一方、依楼葉と会った橘文弘は、別な事を考えていた。
「今日会った、春の中納言……あれは、確かに人を引き付ける……」
一人庭に向かって酒を呑みながら、昼間会った若い公達を思い返していた。
「父親である関白左大臣が、出仕してそうそう中納言に推したのも、頷ける。」
柔らかい物腰、しっかりとした言葉。
何よりも、あの艶やかな顔立ちがいい。
「あれの双子であれば、妹の方も美しいなぁ。」
自分の娘を思い出しても、艶やかさはあちらの方が上だ。
「あれではもし、入内などさせたら、たちまち子に恵まれ、帝の寵愛を独り占めするやもしれぬ。」
その時橘文弘の盃に、一枚の葉が、迷い込んできた。
酒の水面は、橘文弘の心のように、揺れ動く。
「それに、後ろ盾があの中納言では、次は藤原の世にも、なりかねん。」
橘文弘は、持っていた盃を突然、捨ててしまった。
「危うい危うい。早いうちに会っておいて、よかった。」
そして盃を落とす音を聞きつけて、橘文弘の妻がやってきた。
「どうなされました?」
「うむ……葉が、迷いこんだ。」
「葉……でございますか?」
妻は、落ちている盃を、拾い上げた。
「もう、無くなっておりますね。」
「ああ。落としてやったからのう。」
「えっ?」
妻はしばらく橘文弘を見ていたが、自分を見ない相手に、首を傾げる。
「そなた……春の中納言殿を、知っているか?」
「はい。関白左大臣家の……」
「そうだ。どう思う?」
妻は盃を使用人に渡すと、橘文弘の隣に座った。
「そうですね。一度お見掛けした事がございますが、若い頃のあなた様に、似ております。」
「若い頃の、私に?」
それは、自分では気づかなった事だ。
「でも最近、不思議な噂を耳にします。」
「はて、どのような?」
妻は頬に手を当て、噂を思い出している。
「ご病気になられてから、お人が変わったみたいだと。」
「何ともお労しい。流行り病から戻ったのだ。それくらい変わったとて、さほど不思議ではなかろうに。」
流行り病で死んだと言う話は、飽きるくらいにある。
反って、回復する方が珍しい。
そんな大病を乗り越えてきたのだから、多少変わっても、誰も何も気にしないだろう。
「それが、お体がやけに細くなったとか。」
「病をしている間に、肉が落ちたのだろう。」
「後は、お声がなんとなく、高くなったとも。」
「病で、喉を潰したのか。」
「そうそう。お顔立ちも、前より女らしくなられたと。」
それには、橘文弘も手を止めた。
「女……らしく?」
「ええ。でも、それも気のせいのようですね。女房達の話では、一層艶やかになられて、目の保養にいいそうですよ。」
妻はそう言うと、空になったお酒を持って、足しに行ってしまった。
「まさかのう……春の中納言が、女である訳がない。だが、今のうちに出る芽は、潰しておかねば……」
数日後、帝の元へ太政大臣・橘文弘、関白左大臣・藤原照明・右大臣・藤原武徳が集まった。
「そろそろ、野行幸を行おうと思う。」
「おお!」
帝の一声に、蔵人達も混じって、感嘆の声を上げた。
「それは宜しい。皆も、喜ぶでしょう。」
関白左大臣も右大臣も、心躍っている。
「狩場までの行列は、若者を腰の左右に随行させましょう。」
「ああ、それもよい。で?どの若者に、随行させましょう?」
すると太政大臣・橘文弘が、扇を広げた。
「一人は冬の君、左大将・藤原崇文殿は、如何でしょう。」
崇文の叔父・右大臣の藤原武徳は、鼻を高くする。
「では、もう一人は夏の右大将殿ですかな。」
関白左大臣が、笑顔で言った。
「いえ……我が息子は、帝の横に。もう一人は、関白左大臣家の春の中納言殿に。」
これには、依楼葉の父・藤原照明も驚いた。
なにせ春の中納言が、文武両道と謳われたのは、咲哉が生きている時だ。
「あっ、いや……その……我が息子の春の中納言は、病み上がりでして……」
父・藤原照明の額から、嫌な汗が出る。
「なんの。我が息子夏の右大将は、春の中納言殿と冬の左大将殿に比べて、少し歳が上でございます。お上も、若くて美しい公達の方が、宜しいでしょう。」
「……そうよのう。」
帝は、ニヤッとした。
「夏の右大将も美しい公達だが、たまには若い者に、華を持たせてやりたい。」
帝にそう言われ、父・藤原照明は縮こまる。
「それに、ゆくゆくは春の中納言殿が、左右の大将、いづれかになるでしょうから、今のうちに肩慣らしでもしておいた方が、よかろうと思うのです。」
「えっ……そ、そうなのですか?」
そんな話まであるとは、父・藤原照明も想像はしていなかった。
「春の中納言が、勤めてくれるとなれば、私も楽しみだ。関白左大臣。」
そう言って帝は、笑顔になる。
帝直々にそう言われてしまえば、受けるしかない。
「……本人に、伝えてみます。」
関白左大臣の答えに、太政大臣・橘文弘は扇の裏で、微笑んだ。
その日の夜。
父・藤原照明は、務めが終わって帰って来た依楼葉に、この一件を話した。
「はい!喜んで、お受け致します。」
依楼葉は、やけに嬉しそうだ。
「依楼葉、大丈夫なのか?男に混ざって、狩りに行くとは。」
「ご心配なく、父上様。弓矢でしたら、幼い頃から咲哉と共に、鍛錬してきました。」
「そうで……あったな……」
小さい頃、あまりの腕の良さに、”左大臣家には、男の子が二人いるようだ”と言われていた。
だがそれでも、父は心配で仕方がない。
「……今のうちなら、病だと申して、断る事もできるぞ。」
「父上様。後々は左右の大将のいづれかになる者と、そこまで言われましたら、退くは咲哉の評判を落とします。」
「うーん……」
今回ばかりは、折れるしかないと思う父だった。
しばらくして、その野行幸の時が、やってきた。
他の公卿達と同じ衣装を着た依楼葉が、馬の元へやってきた。
「春の中納言殿。今日は、宜しくお願い申す。」
「夏の右大将殿。」
この前、帝の前で会った時以来だが、依楼葉は何故か、この公達と仲良くなれる気がしていた。
「まあ、春の中納言殿よ!」
「こっち向いて!」
遠くから女御達が、依楼葉目がけて手を振る。
「さすが、春の中納言殿。このような時まで、女房達を魅了するとは。」
「はははっ……放っておきましょう。」
咲哉と違って依楼葉は、手を振られても、うっとおしいとしか思えない。
「これは、夏の右大将殿!春の中納言殿!」
遅れて、冬の君・藤原崇文が、やってきた。
「おお。春の中納言殿は、そういう衣装も、お似合いになる。」
「あ、有難うございます。」
依楼葉を気に入っていると言う、藤原崇文。
何となく、距離を置く依楼葉だった。
「そう言えば、和歌の姫君には、私の事伝えて頂けましたか?」
「えっ?」
依楼葉は、目を丸くした。
やんわりと、それとなく断ったはずなのに。
「ああ……文で伝えたのですが、まだ返事がなく……申し訳ない。」
依楼葉は、嘘をついた。
「そうですか。今頃、私の事を考えておられるのでしょうか。」
だが反って藤原崇文は、勝手な妄想をしている。
「あの……冬の君殿は、なぜそこまで、妹の事を?まだ、一度もお会いした事は、ないと思いますが……」
「お会いした事なら、ございますよ。」
「えっ?」
依楼葉は、遠い記憶を遡った。
「桜の君様……帝と、花見の祝宴をしていた時に。」
依楼葉は思わず、声を出しそうになった。
帝と見つめ合った時……
『桜の君様?』
帝を呼んだ、あの公達だ。
「この前は、叔父や関白左大臣の手前、一度は引き申したが、桜の君様であれば、相手に不足なし。まだ諦めはしません。」
帝相手にそこまで言えるとは。
反って男らしいと、依楼葉は感じた。
「春の中納言殿。和歌の姫君に、伝えて下さい。あなたの妹背が、返事をお待ちしていると。」
「は、はあ……」
この勘違いが過ぎる事が、たまに傷なところだ。
その時、蔵人が叫んだ。
「帝のお出ましです。」
依楼葉は他の二人と共に、頭を下げた。
「今日は、天気のよい日だ。狩りも楽しめそうだな。」
「はい、お上。」
さっきまで、桜の君には負けないと言っていた藤原崇文は、もう態度が変わっている。
「私の輿の随行を、春の中納言が勤めてくれるそうだね。」
依楼葉は、少しだけ顔を上げた。
「宜しく頼む。」
「……恐れ多い事でございます。」
恋慕う相手と共に、遠出ができる。
依楼葉の胸は、静かに高鳴る。
「では各々方、出発致します!」
蔵人の掛け声で、五条帝は輿に乗り、依楼葉達三人は、馬に乗って進み始めた。