「もう少しだけ研究して、再来週にはメニューに加えようかと思うの」

 試食を済ませ外に出ていた。ほとんど口をつけることのできなかったスープは、あっ君が完食してくれていた。梶さんが空になった私のスープボールを見て、「美味しかったね」と笑いかけるから辛くてたまらなくなってしまった。

 外に出た櫻子さんは梶さんの隣に並び、ひじの当りに触れながら試食品について話しかけている。二人の後ろをおまけのようについて行く私は、とても惨めな気持ちだ。まるで私の存在など端からないみたいに思えてしまうのは、二人の間に入り込むこともできない勇気の問題なのかな。無理にでも笑ったりはしゃいだりするべきなのかな。

 小さく息を零すと、あっ君が顔を覗き込んできた。その顔は、平気? と訊ねてくれている気がして、力なく微笑みを向けた。

「雪乃ちゃんは、どうだった?」

 何の前触れもなく、突然櫻子さんがクルリと振り返り訊ねた。驚きと戸惑いに、言葉に詰まる。

 訊かれたところで、味など少しもわからなかった。ただ二人の仲睦まじい姿に胸が痛くて、それ以外の感想など持ち合わせていない。戸惑ったまま言葉もなく立ち止まると、あっ君が助け舟のように代わりに感想を話してくれた。

「櫻子さんの料理は、相変わらず絶品ですね。さっきのも、お店に出したらすぐに人気になりそうですよ。ね、雪ちゃん」

 敢えてというように笑顔で同意を求めてくるあっ君に、促されるままコクリと頷いてみせる。

 あっ君が一緒に来てくれてよかった。一人だったら、この場にどうやっていたらいいのか解らないし、泣き出してしまっていたかもしれない。

「梶君がいつも的確に意見をしてくれるから、本当に助かるのよね」

 櫻子さんは明るい口調や表情のまま、また梶さんに笑顔を向けると隣に並び表通りへ向かう。梶さんの表情も、満更でもないように見えてしまうのは、負の感情に支配されているからかな。梶さんを独占できない今の状況に、ジェラシーばかりが湧き上がる。

「そうだ、梶君。この前注文しておいた食器ね。さっきのスープのためだったの」

 弾むように話す櫻子さんに、合点がいったような顔をした梶さんが笑みを向けた。

「用意できているよ」

 承知している、とばかりに梶さんが応えた。

「見せて貰ってもいい?」

 そこで初めて梶さんが私のことを振り返り見た。今初めて私の存在に気がついた、とでもいうように捉えられる。

「雪乃ちゃん。もう少し待てる?」

 訊ねられても、ここで嫌とは言えない。そんな我儘な空気を出すなんて無理だ。
 そもそも、約束も連絡もなしにやってきたのは私だ。初めから試食をするつもりだったのかもしれないのに、引き留めることなどできるはずもない。食器のことにしたってそうだ。

 邪魔なのは、私……。

 梶さんといたい気持ちと、帰るなら今だという感情が(せめ)ぎあい、身動きができない。

「雪ちゃん、用事があるって。さっき電話が掛かって来てたよ。ね、雪ちゃん」

 あっ君が再び助け舟を出してくれた。

「そう。じゃあ、梶君。食器見せてもらえる?」

 私に用事があると知ると、櫻子さんは笑みを浮かべサラリと受け流し、梶さんは快く返事をした。

 送っていくよ、そう言ってはくれないんだ……。

 置き去りにされてしまうことに、喉の奥がキュッと締まり苦しくなる。

「あ。……じゃあ、僕が雪ちゃんをマンションまで送るよ」

 あっ君の提案に、一瞬もの言いたげだった梶さんだけれど、その感情を遮るように櫻子さんが間に入ってきた。

「梶君、そうしてもらおうよ。あっ君、ありがとう。送り狼にならないでね」

 今の状況を予測でもしていたのか。待っていたとばかりに、櫻子さんの口からスラスラと言葉が出てきた。

 僕が送る。と言いってはくれないのかと期待をして視線を向けたけれど、そんな素振りも言葉もなかった。
 立ち尽くす私を置き去りに、二人がUzdrowienieの裏口へと向かってしまう。

 心が泣いていた。みじめな状況が情けなさ過ぎて、涙が零れてしまいそうだ。梶さんは、私のことを好きだと言ってくれた。その気持ちに間違いはないのかもしれない。けれど、長い付き合いの元カノである櫻子さんよりも、私は優先するに値しない存在なのだ。それを思い知らされた夜だった。

「雪ちゃん。大丈夫?」

 心配そうなあっ君を見て無理やり涙を引っ込め、ただヘラヘラと笑ってみせる。

「長い付き合いって、こういうこともあるんだね」

 できるだけ平気な顔で言ったつもりだったけれど、声が震えるのをどうにもできない。

「梶さんは、そういうところがちょっと鈍感だから。あまり気にしないで、ね」

 あっ君が慰めようと、いつもの笑顔を向けてくれた。

「ただね、雪ちゃん。そういう人だからこそ、ちゃんと言った方がいいよ。雪ちゃんがどんな気持ちなのか話さないと、梶さんはきっと気がつかないよ」

 あっ君が優しく諭してくれる。

「櫻子さんも、無邪気なところのある人だしね」

 悪気はないんだよと笑うあっ君だけれど、違うと言いたかった。私が梶さんと付き合ってしまったから、だから櫻子さんの態度は変わってしまったんだ。櫻子さんは、今でも梶さんのことが好きだ。だから、私を梶さんから遠ざけたいんだよ。

 口に出すには黒すぎる感情を、声に出すことはできず俯いた。

「そうだね……」

 足元に零した肯定的な言葉を纏った嘘は、暗闇の色を吸い込み黒く濃く色を増していき、感情を飲み込んでしまいそうだ。

 あっ君が送ってくれた帰り道は、梶さんと付き合ってから、今までで一番悲しい時間となった。

 その夜、梶さんから届いたメッセージには、櫻子さんの料理のことばかりがつらつらと書かれていた。私には文面の最後にいつもの「おやすみ」だけ。櫻子さんしか見ていないような梶さんの態度に、スマホの電源を落として声を殺して泣いた。

 嫉妬なんてみっともないと思うのに、心は苦しくて、気持ちを独占したくて。なのに、それを伝える勇気がない。やり場のない感情に、このまま深い穴の奥に転がり落ちて、意識など失くしてしまえばいいのにと泣き続けた。