お願い、私を見つけないで 〜誰がお前を孕ませた?/何故君は僕から逃げた?〜

Side悠木

「凪波さんは、二つ返事で了承した。

あまりにも、返事までの時間が、私が想定していたよりもずっと早かったからね。

本当に考えたのかね?

私が提案したにも関わらず、何度も繰り返し聞いてしまったよ。

そうだろう?

普通なら、成功しても失敗しても、今この時のままではいられないと、私は言ったんだ。

もし、君たちなら……どう思う……?

少しは、考えるんじゃないか?

例えばそうだな……君たちが毎日顔を合わせる人物のこととか……をね。

凪波さんには、考えた気配すらなかった。

だから、ついね……おせっかいにも言ってしまったんだ。

君の決断を、例えば家族が聞いたらどう思うのか、一瞬でも考えてみたのか……とね。

すると、凪波さん……は遠くを見るような目をしながら、こう言ったんだ

家族って……何ですか?

とね」
Side悠木

「その時の彼女の表情から、何を本当に聞きたいのかは見えなかった。

私は、あくまで辞書の意味として、こう答えた。

共同体として、生活を共にする二親と、その子供からできる集団。

これが、一般的に言われている定義だ、と。

彼女はそれに対してこう言った。

つまり、子供がいないと、家族にはなれないんですよね、と。

私は、あくまでも辞書の中だけの話だ、と返すだけにした。

こういう家族論は、下手に語るべきではないからね。

私の回答が、彼女にとって満足いくものではなかったことは、何となく彼女の表情からは察したがね。

……それから、また少し間ができた。

無言のね。

私は、空になっているマグカップに気づいたから、ホットミルクのおかわりはいるかい、と聞いた。

凪波さんは、ミルクはもういいから、とびきり苦いコーヒーが欲しい、とリクエストしてきた。

さすがに、覚醒効果があるカフェインを摂取させるわけにはいかないからね。

丁寧に、お断りさせてもらった。

その代わり、私は水を持ってこさせた。

ウォーターピッチャーごと。

そうすれば、水を飲みたい分だけ自分で注ぐことができるからね。

凪波さんは、すぐに水をマグカップに注いで、一気に口に含んだ。

それから、しばらく口うがいをして、飲み込んだ。

それを、ウォーターピッチャーの中の水がなくなるまで繰り返し続けていた。

口の中から、牛乳の味を消したかったのだろうか、と私は察した。

甘くて優しい……母親の味を……ね」
Side悠木

「それから、また無言の時間が続いた。

水も、すでに無くなっていたし、彼女は空ばかり見ていたからね。

もう、今日は話す気はないのだろう。

私はそう思ったからね。

部屋を出ようとしたんだ。

すると、突然こんなことを言った。

私のことなんか、どうでもいいと思っていると思います、と。

吐き捨てるような、小さな声だった。

でもその声の節々から、憎しみのようなものを、私は感じたよ。

それからもう1つ……。

これ以上、踏み込んでくれるな。

そんな、強い拒絶の意思が彼女の全身から滲み出ていた。

だから私は、この話題にはもう触れることは、やめた。

だがね。

……その理由は……海原君……。

君と、彼女のご両親に会って、ようやくしっくりきた。

……さほど驚いた顔をしてはいないね、海原君。

そして、実鳥さんも……。

なるほど。

やはり、君達はは……知っていたのだろうね。

畑野凪波という人間の中に染み込んでいる、毒を。

その毒はきっと、本人の意思に関係なく、生まれながらに摂取し続けられた……呪いにも等しいのだろう」
Side悠木

「私は、改めて彼女にこの実験の危険性を伝えた。

私たちの体は、脳という、2キロにもいかない脂質、タンパク質、アミノ酸でできた柔らかい、豆腐のようなもので全て支配されている。

考えることだけじゃなく、こうして……見たり聞いたり話したりといった五感や、こうして二本足でバランスよく立てるという、平衡感覚……そして呼吸や循環といった、生きるための基本的な体の機能をも、脳は司っている。

司令塔、という言葉を使われるだけのことはある。

人間という存在を定義しているのは、まさに脳だ。

古代エジプトの世界では、脳は鼻水を作るためだけに作られた器官と考えられてたそうだが……信じられるかね?

かの天才、古代ギリシャに生を受けたヒポクラテス氏が脳の素晴らしさを発見してくれなければ、一体どれだけの損失が起きていたのか……。

無知、ということがいかに重罪に値するのか、この事例からよく分かるだろう……?

……いけないね。

また私の悪い癖が出てしまった。

さて……どこまで話をしたかな」
Side悠木

「私たちは、脳という貯蔵庫の中に押し込んだ、記憶と名付けられた様々なもの……言語、映像、音、匂い……を引き出しながら日常を営んでいる。

目が覚めてから、目の前の世界がどこかを、引き出す。

目の前の世界にいる自分が何者であるかを引き出す。

その世界の歩き方を引き出す。

さらに、すれ違った人が自分とどんな関係性なのか……普段から会う人なのかそうじゃない人なのかから始まり、その人の役割、名前までを引き出す。

それから……自分の過去の情報を引き出し、次の行動を作り、さらに未来を予測する。

そうして、私たちはまた、私たちを積み上げていく。

積み重ねてきた記憶が、より新しい記憶を積み上げる。

それが……今私たちが無意識に繰り返していることだ。

その当たり前がもし……急に無くなったとした、君たちはどうなると思うかい?

目が覚めた瞬間、何も分からなかったら?

会う人のことが分からなかったら?

さらに、積み上げらるはずだった記憶が上手く重ならず、自分にとっての未来が作ることができなくなるとしたら?

私が凪波さんにしようとしていることは、その当たり前に見えている景色を全て、壊す可能性が高いことだ。

だから……改めて、彼女に確認をした。

君という人間を、2度と取り戻せなくなる可能性がある。

下手をすれば、人間として存在するために必要な機能すら、止まる可能性もある。

今の君を愛する者は、今の君を永遠に失う可能性がある。

本当にそれでもいいのか、と。

……彼女は、笑った。

それが、私の望みです……と」
Side悠木

「それからは、早かった。

まずはインタビューをさせてもらうことにした。

彼女に、これまで起きたことを全て……ね。

……何故かって?

実験をするからには、勿論論文を書くのは必須になる。

論文執筆に必須なのは、まず仮説だ。

この実験は、どの仮説を証明するために行うのか。

そして、仮説を発見するためには、何を発見することが必要なのかを決めなくてはいけない。

発見するためには、どういう実件方法が良いのかも、そこから導かなくてはいけない。

科学を発展の裏には、こうした先人達の地道な準備の連続の積み重ねがある。

頭が下がる思いだな。

だから私も、仮説を立てるためには出来る限りの情報を集めるようにしているよ。

勿論、凪波さんは……最初は拒絶した。

自分の全てを曝け出すのは耐えられない、と言った。

だが、私はね……諦めの悪い男なんだ。

少しだけ、強引な手法を用いたが、彼女の全てを聞き出すことに成功した。

その方法については、この話題に関係ないから割愛させてもらう。

ただ、ここで、君たちに伝えるべきことだけ伝えることにする。

私は全てを聞いてから、この実験について、こう仮説を立てた。

畑野凪波さんは、この実験の結果、人格障害に陥る可能性が十分に考えられる。

唯一それを回避できる方法は……彼女が戻りたい時代に戻り、彼女が当時欲しかったものを与えられること。

だが、それは与えられず、結果的に彼女の海馬に大きなダメージだけが、残った。

改めて、君たちに伝えよう。

君たちが知っている畑野凪波さんという人物は、もうこの世界のどこにもいない……とね」
Side悠木

「それでも。

あくまで、私は勧めているだけだ。

凪波さんの中に、彼女の脳を戻すという選択肢が、ないわけではない。

彼女が、これから先、人間として生きていくことができない………というわけでも、ない。

つまり、もし、君たちが選ぶというのなら…………私は、喜んで彼女の手術を引き受けてあげてもいい。

ただ、その場合……君たちがどんなに彼女からひどい傷を受けることになったとしても、私はもう、助けてはあげられない。

さて。

君たちは、選ぶ覚悟が……あるかい?

もしかしたら、目覚めさせることを……君たちも後悔するかもしれない、そんな修羅の道を」
Side悠木

「君たちに、今から1日だけ、時間をあげよう。

凪波さんのことは忘れてしまい、彼女なしの幸せを生きるのか。

彼女が望んだように。

それとも、凪波さんの肉体の命を無理やりつなぎ止めるのか。

君たちが考える、君たちだけの幸せを掴むために。

私はね……この実験をしてしまったことを、今、とても後悔をしている。

もし、彼女をあのまま海の中で眠らせておけば、きっと君たちは、余計な期待をしなくて済んだだろう。

喜びも、苦しみも、期待も、悲しみも……君たちにとって余計な、これから得るべきでなかった、彼女との思い出を増やさせてしまうことも無かったのだから。

心から、謝罪しよう。

無駄な期待をさせてしまったこと、心から詫びる。

……決めつけるな、と言いたげな表情だな。

残念だが、私には分かる。

君たちは、今ここで凪波さんを手放さないと、ますます不幸になる、ということを。

……まだ、選択のための覚悟が、足りないようだな。

では、本当にこれが最後だ。

君たちに……例え話をしてあげよう。

そして、ぜひとも考えてみたまえ。

この世で最も残酷な選択は……残酷な者は、いったいどういう人間なのか、ということを」
Side悠木

「例えば、こんな人間について、君たちはどう思うだろうか?

彼は、幼い頃からずっと近くにいた幼馴染の少女に恋をしていた。

無邪気な、可憐な笑顔が自分というちっぽけな人間を頼ってくれるという優越感に浸ることが、彼にとっては何よりも快感だった。

だがしかし。

少女があまりにも近くに居すぎたために、何も言わずに自分の側にいてくれるだろうと、彼は勘違いをしていた。

だから、彼は、少女が日々、本当は何を考えていたか、苦しんでいたのかには無頓着。

少女の気持ちの変化に気づかず、自分がこうすべきと考えるものだけを、与え続けた。

彼の正しさは、少女にとってはそうではない、ということを知らずに。

年齢を重ねれば、人は変わるものだ。

好みや価値観など、様々なものが。

しかし、彼はそれを見誤った。

少女の変化は、意識さえしていればすぐに分かったはずだった。

それほどまで、少女は追い詰められていた。

彼は、決して気づかない。

自分が追い詰めたという、現実に。

そうしてその現実に気付かぬまま、夢でも見るかのように、かつての少女に想いを寄せる。

少女がどんなに変わっても、変わったという現実を見ることなく。

……そんな彼のような存在を、君たちはどう思うかね?」