ネガティブな思考は、翌朝になっても絡みついて離れなかった。あんなに可愛いと気に入って使っていたUzdrowienieのマグもプレートも、今朝はとても使う気になれない。
 ついこの前、ウキウキとした調子で美香に梶さんとのことを報告したというのに、今は体調でも悪いのかというほど顔色は優れない。鏡に映る顔を見て、ため息ばかりがこぼれ出る。

「お腹でも痛いの?」

 出社してしばらくすると、不安定さを見兼ねたのか、隣の席から美香が冗談交じりに訊いてきた。

「しばらくトイレに籠りたいなら、部長にクダしてますって言っとくよ」

 わざとふざける美香は、元気づけようとしてくれているのだろう。

「お腹なんて壊してないからっ」

 笑って言い返すと、少しばかり探るような顔をした。

「さっそく喧嘩でもした?」

 仕事の手を休めることなく訊ねる。

「社食でいいなら、付き合うよ」

 どうやら、お昼に時間を割いてくれるらしい。頼りになります。

「ありがとう」

 昼休み。混む時間を避けて、少し遅めのランチを摂るため社員食堂へ向かった。陽の当たる窓際の明るいテーブル席を選んだのは美香の気遣いだ。

 ランチタイムも終わりに近づいているせいで、お得なAランチはすでに売れ切れだった。残っているのは、揚げ物のもりもり乗ったBランチと、あとはいくつかの単品だけだ。Bランチをお腹におさめるほど空腹を感じていなかったし、美香も揚げ物の気分ではないからと二人でパスタを注文した。中央の柱付近に備え付けられている、無料のコーヒーを二人分カップに入れて席に着く。

「社食のパスタは安くていいけど、櫻子さんのところの料理には負けるね」

 美香の口から櫻子さんの名前が出た瞬間、フォークを口元へと運ぼうとしていた手が止まった。解りやすい態度に、美香が苦笑いを浮かべる。

「もしや。まさかの櫻子さんが、絡んできちゃってますか?」

 冗談交じりに問う美香に頷きを返し、トレーにフォークを置いた。櫻子さんの名前に反応するように一気に食欲がなくなってしまう。なんて解りやすい体だ。

 カップのコーヒーを飲み、気持ちを落ち着かせてから昨夜の出来事を、なるべく正確に話していった。ある程度話し終え、コーヒーカップへ再び手を伸ばすと、「パスタを食べないさい」と親のような顔をした美香に促されフォークを握る。

 美香は、話を飲み込むようにして考えながら、早くもあと一口になったパスタを口へと運び完食をした。

「まー、あれよね。まず何が救いだったかって言えば、やるな淳史! よね」

 櫻子さん云々よりも先に、あっ君のことを褒めた美香の言い方が可笑しくて緩く笑みを浮かべた。

 確かに、あっ君には本当に助けられたと思う。あの時、あっ君も一緒に試食に行くと言ってくれなかったら、あの場を絶えることができたかどうかわからない。心細くなり、途中で逃げ出してしまっていたかもしれない。

 もしも私があの場を逃げ出していたなら、梶さんはどんな風に思っただろう。首を傾げつつも、追いかけてくれただろうか。それとも、櫻子さんに引き留められ、あとでメールや電話だけを寄越すにとどまるだろうか。もし、そうだとしたら、悲しくてやりきれない。

「ホント、あっ君には感謝ばかりだよ」

 はにかむように、少し苦笑いも交える。

「笑え、笑え。暗い顔してたって、しょうがないじゃん。恋愛なんて、いつだってそんなもんよ」

 美香はコーヒーを飲み切ると、もう一杯と言って席を立ち、湯気の上がる二杯目を持って戻ってきた。

「そんなもん?」

 席に着いた美香に訊ね返すと、「いいから、パスタを食べちゃいな」、と再び促し話の続きをしてくれた。

「恋愛してるとさ、気持ちのアップダウンなんて日常茶飯事ってこと。前日までは梶さんと仲良しラブラブだったかと思えば、櫻子さんに突き落とされてブルー入ってるでしょ。けど、今淳史のことで、まー、ささやかだけどまた笑えてるじゃん。死ぬほど辛い気持ちになったところで、次の瞬間少しでも楽しいことや嬉しいことがあれば、人間なんて笑えちゃうものなのよ。悩みが消えるわけじゃないけど、笑える時は笑いなさい。暗い顔して、お腹空かして、睡眠不足でなんて。ロクなこと考えない設定が満載じゃない。お腹を一杯にして、笑って、寝る。お腹が満たされれば、それなりに物事もいい方へ考えていけるってものよ」

 まだ半分ほど残っている私のパスタを見て、「食べなさい、食べなさい」と更に促し笑っている。

「頭の中だけで考えてもどうにもならないことは、雪乃がよく解っているでしょ。淳史にだって言われていることなんだから。まずはそのパスタを完食して、お腹が満たされたらこの後どうするべきか。わかってるよね?」

 そうだね。解ってたよ。何かあるなら、話さなきゃ相手には伝わらない。気持ちを伝えなくちゃ、梶さんだって気づきようがない。

 話を聞いて欲しくて、背中を押して欲しくて。美香という存在に頼って甘えたかったんだ。それをしっかり受け止めて貰えたことに、気持ちは落ち着きを取り戻していった。

「梶さんが鈍感だっていうのは、ちょっと意外だったけど。淳史の言うように、雪乃の気持ちをちゃんと話してごらん」

「うん。ありがとう、美香」
「私はなーんにもしてないよ。強いて言えば、パスタを強引に完食させようとしているだけ」

 美香が笑いながら、コーヒーをチビチビと飲んでいる。

「思うにさ。梶さんていう人は、もしかしたら今までも、無自覚に同じようなことを繰り返してきたんじゃないかな?」
「同じこと?」

「櫻子さんとは仕事の絡みだけじゃなく、昔の恋人っていう位置関係があるじゃない。人の良さそうなところがあるから、元カノとはいえ、仕事仲間だし無礙にはできないよね。第一、梶さんは気づいていないのかもしれないけれど、櫻子さんはまだ好きなままだろうし。付き合った相手を大事にしたいと思っていても、櫻子さんのことは突き放したり冷たくしたりすることもできない。そもそも嫌いじゃないんだろうね、人として。じゃなかったら、仕事関係だとはいえ、目の前にお店まであって、やっていけるはずないもの。ただ、私としては雪乃をないがしろにされるのは、納得いかないから。同じことを繰り返してきているのなら、そろそろ気づいてもらわなきゃね。櫻子さんという存在が、付き合った相手にもたらす影響を」

 わざとらしく憤慨したように腕を組んでいる。そして、機関銃のような話は止まらない。

「大体さ。自分は雪乃と幼馴染君とのことに、口出ししてきたわけでしょ。なのに、そばにいる元カノとは仲良くしたままっておかしいじゃない」

 美香が感情的になり、エスカレートしていく。クールダウン、クールダウン。

「その事だけど。あの後梶さんが、佑と仲良くできたらいいなって」
「あら、大人発言。無理してる感じはなかった?」

「それがね。初めは、佑との距離に何でもないふりをしたままではいられないって。こう見えても、焼きもち焼きだからって。やっぱり駄目なんだなって考えてつい暗い顔になってしまったら」
「それで、仲良くできたら、か」

 無理をしていないわけがない。その言葉を引き出させてしまったのは私だ。

「ただ、そうなると。櫻子さんとのことも、認めなくちゃならないってことにならない? それは、困るな……」

 組んでいた腕を組み替えて、美香がうーん、と唸り声をあげた。

「櫻子さんとのこと、このままなんて。雪乃が耐えられる気がしないよ」
「私もそう思う……」

 もしもこのことを佑に話したら、なんと言うだろう。保護者気取りのところがあるから、しゃしゃり出てきて梶さんに酷いことを言ってしまうかもしれない。それに、櫻子さんにも……。二人に容赦のない言葉を浴びせる気がして、考えただけで怖ろしい。

 ブルブルと首を振り、脳内から怒り狂っている佑を追い出した。

「梶さんに、話してみるよ……」
「今感じている雪乃の気持ちを、素直に吐き出してきちゃいな。もしも櫻子さんを取るような男なら、こっちから願い下げよっ」

 なぜか美香の方が興奮して、息巻き始めていた。

 こうして美香に後押しされたけれど、まだ気は重かった。自分の気持ちをうまく説明できるだろうか。梶さんに理解してもらえるだろうか。不安はぬぐい切れない。