金曜の夕刻になると、みなどこかしら浮かれた雰囲気を醸し出す。このあとどういった予定があるのか、人それぞれだけれど。予定がないにしても週末が控えていると思うだけで、ほっとした心地になるのだろう。
 かくゆう私もそんな雰囲気を隠すこともできず、帰りにはお酒を買って帰ろうか。それとも、どこか寄り道をして、少しだけ贅沢をしようかと考えていた。

「今日は、まっすぐ帰るの? それとも梶さんのところ?」

 つい先日までの目まぐるしい出来事を知らない美香は、私と梶さんがもめたことも、櫻子さんが私にどんなことを吐露したのかも知らない。そして、何とか梶さんとの関係を続けるに至ったことももちろん知らない。

「梶さんは、お店があるから」

 PCの電源を落とし、バッグを机の下から取り出しデスクに置いた。

「じゃあ、あれだ。幼馴染のミュージシャンか」

 美香は若干のからかいも含んで訊ねる。その顔に向かって笑顔で首を振った。

「佑ね、今とっても順調だから。しばらくは、うちに寄り付かないと思うよ」
「ほぉ~。それは、いい傾向ね。色んな意味で」
「いい報告ができるようになったら話すね。聞いて欲しいこと、たくさんあるから」

 そう。美香にもわかってもらいたいから、佑とのことを何度でも話そう。

 お疲れさまと席を立つと、美香はひらひらと右手を振った。
 週末を目の前にし、ご機嫌な気分で帰り道の商店街にある個人経営の酒屋さんに入り、好みのフランス産で重く酸味の少ないワインを一本購入した。その足でスーパーにも寄り、ワインに合うチーズやお肉も買った。ご機嫌にヒールをカツカツ鳴らし、エントランスに着くと見知った姿に足が止まる。さっきまでの軽快にアスファルトを小気味よく叩く音はやみ、ゆっくりとその人物に近づいた。

「雪ちゃん……」

 苦笑いを浮かべて私をそう呼んだのは、櫻子さんだった。あの居酒屋以来、三日ぶりのことだった。

 一旦部屋に荷物を置く間エントランスで待っていてもらい、私と櫻子さんは一番近いファーストフード店に向かった。櫻子さんにファーストフード店というのは、あまりにも不釣り合いに思ったのだけれど、近くのカフェでは静かすぎて話難い気もした。かと言って、前回のことがあるせいか、櫻子さんはお酒を飲む気分にもならない様子で、こんな時間帯でも若者が賑やかに話すハンバーガーショップの二階に行き、味に期待のできないコーヒーを前に向かいあい座った。

「長いお休み中って、特にすることもないのよね……」

 櫻子さんは、コーヒーに口をつけることなくカップを両手で握ったままそう話し出した。

「いつもは毎日が目まぐるしく過ぎていて。休日には、新作のデザートや食事のメニューを考えて。そうしているうちに、時間は過ぎて行っちゃう」

 櫻子さんは、周囲の喧騒に飲み込まれない程度の音量で、穏やかに言葉を重ねていく。

「新しいメニューが決まると、二人に試食をお願いして、それに合う食器を梶君と相談して仕入れる。それが私の日常。特に変わったこともなく、何か激しく気持ちを揺さぶられ、感動することもない代わりに、ただ平和に、そして淡々と穏やかに毎日がやって来て過ぎていく。お店自体は楽しいし、お客さんと言葉を交わすのも好き。美味しいって言ってもらえると元気になるしね」

 そこで初めて、目の前のコーヒーを口に運ぶ。特になんの感想もなくのどを潤すと、軽いカップの音を僅かに立ててテーブルに戻しまたそのまま握りしめた。

「雪ちゃんが来てくれて、常連さんのように通ってくれたこと、本当に嬉しかったのよ」

 信じて欲しいとでも言うように、櫻子さんが切なげな表情で私を見た。私は、ただ黙って頷きを返した。

「雪ちゃんは、口にするもの全てに、パーっと顔を明るくしてくれるでしょ。それは本当に嬉しいし、次はどんなものを食べて貰おう。あれを食べてもらいたい、飲んでもらいたいって。雪ちゃんが来てくれる日を、いつも心待ちにしていたくらいなの。カウンターにリザーブの札を置くなんて、催促しているみたいで本当は気が引けたんだけど、そうしてでもこのカフェに来て、美味しいって顔を見せて欲しいなって。雪ちゃんの人柄なんだろうね、人を惹きつけるっていうのかな。そこに居るだけで、雰囲気が明るくなるのは」

 櫻子さんが好意的に話してくれる中、その奥にある感情を必死に整理しているのだろうというのが伝わってきた。少しだけ間を置くと、スッと息を吸う音が僅かに漏れ聞こえた。

「きっとね……、自分でも気がついていたと思うの」

 さっきまでの少しばかり明るい口調から、しんみりとした雰囲気を醸し出し言葉を零した。そうしてカップから手を離すと、両手を座っている自分の膝の上に置き、僅かに俯いた後に顔を上げた。

「梶君は、きっと雪ちゃんを好きになるって」

 そう言った櫻子さんの表情は切なさに歪んでいて、涙を堪えているようだった。

「梶君を取られたくない。そう思う自分と、雪ちゃんと仲良くしたいっていう自分がない交ぜになって。ホント、どうしていいのか解らなくなってた。だって、雪ちゃんてば、すごくいい子なんだもん。意地悪なところもないし、控えめだし、明るいし。……雪ちゃんがとても意地悪な子だったらいいのにって、何度も思っちゃった」

 櫻子さんは、苦しそうに少しだけ笑みを浮かべる。

 それは、私も一緒だ。櫻子さんが嫌な人だったら。こんなに素敵で憧れを抱くような人じゃなかったら、どんなに良かったか。自分の中にある黒に染まり切れない部分が、相手の白く潔白で穢してはならない部分に触れた時、同じようにして心を痛ませ悩んできたのだろうと思った。

 櫻子さんも、私と同じだったんだ。

「意地悪な態度をとって、ごめんね……。ううん、ごめんなさい」

 櫻子さんが頭を下げる。慌ててそんな櫻子さんに顔を上げるよう身振りで促した。

「意地悪をしたってどうにもならないことなんて、わかってたの。だけど、心の中をうまくコントロールできなくて、気がついたら酷いことをしていて。嫌な気持ちにさせちゃったよね……」

 私はただ黙って、櫻子さんの言葉を聞き、一度ゆっくり瞬きをしてから、大丈夫ですと口にした。その声が涸れていて、ここへ来て初めて言葉を口にしたということに気がつき、コーヒーに手を伸ばした。ファーストフード店のコーヒーは酸味がきつく香料がやけに鼻についた。櫻子さんのお店で飲むコーヒーとの違いがあまりにも明確で。櫻子さんがどれほどバリスタの技術を磨き、そのコーヒーを梶さんに飲んでもらいたいと頑張ってきたかがわかる気がした。

「櫻子さんのところのコーヒーの方が、ずっと美味しいですね」

 のどを潤してから、目の前の櫻子さんにそう告げた。すると、櫻子さんの瞳に涙が浮かび、今にも零れだしそうになってしまった。

「雪ちゃん。ありがとう」

 涙を必死に堪えた櫻子さんは、そう言って口角を上げた。

 SAKURAは、近々二号店を出す予定だという。新たな挑戦をしたいというのは、以前から考え続けていたことらしい。その際、SAKURAで長く働いている社員に今の店を任せ、櫻子さんは二号店のオープンに携わる予定だという。それは、一年ほど前から考えていたことで、こんなことがあったからというわけではないと、櫻子さんは何度も念押しをした。

「まだしばらくはあの店に出入りする予定だけれど、夏には二号店に行きっぱなしになるの。だから、雪ちゃんとも会えなくなる……」

 それは暗に、私と梶さんから距離を置くのだということを示していた。

「時々、SAKURAに顔を出すことはあると思うけれど、もしもその時会ったとしても以前のように雪ちゃんて呼んでもいいかな?」

 躊躇い窺うようにして訊ねる顔に向かって、「もちろんです」と笑みを浮かべた。

「止まっていた時間を、動かそうと思う。いつまでも立ち止まっていたんじゃ、前に進めないものね。梶君の誰にでも優しいっていう悪い癖は知っていたのに、勘違いしちゃうなんてどうかしてたよ」

 肩を竦め、自分が一番よく解っていたはずなのに、何やってるんだろうと息を吐き笑った。
 その晴れやかで吹っ切れたような様子に、やっと落ち着きを取り戻す日常が訪れると肩から力が抜けていった。

「あの癖、雪ちゃんが直してあげてね。じゃないと、私みたいなのがこの先もどんどん近づいてきちゃうから」

 おどけたように話す表情は、初めて櫻子さんのお店に行った時に見た、輝いていて眩しい笑顔だった。