オーナーという立場の梶さんは、日頃から忙しいだろうと思っていた。お店の経営なんて、簡単なことではないからだ。それでも彼はマメだった。一日に一度はメッセージが届き、閉店後にはお酒に誘われた。帰る場所が同じということもあって、時間を気にすることもなく私は彼の好意に甘えた。ここ数日の間に、一度だけSAKURAでお茶をする機会があって。その時だけは、なんとも落ち着かない気持ちになった。

 そろそろ梅雨入りしそうだけれど、雨の降る日はまだまだ少ない。折り畳みの傘は、バッグの中で出番のない日々を送っている。

 月曜日。特に約束をしていたわけでもないけれど、仕事帰りにUzdrowienieの閉店時間めがけて顔を出しす。忙しそうならすぐにお暇しようと近づいていくと、SAKURAには灯りがなかった。そうか、月曜日は定休日だ。なのに近くまで行ったら、何やらいい香りが漂ってきた。クンクンと犬のように鼻を利かせていたら、あっ君がUzdrowienieの店内から顔を出した。

「雪ちゃん。今日も梶さんとお出かけ? 僕の愛も受け取ってよぉ。泣いちゃうじゃん」

 シクシクと分かりやすい泣き真似をし、外に飾り置かれた雑貨を店内にしまいながら笑っている。

「ねぇ、あっ君。なんだかいい香りがしない?」

 雑貨の入った大きな籠を持ち上げたあっ君に訊ねると、クルッとSAKURAを振り仰いだ。

「櫻子さんのところからだね」
「でも、今日はお休みでしょ」
「定休日を利用して、新メニューの試作をしてるみたいだよ」

 やっぱりお店を経営するって大変なのね。お休みでも、結局お店のために動くわけだもの。

 あっ君と立ち話をしていたら、SAKURAの裏口から櫻子さんがやって来て驚いた。まさか表に出てくるとは思わず、油断していた。

「こんばんは、雪ちゃん」

 にこやかな微笑みの櫻子さんに向かって、笑みを返した。ほんの僅か、多分悟られない程度の苦笑いが浮かぶ。

「丁度良かった。あっ君、新しいメニューを試食して欲しかったの、梶君は?」

 訊ねられたあっ君が、少しだけ慌てたように私のことをチラッと見たあと、躊躇うような素振りをしてから言われるまま梶さんを呼びに店内へと戻る。

 櫻子さんの言う丁度良かったというのは、梶さんを呼びに行く手間が省けたということだろう。私も試食に誘ったわけではない。だとしたら、今日はお邪魔ということだ。来るタイミングを間違えたみたい。このまま踵を返してしまおうかと思っているところに梶さんの姿が見えた。

「櫻子さん、お疲れさま。新メニュー、出来上がったんだね」

 Uzdrowienieの店内から、櫻子さんに声をかけながら梶さんが出てきた。

「あ、雪乃ちゃん。来てくれたんだね。嬉しいよ」

 櫻子さんの後ろに控えるようにして立っていた私に気がつくと、笑みを見せてくれた。私に微笑みを返して直ぐ、梶さんは櫻子さんに近寄り話し始める。数歩下がり気味で見ていた私を間に挟んで、二人の会話が始まった。話している雰囲気から、こういったことはいつものことなのだろうとわかった。けれど、すぐそばにいるのに会話に混ざることができないというのは、置き去りにされているような感覚に疎外感を覚える。この場に居た堪れなくて、いつ帰ろうかとタイミングを計っている時だった。

「もうすぐ閉めるから、雪乃ちゃんと行くよ」

 まさか一緒に行くことになるとは思いもよらず驚いたけれど、そんな私よりも櫻子さんの方が瞳を大きくし驚愕していた。その瞬間に思う。

 私は、櫻子さんに歓迎されていない。

「新メニューを考えたんだって。楽しみだね」

 居た堪れなくて目を伏せた私に屈託なく笑いかける梶さんを見てから、再び櫻子さんへ視線を移した。そこにはいつもの柔らかな微笑みが少しも見当たらず委縮してしまう。

「あっ。ぼ、僕も行きますっ」

 梶さんのあとについて再び店頭に出ていたあっ君が、慌てたように声を上げた。
 それから十分と経たず、Uzdrowienieが店の灯りを落とし、梶さんとあっ君が出てきた。

「じゃあ、行こうか」

 帰るタイミングを失った私は、促されるまま二人のあとについて裏口からSAKURAの中へと入った。店内は、営業時間とは違い照明が抑えられていた。入り口付近のライトは落とされ、レジ傍のライトが点いている。

「座っててね」

 中に入ると、厨房に一番近いテーブルへと櫻子さんに促された。入り口に背を向け厨房に向かって私と梶さんが左右に座り、あっ君が私の目の前に腰かけた。梶さんの前は空いているから、そこに櫻子さんが座るのだろう。

 漂ってくるいい香りは、記憶のどこかにある匂いと似ていた。

 どこだっただろう?

 知っているような香りを思い出そうとしていたら「お待たせ」と櫻子さんが料理を運んできた。テーブルに置かれたのは、具沢山のきのこのスープだった。

 これって、ポーランドのお店で食べた物と似てる。

 目の前の料理に、言葉にならない焦りとも不安とも取れる感情が込み上げてきて、思わず櫻子さんの顔を見てしまった。視線を向けた先の櫻子さんはいつものように微笑んでいた。ただ、気づいているのかいないのか、こちらを少しも見ようとしない。まるで私の存在を無視してでもいるみたいだ。櫻子さんが見ているのは、梶さん……ただ一人。

「前に梶君が話してくれたポーランドのお店。私も行ってきたのよ。結構近い味を出せてると思うんだけど、どうかな?」

 訊ねながら、櫻子さんも席に着いた。

「あっ君も感想聞かせてね」

 私には声をかけられることなく、試食会が始まった。

 目の前に置かれたスープはとても美味しそうなのに、スプーンに手が伸びない。
 隣に座る梶さんはさっそくスープを口にすると、「美味しい」と櫻子さんに頷き笑いかけている。その後、私にはわからない細かい味付けについて訊ねたり、訊ねられたり。何度もスープを口にして、会話も楽しんでいるようだ。

 私の疎外感は継続したままで、隣に座っているというのに、ずっとずっと遠い場所にいて、手も届かないような気持ちになった。櫻子さんを見て笑う梶さんの微笑みが切なくて、目を逸らし俯いてしまう。仲のいい二人の姿を、見ていられない。

「そう言えば。あのお店で梶君の名前を出したら、恋人? って訊かれちゃった。可笑しいよね」

 クスクスと声を上げて笑う表情はとても楽しげで、小首を傾げながら梶さんを見つめている。言われた梶さんは、特に否定するわけでもなく同じように笑うだけだ。

 心が痛い。私では、不釣り合いだと言われている気がして辛い。

「雪ちゃん、食べよう」

 目の前から突然のように聞こえてきたあっ君の声に、弾かれるようにしてスプーンに手を伸ばした。初めてスプーンを握った子供みたいにうまく力が入らない。

「あのお店の味と、とても近いよ。食べてごらん」

 漸く梶さんが私のことを見て、私に向かって話しかけてくれた。無邪気な表情に笑みを返そうとしたのだけれどうまくいかない。

 きっと今の私は、ひどく醜い顔をしているだろう。いつものように笑わなくちゃと思っても、二人の間に割って入ることもできず、握ったスプーンで少しばかりスープを掬い上げるだけ。

 嫉妬なんて嫌な感情、梶さんに気づかれたくない。

 スープを掬ったまま櫻子さんへ再び視線を向けた。見ているのは、やっぱり梶さんだけ。

 無理やり視線を外し、目の前のスープを口へと運ぶ。温かなスープは、きっと美味しいのだろう。だけど、今の私には何も感じられない。「美味しい」と言って笑顔で櫻子さんを見つめる梶さんに、胸の当りがぎゅっと苦しくなる。

 隣に座っているはずの梶さんが、とても遠い。櫻子さんに向かってスープを褒めて笑顔を見せている梶さんが、とても遠い……。

「雪ちゃん……」

 あっ君が静かな声で呼んだ。顔を向けると、眉根を下げていた。

「お腹いっぱい?」

 静かな声音のまま「僕が食べてあげるよ」と、スープボールをそっと交換してくれた。あっ君の気遣いや優しさに泣きだしてしまわないよう、下唇を噛みしめて少しだけ口角を上げる。
 あっ君は、大丈夫だからねと口の形だけで告げると、明るく笑みを作って笑いかけてくれた。

 私達のやり取りに気がつきもせず、梶さんは櫻子さんと試食のスープに夢中だ。
 このまま櫻子さんと楽しそうにしている姿を見ているのは辛い。
 あれほど幸せな時間を過ごしたはずだったのに、この一瞬でその幸せが音を立てて崩れ始めている気がした。

 声にならない心の声は届くはずもなく、隣にいるはずの梶さんを感じられず、孤独の中を一人歩いている気がした。