自分の思いをすべて吐き出してしまったからだろうか。翌日の私は、意外にも落ち着いていた。早起きをしてサンドイッチを作り、森林公園に向かった。シートを敷いて寝転がり、足りない睡眠を補うように転寝をした後、梅雨前の晴れ間を堪能した。ニュースでは、もう二日もすれば、梅雨入り宣言とアナウンサーが淡々と話していた。貴重な晴れ間とぶつかった日曜の休日に、ぼんやりと緑を眺め鳥のさえずりに耳を傾ける。

 冷静だと思えるのは、単に何も考えたくないのかもしれない。心をかき乱す原因に触れないように、心が自然とそこから距離を置くようにしているのだろう。けど、今はそれでいい。

 自分で作ったサンドイッチを半分だけ食べて、ペットボトルのミルクティーを飲む。

「美味しい」

 声に出すと、それに応えるように鳥が鳴いた。

 週明けの月曜も、淡々と日常のあれこれをいつも通りにこなす。決まった時間に起きて、顔を洗い、食事をし。決まった時刻の電車と車両に乗り込んで、決まった時刻に出社する。
 あまりにいつも通り過ぎるせいか、あんな風に梶さんと話したことに、恋愛マスターの美香さえ気づかない。私の態度が普通すぎて、梶さんとはまだ話し合いもしていないと思っているのだろう。
 黙々と今日も業務をこなす。とりわけ変わったこともない定型業務を続け、美香とランチをし、他愛もないことで笑いあい退社する。
 あまりに普段通り過ぎて、自分でも土曜の夜のことは夢だったのかと思えるほどだ。

 スーパーに寄り、野菜を少しと安くなっていたステーキ用の牛肉を買った。牛脂も貰い、食べる気満々でハーフサイズのワインまで買った。明日は休みでもなければ、何なら今日は週の初めだというのに、祝い事のように買い物をしている自分は、普通に見えて実はそうでもないのかもしれない。

 シャカシャカとビニール袋を鳴らし、ヒールを鳴らし、マンションに帰るとエントランス前に止めた自転車にまたがってスマホをいじる佑が居た。

「よおっ」

 何やらご機嫌なのか、いつもより心なしかテンションが高い気がする。佑の手にあるスマホを見て、もしかしてLINEが来ていただろうかと確認しようと思ったけれど、バッグとスーパーの袋を持っているせいで面倒になり止めた。

「連絡くれてた?」

 佑に訊ねると、持っているスーパーの袋を預かり持ち、「今しようかと思ってた」とスマホをポッケにしまった。
 部屋に入ると、ダイニングテーブルに袋を置いて、中を覗き見ている。

「おっ。なんだよ、牛肉にワインて。なんかいいことでもあったのか?」

 自分もあやかること前提でそれらを取り出すと、ウキウキとした顔を向けてきた。

「どちらかというと、その逆だよ」

 肩を竦めると、佑も真似て肩を竦めた。

 フライパンで牛肉をミディアムに焼き、足りない量を補うためにお腹に溜まるじゃがいもをフライにした。それでも佑には物足りないだろうと、ショートパスタで簡単なペペロンチーノを作る。

「俺も飲みたい」

 ワインをグラスに注いでいると、目の前から催促される。その顔に無言の圧力をかけ、佑の目の前に置かれているペットボトルのコーラを目でしめす。

「けーち」

 ケチで結構というように、いつもよりずっと強気な態度で出ると、佑が一番に牛肉に手を付けた。

「その逆って、なんだよ」

 うんめぇ。と牛肉を幸せいっぱいに咀嚼し飲み込んだ佑が訊ねた。

「嫉妬して、言いたいこと言い過ぎた……」

 笑ったつもりでいたのだけれど、巧く笑えなくて涙が滲んできたあれほど落ち着いていると思っていた一日だったのに。もう、馬鹿だ。どうしてこうも勝手に、涙が出てくるのだろう。泣いてばっかりの自分は嫌なのに、この涙というやつは本当に厄介だ。もっとうまくコントロールできたらいいのに。

 私を見た佑は、動かしていた箸を止める。

「嫉妬なんて、よくある話だ。んなことでいちいち落ち込んでたら持たねぇぞ」
「……うん」

「言いたいことは、全部言えたのかよ」
「……うん」

「時間置くんだろ?」
「……うん」

 佑への返事は、全てが「うん」だけで済むものだった。多くを語らなくても、その言葉一つで終わらせることのできる質問をしてくれる。どんなことがあったのか、大体の見当がついているのか。それとも、長年の付き合いで、私の行動パターンが読めているのか。なんにしても、やっぱり、佑が居てくれてよかった。

「腹減ってたら、なんもいい方向に考えらんねぇぞ。まずは、食え」

 テーブルに置かれたままの私のフォークを手にすると、一番大きく切った牛肉に突き刺した。ほらというように、フォークごと差し出されて、可笑しくて笑ったら涙が零れてしまった。

「塩味、増し増しだな」

 冗談を言いながら、自分も牛肉を口に放り込んだ。

「私のお肉」

 流れ出た涙を拭い、佑に取られてなるものかと佑のそばからお肉の乗ったお皿を離すと笑われた。

 牛肉も、フライにしたポテトも、ショートパスタのペペロンチーノも、私たちは黙々と胃の中におさめていった。佑は、コーラの炭酸をものともせずグビグビと喉を鳴らして飲み、私もハーフワインをあっという間に空にした。

「コーヒー、淹れよっか」

 満足したお腹とアルコールに浸る脳内で立ち上がり、薬缶を火にかける。戸棚の中に収まるポーランドからやって来たマグカップを目にして息を吐き、家から持ってきたマグカップに手を伸ばした。Uzdrowienieのカップに描かれている小鳥が寂しげに見える。

「捨てなくてよかったな」

 使い込まれたマグカップにコーヒーを入れてテーブルに置くと、佑はわざとそう言ってからかう。笑い飛ばしてくれることで、暗闇に向かいそうな心を引き留めてくれる。

「また、引っ越しするかもしれない……」

 弱気な発言をすると、部屋の交換でもすっか? とニヤニヤした。どうしてニヤニヤしているかといえば、佑のアパートは築年数もさることながら、お世辞にも綺麗とは言い難い部屋だからだ。

「交換するくらいなら、部屋を探します」

 きっぱり言い切ると、「ひっでぇ」と笑う。

「まー、そん時がきたら、また手伝ってやるよ」
「やっすい引っ越し蕎麦を持って?」

 皮肉を返す私に、言ったなと笑う佑。やっぱり佑と私の関係は、家族だと実感する。男女の関係なら、抱き締めあって、肌を重ね、この寂しさを紛らわしていただろう。けれども佑と私は、お互いにそんな風になろうという気はない。そうならなくても、心を寄り添わせ思い遣る気持ちを持つことができるから。

「ヘタに隣っていうのは、こういう時に厄介だな。救いは、働いてる時間がかち合わないことくらいか」

 佑に話したことで、穏やかとまではいかなくても、心がざわざわと責め立てるような感覚から少し離れることができた。
 誰かに悩みを聞いてもらうということは、人にとってなくてはならない行為なのだろう。頭の中も心の中も、話すことで整理されるし、落ち着いていく。

「ところで。佑は?」

 食事だけの用事で現れたわけではない気がして、漸く佑の話を訊く姿勢になった。

「三か月後にCDを出せることになった」
「うそっ。やった。やったじゃん佑」

 さっきまでだだ下がりだったテンションはどこへやら、佑のCDが発売されると知って、心が一気に晴れやかになった。

「まーな。おかげで契約も、続行になった」

 ここのところ抱え込んでいた問題が解決したことで、佑の表情はとても生き生きとしている。

「それで、しばらく忙しくなりそうなんだ……。今までみたいに飯を集りに来ることもなくなって雪乃は楽かもしんないけど、相談にのることもすぐにはできなくなるかもしんない。こんな時なのに、ごめんな……」

 佑は、やっぱり優しい。自分のことより相手のことを考えられる優しさは佑の長所だ。

 その夜の私たちは、やけにテンションが高かった。彼氏とダメになりそうで自棄になる女と、契約更新が決まりCDが発売される男のどんちゃん騒ぎだ。佑が二十歳を過ぎていないことが残念でならない。あと二年我慢すれば、互いにお酒を酌み交わせる。そうなったら、私たちはもっと最強の家族になれるような気がした夜だった。