帝も夏の右大将・橘厚弘も、目を丸くして驚いた。
「それで和歌の尚侍様は、自分がやってしまった自責の念に堪えかねて、気を失ってしまったのです。」
辺りはシーンとなる。
「そんな……」
夏の右大将・橘厚弘は、尚侍として仕える、依楼葉の中身を知っていたつもりだった。
それが、嫉妬で妹を庭に突き落とすとは!
「そうだ!お腹の子は……」
橘厚弘は、桜子の顔に耳を近づけた。
「桜子、お腹は大事ないか?お子は、お子は無事なのか!」
だが桜子は、肩ばかりを痛がって、一向に答えようとしない。
そして、女房に呼ばれた医師がやってきた。
「これは、打撲ですな。」
桜子の肩に、直ぐに薬が塗られる事になった。
「お子は!?大事ないのか?」
橘厚弘は、桜子の手を取り医師に尋ねた。
「えっ?お子!?」
医師は慌てる。
「お子がいる中で、庭に転倒したとなれば一大事。詳しく調べる故、皆、部屋から出て行って下さるか。」
その一声で、皆は藤壺から離れた。
帝はその隙に、依楼葉を抱き上げ、清涼殿まで連れてきた。
依楼葉を横たわらせ、水で濡らした布を彼女の頬に当てると、依楼葉はゆっくりと目を開けた。
「……気がついたか。」
「主上……」
依楼葉は、急に起き上がろうとした。
「もう少し、休め。」
帝は依楼葉をもう一度、横たわらせた。
「さて。一体何が起こったのだ。」
依楼葉は、反対側を向いて、何も答えない。
「私が聞いているのに、答えられないのか?」
「……お許しください。」
他の者なら強引に聞くと言うのに、相手が依楼葉では、帝は一歩踏み出せないでいた。
そんな時だ。
依楼葉の元に仕えている橘の君が、側に来た。
「主上。私がお話致します。」
依楼葉は、ハッとした。
「橘の君、黙っているのです。」
「でも!」
橘の君は、依楼葉の手を握った。
「どうするかは、主上が決める事。私はありのままを、お伝えするだけです。」
そして橘の君は、嫉妬に狂った桜子が、依楼葉の首を絞め殺そうとした事。
桜子が庭に落ちたのは、女房が裾を踏み、桜子に間違ってしがみついてしまった為だと言うこと。
桜子は懐妊したと聞いていたが、庭から落ちたのに、全く流産の兆しがなかったことを、帝に告げた。
それを聞いた帝は立ち上がると、直ぐに藤壺へと向かった。
藤壺では、戻って来てくれた帝に、安堵の声が上がった。
だがそれも、ほんの少しばかりの時で、終わってしまった。
「医師よ。藤壺は、懐妊していたのか?」
医師は答えない。
「はっきり申せ。」
医師は、重い口を開いた。
「庭に落ちる前の事が分かりませんので、何とも言えませんが、女御様が懐妊されていた可能性は、低いように思われます。」
「なに!?」
一番驚いたのは、兄の橘厚弘だった。
「やっぱりな。」
帝は、桜子を冷たい目で見降ろした。
「帝の尚侍を、首を絞め殺そうとしたばかりか、懐妊も嘘だったとは。藤壺の女御。しばらくはここで謹慎していなさい。」
「主上!」
桜子が呼び止めようとも、帝は戻って来る事はなかった。
「桜子が、偽りの懐妊だと!?」
父・橘文弘は、扇を床に激しく打ち付けた。
「余計な事をしおって!」
橘文弘は、もう少しで手に入りそうな、外戚政治の希望を断たれた事に、怒りを顕わにした。
「どうにか、ならないのか!」
側で聞いていた厚弘も、こればかりは何ともできない。
「桜子は、偽りの懐妊を申すばかりか、帝お気に入りの尚侍を、陥れようとしたのです。それは、帝のお怒りを買うばかりか、この太政大臣家の信頼も、失いかねているやもしれません。」
「ああ、何て事なのだ。」
一つ一つ積み上げてきた信頼が、こうも簡単に崩れ落ちていくとは。
「おのれ……左大臣家め……」
橘の厚弘の怒りの矛先は、左大臣家に向けられた。
ある日。
関白左大臣の藤原照明と、その息子・藤原隼也が歩いていた時だ。
そこへ、太政大臣・橘文弘がやってきた。
「これはこれは、太政大臣殿。」
父・照明と息子・隼也が頭を下げる。
「これは、関白左大臣殿。」
文弘は、ちらっと隼也を見る。
「……秋の中納言殿は、しばらく見ぬ間に、成長あそばされましたな。」
隼也が『母から、父は藤原照明殿だと聞いて、参りました。』と、言って左大臣家に来てから、数年経った。
今では立派な、公達の一人だ。
「ところで秋の中納言殿は、今度の歌会には、ご出席されますかな。」
「歌会……ですか?」
父・藤原照明と、息子の隼也が、顔を合わせた。
歌会があるなど、左大臣である照明も、聞いてはいない事だ。
「ああ、失礼。若い公達ばかりの歌会にて、我々親世代は、呼ばれてはいないのですよ。」
橘文弘は、扇で微笑みを隠した。
「そうでしたか。では、若い公達の歌会に、なぜ息子の中納言が呼ばれていないのでしょう。」
父・照明は、胸騒ぎがした。
「さあ。私も、分かれば教えて差し上げたいのですが……」
そう言って橘文弘は、二人の横を通り過ぎて行った。
「隼也。最近、嫌がらせ等は受けておらぬか?」
「はい。」
父から見ても、隼也は気にしていない様子だったが、今回は嫌な予感がした。
照明は、尚侍である依楼葉の元を、訪れた。
「これは、父上様。お元気なご様子で、何よりでございます。」
久しぶりに会う父の姿に、依楼葉は嬉しそうだったが、父・照明の顔色は、あまりよくなかった。
「どうされたのですか?」
「ああ、実は隼也の事なのだが……」
照明は、周囲に人がいない事を確認すると、依楼葉の耳元で囁いた。
「今度、若い公達の間で歌会をするそうなのだが、どうやら隼矢が呼ばれていないらしい。」
「ええ?」
「隼也は、嫌がらせはないと申すのだが、なんだか胸騒ぎが治まらなくてのう。」
咲哉が亡くなって、依楼葉が咲哉に扮していた時、隼也が左大臣家に現れ、どれだけ家は助かったか。
何事もなければいいと願うのは、姉の依楼葉も同じ事だ。
「分かりました。私も何か耳にしましたら、父上様にご報告いたします。」
「すまぬな、依楼葉。」
こうして父・照明は去って行ったが、父同様、嫌な予感がするのは依楼葉も同じだった。
だが、いろいろ探り回っては、相手の目に触れてしまう。
依楼葉は何かにつけ、歌会の事について伺える相手を、吟味していた。
しばらく経って、その好機がやってきた。
冬の左大将・藤原崇文に会ったのだ。
「おお、和歌の姫君。いや、今は尚侍殿か。」
少し前まで、依楼葉の事を気に入っていた藤原崇文は、久しぶりに依楼葉に会えて、笑顔でいる。
「もしや帝を諦めて、私の元へ来るとでも?」
「冗談は、止して下さい。」
「はははっ!」
相変わらずの軽い感じだなと、依楼葉が思った時だ。
彼なら、何か話してくれるのではないかと、考えたのだ。
「そう言えば、夏の左大将様。」
依楼葉は、藤原崇文を奥の部屋へと、連れて行った。
「何の、お話かな。」
勿論、嬉しそうについて行く、藤原崇文。
二人きりになるのは、容易な事だった。
「今度、若い公達で歌会を行うだとか。」
「噂を聞くのが早いですね。さすが和歌の尚侍。」
「茶化さないで下さい。」
依楼葉は、もっと藤原崇文の元へ寄った。
「弟の秋の中納言の事で、何か聞いておりませんか?」
藤原崇文は、それを聞いてチラッと、依楼葉の方を見た。
「……何か、知ってらっしゃるのですね。」
「まあ、それも噂なのですけどね。」
そう言って顎に手を置いた途端、藤原崇文はその噂を話そうとはしない。
こういう時に限って、口が堅くなるのだ。
「どうか、教えては下さいませんか?」
依楼葉は、尚も藤原崇文に近づいた。
「ねえ、夏の左大将様。」
艶めかしい目で、依楼葉が藤原崇文を見ると、彼は困った顔をした。
「相変わらずですね。ここだけの話ですよ。」
「ええ、ええ。さすがは、夏の左大将様。」
藤原崇文は、周りを見ると扇を広げた。
「尚侍も気に病むかもしれませんが、皆、秋の中納言殿を疑っております。」
「疑っている?」
藤原崇文は、頷いた。
「以前の春の中納言殿がお亡くなりになり、直ぐに左大臣家に入ったと。本当に左大臣家の子か、分からぬ故、何とも不可解だと。」
「そんな……」
前からそんな噂は、耳にしていたが、それが酷くなっていったと言う事なのだろうか。
「秋の中納言殿は、最初は田舎臭かったものの、ここ数年でご立派な公達になられた。加えて才も秀でている故、何かと皆、不満なのでしょう。」
藤原崇文は、気を遣っているようだ。