翌日の土曜日。佑がわりとしつこく自分もついて行くと言い張るのを何とか押し留め、一人でUzdrowienieに向かっていた。
佑に話したおかげで気持ちは多少軽くなってはいたものの、会わない時間というのは顔を出しづらくさせるものだ。梶さんからメッセージが届くと、体調が思わしくないと応えてはいたものの、私にしてみればただの嘘でしかないから罪悪感を覚えるのにも充分だった。
忍び足というわけではないが、いつも訊ねていた時のような軽快な足取りは鳴りを潜め、Uzdrowienieを窺うように近づきつつ中へ首を伸ばすとあっ君がいた。
「あっ、雪ちゃん。久しぶりだね、体調はどう?」
どうやら体調のことはあっ君にも伝わっていたらしい。反射的に苦笑いが浮かんでしまうと、あっ君は承知とばかりに同じように切ない顔つきをした。きっと、櫻子さんのことが原因でここ数日足が遠のいていることを理解したのだろう。
「梶さんと話してないんでしょ?」
声音を抑えて訊ねる顔に向かって頷いた。
「前にも言ったけど、梶さんて人は、こういったことにとても鈍感だよ。あの日のことが原因だなんて、これっぼっちも思ってない。今も、単に体調が悪いみたいだって心配してる。今日辺り、お見舞いに顔を出そうかって言ってたくらいだから」
心配するところ違うよね、とあっ君がまた苦笑いを浮かべたところへ、櫻子さんがカフェから顔を出した。梶さんよりも先に櫻子さんに会ってしまったことで、心臓がドクリと嫌な音を立て焦りに騒ぎ出した。
警戒? 不安? 恐怖? よく解らない負の感情に表情がおかしくなる。うまく目を合わせられなくて、SAKURAの店内へ視線を移すと結構な込み具合いで忙しそうに見えた。こんなに忙しいのに、私の存在に気がつきカフェから出てきたということが、益々気持ちを焦らせ落ち着かなくさせた。
櫻子さんは白いシャツをパリッと着こなし、相変わらずカフェエプロン姿がよく似合っている。タンタンと甲板の木床を鳴らし、道路を渡って櫻子さんがUzdrowienieの前にいる私たちのそばにやってきた。
「雪ちゃん、どうしたの? 全然来てくれないから、寂しかったよ」
あからさまな嫌がらせを受けたわけではないけれど、何の屈託もなく、あどけないくらいの笑顔で話しかけられて、寧ろ怯えてしまう。あんなに素敵な笑顔だと思っていたはずなのに、今はただ恐怖でしかなかった。必死に笑みを作ってみたけれど、ちゃんと笑えているだろうか。
その笑顔の裏側で、私のことをどんな風に思い、梶さんのそばから引き離そうと考えているのだろう。こんな想像などしたくないし嫌だけど、考えずにはいられないんだ。それほどに梶さんのことを好きなのか。それとも、単に櫻子さんに恐怖を覚えているだけなのか。何を考えているのか読めない櫻子さんの笑顔と瞳に、自分の心の中が攪拌されてよく解らなくなっていた。
「いつものカウンター席、空いてるよ」
五つ並んだカウンター席の、いつもの席だけがぽっかりと空いている。来ることが解っていたように、そこにだけはお客さんが座らないように配慮してくれている。以前ならとても気を遣ってもらって、申し訳なく思っていたのに。今はそれすら怖いと感じていた。
たったあれだけのことで掌を返すのか。そう言われてしまっては元も子もない。けれど、怖いんだ。どう説明したらいいのか解らないけれど、感覚的に恐怖を覚えていて、拭い去ることができないでいた。
大袈裟だけれど、櫻子さんの中に住まう梶さんへの想いが、私の想いを食いちぎって亡き者にしていく魔物のようにさえ思えてしまう。やはり、佑に来てもらうべきだったろうか。
櫻子さんの強引ともいえる笑顔の促しに逆らうこともできず、カフェへの一歩を踏み出そうとした。そこへ店内から梶さんがふらりと出てきた。
「あつしー」
あまり元気のない呼び声に、あっ君が首を向けて反応した。それと同時に梶さんが私の存在に気がついた。
「雪乃ちゃん」
ぽろりというようにこぼれ出た力のない名前のあと、梶さんの表情はいっぺんに明るくなり、徐に近づいてくると大きな両腕を広げてふわりと私を抱きしめた。
「元気になって、よかった」
耳元で聞こえた、ほっとしたような安堵する声。人目もはばからず私を抱きしめたまま、梶さんは放れようとしない。
こんなに愛されているんだ。私、こんなに梶さんを心配させていたんだ。反省しながらも嬉しさを感じていると、視界に入った櫻子さんの硬く冷たい表情に心が凍り付く。彼女の瞳に宿るのは嫉妬の色だった。体の脇に下ろされている手がぎゅっと握られている。それを目にした瞬間、体が強張った。
「雪乃ちゃん?」
抱きしめていた梶さんが異変に気づき、体を離して私の目を見た。
「まだ、つらい?」
気遣う気持ちが嬉しいのに、櫻子さんの存在は心を硬く凍らせていく。
必死で平常心を保ち、首を横に振った。
「会ったら、話したいことが沢山あったんだよ。今日は、話せるかな?」
あまりに無邪気な態度は、私と櫻子さんの間に漂う冷たくぎこちない空気には不釣り合いでちぐはぐだ。
「子供みたいですよ……」
櫻子さんの視線が痛すぎて、未だ私の両肩に手を置き見つめ続ける梶さんに伝えると、急に恥ずかしくなってしまったのか、ぱっと離れてこめかみ辺りをかいている。
「あんまり嬉しくて、つい」
照れながらも笑う梶さんは、私よりもずっと大人のはずなのに子供みたいで愛おしい。こういうのが、母性をくすぐるというやつなのかもしれない。
「大胆過ぎですよ、梶さん」とあっ君が声を上げて笑った。
つられるように櫻子さんも張り付けたような笑顔をしたけれど、無理をしているのがよく解った。
「淳史。休憩行ってもいいかな?」
私が来たことで、梶さんのテンションはかなり上がっているようだ。その気持ちはとても嬉しいのだけれど、休憩する場所って……。
SAKURAに向けて、自然と梶さんの足が動き出した。
やっぱり。できることなら違うお店がいいけれど、櫻子さんがそばにいる手前、それを口にする勇気はない。
櫻子さんも、踏み出した梶さんの後ろに立ち尽くす私に向かって、さっきとは格段に差のある満面の笑顔を見せ促すように一つ頷いて見せる。梶さんがカフェに来るというだけで、櫻子さんも嬉しいのかもしれない。余計な女が一人くっ付いてきたとしても。
結局、カウンターが二席空き、梶さんと並んで席に着いた。
「お昼は?」
訊ねられたところで、櫻子さんがメニューとレモン水を持ってやって来た。
「この前の試食品。食べられるわよ」
櫻子さんが新しいページの加わったメニューを広げ、梶さんに手渡してる。
新作なのだから勧めるのは当然だろうけれど、私はとても選ぶ気にはなれない。
櫻子さんに勧められるまま、梶さんはパンのついたキノコのスープを選んだ。あの後も更にひと工夫凝らしたと腰に手を当て得意気に話す櫻子さんを見つめながら梶さんが頷いている。
「雪ちゃんは、何にする?」
とってつけたような感じに取れるのは、私の心の問題だろうか。
「私は、カフェラテで」
「あれ? お昼食べたの?」
訊ねる梶さんに、曖昧に頷いた。そんな私の顔を、櫻子さんがじっと見ているのが解る。視線が痛いけれど見返したくない。
注文を受けた櫻子さんが下がる。彼女の視線から逃れられ、つい深い息がもれ出てしまった。
「もしかして、まだ体調が悪いの?」
梶さんが心配そうに顔を覗き込んできた。体調など、端から悪くない。ただ、櫻子さんにあてられてしまっただけだ。
「すみません……。大丈夫です」
笑みを見せると、少しだけほっとしたような表情になった。梶さんは、櫻子さんの私に対する態度の変化に、本当に何も気がつかないのだろうか。男性というのは、そういうところに鈍感なのかな……。それとも、梶さんが特にそうなのかな。なんにしても、早くここを出たい。
温かなカフェラテがテーブルに届いた。持ってきてくれたのは、スタッフだった。このカフェに来て、注文した商品を櫻子さんが運んでこなかったのは初めてのことだった。櫻子さんじゃなかったことにほっとしつつも、スタッフに運ばせるくらいに、私は彼女から嫌われてしまう存在になったのだと思わざるを得ない。
程なくして、梶さんのキノコのスープが届いた。もちろん、持ってきたのは櫻子さんだ。
「感想聞かせてね。梶君の感想は的を射て、鋭いところをついてくれるから助かるのよ」
「了解」
櫻子さんが下がると、早速キノコのスープに口を付けた梶さんは、美味いと瞳を輝かせる。
「うん。さすが櫻子さんだ。よくできてる。雪乃ちゃん、一口食べてみる?」
スプーンにスープを掬い差し出されたけれど、首を振った。とてもじゃないけれど、そのスープを飲める精神状態ではない。
湯気の上がるカフェラテに、いつもは入れない砂糖を入れた。甘味の少ない三温糖の角砂糖。一つ、二つ。スプーンでゆっくりとかき交ぜてから口を付ける。ほんのり感じる甘味が、少しずつ心を落ち着かせてくれた。
「あの、梶さん。今日、お時間貰えますか?」
躊躇うように訊ねると、梶さんの表情が少し強張った。
「もちろんだけど。なんだか、怖いな……」
何かを感じ取ったのか、スープがそっちのけだ。やっと少し、気持ちの変化に気がついてくれたのかもしれない。
「じゃあ、店を閉めたら雪乃ちゃんの家を訪ねるよ。まだまだ、体調も完全じゃないようだから、この後は家で休養しててよ」
梶さんの気遣いに頷き、カフェラテのカップを両手で包み込んで口元に運んでから、ふと気がついた。
自然な流れで返事をしたけれど、訪ねる? 私の家に来るってこと?
驚いて隣の梶さんの顔を見たけれど、スープに夢中なのか気がついていない様子だ。
梶さんが家に来る。考えたら急にドキドキしてきてしまった。言いたいことをちゃんと伝えられるだろうか。
嬉しさと不安がない交ぜになって、心は再び落ち着きを失っていった。
佑に話したおかげで気持ちは多少軽くなってはいたものの、会わない時間というのは顔を出しづらくさせるものだ。梶さんからメッセージが届くと、体調が思わしくないと応えてはいたものの、私にしてみればただの嘘でしかないから罪悪感を覚えるのにも充分だった。
忍び足というわけではないが、いつも訊ねていた時のような軽快な足取りは鳴りを潜め、Uzdrowienieを窺うように近づきつつ中へ首を伸ばすとあっ君がいた。
「あっ、雪ちゃん。久しぶりだね、体調はどう?」
どうやら体調のことはあっ君にも伝わっていたらしい。反射的に苦笑いが浮かんでしまうと、あっ君は承知とばかりに同じように切ない顔つきをした。きっと、櫻子さんのことが原因でここ数日足が遠のいていることを理解したのだろう。
「梶さんと話してないんでしょ?」
声音を抑えて訊ねる顔に向かって頷いた。
「前にも言ったけど、梶さんて人は、こういったことにとても鈍感だよ。あの日のことが原因だなんて、これっぼっちも思ってない。今も、単に体調が悪いみたいだって心配してる。今日辺り、お見舞いに顔を出そうかって言ってたくらいだから」
心配するところ違うよね、とあっ君がまた苦笑いを浮かべたところへ、櫻子さんがカフェから顔を出した。梶さんよりも先に櫻子さんに会ってしまったことで、心臓がドクリと嫌な音を立て焦りに騒ぎ出した。
警戒? 不安? 恐怖? よく解らない負の感情に表情がおかしくなる。うまく目を合わせられなくて、SAKURAの店内へ視線を移すと結構な込み具合いで忙しそうに見えた。こんなに忙しいのに、私の存在に気がつきカフェから出てきたということが、益々気持ちを焦らせ落ち着かなくさせた。
櫻子さんは白いシャツをパリッと着こなし、相変わらずカフェエプロン姿がよく似合っている。タンタンと甲板の木床を鳴らし、道路を渡って櫻子さんがUzdrowienieの前にいる私たちのそばにやってきた。
「雪ちゃん、どうしたの? 全然来てくれないから、寂しかったよ」
あからさまな嫌がらせを受けたわけではないけれど、何の屈託もなく、あどけないくらいの笑顔で話しかけられて、寧ろ怯えてしまう。あんなに素敵な笑顔だと思っていたはずなのに、今はただ恐怖でしかなかった。必死に笑みを作ってみたけれど、ちゃんと笑えているだろうか。
その笑顔の裏側で、私のことをどんな風に思い、梶さんのそばから引き離そうと考えているのだろう。こんな想像などしたくないし嫌だけど、考えずにはいられないんだ。それほどに梶さんのことを好きなのか。それとも、単に櫻子さんに恐怖を覚えているだけなのか。何を考えているのか読めない櫻子さんの笑顔と瞳に、自分の心の中が攪拌されてよく解らなくなっていた。
「いつものカウンター席、空いてるよ」
五つ並んだカウンター席の、いつもの席だけがぽっかりと空いている。来ることが解っていたように、そこにだけはお客さんが座らないように配慮してくれている。以前ならとても気を遣ってもらって、申し訳なく思っていたのに。今はそれすら怖いと感じていた。
たったあれだけのことで掌を返すのか。そう言われてしまっては元も子もない。けれど、怖いんだ。どう説明したらいいのか解らないけれど、感覚的に恐怖を覚えていて、拭い去ることができないでいた。
大袈裟だけれど、櫻子さんの中に住まう梶さんへの想いが、私の想いを食いちぎって亡き者にしていく魔物のようにさえ思えてしまう。やはり、佑に来てもらうべきだったろうか。
櫻子さんの強引ともいえる笑顔の促しに逆らうこともできず、カフェへの一歩を踏み出そうとした。そこへ店内から梶さんがふらりと出てきた。
「あつしー」
あまり元気のない呼び声に、あっ君が首を向けて反応した。それと同時に梶さんが私の存在に気がついた。
「雪乃ちゃん」
ぽろりというようにこぼれ出た力のない名前のあと、梶さんの表情はいっぺんに明るくなり、徐に近づいてくると大きな両腕を広げてふわりと私を抱きしめた。
「元気になって、よかった」
耳元で聞こえた、ほっとしたような安堵する声。人目もはばからず私を抱きしめたまま、梶さんは放れようとしない。
こんなに愛されているんだ。私、こんなに梶さんを心配させていたんだ。反省しながらも嬉しさを感じていると、視界に入った櫻子さんの硬く冷たい表情に心が凍り付く。彼女の瞳に宿るのは嫉妬の色だった。体の脇に下ろされている手がぎゅっと握られている。それを目にした瞬間、体が強張った。
「雪乃ちゃん?」
抱きしめていた梶さんが異変に気づき、体を離して私の目を見た。
「まだ、つらい?」
気遣う気持ちが嬉しいのに、櫻子さんの存在は心を硬く凍らせていく。
必死で平常心を保ち、首を横に振った。
「会ったら、話したいことが沢山あったんだよ。今日は、話せるかな?」
あまりに無邪気な態度は、私と櫻子さんの間に漂う冷たくぎこちない空気には不釣り合いでちぐはぐだ。
「子供みたいですよ……」
櫻子さんの視線が痛すぎて、未だ私の両肩に手を置き見つめ続ける梶さんに伝えると、急に恥ずかしくなってしまったのか、ぱっと離れてこめかみ辺りをかいている。
「あんまり嬉しくて、つい」
照れながらも笑う梶さんは、私よりもずっと大人のはずなのに子供みたいで愛おしい。こういうのが、母性をくすぐるというやつなのかもしれない。
「大胆過ぎですよ、梶さん」とあっ君が声を上げて笑った。
つられるように櫻子さんも張り付けたような笑顔をしたけれど、無理をしているのがよく解った。
「淳史。休憩行ってもいいかな?」
私が来たことで、梶さんのテンションはかなり上がっているようだ。その気持ちはとても嬉しいのだけれど、休憩する場所って……。
SAKURAに向けて、自然と梶さんの足が動き出した。
やっぱり。できることなら違うお店がいいけれど、櫻子さんがそばにいる手前、それを口にする勇気はない。
櫻子さんも、踏み出した梶さんの後ろに立ち尽くす私に向かって、さっきとは格段に差のある満面の笑顔を見せ促すように一つ頷いて見せる。梶さんがカフェに来るというだけで、櫻子さんも嬉しいのかもしれない。余計な女が一人くっ付いてきたとしても。
結局、カウンターが二席空き、梶さんと並んで席に着いた。
「お昼は?」
訊ねられたところで、櫻子さんがメニューとレモン水を持ってやって来た。
「この前の試食品。食べられるわよ」
櫻子さんが新しいページの加わったメニューを広げ、梶さんに手渡してる。
新作なのだから勧めるのは当然だろうけれど、私はとても選ぶ気にはなれない。
櫻子さんに勧められるまま、梶さんはパンのついたキノコのスープを選んだ。あの後も更にひと工夫凝らしたと腰に手を当て得意気に話す櫻子さんを見つめながら梶さんが頷いている。
「雪ちゃんは、何にする?」
とってつけたような感じに取れるのは、私の心の問題だろうか。
「私は、カフェラテで」
「あれ? お昼食べたの?」
訊ねる梶さんに、曖昧に頷いた。そんな私の顔を、櫻子さんがじっと見ているのが解る。視線が痛いけれど見返したくない。
注文を受けた櫻子さんが下がる。彼女の視線から逃れられ、つい深い息がもれ出てしまった。
「もしかして、まだ体調が悪いの?」
梶さんが心配そうに顔を覗き込んできた。体調など、端から悪くない。ただ、櫻子さんにあてられてしまっただけだ。
「すみません……。大丈夫です」
笑みを見せると、少しだけほっとしたような表情になった。梶さんは、櫻子さんの私に対する態度の変化に、本当に何も気がつかないのだろうか。男性というのは、そういうところに鈍感なのかな……。それとも、梶さんが特にそうなのかな。なんにしても、早くここを出たい。
温かなカフェラテがテーブルに届いた。持ってきてくれたのは、スタッフだった。このカフェに来て、注文した商品を櫻子さんが運んでこなかったのは初めてのことだった。櫻子さんじゃなかったことにほっとしつつも、スタッフに運ばせるくらいに、私は彼女から嫌われてしまう存在になったのだと思わざるを得ない。
程なくして、梶さんのキノコのスープが届いた。もちろん、持ってきたのは櫻子さんだ。
「感想聞かせてね。梶君の感想は的を射て、鋭いところをついてくれるから助かるのよ」
「了解」
櫻子さんが下がると、早速キノコのスープに口を付けた梶さんは、美味いと瞳を輝かせる。
「うん。さすが櫻子さんだ。よくできてる。雪乃ちゃん、一口食べてみる?」
スプーンにスープを掬い差し出されたけれど、首を振った。とてもじゃないけれど、そのスープを飲める精神状態ではない。
湯気の上がるカフェラテに、いつもは入れない砂糖を入れた。甘味の少ない三温糖の角砂糖。一つ、二つ。スプーンでゆっくりとかき交ぜてから口を付ける。ほんのり感じる甘味が、少しずつ心を落ち着かせてくれた。
「あの、梶さん。今日、お時間貰えますか?」
躊躇うように訊ねると、梶さんの表情が少し強張った。
「もちろんだけど。なんだか、怖いな……」
何かを感じ取ったのか、スープがそっちのけだ。やっと少し、気持ちの変化に気がついてくれたのかもしれない。
「じゃあ、店を閉めたら雪乃ちゃんの家を訪ねるよ。まだまだ、体調も完全じゃないようだから、この後は家で休養しててよ」
梶さんの気遣いに頷き、カフェラテのカップを両手で包み込んで口元に運んでから、ふと気がついた。
自然な流れで返事をしたけれど、訪ねる? 私の家に来るってこと?
驚いて隣の梶さんの顔を見たけれど、スープに夢中なのか気がついていない様子だ。
梶さんが家に来る。考えたら急にドキドキしてきてしまった。言いたいことをちゃんと伝えられるだろうか。
嬉しさと不安がない交ぜになって、心は再び落ち着きを失っていった。