依楼葉は、直ぐ近くにある藤壺を、チラッと見た。
まさか、自分の一人が女御である為に、他の女御を下がらせるなんて。
しかもまだ入内もしていない自分に、敵意を見せるとは。
依楼葉は、途端に桜子の事が、恐ろしくなった。
藤壺に仕えている時は、そんな素振り一つも見せた事はなかった。
だがそれは表の顔で、裏でいろいろな事をしているに、違いない。
「藤の君。これからも、何か怪しい事があったら、私に教えて頂けないかしら。」
「ええ、もちろんでございます。和歌の尚侍。」
依楼葉は、藤の君に笑顔を見せた。
その時、手を冷やしていた橘の君が、やってきた。
「橘の君。」
「はい。」
橘の君は、依楼葉の姿を見ても、顔色一つ変えない。
もしかしたら、自分の思い過ごしであったか。
「手はどうです?赤い部分は、引きましたか?」
「ええ、大分。」
まだ薄っすら赤いが、それでも火傷した時に比べれば、大分よくなった方だ。
「あとで薬を届けましょう。養生してください、橘の君。」
「恐れ入ります、尚侍。」
橘の君は一礼すると、依楼葉と藤の君の元を、去って行った。
「藤の君は、橘の君をどう思いますか?」
「そうですわね。賢くて、気遣いができて、お優しい方ですわ。」
藤の君は、橘の君を認めているようだ。
「もし今回の事が、橘の君の自演だとしたら、如何しますか?」
「ええ?」
藤の君は、とても驚いていた。
「そんな事、される方だとは、思いませんが……」
やはり、自分の思い過ごし?
依楼葉は、ちらっと橘の君を見た。
だが、怪しい動きは、一切していない。
「そうですわね。橘の君に限って、そんな事はありませんね。」
「ええ。」
依楼葉はニコッと笑うと、藤の君を別れた。
その夜。
依楼葉は、実家に文を書いた。
その文を持って、左大臣家の使用人、佐島がやってきたのは、次の日の夜だった。
「姫君様。どうしたんですか?」
「佐島。頼まれてほしい事があるの。」
「へえ。姫君様の為でしたら。」
依楼葉は、佐島に近づいた。
「藤壺の女御様と、橘の君を見張ってほしいのです。」
「えっ?女御様をですか?」
依楼葉は、大きく頷いた。
「特に、橘の君をね。」
「分かりました。」
そう言うと佐島は、早速次の日から、宮中の雑用に混じるようになっていた。
だが、数日しても佐島から、橘の君が怪しい動きをしていると言う報告がない。
「怪しい動きも、怪しい人とも、接触しておりません。藤壺の女御様とも接触している様子もないですし。」
「そうですか。引き続き、お願いできる?」
「はい。」
依楼葉は、どうしても橘の君が、怪しくて仕方がなかった。
人を疑うのは、悪い事だけれども、ある程度警戒しなければ、自分がやられる。
それが、後宮と言う場所だからだ。
藤壺の女御、橘の君に気を付けながら、依楼葉は尚侍としてのお勤めに日々励んでいた。
その中でも、心の支えになっていたのが、時々目を合わせて微笑んでくれる帝の存在だった。
そんな事を繰り返していくうちに、近くにいる藤の君にも、二人の間が、伝わってしまった。
「ふふふ。」
「どうしました?藤の君。」
藤の君は、依楼葉の側に寄った。
「和歌の尚侍は、帝をどう思われているのですか?」
「どうって……」
依楼葉は、花見の祝宴で会った帝を思い出した。
「……とても落ち着きがあって、艶やかで。それでいて、頼りがいのあるお方だと思います。」
「まあまあ!」
藤の君は、楽しそうに手を合わせた。
「和歌の尚侍が、そのように思われているのであれば、入内もそう遠くはないですね。」
依楼葉は、呆れたようにため息をついた。
「そのような事は、ないと思いますよ。」
「あら、どうしてですの?」
藤の君が心驚かせているのは、依楼葉が見ても分かった。
「……私には、そのようなお勤め、無理でございます。」
「そのような事は、ございませんよ!」
拳を握りながら、藤の君は興奮していた。
「なんと言っても、和歌の尚侍は関白左大臣家の姫君。藤壺の女御様でも、手だしなどできませんわ!」
依楼葉は、そこでハッとした。
「……藤の君。知っていれば、教えてほしいのです。」
「何をです?」
興奮していた藤の君も、落ち着いてしまった。
「今まで、帝に入内した姫君は、どのような家柄だったのでしょう。」
「ああ、確か……」
藤の君は、唇に指を当て、考えた。
「上皇様の弟宮様の一宮様。右大臣・藤原武徳様の妹君様。あっ、そうそう。確か、和歌の姫君様の若い伯母上様なども、いらっしゃいましたよ。」
依楼葉は、ゴクンと息を飲んだ。
「そうそうたる、方々だったのですね。」
あの艶やかな帝の事。
藤壺の女御以外に、入内した方々がいた聞いた時には、胸が痛んだが、その身分を聞いて、今度は胸が詰まった。
益々、自分があの方の妻になるなど、身分違い。
夢など見ない方が、自分の為なのだ。
「ただねぇ。」
「えっ?」
藤の君は、周りを見て誰もいない事を確かめると、もっと依楼葉に近づいた。
「お三方とも、宿下がりをされたでしょう?それは、藤壺の女御様の嫌がらせだって、噂があるわ。」
「嫌がらせって……中には上皇様の姪御様まで、いらっしゃったんでしょう?」
「それは、名ばかりよ。上皇様の弟宮様は、すでにお隠れになっておいでで、姪御様のその後を哀れんだ上皇様が、無理やり帝に押し付けになったのよ。」
《《%size:10px|※お隠れ……亡くなる事》》
「まあ……」
そこに帝のお気持ちがないと分かった依楼葉は、どこかでほっとした。
だがそんな自分も、嫌になる。
お父上がいないその女一宮様は、その後どうしているのか。
お一人で、寂しい思いをされているのか。
そう思うと依楼葉は、手離しでは喜べなかった。
「そう考えると、和歌の尚侍なら、藤壺の女御様と対等にやっていけそうね。」
「だから藤の君。私には、そんな気さらさらなくてよ。」
その時だった。
戸の影に、人影が見えた。
「どなたです?」
依楼葉が声を掛けると、戸の影にいた者は、慌てて姿を現した。
「橘の君……」
「申し訳ありません。用があって参ったのですが、お二人のお話があまりにも盛り上がっている為に、なかなか割って入る事ができませんでした。」
藤の君は、扇で恥ずかしそうに顔を隠した。
「それは、大変申しわけない事をしました。それで、用とは?」
依楼葉が尋ねると、橘の君は部屋の中に入った。
「はい。実は、我が夫右大将が、和歌の尚侍を、お呼びでございます。」
「右大将様が?分かりました。すぐ参りましょう。」
「はい。」
依楼葉は、橘の君と一緒に、右大将・橘厚弘の元へ来た。
「おお、これはこれは和歌の尚侍。」
久しぶりの再会に、橘厚弘は嬉しそうにしていたが、なにせこの方は咲哉に扮していた時の自分に、会っていた人物。
油断は禁物だ。
依楼葉は、顔が分からないように、部屋に入ると直ぐに膝をつき、頭を下げた。
「私をお召しとの事ですが、何用でございましたか?」
「私の陳情書を、帝に渡して頂きたいのです。」
「畏まりました。」
依楼葉は、少しずつ橘厚弘に近づくと、両手で文をもらい受けた。
だが、橘厚弘はなかなか文を、放してはくれない。
それどころか、じーっと自分を見ているような気がするのだ。
「あの……」
「これは、失礼。」
そこでようやく橘厚弘は、手を放してくれたのだが、まだ依楼葉は見つめられているような気がした。
「やはり……双子なのですね。」
依楼葉は、ビクッと体が反応した。
「春の中納言殿とは、病から復帰した後、少しの間だけ一緒にお勤めをした事があります。とてもたおやかなお方であった。」
その時の春の中納言・藤原咲哉は、依楼葉が扮した者だったが、亡くなった者を思い出してくれる夏の右大将・橘厚弘に、依楼葉は胸が温かくなった。
「ここまで呼び寄せた事、許して下さい。妻から、春の中納言殿の妹君と一緒に、帝にお仕えしていると聞いて、一度会うてみたかったのです。」
「いえ。お気になさらないで下さい。兄君も、そのように仰っていただいて、嬉しく思っているはずです。」
依楼葉は、顔を見せないようにしながら、お礼の言葉を述べた。
「では、お願い致します。」
「はい。」
依楼葉は、夏の右大将から文書を受け取ると、それを持って自分の部屋に戻った。
「尚侍。主上のお食事が終わりました。」
「分かりました。」