雲は薄いが、しとしとと細い雨が落ちる夜だった。
「もうし」
 門を叩く声が響く。
 従者は不安げに左右を見渡した。
 返事はおろか、人の気配も漏れる灯りもない。
「もうし」
 一層張り上げた声に加え、今度は二度扉を叩いた。

 視線を感じ見上げると、築地塀(ついじべい)の上に白い猫がいた。首に紅い紐を付けている。
 月の光を浴びてきらりと光るふたつの目は妖しげで、背筋にぞわりと悪寒が走った。
 ――物の怪(もののけ)だったらどうしよう。
 ごくりと喉を鳴らしながら、そうっと牛車(ぎっしゃ)を振り返った。主があきらめて帰ると言い出してくれないものだろうか。淡い期待を込めて見つめたけれど、物見窓は閉じたままだ。

 声を掛けて三度目。ようやく扉が開き、
頭から被った衣で口元を隠した女が現れた。
 右手には松明(たいまつ)を持っている。雨に打たれて炎が揺れるさまが、ひどく不気味に思えた。

「祓姫はいらっしゃいますか」
 女は何も言わない。
「えっと……」

 従者が戸惑っていると、牛車から降りてきた主が前に出る。
 狩衣(かりぎぬ)を着た若い公達だ。

「我が名は煌仁(あきひと)。祓姫に頼みたきことあり参った。先に文を送ってある」
 女は頷いた。
「どうぞ」

 女の後を付いて腰よりも高い草の間を進む。
 荒れているようにしか見えない庭には、雨の合間を縫って甘い花の香りが漂っている。
 よく見れば萩の花が咲いていた。明るい日差しの元ならば、花を愛でる気持ちも湧いたかもしれないが、今の従者にその余裕はない。夢中で主の背中を追いかけるように歩いた。

 軒下に釣り灯篭がひとつ。ぼんやりと橙色の光を灯らせている。
 (きざはし)を上がり、中へと案内されて間もなく。女が従者を振り返る。
「従者はそこで待たれよ」
「いや、それは」
 主をひとりで行かせるわけにはいかないと慌てて声をあげたが、主の袖に止められた。
「よい。そこで待て」
 有無を言わさず入っていく先は闇だ。女の持つ手燭(てしょく)が揺らぎながら主を浮き上がらせ、やがてそれさえも見えなくなった。


 主、煌仁が進んだ先には、高灯台の灯りがともっていた。その奥に御簾(みす)が垂れている。
「そちらへ」
 促されて腰を沈めると、巻き上げられている御簾の下が見えた。
 薄墨から段々に薄桜へと色を変えている重ね衣。まず見かけない色合わせである。

 膝の上には先ほど築地塀の上にいたはずの猫がいて、白い手が撫でている。皺もなく美しい指を意外な思いで煌仁は見つめた。

 人々は彼女を祓姫(はらいひめ)と呼ぶ。
 物に触れると、込められた強い感情と声を聞くことができるという。貴族という以外、素性は伏せられている謎めいた女である。
 もっと年老いた女を想像していたが、随分若そうだ。