それが運の悪い事に、桜子の体にしがみついてしまったのだ。
桜子はそのまま、庭へ落ちて行く。
「女御様!」
綾子が手を伸ばした時には、桜子は庭に倒れていた。
「うぅぅん……うぅぅぅ…ん……」
桜子は肩を抑えて、唸っている。
「藤壺の女御様!」
2、3人の女房が庭に降り、他の女房達も、誰か別な物を呼びに行く。
「しっかりしてください、女御様!」
綾子は、お腹の子供が心配になって、桜子のお腹の方を見た。
だが、桜子はお腹を押さえる事しない。
あれだけ派手に転げ落ちれば、お腹の子供が流れても不思議ではないのに、その気配すらない。
「もしや……」
綾子は、息をゴクンと飲み干した。
騒ぎを聞き、駆けつけたのは帝と、夏の右大将であった。
「これは一体……」
帝と共に、庭を見た夏の右大将・橘厚弘は、倒れている妹の姿を見つけた。
「さ、桜子!」
慌てて庭に降り、妹を抱き上げた。
「医師を呼べ!」
そう叫んで、庭から桜子を部屋の中に、運び入れる橘厚弘。
その部屋の傍らには、ぐったりとしている依楼葉がいた。
「尚侍!」
帝が駆け付け抱き上げると、意識は朦朧としていた。
「尚侍!しっかりしろ!」
すると依楼葉は、目を少しだけ開けるが、直ぐにまた目を閉じてしまった。
「どうしたのだ!これは!」
帝は周りの女房を見回したが、誰一人下を向いて、話そうとはしない。
それはそうだろう。
まさか、帝の尚侍である依楼葉に疑いをかけ、藤壺の女御自ら首を締めて殺そうとしたなど、恐ろしくて誰も口にはできない。
「藤壺はどうして、庭に倒れていた?」
すると自分の裾を踏んでしまい、桜子を押し倒してしまった女御はが、震えながら言った。
「も、申し訳ございません!私が……!」
そこで綾子が、その女房を止めた。
「恐れながら、和歌の尚侍様が、藤壺様を庭に押し倒したのでございます。」
帝も夏の右大将・橘厚弘も、目を丸くして驚いた。
「それで和歌の尚侍様は、自分がやってしまった自責の念に堪えかねて、気を失ってしまったのです。」
辺りはシーンとなる。
「そんな……」
夏の右大将・橘厚弘は、尚侍として仕える、依楼葉の中身を知っていたつもりだった。
それが、嫉妬で妹を庭に突き落とすとは!
「そうだ!お腹の子は……」
橘厚弘は、桜子の顔に耳を近づけた。
「桜子、お腹は大事ないか?お子は、お子は無事なのか!」
だが桜子は、肩ばかりを痛がって、一向に答えようとしない。
そして、女房に呼ばれた医師がやってきた。
「これは、打撲ですな。」
桜子の肩に、直ぐに薬が塗られる事になった。
「お子は!?大事ないのか?」
橘厚弘は、桜子の手を取り医師に尋ねた。
「えっ?お子!?」
医師は慌てる。
「お子がいる中で、庭に転倒したとなれば一大事。詳しく調べる故、皆、部屋から出て行って下さるか。」
その一声で、皆は藤壺から離れた。
帝はその隙に、依楼葉を抱き上げ、清涼殿まで連れてきた。
依楼葉を横たわらせ、水で濡らした布を彼女の頬に当てると、依楼葉はゆっくりと目を開けた。
「……気がついたか。」
「主上……」
依楼葉は、急に起き上がろうとした。
「もう少し、休め。」
帝は依楼葉をもう一度、横たわらせた。
「さて。一体何が起こったのだ。」
依楼葉は、反対側を向いて、何も答えない。
「私が聞いているのに、答えられないのか?」
「……お許しください。」
他の者なら強引に聞くと言うのに、相手が依楼葉では、帝は一歩踏み出せないでいた。
そんな時だ。
依楼葉の元に仕えている橘の君が、側に来た。
「主上。私がお話致します。」
依楼葉は、ハッとした。
「橘の君、黙っているのです。」
「でも!」
橘の君は、依楼葉の手を握った。
「どうするかは、主上が決める事。私はありのままを、お伝えするだけです。」
そして橘の君は、嫉妬に狂った桜子が、依楼葉の首を絞め殺そうとした事。
桜子が庭に落ちたのは、女房が裾を踏み、桜子に間違ってしがみついてしまった為だと言うこと。
桜子は懐妊したと聞いていたが、庭から落ちたのに、全く流産の兆しがなかったことを、帝に告げた。
それを聞いた帝は立ち上がると、直ぐに藤壺へと向かった。
藤壺では、戻って来てくれた帝に、安堵の声が上がった。
だがそれも、ほんの少しばかりの時で、終わってしまった。
「医師よ。藤壺は、懐妊していたのか?」
医師は答えない。
「はっきり申せ。」
医師は、重い口を開いた。
「庭に落ちる前の事が分かりませんので、何とも言えませんが、女御様が懐妊されていた可能性は、低いように思われます。」
「なに!?」
一番驚いたのは、兄の橘厚弘だった。
「やっぱりな。」
帝は、桜子を冷たい目で見降ろした。
「帝の尚侍を、首を絞め殺そうとしたばかりか、懐妊も嘘だったとは。藤壺の女御。しばらくはここで謹慎していなさい。」
「主上!」
桜子が呼び止めようとも、帝は戻って来る事はなかった。
「桜子が、偽りの懐妊だと!?」
父・橘文弘は、扇を床に激しく打ち付けた。
「余計な事をしおって!」
橘文弘は、もう少しで手に入りそうな、外戚政治の希望を断たれた事に、怒りを顕わにした。
「どうにか、ならないのか!」
側で聞いていた厚弘も、こればかりは何ともできない。
「桜子は、偽りの懐妊を申すばかりか、帝お気に入りの尚侍を、陥れようとしたのです。それは、帝のお怒りを買うばかりか、この太政大臣家の信頼も、失いかねているやもしれません。」
「ああ、何て事なのだ。」
一つ一つ積み上げてきた信頼が、こうも簡単に崩れ落ちていくとは。
「おのれ……左大臣家め……」
橘の厚弘の怒りの矛先は、左大臣家に向けられた。
ある日。
関白左大臣の藤原照明と、その息子・藤原隼也が歩いていた時だ。
そこへ、太政大臣・橘文弘がやってきた。
「これはこれは、太政大臣殿。」
父・照明と息子・隼也が頭を下げる。
「これは、関白左大臣殿。」
文弘は、ちらっと隼也を見る。
「……秋の中納言殿は、しばらく見ぬ間に、成長あそばされましたな。」
隼也が『母から、父は藤原照明殿だと聞いて、参りました。』と、言って左大臣家に来てから、数年経った。
今では立派な、公達の一人だ。
「ところで秋の中納言殿は、今度の歌会には、ご出席されますかな。」
「歌会……ですか?」
父・藤原照明と、息子の隼也が、顔を合わせた。
歌会があるなど、左大臣である照明も、聞いてはいない事だ。
「ああ、失礼。若い公達ばかりの歌会にて、我々親世代は、呼ばれてはいないのですよ。」
橘文弘は、扇で微笑みを隠した。
「そうでしたか。では、若い公達の歌会に、なぜ息子の中納言が呼ばれていないのでしょう。」
父・照明は、胸騒ぎがした。
「さあ。私も、分かれば教えて差し上げたいのですが……」
そう言って橘文弘は、二人の横を通り過ぎて行った。
「隼也。最近、嫌がらせ等は受けておらぬか?」
「はい。」
父から見ても、隼也は気にしていない様子だったが、今回は嫌な予感がした。
照明は、尚侍である依楼葉の元を、訪れた。
「これは、父上様。お元気なご様子で、何よりでございます。」
久しぶりに会う父の姿に、依楼葉は嬉しそうだったが、父・照明の顔色は、あまりよくなかった。
「どうされたのですか?」
「ああ、実は隼也の事なのだが……」
照明は、周囲に人がいない事を確認すると、依楼葉の耳元で囁いた。
「今度、若い公達の間で歌会をするそうなのだが、どうやら隼矢が呼ばれていないらしい。」
「ええ?」
「隼也は、嫌がらせはないと申すのだが、なんだか胸騒ぎが治まらなくてのう。」
咲哉が亡くなって、依楼葉が咲哉に扮していた時、隼也が左大臣家に現れ、どれだけ家は助かったか。
何事もなければいいと願うのは、姉の依楼葉も同じ事だ。
「分かりました。私も何か耳にしましたら、父上様にご報告いたします。」
「すまぬな、依楼葉。」
こうして父・照明は去って行ったが、父同様、嫌な予感がするのは依楼葉も同じだった。
だが、いろいろ探り回っては、相手の目に触れてしまう。
依楼葉は何かにつけ、歌会の事について伺える相手を、吟味していた。
しばらく経って、その好機がやってきた。
冬の左大将・藤原崇文に会ったのだ。
「おお、和歌の姫君。いや、今は尚侍殿か。」
少し前まで、依楼葉の事を気に入っていた藤原崇文は、久しぶりに依楼葉に会えて、笑顔でいる。
「もしや帝を諦めて、私の元へ来るとでも?」