何をどうすればいいのか。そんなことは微塵も解らなかったけれど、会社帰りの足は自然とUzdrowienieに向かっていた。ヒールがアスファルトを鳴らす音に耳を傾けながら、花屋の角を曲がる。いつもと何ら変わらず、梶さんのお店はカラフルで素敵な小物が照明の灯りに照らされ、通り行く人の目を奪っていた。

 櫻子さんのお店はというと灯りもなく静かなもので、休業日のようだ。梶さんに逢うだけでも心が落ち着きをなくしていたから、櫻子さんに逢わなくて済むと思うとほっと息が零れた。傍まで寄ってみるとSAKURAのドアには、月曜から木曜までGWの振替休みのお知らせが貼られていた。
 その後、そっとUzdrowienieの店内を覘き込むと、あっ君がのんびりと商品の整理をしていた。

「あっ。雪ちゃんだ。いらっしゃい。ねぇねぇ、今度こそカラオケ行こうよ」

 挨拶もそこそこにあっ君がウキウキと話しかけてくれたおかげで、自然と口角が上がった。

「……いらっしゃい。雪乃ちゃん」

 あっ君の後ろから、静かに梶さんが現れた。上がった口角が、心のやり場を失うようにゆっくりと下がった。つい先日のこともあって、梶さんからはいつもの穏やかで癒しに溢れたような雰囲気は感じられず。躊躇いや切なさのある表情で声をかけられた。互いに戸惑いを見せながらも、話さなければいけないという思いから妙な沈黙が降りてしまう。いつもと違う空気を感じ取ったあっ君がそっと私たちの傍から離れ、梶さんの代わりに奥へと引っ込んだ。

「あの。この前は、私……」
「うん……」

 二人ともうまく言葉が続かず、押し黙るようにして沈黙してしまう。このままではいけないだろうと、今後の二人について答えを探すように会いに来たけれど、そんなに簡単なことではなく。何をどうすることがいいのか、どちらも解らないままという雰囲気で黙り込んでしまった。

 あっ君がゴミ袋を抱えて、外に出ていく。

「梶さん、そろそろレジ閉め……」

 二人の会話を邪魔するのも気が引けるけれど、というように通り過ぎる際にあっ君に声をかけられた。

「ああ、うん。雪乃ちゃん、少し待っててくれる?」
「……はい」

 そう応えたところで話声が聞こえてきた。ゴミを捨てに行ったあっ君と楽しげに会話をしているのは……櫻子さんだ。

 お店、お休みじゃないの? また、試作品づくり?

 いるはずがないと勝手に油断していた心が緊張した。一瞬で心に冷たく硬い針金が通されたように、ピンとした痛みが走る。
 聞こえてくる会話は、この後みんなで飲みに行くというようなものだった。どうやら、また来るタイミングを間違えたらしい。

「あの……、梶さん」

 レジ閉めをしている梶さんに、今日は帰ると伝えようとした矢先に、Uzdrowienieの中を覗き込んだ櫻子さんに話しかけられてしまった。

「あっ、雪ちゃん」

 弾むように声をかけられて、歪む表情を誤魔化すように軽く頭を下げた。

「これからみんなで飲みに行くんだけど、雪ちゃんも行こうよ」
「えっと、あの私は……」

 たまたまやって来た私を何の躊躇もなく誘う櫻子さんに、すぐに返事ができない。帰りますの一言が、のどに詰まって出てきてくれない。これでは前回と一緒だ。早く断らなくちゃ。じゃないと、また……。

 戸惑う私の態度に気づいたあっ君が、櫻子さんに何かを言おうとしたのだけれど、遮るようにして話を進める彼女はどんどん盛り上がり楽しそうだ。

「連休でもないと、こうやってみんなで飲みに行くこともできないから、今日はとても楽しみなのよね。雪ちゃんも一緒なら、きっともっと楽しいと思うの」

 子供みたいにはしゃいだ櫻子さんは、私の右手を両手で握るようにして掴む。まるで、絶対に逃がさないとでも言われている気がして体が固まってしまった。
 そうこうしているうちに、レジ閉めの終わった梶さんがやって来た。梶さんも、二人っきりになり暗い雰囲気で押し黙るような空気の中にいるよりも、櫻子さんの放つこの明るい雰囲気を逃したくないのか一緒に行こうと誘う。

 確かに、お酒を飲んで気分が解放されれば、今抱えている問題もするりと解決へ向かう気かがする。けれど、それは夜迷いごとだ。お酒に飲まれてなあなあになり、結局何も解決しないまま、変わらず今のように櫻子さんに振り回されてしまうだけだろう。なのにはっきりと断ることができず、結局、櫻子さんが滅多に見せることのない無邪気な強引さに押し切られ四人でお酒を飲むことになってしまった。

 一駅隣にある、賑やかなダイニング。案内されたテーブル席は、周囲がガヤガヤとしながらも、抑えた照明と音楽が落ち着いた雰囲気だった。
 長方形のテーブルに椅子が四つ。あっ君が一番に座る。その向かい側に梶さんが座ると、私をスッとかわすようにして櫻子さんが梶さんの隣に座った。その行動に驚いた私は、身動きできずに立ち尽くしてしまう。梶さんも驚いてはいるものの、櫻子さんを邪険にもできないのか、そのまま隣に座ることを拒否しなかった。必然的に、私はあっ君の隣に腰かけた。あっ君が苦笑いのような、眉を下げた心配するような表情で私を見ていた。
 最初の一杯を飲み、あっ君が中心になって注文した料理をみんなで摘まんでいった。

「梶君のところも、そろそろ振替の連休取るんでしょ?」

 櫻子さんが梶さんの小皿にお刺身を取り分ける。醤油皿にはワサビとお醤油も入れて、至れり尽くせりだ。その様子を、向かい側に座る私は他人事みたいにぼんやりと眺めていた。

「うん。来週からとろうと思ってる」

 櫻子さんの気遣いはいつものことなのだろう、ありがとうという軽い目配せだけをし、梶さんがお刺身を摘まんで口に入れた。初めて二人を見た時に感じたような恋人同士のような雰囲気は、それがやはり正しい形に思えてきてしまう。

「来週? うちと少し被らない?」
「そうだね。櫻子さんのところと、二日被るかな」
「じゃあさ、みんなでキャンプなんてどうかな? ああ、でも雨も多くなってるから、外のイベントは難しいかな。室内ならスポーツとかゲームができるアミューズメント施設に行ってさ、みんなで体動かしたりなんて、どう?」

 お酒のせいなのか、みんなで集まることが滅多にないので楽しいのか、櫻子さんのはしゃぎようは普段みないほどで、テンションの高さに梶さんもあっ君も戸惑っていた。

「櫻子さん、少しペース落とした方が」

 あっ君が躊躇いながらお酒のペースを落とすよう促すと、「可愛い顔して、お説教しないの」とクスクス笑う。その後、あっ君の鼻をつんと人差し指で押した。まさかそんなことをする櫻子さんではないと思っていたのか、流石のあっ君もとても驚いている。

「あ、いや。説教とかではなくてですね……」

 いつもノリノリでものを言うあっ君でさえ、今の櫻子さんには敵わず、何も言えなくなってしまった。

「雪ちゃんは? この前の週末は、何をしてたの? 梶君と一緒だったの?」

 無邪気に訊ねられて、心臓が跳ねた。気まずい状態になっているとは言いにくくて口籠る。

「櫻子さん。ペースが速いよ。少しお水でも貰おうか?」

 梶さんも間に入り櫻子さんを諭すようにしてみたのだけれど、火に油だった。

「梶君、心配し過ぎ。大丈夫よ。折角みんなで飲めるんだから、楽しみたいの。お水なんて、要りません」

 柔らかな声音のせいできつくは聞こえないものの、断固として言うことを聞かないという意思の強さがあった。

「でも、酔ったら、梶君送ってね」

 囁くように耳元で言った櫻子さんが、梶さんにしなだれかかる。
 もう、無理だ。こんなところに黙って座って、二人のやり取りを見ていられない。
 梶さんもさすがにしなだれかかられるのは、今目の前にいる私に失礼だと思うのか、櫻子さんの体を引き離した。

「櫻子さん。酔い過ぎです。それに、こういうのは――――」

 梶さんに言われた櫻子さんは、ふっと息を吐いたあと座り直した。体を離されたことで、少しだけ悲しげな表情を見せる。上がっていたテンションが下がってしまったのか、さっきまでとは対照的に落ち着いた態度をとった。

「そうよね、ごめんね。みんなで飲めることが嬉しくて、つい気分がよくなっちゃって。……ちょっと、レストルーム行ってくるね」

 櫻子さんが席を立った。その表情は相変わらず笑みをたたえていて、酔ってテンションが上がったままのようにも見える。けれど、その裏側に潜む感情に、私は気がついていた。こちらへ背を向ける瞬間の切ない表情が見えたからだ。

 私ときたらどこまでお人好しなのか。目の前で梶さんに甘える姿を見せられ、こんなに辛い気持ちにさせられても、普段見たことのない酔った櫻子さんが心配でならなかった。一人になった彼女が、泣いている気がしたんだ。

「あの。櫻子さんが心配なので、私ちょっと見てきます」

 席を立つと、梶さんとあっ君が何か言いたげに見ていた。そんな二人に向かって笑みを浮かべ、レストルームへ向かった。

 賑わう店内の廊下を行き、奥にあるレストルームのドアを開けると、鏡の前で櫻子さんがぼんやりとした表情で立っていた。ドアの閉まる音に気がつくと、慌てて笑みを貼り付けた。

「大丈夫、ですか?」

 泣いてはいなかったけれど、やはり無理をしていた反動なのか、精気が失われているみたいだ。

「ちょっと飲み過ぎちゃったみたい。あっ君にお説教されちゃったね」

 ポーチの中からハンカチを取り出すと手を洗い、息を吐く。そのまま僅かに俯き黙ってしまった櫻子さんが、梶さんへの想いを口にして泣いてしまうんじゃないかって、不安な気持ちに襲われた。かと言って、どう言葉をかけるべきなのかわからず鏡越しの櫻子さんを見ていた。

 レストルーム内には、静かにクラシック音楽が流れていた。ピアノの旋律は、落ち着きを取り戻すには丁度いい。レストルームの向こう側は、こことは対照的にとても賑やかだ。お客なのか店員なのか、何度もここの前を行き来する音や声が聞こえてくる。

 少しして、俯いていた顔を上げた櫻子さんは、何か言いたげに鏡越しの私を見た。僅かに体の向きを変えると形のいい唇が苦しそうに歪み、ゆっくりと開いた。

「雪ちゃん。ごめんね……」

 少しだけ震える声は、込み上げる感情を抑えるようにしているが、いつもの冷静さは失っているようだ。そこからゆっくりと深く息を吸い、私を見ながら深く頭を下げた。

「雪ちゃん……お願い。梶君を私に返して。梶君から、離れて……。梶君と私は、今までうまくやって来たの。大学では一度離れてしまったけれど、仕事の関係だけじゃない、それ以上のもので今も繋がってると私は思ってる。ここまで築き上げて来られたのは、全部梶君がいたからなの。雪ちゃんならわかってくれるでしょ?」

 心臓がドクリと嫌な音を立てた。何か言われるだろうという気はしていたけれど、ここまで直球で気持ちを曝け出してくるなんて。
 懇願するような言葉と表情に、私は何も言えない。

「梶君がいないと、だめなの……。梶君がいるから、お店も頑張ってこられたの……。お願い、雪ちゃん。お願いします」

 縋る瞳が切なすぎて、言葉なんて何一つ出てこなかった。
 櫻子さんの気持ちもわかるなんて言ったら、きっと佑には叱られるだろう。だけど、わかってしまうんだ。梶さんがいることで頑張れる気持ちも、前に進むことができるのも。毎日にカラフルな色がついて、笑顔でいられることも。わかってしまうんだ。同じように私も梶さんのことが好きだから。

 櫻子さんの涙も梶さんの困った顔も見たいわけじゃない。こんな風に考えて自分の気持ちを抑え込んでしまうなんて、甘いのかな。好きなら誰かを傷つけたって、そばにいるべきなのかな。それが本当に相手を好きっていうことなのかな。

 だとしたら、私には難しいよ。こんな風に涙を流す櫻子さんから梶さんを取り上げるなんて。そんな風にしてまで梶さんの隣にいて笑顔でいられるとは思えない。

 櫻子さんのことで梶さんと話した時、困った顔をしていたけれど。本当に困っているのは、私という存在になのかもしれない。私が現れなければ、二人の今までを壊すこともなかったのだから。

 二人の築き上げてきた長い年月と、ここへ越してきてほんの二ヶ月ほどの付き合いしかない私よりも、彼を理解できるのは彼女なのだろう。

 付き合っているのは私なのだから、自信を持つべきなのかもしれない。少し前ならその自信もあったのかもしれない。だけど、そんなものは、櫻子さんの想いを前にしてしまえばあっという間に崩れ去る。脆すぎる自身の想いの前に、櫻子さんの想いは強靭過ぎた。

 必死に想いを吐露する櫻子さんを前に、心がグラグラと揺れ不安に押し潰されていった。
 言葉を失い黙り込んでしまうと、櫻子さんが再び口を開いた。

「雪ちゃん、お願いします。梶君を私に返してください。お願いだから、私から梶君を取らないで」

 流れる涙を拭うことなく、櫻子さんは私に向かって感情を曝け出す。これでもかっていうくらいに、梶さんへの想いをぶつけ、私を傍から遠ざけようとしている。

 私は、こんな風になるまで梶さんのことを想っているだろうか。涙を流して恋敵に訴えかけ、懇願し縋りつくことができるだろうか。

 自分の想いを上回るような櫻子さんの態度を前に、ただ立ち尽くすしかなかった。
 私の横を櫻子さんが通り過ぎ、レストルームのドアが開いた。一気に賑やかな音が中へとなだれ込み、我に返って出入口を振り返ると、ドアは櫻子さんを連れてゆっくりと閉じた。

 何も言えないままだった。言い返すことも、自分の気持ちを言葉にすることもできなかった。レストルームに流れるピアノの旋律が悲しげに聴こえてきた。
 取り残され、涙を流せばいいのか、怒りに歯を食いしばればいいのか。自分のことなのに、高熱にでも浮かされたように頭の中身は空っぽだった。鏡の中にいる自分は、とても情けない表情をしている。

 少ししてからその場を出た。席へと戻ろうと通路を行くと、少し先のテーブル席で、梶さんに腕をつかまれた櫻子さんが涙顔を見せていた。
 何がどうなっているのかはっきりとはしないけれど。きっと、さっき私に告げたようなことに関係しているだろうことは解った。

 櫻子さんの涙に、梶さんは何を思っただろう。二人の姿を少し離れた場所から、他人事のように眺めていた。

 店内の喧騒で、櫻子さんと梶さんの会話はよく聞こえない。何か一言二言交わした後、櫻子さんは梶さんに掴まれた手を逃れ、外へと飛び出していった。梶さんが櫻子さんを追う。慌てたように立ち上がったあっ君が、何か仲裁するように言ったようだけれど、二人は構わず店を出ていった。周囲のお客さんが何人か興味本位で店内を出ていく二人を見やり、またすぐ元のように場を楽しみだす。櫻子さんを追いかけて行った梶さんの背中を追い切れず、あっ君は苦虫を噛み潰したような表情で立ち尽くしている。

 傍観者のようにその光景を見送り、私は櫻子さんと梶さんの空いた席に視線をやった。テーブルにある飲みかけのグラスたちが、とても滑稽に映った。

「まいったな……」

 あっ君が、ボソリと呟くようにして席に戻りながら椅子に座り込んだ。その拍子に、立ち尽くしていた私に気がつき、はっとした表情をした。

「梶さん、行っちゃったね。櫻子さん、泣いてたし。普通は、追って行くよね」

 自虐的な笑みを浮かべながらテーブルに近づき、あっ君の隣に腰かける。目の前に残っていたグラスを手にして一気に空けると、小さくなった氷がカラリと音を立てた。

「雪ちゃん」

 心配そうな顔を向けてくるあっ君に、精一杯の笑みを見せた。

「人間てさ、一度に色んなことを体験すると、脳が考えることを拒絶するのかな。あんまり何も感じないや」

 不自然なほどの笑みを浮かべたままこぼすと、あっ君の表情が切なく歪んだ。
 二人だけになったテーブルの上には、まだ半分ほども料理が残ったままになっていた。櫻子さんのペースに飲まれて、みんな箸が進まなかったのかもしれない。

「料理、もったいないよね。食べようよ」

 箸を手に、取り皿に料理をのせる。言葉もなく、黙々と口に運んでも、料理はなかなか減らない。

「食べても食べても減らないね」

 苦笑いを浮かべ、腕時計で時刻を確認した。

「戻ってこないね」

 サラリと言ったつもりだったけれど、あっ君の方がよっぽど傷ついたみたいな顔をしている。

「あっ君。私ね、櫻子さんに梶さんを返して欲しいって言われちゃったよ。返して欲しいって泣かれちゃった。私ね、そんな櫻子さんの気持ちが解りすぎちゃって、何も言えなかったんだ。ただ、櫻子さんが必死になっている姿を見てることしかできなかった。二人の形を壊したのは、私なんだろうね……」

 ぽつりぽつりと話す言葉を、あっ君が黙って聞いてくれる。ただ、切なそうに。ただ、心配そうに。そんなあっ君を見ていたら、今更涙腺が緩んできてしまった。
 一度頬を伝うと涙は止めどなくて、拭っても拭っても止まってくれない。

「使って」

 あっ君がハンカチを貸してくれた。

「これ、お店に売ってるのだね。素敵」

 泣きながらグズグズの鼻声で言い、借りたハンカチを目元に当てた。

 それから少しの間出ていった二人を待ってみたけれど、帰ってくることはなくて。あっ君が、Uzdrowienieの名前で領収書を切り、「櫻子さんのおごりって言ってたのになぁ」とわざとふざけて笑わせてくれた。

 あっ君に送ってもらい家に戻ると、気力が抜けてしまいベッドに座り込んでしまった。明日も平日なのだから仕事があると、重い体を無理やり動かしシャワーを浴びる。部屋に戻ると、梶さんからメールが届いていた。

 店に戻れなかったことを謝り、明日話したいから閉店後に部屋を訪ねるというものだった。
 そのメッセージに返信することなく、布団に潜り込んだ。