毒についてはよくわからないが、漆が塗ってあるならそれほど毒が染み込んだりしないような気がした。
「皇子が漆の匂いを嫌がられて」
「――そうでしたか」


 煌仁が(たらい)を抱えて戻ってきた。呼んだのか唯泉も一緒にいた。
 盥には魚が二匹泳いでいる。
 煌仁は盥に匙を入れた。
 最初のうちは元気に泳いでいた魚が、やがて動きを止めぽっかりと浮かんだ。

 やはり毒だった。
 予想をしていたとはいえ、恐怖のあまり翠子は震えた。
 唯泉がしみじみと「匙に毒とはなぁ」と言い、女房は腰を抜かし、麗景殿の女御は目にした光景の衝撃に気を失った。


 次の日の夕暮れ、翠子のまわりはいつになく賑やかだった。

「姫よ、来てそうそう見事な活躍だな。おめでとう」
「はぁ……」

 これが喜ばしい結果なら、手放しで笑えたかもしれない。けれどもわかった原因は毒である。恐ろしいし、新たな火種を生んでしまった。麗景殿は早速、弘徽殿の仕業に違いないと騒ぎ立てているという。
 それが辛い。

「まあそう暗い顔をするな。医師と薬師が喜んでいたぞ。お主のおかけで皇子は助かるのだ」
「そうだ、姫よ、これほどの喜びはない。ありがとう」
 煌仁も重ねて翠子を励ました。

「あの、これでもう、邸に帰れるのでしょうか」
「ははっ。それは無理だろう。なぁ、煌仁」
 煌仁は盃を下ろして苦笑する。
「すまぬがまだ解決はしておらぬ。もう少しだけ辛抱してくれ。そうだ、唯泉、笛をもて」
 立ち上がった煌仁が戻ってきた時には、手に琵琶を持っていた。

 唯泉が横笛を吹き、煌仁が琵琶を弾く。
 琴ならば翠子も弾けなくもないけれど、人前で披露する自信はない。ふたりが奏でる調べに耳を傾けた。

 翠子を慰めるように、まゆ玉がすりすりと体を寄せる。
 まゆ玉を撫でながら翠子は目を閉じた。
 細く伸びゆく音。心の琴線を振るわせる優しく穏やかな調べは、不安に揺れていた心を癒していく。
 うっすらと瞼を開ければ、女御から頂いた菓子が目に留まった。
 今朝、麗景殿の女御は自らここまで足を運び『本当にありがとう』と涙を浮かべ、何度も何度も翠子に礼を言った。女御は弘徽殿の悪口なんてひと言も言っていなかった。

 皇子が助かったのだ。それだけを喜べばいい。
(命以上に大切なものなんて、ないんだもの)
 爽子は自分に言い聞かせた。


 夜も更け、煌仁と唯泉は席を立った。