とある少納言の正妻――北の方のところに姫が生まれた。
 夕星(ゆうつづ)輝く頃に生まれたので誰からともなく彼女は夕姫様と呼ばれるようになった。
 しかし夕姫が四つになる頃には少納言は北の方に飽いてしまい、他の女の元へばかり入り浸るようになった。
 (やしき)で、夕姫と北の方はひっそりと暮らしていた。
 北の方は夕姫に綾大輔(あやのたいふ)という女房をつけた。
 この綾大輔、亡くなった皇太后にお仕えしていた熟練の女房であった。本来なら少納言ごときの家に仕えるような人ではなかったが、北の方との交流があり、北の方の子であれば、と女房を引き受けた。
 彼女は賢く、また漢詩によく通じていた。
 夕姫は綾大輔の手ほどきで女だてらに漢詩を読み親しんだ。
 特に夕姫は『長恨歌(ちょうごんか)』がお気に入りだった。
『長恨歌』は白居易という詩人が、かの有名な唐の楊貴妃を謳ったもので、一二〇句にも渡る長編であるが、夕姫はわずか七つでそれをそらんじることが出来た。
 北の方はそれを大層喜んだ。

 しかし、その北の方も夕姫が十二歳を過ぎた頃に病で死んでしまった。
 北の方の喪が明けると、綾大輔の手回しで夕姫は成人式――裳着(もぎ)を済ませた。このままでは裳着すらさせてもらえないだろうとの懸念があった。
 少納言は夕姫にまったく目を掛けずにいたばかりか、北の方が死んだのをいいことに新しい妻を邸に迎えた。
 妻と少納言の間には姫が二人、若君が一人いた。夕姫の肩身はどんどんと狭くなっていった。
 新しい北の方は悋気の激しいお方であった。
 前の北の方の子である夕姫が邸にいることが我慢ならず、夕姫が少しでも視界に入るようなことあらば金切り声を上げ、そのことで何度も少納言をなじった。
 少納言は北の方の悋気に耐えきれず、とうとう夕姫に夫をあてがうことにした。
 しかし少納言が選んだのはあまり評判のよくない男だったので、綾大輔は密かに今の皇后、住まいの名を取った通称・弘徽殿(こきでん)(かた)と接触した。
 弘徽殿の方は亡き皇太后がとても可愛がっていた女御(にょうご)で、帝が寵愛する皇后であった。
 摂関家の出で、皇太子――東宮(とうぐう)も生み、まさに我が世の春、はばかるものなど誰もいない立場であった。
 弘徽殿の方は皇太后に仕えていた綾大輔のことをよく覚えていた。
 綾大輔が涙ながらに夕姫のことを訴えると、弘徽殿の方は夕姫をぜひ内裏に上げ、自分の一の姫の女房として迎えたいと言ってくれた。
 少納言は邸宅から夕姫を追い出せるのなら、何でも良いと綾大輔の采配に従った。支度はすべて綾大輔が駆けずり回り、少納言は夕姫を見送りもしなかった。
 夕姫は内裏(だいり)に上がり、一の姫のもとで夕少納言と呼ばれることになった。
 夕姫十五の春のことだった。

「しょ、少納言のところの、ゆ、夕でございます。な、何とぞよろしくお願いいたします」
 父からの愛こそ受けなかったが、箱入り娘の夕姫は、可哀想なくらい固まりながら、一の姫に頭を下げた。
 対する一の姫はまだ七つだというのに、おおらかにうなずいた。
「よろしく、夕少納言」
 その姿には気品が溢れ出ていて、夕少納言はひたすら頭を下げた。
「そう何度も頭を下げずともよいわ。あなたは私の女房になったのですから、胸を張ってなさい」
「は、はい……」
「夕少納言が好きなことはなあに」
「え……」
「私は鞠が好き。この鞠は中宮様からいただいたの」
 そう言うと一の姫は側に置いていた鞠を引き寄せた。中宮様とは皇后、つまり一の姫の母のことであった。
「綺麗でしょう」
 一の姫が掲げる鞠は色鮮やかで確かに綺麗であった。
 夕少納言はどう答えればよいかわからずただただうなずいた。
 一の姫にはそれが美しさに感服しているように見えたようで、満足げにうなずいた。そういうところは子供らしくて可愛らしいと夕少納言は密かに思った。
「私は……私は、ええと、長恨歌が好きです」
「なあに、それは」
「漢詩です」
 一の姫は物珍しそうな顔をした。
「あなた女なのに漢詩を嗜むのね」
「は、はい……」
 夕少納言は恥じ入るように顔を伏せた。
「だからそう頭を下げなくてよろしいいってば。よいじゃない、漢詩。……私はそもそも勉学をあまり好まないけど」
 一の姫はそう言って口を尖らせた。
「さ、左様でございますか」
 綾大輔と漢詩に限らず勉強ばかりしていた夕少納言はいささか戸惑った。
「私はどうせそのうち賀茂か伊勢のどちらかにやられるだろうし、勉強などしても、ねえ?」
 賀茂とは賀茂神社、伊勢とは伊勢神宮のことである。
 どちらも内親王が送られ、斎王として仕える。
 一の姫は帝の娘であると同時に皇太子の妹でもあり、いつ斎王として推挙されてもおかしくない身の上であった。
「……お嫌ですか、斎王になられるのが」
 夕少納言は気遣うようにそう言った。
「内裏でのんびり暮らしていたいわ。そもそも斎王になったら恋の一つもできやしない」
 夕少納言は七歳の子供がそのようなことを言っているのは可愛らしいと思った。
「夕少納言だって恋のひとつやふたつしてらっしゃるでしょう。伊勢物語や源氏物語のような!」
 きらきらと目を光らせる一の姫に対して、夕少納言はあわあわと顔を伏せた。
 もちろんこの夕少納言、この年になって恋どころか、殿方から歌の一つも、送られたことがなかった。
「……ございません、ございません」
 慌てて首を横に振る夕少納言に、一の姫はにこにこと微笑んだ。
「でしたら、内裏でなさればいいわ」
「い、一の姫様……!」
 夕少納言は顔を真っ赤に染めた。
「なんだかんだと男がやたらうろうろしているのが内裏ですもの、きっと良い男のひとりくらい見つかるでしょう。それとも東宮妃でも狙ってみる?」
「東宮様はまだ九つではありませんか……」
 消え入りそうな声で夕少納言は一の姫をたしなめた。
 一の姫の兄である東宮はまだ九つ。夕少納言から見ればあまりに幼い。
「まあね。でも、主上は駄目よ。あの方は中宮様一筋だから」
 一の姫はおかしそうに笑った。
 自分の両親のことをそのように開けっぴろげに語る七つの子供に、夕少納言はなんだか不思議なものを眺めている気分になった。
「それじゃあ、夕少納言、長恨歌を聞かせてちょうだい。そらんじることのできる範囲でよろしいから。あなたの好きなものを私、知りたいわ」
 一の姫にそう促され、夕少納言はピンと背筋を伸ばした。
 一の姫の傍らに控えていた乳母が少し困り顔になる。何しろ『長恨歌』は一二〇句からなる長編である。そらんじろと言われても夕少納言も困るであろうと乳母は助け船を出そうとしたが、夕少納言はそれより先に口を開いた。
漢皇(かんこう)色を重んじて傾国を思う。御宇(ぎょう)多年(たねん)求むれども得ず。楊家(ようか)(むすめ)有り、初めて長成(ちょうせい)す。養われて深閨(しんけい)に在り――」
 夕少納言はよどみなく『長恨歌』を口にしていった。
「――夜半人無く、私語の時。天に在りては願わくは比翼の鳥と()り、地に在りては願わくは連理の枝と()らん。天長く地久しきも、時ありて()く。此の恨みは綿綿(めんめん)として尽くる(とき)無からん」
 一の姫はぽかんと口を開けてしまった。
「……長いわ」
「も、申し訳ありません」
「いえ、驚いただけなの。怒ってはいないわ。これはどういう意味?」
「唐の楊貴妃をご存知ですか?」
「傾国の美女でしょう。皇帝に愛されたけれど、国を傾けた責任を取らされ首を絞められてしまうのよね」
「はい、その方の歌です」
「へえ……。他には? 他にはあるのかしら!」
 一の姫が前へずいと身を乗り出す。
 夕少納言が慌てて頭の中から『長恨歌』以外の漢詩を引き出そうとしていると、御簾の向こうから声がした。
「春風、()(ひら)苑中(えんちゅう)の梅」
 朗々とした男の声であった。彼が詠じたのは『春風』という漢詩の始まりであった。春の花を喜ぶ詩だ。まだ続きがあるのに何も言わない。これは自分が待たれているのだと、夕少納言にもわかった。
桜杏桃李(おうきょうとうり)、次第に開く」
 夕少納言が続けてやると、男もその続きを口にする。
 こうして二人は御簾越しに一つの漢詩を歌い上げた。
「え、ええと……」
 夕少納言はおろおろと御簾の向こうを見た。
式部卿宮(しきぶきょうのみや)様!」
 一の姫が楽しそうにはしゃぎ声を上げた。
 夕少納言の顔が青ざめた。
 式部卿宮といえば、帝の弟君であり、東宮が生まれるまでは皇太弟だったお方である。間違いなく偉さでいえば上から数えた方が早いお方である。そこらへんの殿上人かと思えば、ずいぶんと位の高い人と漢詩を歌ってしまったものである。
「ご機嫌よう、一の姫様。少し用事があってこちらを通ったのですが、なんとも胸締め付けられるような長恨歌が聞こえてきて、すっかり長居してしまいました」
 涼やかな男の声がそう言った。
 まさか『長恨歌』を詠うのを聞かれていたのだろうか。夕少納言の喉は恥ずかしさですっかり締まってしまった。
「式部卿宮様、こちら今日からおいでになった夕少納言、綾大輔の紹介でいらしたの」
「ああ、綾大輔の」
 式部卿宮の声に懐かしさがにじんだ。彼は帝の同母弟である。亡くなった皇太后は実の母に当たるため、綾大輔とも面識があった。
「どうぞ、よろしく、夕少納言。この春の良き日にお目にかかれて幸いです」
「は、はい……」
 夕姫は今まで父以外の男と会うことはほとんどなかった。
 御簾越しとはいえ、涼やかな男の声に、夕少納言は頭がくらくらしてきた。
「それでは今日はこれにて失礼いたします」
 そう言うと式部卿宮はさっさと立ち上がって去って行った。
 夕少納言はふうと小さく息を吐いた。