あの木の下に足を向けると、そこには先客がいた。
息が詰まった。
「式部卿宮様……」
「ああ、夕少納言」
式部卿宮は夕少納言に微笑みかけた。
「ようやく三日目ですね」
さすがに毎晩ここにいたわけがないだろう。式部卿宮とてそこまで暇ではあるまい。
「……も、餅がありませんから」
夕少納言はなんとかそう言った。
「そう言われると思いまして」
式部卿宮は懐から白い鞠を取り出した。
「これでなんとか代わりになりませんか」
「…………」
夕少納言はじりじりと後ずさった。
これ以上、近付いたら戻れなくなる。そう思った。
「……小さな邸を四条に建てさせたのです」
式部卿宮はそう言った。
「来ては、くださいませんか」
夕少納言は初めて式部卿宮に出会ったときのように頭がくらくらしてきた。
「夕少納言……」
式部卿宮は真っ直ぐこちらの目を見つめてくる。
夕少納言は慌てて袖で顔を隠した。
女房として内裏に仕えている内に、すっかり顔を殿方に見られるのにも慣れたはずが、ここに来ていきなり恥ずかしくなってしまった。
その隙をついて、式部卿宮は夕少納言ににじり寄った。
「……富家の女は嫁し易く、嫁すること早きも其の夫を軽んず。貧家の女は嫁し難く、嫁すること晩きも姑に孝なり」
白居易の『議婚』であった。
金持ちの娘は嫁ぎやすいが、夫を軽んじ、貧しい娘は嫁ぐのは難しいが、姑を大事にする、そういう意味である。
「……姑様は、もういらっしゃらないじゃないですか」
夕少納言はあまりに風流ではない返しをした。
そう言いながら、右大臣の娘とあまり上手くいっていないのだろうということは察することが出来た。
しかしそれは夕少納言にとって安堵の種にはならない。上手くいっていないからこそそこら辺の女に手を出しているだけなのだと、どこまでも自嘲的に思うばかりである。
「来てください、どうか」
しかし、式部卿宮に静かな声でそう懇願され、夕少納言はとうとうその体を式部卿宮に預けてしまった。
式部卿宮はそのまま夕少納言の体を抱きしめると、内裏の外へと連れ去ってしまった。
「夕少納言、あなたの名前は」
牛車の中で、式部卿宮は静かに尋ねた。
貴族の女にとって名前は普通、親兄弟、あとは夫にしか知らせないものであった。
「……初子」
小さく夕少納言は答えた。
「初子」
式部卿宮は愛しげにその名を呼んだ。
初めて呼ばれた名前に、夕少納言は顔を真っ赤にしてうつむいた。心臓が全身を揺らしていた。
翌朝、夕少納言の不在に一の姫の周りは大騒ぎをしたが、一の姫がぴしゃりとそれをやめさせた。
「この文を、式部卿宮様に」
一の姫は素速く文をしたためると、大勢の共と伊勢へと下っていった。
式部卿宮を経由して、夕少納言の元にその文は届いた。
「天上人間会ず相見えん」
一の姫からの手紙にはただ一言そう書き添えられていた。
それは『長恨歌』の一節であった。
仙女となった楊貴妃が、使いを寄越した玄宗へ送った返事であった。
天と地で別れていようと、いつかは会える。
そういう意味であった。
不義理をした自分への心遣いに夕少納言は式部卿宮の邸で泣き崩れた。
式部卿宮が用意した邸は、小さいとは言え、必要な物はすべて揃っていた。
夕少納言はすっかりその邸の女主人として下にも置かれぬ扱いをされるようになった。
式部卿宮はほとんど右大臣の娘の元には帰らなくなり、小さい邸に、夕少納言の元へ帰ってくるようになった。
――ああ、自分は父の愛人と同じ立場になってしまった。
それに気付いて、夕少納言は無性に泣きたい気持ちになった。
式部卿宮が出仕した後、夕少納言は一人でいつも泣いていた。
しかし、一の姫が伊勢に下り、何も言わずに内裏から姿を消した彼女にはもう行き場などどこにもなかった。
さて、しばらくの間、夕少納言は行方不明ということになっていたが、次第に式部卿宮の邸に囲われていると噂されるようになった。
内裏にいた頃の二人のただならぬ様子に気付いていた者はことのほか多かった。
娘の女房が弟の愛人になるという事態に帝はいささか困惑したが、弘徽殿の方の取りなしもあり、ふたりを責めることはしなかった。
しかしさすがに式部卿宮の正妻の父である右大臣の心証は悪かった。
そもそもこの右大臣、娘のことは帝の元に入内させたいと思っていたところをどうしてもと頼まれ、皇太弟である式部卿宮と娶せたのであった。
それが式部卿宮が皇太弟を退いた挙句、娘の元からすら去ったというのは右大臣には耐えがたいことであった。
しかし式部卿宮がのらりくらりと右大臣との対面を避け続けたので、表だった衝突は起こらなかった。
さて、それを聞いてたまげたのは夕少納言の父の少納言であった。
捨てたつもりの娘が帝の弟宮の愛人に収まった。
それを聞いて少納言の心に野心が芽生え始めた。
少納言でどうしても頭打ちになった自分の立場を、式部卿宮を利用してどうにか出世できぬものかと画策し始めた。
その頃には新しい北の方も、死んだ夕姫の母のことも溜飲を下げつつあり、少納言が娘と接触しようとするのを許した。
こうして式部卿宮の邸でぼんやりと過ごしていた夕少納言の元へ、少納言からの文が届けられた。
式部卿宮の邸の人々は式部卿宮に忠実で、その愛人である夕少納言のことも尊重していたが、夕少納言とその実家との確執については何も知らなかったため、文をそのまま夕少納言に手渡してしまった。
夕少納言は父からの手紙に目を通すと、倒れ込んだ。
母と二人で過ごした寂しい幼少期、母を亡くした寂しさ、邸に新しい北の方が来たときのあの冷たい態度、少しでも彼女の視界に入れば追い払われたこと、顔どころか声すらろくに思い出せない父にどこの馬の骨ともわからぬ男に嫁がされそうになったこと、それらによって封じていた悲しみや怒りで夕少納言は一気に具合を崩してしまった。
それに加えて自分の立場を改めて思い知る。正妻がいる式部卿宮をたぶらかした愛人。正妻から男を奪った。新しい北の方といっしょだと、自己嫌悪が渦巻いた。
出仕していた式部卿宮の元にその報せは迅速に届き、式部卿宮はすべての仕事をほっぽり出して、邸へと帰ってきた。
「初子!」
思わず大声で名前を呼んでくる式部卿宮に、夕少納言は目を開けて苦笑した。
「……申し訳ありません」
「謝ることなどあるものか、何があった」
「……父から文が」
「…………」
式部卿宮は夕少納言の手に握られた文を取り上げ一瞥すると、破り捨てた。
「……はあ」
その顔には怒りがにじんでいた。
「誰も彼も……」
式部卿宮が怒りを向ける相手は自分の父の他に誰であろうと、夕少納言は不思議に思った。
「あなたは何も気にしなくてよい」
「……はい」
夕少納言はうなずいた。しかしその胸中には焦りが渦巻いていた。
――私は、人を不幸にし、迷惑をかけている。
「……式部卿宮様」
「どうした」
「……やはり、私、ここを出ていこうと思います」
「そうしたら、あなたはどこへ行くというのです」
「山寺にでも……母の菩提寺がありますので」
最初からこうしておけばよかったのだ。
裳着も婚礼も出仕も、すべて自分には出過ぎたことだった。
「皆様にいただいた御恩を胸に、母を弔おうと思います……」
綾大輔、弘徽殿の方、一の姫、身に余る助けを得てきた。
一瞬でも幸せを感じることが出来た。それで十分だと夕少納言は思った。
しかし式部卿宮はうなずかなかった。
「……妻とは別れてきます」
「え……」
「そうすれば、すべての面倒ごとは解消されましょう。あなたの父上も私ではなく私が右大臣との間に持つ権力に興味があるのです。面倒ごとは取り払えます」
「そ、それでは……右大臣の娘御にあまりに……あまりに……」
「私達は、思い合って結ばれたわけではありません。お互いに義務で結ばれた……ええ、あなたが思っているより、よっぽど……愛のない形式的な関係なのですよ」
「…………」
「妻と別れると言うことは妻のものだった多大な財産とも縁切れるということです。いささか、生活に不便を感じさせるかもしれませんが……あなたの心がそれで休まるというのなら……それに代わるものなどありません」
「…………私の、何が、そこまで」
式部卿宮は困った顔をした。
「……あなたのうたった長恨歌を聞いたとき、情念の様なものを感じた」
「…………」
「――夜半人無く、私語の時。天に在りては願わくは比翼の鳥と作り、地に在りては願わくは連理の枝と為らん。天長く地久しきも、時ありて尽く。此の恨みは綿綿として尽くる期無からん」
比翼連理、男女が強くいつまでも結ばれることをうたったその一節を、夕少納言はあの時、純粋な気持ちで口にしていただろうか?
いや、恨みがあった。母と比翼連理を貫かない父に、恨みがあった。――長恨歌。
「それがなんとまあ、艶っぽいこと」
式部卿宮は穏やかに微笑むとそう言った。
「この人と比翼連理と為って綿綿として愛を尽くしたいと、そんな関係に憧れたのです」
式部卿宮の言葉に夕少納言は顔を覆った。
涙が止めどなくこぼれてきた。
「……あなたがいてくれるのなら、貧家であろうと、きっと」
どうにか彼女はそう言った。
式部卿宮は微笑むと夕少納言の手を撫でて、立ち上がった。
「右大臣邸に行って参ります」
そう言って彼は小さな邸から出て行った。
「ああ、これはこれは式部卿宮様」
額を床に擦り付けんばかりにして、式部卿宮を歓迎したのは、夕少納言の父・少納言であった。
式部卿宮はそれを冷たい目で見ていた。
「ああ、どうぞお上がりください。いやはや、この度は不出来な娘がお世話になりまして……!」
「我が妻を不出来などと申すか、お前は」
式部卿宮の冷え切った声に、少納言は一瞬で汗をかいた。
「い、いえ、その、申し訳ありません」
少納言の声が覇気を失う。
「謝らなくてよい、お前と会うのは今日が最初で最後だ」
「は……」
「二度と夕少納言……夕姫と言った方がお前には通りが良いか? 本名などは、もう忘れただろうな、お前は。彼女に文を出すな、近付こうなどと思うな」
「そ、それは、その……」
「私はお前のような男が妻の親とは思わぬ。彼女の親は亡くなられた前の北の方と、綾大輔、二人だけだ」
「……し、式部卿宮様……」
「そもそもお前が少納言などという地位に立てたのも元をたどれば前の北の方の実家の後ろ盾あってのことであろう」
「ど、どうして、そのような……」
「にもかかわらず、その娘を追い出し、かと思えば宮に嫁いだからと取り戻そうとするなど、そのようなごうつくばりは、私の視界に入れるも腹立たしい。私が言いたいことはそれだけだ。今日ここに寄ったのはことのついでだ。私の前に立てるなどと思うな」
式部卿宮は言いたいだけ言うと、少納言に背を向けた。
少納言は力を失い、へたり込んだまま去って行く式部卿宮を見送ることしか出来なかった。
「ふん、方違えのせいで寄れてしまえるとは腹立たしい」
そう言いながらも、式部卿宮は牛車の中からちらりと少納言の家を振り返った。
憤懣やるかたない相手のいる場所ではあったが、夕少納言の生家と思えば、どこか親しみを感じてしまう。
しかし、その家は見事に少納言とその新しい北の方に乗っ取られた。
本来ならこの邸は夕少納言が相続すべき邸であった。
しかし、と式部卿宮は首を横に振る。
夕少納言も今更この家に戻りたいとも思えないだろう。母との思い出は大切であろうが、寝込むほどに嫌な思い出もある。
「さて……」
いよいよ彼の今日の本来の役目が迫っていた。
物思いにふけっているうちに、右大臣の家に牛車は到着した。
「ご無沙汰しております」
「本当にね」
御簾越しに右大臣の娘はくすくすと笑った。どのような表情をしているのか、式部卿宮にはもうわからなかった。
「そんなに素晴らしい女性だったのね、夕少納言、でしたっけ?」
「……はい」
「よかったではないですか……。こんなに長く連れ合って、子供の一人生めない妻によく今まで我慢してくれたものです」
右大臣の娘はそう言って軽く腹をさすった。彼女は何度か子を宿したが、どの子も生まれてくることはなかった。次第に二人の間に夫婦の交わりはなくなっていった。
「……祥子」
「今更、夫面するのはおやめになって」
苦しげに名を呼ぶ式部卿宮に、右大臣の娘はぴしゃりとそう言った。
「……別にそれが理由ではなかったでしょう。最初から私達の間に思いなどなかった。ただ、子供が生まれれば何か変わるかもと私が一縷の望みをかけていただけ……」
右大臣の娘はそう言って笑った。
「お父様には私の方からいろいろと申しておきます。よいのです。むしろ今まで恋の一つもしてこられなかったあなたが心配なくらいです」
そう言って右大臣の娘はため息をついた。
「あなたの詠まれる和歌と来たら技巧と知識にばかり走って……大丈夫なのかしら、相手様には愛想は尽かされませんこと?」
「…………」
式部卿宮は苦笑いで黙るしかなかった。
「どうぞ、お幸せに」
そう言うと右大臣の娘はさっさと去れと言わんばかりに顔を背けてしまった。
「……今までありがとうございました。長らくお世話になりました」
式部卿宮は礼をすると、立ち上がった。
愛こそなくとも長らく連れ添った二人の間にはそれ以上の言葉は何も意味がないとわかっていた。
小さな邸に帰ると、式部卿宮はふと自分の身の軽さに、どこか不安な気持ちに襲われた。
邸に上がり、家の者どもと言葉を交わすと、一直線に夕少納言の元へと向かった。
彼女はまだ伏せっていたが、式部卿宮の顔を見るとどこか痛ましげな顔で起き上がってきた。
「ああ、無理をせずに……」
「いえ……大丈夫ですか?」
夕少納言の式部卿宮は少し考え込むと首を横に振った。
「あまり……」
素直な言葉に夕少納言は式部卿宮の手を握り締めた。
小さく柔らかな手の平に花びらを握らせた春のことを思い出す。
気付けばもう冬が近付いてきていた。
一の姫が香炉峰の雪を望んだ冬が。
式部卿宮は寒さに身をすくめた。
二人は静かに寄り添いあった。
「……そうだ」
しばらくして、式部卿宮は立ち上がると家の者に私物を持ってこさせるよう命じた。
「……こちら、お渡ししようと思って、機会に恵まれませんでした」
そう言って式部卿宮が差し出してきたのは紙の束であった。
「これは……?」
「綾大輔の日記です。綾大輔の息子の邸に経を納めに行ったときに、託されました……この最後の巻は自分より持っているにふさわしい方がいるから、と」
夕少納言はぱらりとめくる。
それは夕姫と綾大輔が出会った頃の日記であった。
『友の頼みで可愛らしい姫君にお仕えする。友に似て利発で可愛らしい子であられた』
夕少納言は喉を詰まらせた。
そこには夕姫を見守ってきた綾大輔の思いが綴られていた。
母が死んだ後の、実家での処遇についても切々と書かれていた。
「……ご存知でしたのね、私の何もかも」
夕少納言はざっと目を通して、式部卿宮にそう言った。
「……はい」
式部卿宮は顔を伏せた。
日記は綾大輔の死の間際まで続いていた。
その頃にはもう文字が書けなくなってきていたのであろう。誰かが代筆したらしく筆跡が変わっていた。
『夕姫様にはただ一言しかお伝えすること叶わず、それでもあのお方になら通じるであろう。もっと長く見守りたく思っていた。息子たちは孝行息子に育ってくれて、心残りはただ夕姫様のことばかりである』
夕少納言はその日記を抱きしめた。
それから八年後、弘徽殿の方が薨去された。
晴子内親王は斎宮を退下し、京へと戻ってきた。雪降る日のことであった。
「お久しぶり、夕少納言、また会えたわね」
溌剌とした様子で笑う十五歳の晴子内親王は、昔と変わらぬ愛くるしさで式部卿宮の邸を訪ねてきた。
「……こちらからお訪ねすべきところを……」
第四子を懐妊している最中の夕少納言は大きな腹を抱えて晴子内親王に頭を下げた。
「よいのよ。方違えで式部卿宮様の邸を経由できるのは幸いだったわ。それにしても夕少納言が私のいとこを産む日が来るなんてね、それももう四人目!」
晴子内親王は嬉しそうに笑った。
「私が行き遅れたら、あなたの息子にもらってもらおうかしらねえ」
晴子内親王はふうとため息をついた。
「あらまあ……。一の姫様は今は、摂関家に?」
「ええ、たぶんその内お祖父さまのご意向で夫を取ることになるでしょうね。いい人だといいのだけれど……それまではせいぜい恋多き斎宮として名を馳せてみせるわ」
「ふふふ」
夕少納言は笑った。恋物語に憧れた少女は相変わらずきらきらと輝いていた。
「香炉峰の雪は……またお預けみたいね」
夕少納言の大きな腹を見て晴子内親王はそう言った。
「すみません……」
「いいの、いいの。どうぞお体大事にしてね」
「……八年前も、不義理をいたして……」
「なんとなく、ああなるんじゃないかとは思っていたの。だから何も問題はないわ……式部卿宮様に何か不満があったらすぐにおっしゃい、伊勢の神威を背に説教してあげるわ」
「幸いなことに今のところ、ありませんわ」
「それはそれはお熱いことで」
晴子内親王は少し呆れた顔をした。
「まあ、あなたが幸せなら、それでいいわ。うん、いい。比翼連理、か……」
晴子内親王はまぶしそうに夕少納言を見つめると、式部卿宮の邸を辞していった。
「そうか、お元気であられたか」
夜、帰ってきた式部卿宮は夕少納言の腹を軽く撫でながら、嬉しそうに笑った。
「はい、すっかり元気をいただきました」
「それならよかった」
式部卿宮の手の平の暖かさを感じながら、夕少納言は目を閉じた。
ささやかな幸せに包まれながら、今までの人生とこの先の人生を思った。
「比翼連理」
式部卿宮がそう囁いた。
「いつまでも、あなたとお側に」
「……はい」
夕少納言ははにかんだ。
それからしばらくして、晴子内親王は燃え上がるような恋をし、都を騒がせた。
父帝は頭を痛めたが、弟宮である式部卿宮のとりなしもあり、晴子内親王の恋は実った。
晴子内親王に子が産まれたのと時同じくして夕少納言の元にも子が産まれたので、晴子内親王は夕少納言をぜひ乳母にと望み、夕少納言はそれを受ける。
そしてその冬、ようやく二人は香炉峰の雪を見ることが叶ったという。