「そういえばねぇ、この間買い物に行ったときにあの子のこと見かけたわよ」

「あの子?」

「えぇと……名前が、えーっと…ほら、いたでしょう、鬱になっちゃった子」



どくん。穏やかに脈を打っていた心臓がざわめきだす。


動きを止めて、振り返る。母は事情を何も知らない。「優しくしてあげてね」と、呪いのような言葉をかけたことさえも、もしかしたらもう覚えていないかもしれない。


鬱になっちゃった子。俺が中途半端に優しくして、手離したあの子だ。

忘れもしない──忘れることすら、出来ない。



「……やえ」

「ああ、そう、その子。今、大学の近くで一人暮らししてるみたいよ」


やえ。名前を聞いただけで、5年間封印していた罪悪感が一気に放出された気分になる。

母がやえと会ったのは人通りの多い駅前だったとのことで、この辺りに住んでいるわけではない事実にほっとした。