そして関白左大臣家にも、依楼葉を帝の尚侍にする事が、告げられた。
「ええ!依楼葉をですか!?」
それを聞いた東の方は、飛びあがる程驚いた。
「そうなのだ。依楼葉は?依楼葉はどこにいる?」
父・藤原照明は、興奮のあまり部屋の中を、歩き回る始末。
「……依楼葉なら、自分の部屋におります。」
「そうか!」
そして、そのまま依楼葉の部屋へ。
心配のあまり、母・東の方もついて行った。
部屋には、既に宿下がりを言われた依楼葉がいた。
「依楼葉!依楼葉!!」
遠くからでも、聞こえるくらいの大きな声で、父が自分の名を呼んでいる。
「父上様?」
父がそんなに興奮するなど、珍しいと部屋の外まで、顔を出した依楼葉。
「ああ、依楼葉!よくやったぞ!」
父は、依楼葉の掴んだ。
「何がです?」
「聞け、依楼葉。そなたが、帝の尚侍になったのだ。」
依楼葉は、茫然とした。
何も告げられずに、宿下がりを言われ、腑に落ちないまま家に戻ってきたが、その理由がこれだったとは。
「ん?どうした?依楼葉。」
顔色が優れない依楼葉の顔を、父・藤原照明は覗き込んだ。
「それは、もう断れないのですね。」
依楼葉は、落ちるようにその場に座った。
そんな娘の姿を見て、父と母は顔を見合わせた。
今迄なら、おまえの人生だからと、気が進まないなら断ろうと言っていた父のなのだが。
「ああ、そうだ。」
父ははっきりと、依楼葉に伝えた。
依楼葉が、手をぎゅっと握りしめる。
「依楼葉。これはな、名誉ある位なのだ。誰でも尚侍になれる訳ではない。大臣家の子女の中でも、選ばれた者だけだ。」
「はい……」
「では、早速受けると申し伝えるぞ。」
依楼葉が返事をしないまま、父は依楼葉の部屋を後にした。
「大丈夫ですか?」
母が依楼葉の側に寄り添った。
「はい。」
「そんなに思い詰めるのなら、私から父上様に、お断りの旨を伝えましょうか?」
母は立ち上がって、父の後を追いかけようとした。
だが依楼葉は、そんな母の腕を掴んだ。
「母上様。もう、逃げる事は止めました。」
「依楼葉?」
「これも運命なのでしょう。私はもう、覚悟を決めました。」
強い眼差しで庭を眺める娘の背中を、母は心ゆくまで、摩り続けるのだった。
そして数日後。
宿下がりをしていた依楼葉が、五条帝の尚侍として、戻って来た。
「この度は、主上の尚侍と言う誉れを頂き、ありがとうございます。誠心誠意を持って、お仕え致します。」
頭を下げた依楼葉に、帝は御簾をあげ、依楼葉の前に片足をついて座った。
「……待っていた。」
その熱を帯びた声に、依楼葉は思い切って、顔を上げた。
「……私もです。」
その見つめ合う瞳に、帝も今迄とは違う依楼葉を感じた。
さて、依楼葉が女御の位に近い、尚侍になった事で、藤壺の女御・桜子は居ても立っても居られない。
まだ、子供もできない身で、他の女が帝に近づくなど、腹が立って仕方ないのだ。
帝のお子、次の帝を産むのは自分だと、幼い頃から言われ続けてきたせいかもしれない。
「藤壺の女御様……」
そんな苛立った状態を、ずっと見続けてきた綾子は、桜子が不憫でならない。
本当は、心の底から優しい方なのに、煩わしい事が増えていくばかりで、心休まる時がないのだ。
「綾子。」
「はい。」
「私はあとどのくらい、帝の近づく姫を、押しのければよいのだろう。」
綾子は、胸が潰れそうになった。
「もう少しでございます。もう少しで、藤壺の女御様が、ご懐妊されれば……」
「それを聞くのも、飽きた……」
桜子は、豪華絢爛な御帳台を、手に取った。
「幼い頃から父上に、そなたにはこのような暮らしが待っているのだと、聞かされた。」
太政大臣・橘文弘は、桜子が小さい頃から、帝の元に入内させる気で教育を施していた。
「私も何も疑わず、この絵巻のような暮らしを、送れるものだと思っていた。」
綾子は、一歩前に出た。
「何を申されますか。今でも十分に、絵巻のようなお暮しを、なさっておいでですよ。」
すると桜子は、クスリと笑った。
「綾子は、この絵巻を見た事がある?」
「えっ?」
綾子が御帳台を見ると、たくさんの人がたくさんの色鮮やかな衣をまとい、きめ細やかに描かれている。
それは贅を限りを尽くした、この世で一つだけの、御帳台だ。
「この中には、帝と帝の女御と、その間に生まれた皇子が、描かれているの。」
桜子は、御帳台の真ん中に描かれている、その幸せそうな親子の絵の部分を触った。
「ずっとこの帝は主上で、この女御は私で、その間には当然、この可愛らしいお子が、産まれるものだとばかり、思っていた。」
その様子は、幼い頃の夢を語っていると言うのに、昔の忘れ去った夢を思い出しているようにも見えた。
その途端、綾子の目には桜子が、急に老けたように感じた。
「藤壺の女御様!私が、何とか致しますから!」
「綾子?」
鬼気迫った綾子に、桜子は怪訝そうな顔をする。
「誰が何と申しても、帝の女御様は、藤壺の女御様ただお一人でございます!」
もうすぐ落ちぶれるかもしれない自分に、励ましの言葉をかけてくれる綾子。
桜子は、胸が熱くなる程嬉しかった。
「だが、綾子。」
「はい。」
「もしかしたら、今までが間違いだったのかもしれない。」
「えっ?」
綾子は、眉をひそめた。
「本来、帝の後宮と言うのは、何人かの女御がいて当たり前の世界。子を成さない我一人の後宮と言うのが、珍しいのかもしれない。」
「そんな!」
綾子は、桜子の側に寄った。
「帝は、藤壺の女御様を恋い慕っておられます!それなのに、他の女御様など、いるはずもありません!」
桜子は、寂しく笑った。
「ああ、綾子。そなたがいてくれれば、私はこれからも、なんとか生きていけそうです。」
「何を仰います!」
桜子は、尚も励まし続ける綾子の手を、そっと握った。
「ありがとう、綾子。」
「藤壺の女御様……」
そして手を放した桜子は、ふと後ろに置いてある絵巻に、目をやった。
「そう言えば、和歌にも女房の時には、世話になりましたね。」
そう言って桜子は、目を閉じた。
「勿体ないお言葉。女房は、藤壺の女御様のお世話をするのが、お勤めでございますのに。」
綾子は、だんだん桜子が、憐れに思えてきた。
「綾子。一つ、頼まれてはくれまいか?」
「はい、何でしょう。」
「私の衣を一つ、和歌に持って行ってくれまいか。」
「えっ!?」
藤壺の女御様が着ていた衣を、和歌の姫君も、袖を通すと言うのか。
「和歌ももう、尚侍。帝の側にお仕えするのであれば、豪華な衣の一つも、必要でしょう。」
あまりの優しさに、綾子の目に、涙が溜まる。
「とは言っても、関白左大臣家の姫君に対して、余計なお世話かもしれませんね。」
「いえ。」
綾子は、首を横に振る時に、一緒に涙も拭いた。
「きっと和歌の姫君も、お喜びになるでしょう。」
そして、無理に笑って見せた。
「うん。では、そうしておくれ。」
「はい。」
綾子は早速立ち上がると、桜子の衣が置いてある場所へと、足を運んだ。
太政大臣の娘である桜子の衣は、右大臣家の姫である自分であっても、羨ましいくらいの豪華なモノばかりだ。
その中でも、桜子があまり、袖を通さない衣があった。
綾子はそれを畳むと、他の女房を連れて、尚侍になったばかりの和歌の姫君に、持って行くのだった。
さて帝は、朝にお湯殿に入る。
その準備をするのも、帝の尚侍のお勤めの、一つであった。
「お湯の加減は、どのくらいなのでしょう。」
依楼葉は、先に仕えていた女房に、尋ねる。
「そうですね。少しぬるめの方が、いいと仰せでございました。」
「そうなのですね。」
「はい、ゆっくりと浸かりたいからなのだと。」
依楼葉は、尚侍の務めを通して、帝の事を知っていくことが、なによりも嬉しかった。
「そろそろ、帝をお迎えしても、よろしいかと。」
依楼葉は、見慣れた顔の女房を見つけた。
「そなた、確か藤壺の女御様の元で、一緒にお勤めをしていた……」
「はい。覚えていて頂いて、嬉しく思います。」
その女房は、依楼葉と同じ桜子の元で、女房をしていた者だった。
綾子からは、橘の君と言われていたような。
「橘の君と、申しましたよね。」
「はい、その通りでございます。」